冷たい触覚2
大学には、行ったり行かなかったりだった。何のために通っているのか、自分でもよく分からなかったから。単位を取るため? 卒業するため? その先に、何があるというのだろう。
その日、珍しく朝から講義に出た。大きな講義室の後ろの方の席に、息を潜めるように座る。周りの学生たちの、楽しそうな、あるいは気怠そうな話し声が、遠い世界の出来事のように聞こえた。私には、その輪に入る資格も、気力もない。
今日の講義は、現代文学論だった。老教授が、淡々とした口調で、ある女性作家の作品について語っている。その作家は、孤独や疎外感、そして性の問題を、痛々しいほどリアルに描くことで知られていた。
「…彼女の作品におけるエロティシズムは、単なる官能的な描写に留まりません。それは、主人公が抱える内面的な欠損や、他者との断絶、そして、その痛みから逃れるための、あるいは、痛みそのものを確認するための、ある種の儀式として描かれています。快楽と苦痛、聖と俗、生と死の境界線上で揺れ動く、人間の根源的なありようを…」
教授の言葉が、私の鼓膜を通り過ぎていく。でも、いくつかの単語が、妙に耳に残った。「欠損」「断絶」「痛みからの逃避」「儀式」。まるで、私のことを見透かされているような気がして、背筋が冷たくなった。慌てて顔を伏せ、ノートに意味のない落書きを始める。誰にも、私の心の中を覗かせたくない。
講義が終わり、学生たちがぞろぞろと教室を出ていく。私は、その流れが途切れるのを待って、ゆっくりと立ち上がった。早くこの場所から消えたい。誰にも見つからないように。
けれど、教室の出口に向かう途中、不意に声をかけられた。
「あの…水面さん、だよね?」
振り返ると、同じ学科の男子学生が立っていた。名前は知らない。ただ、何度か同じ講義で見かけたことがある程度の、曖昧な認識しかなかった。彼は、少し困ったような、それでいて人懐っこそうな笑顔を浮かべていた。
「これ、落としたよ」
彼が差し出したのは、私の学生証だった。いつの間にか、カバンから滑り落ちていたらしい。
「あ……ありがとう」
かろうじて、それだけ言えた。声が、自分でも驚くほど小さく、掠れていた。
「どういたしまして」彼はにこりと笑った。「俺、高槻。よろしく」
そう言って、彼は軽く右手を上げた。友達に対するような、気軽な挨拶。
でも、私にはその気軽さが、理解できなかった。なぜ、彼は私に話しかけるのだろう。なぜ、笑顔を向けるのだろう。何か裏があるのではないか。私を利用しようとしているのではないか。昔の記憶が、警報のように頭の中で鳴り響く。
「……」
私は何も答えられず、ただ彼を見つめていた。きっと、ひどく不審な顔をしていたに違いない。
高槻くんは、私のそんな様子に少し戸惑ったようだったが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「じゃあ、また」
そう言って、彼は私に背を向け、友人たちが待っている方へと歩いて行ってしまった。
その場に立ち尽くしたまま、私は彼の背中を見送った。胸の中に、奇妙な感情が渦巻いていた。それは、安堵でもなく、恐怖でもなく…もっと別の、名前のつけられない何か。
彼が触れた学生証が、まだ少しだけ温かいような気がした。私はそれを強く握りしめ、早足でその場を離れた。誰かに見られているような気がして、落ち着かなかった。