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水底の微熱  作者: 静月 杳
冷たい触覚
5/5

冷たい触覚5

数日が過ぎた。高槻くんとは、あれ以来会っていない。彼も、私にあんな態度を取られて、もう話しかけてくることはないだろう。それでいい。それがいいのだ。


私はまた、元の静かで、暗くて、冷たい日常に戻った。そう思っていた。


でも、何かが少しだけ、変わってしまったような気がした。

それは、本当に些細なことだった。


例えば、街を歩いている時。以前なら、すれ違う男性の視線に怯え、すぐに目を伏せていたのに。今は、ほんの一瞬だけ、相手の顔を見てしまうことがある。もちろん、すぐに逸らしてしまうのだけれど。


例えば、大学の講義中。以前なら、ただ時間が過ぎるのを待つだけだったのに。今は、ほんの少しだけ、教授の言葉に耳を傾けてみようと思うことがある。もちろん、内容が頭に入ってくることはほとんどないのだけれど。


そして、一番大きな変化は、夜の儀式だった。

あの、冷たい陶器の角に身を預ける時。目を閉じても、すぐに過去の断片が浮かんでこなくなった。代わりに、何も浮かんでこない、ただの暗闇が広がっている時間が増えた。そして、その暗闇の中に、時折、高槻くんの笑顔や、傷ついたような顔が、ぼんやりと現れるのだ。


それは、私を混乱させた。

この儀式は、私にとって、過去の痛みから逃れるためのものだったはずだ。虚しさを、別の虚しさで上書きするためのものだったはずだ。なのに、そこに、現在進行形の誰かの顔が入り込んでくるなんて。


ある夜、儀式の後、私はいつものように床に座り込み、膝を抱えていた。そして、ふと、自分の手のひらを見た。冷たい指先。この手で、私はずっと、自分自身を傷つけてきた。そして、これからも傷つけ続けるのだろう。


でも、もし。

もし、この手が、誰かの温かい手に触れることがあったとしたら。

もし、この冷たい指先が、誰かの温もりを知ることができたとしたら。


そんなことを考えて、私は自分で自分に驚いた。

ありえない。そんなこと、あるはずがない。

私は、誰かに触れることも、誰かに触れられることも、もう二度とないのだから。


それでも、その「もしも」が、ほんの小さな棘のように、私の心に刺さったまま、消えなかった。


その棘は、痛くはなかった。

ただ、そこにあるという感覚だけが、妙にリアルだった。


私は、その小さな棘の感触を確かめるように、そっと自分の手のひらを握りしめた。

外は、いつの間にか雨が降り始めていた。窓ガラスを叩く雨音が、私の部屋の静寂を、少しだけ優しく包んでいるような気がした。

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