幼なじみの待ち合わせ
前のお話はこちらです。
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「ちょっと、出かけてくるね?」
ここは、とある宿屋の一室、朝の時間帯。
ベッドに腰掛けて魔術書を読んでいた、エイクことエイグリットは徐に立ち上がるとそう言った。続けて、その魔術書をローブの懐にしまった。
いつもながら、あんなに分厚い魔術書がどこに消えるのか不思議で仕方がない、彼の幼なじみのリナディエーサ。一度、どこに行ったのかローブの上からペタペタ触ってみたが、影も形も発見出来なかった。ただ、その時のエイグリットが困ったような恥ずかしいような、とても貴重な表情をしていて、なんだか嬉しかったのを覚えている。エイクはすごい賢者様だから、そういう不思議な事を出来るのだろう、すごいなあ、と納得したリナディエーサだった。
「着いて行っていい?」
同じく窓際の小さなテーブルで、遠い国の物語がいくつか載った書物を読んでいたリナディエーサが尋ねる。
「えっ、と。ちょっと探し物を……」
返ってきた表情は、少し困っていた。それだけではなく、ほんのりの頬を赤く染めていて、目を逸らしているエイグリット。
それを見て、
(可愛いなあ。まつ毛も長いし)
と、しみじみ思うリナディエーサ。
エイグリットは童顔でリナディエーサより僅かに背が低く、本人はそれが大層不満である。時折、黒いローブが背伸びをしているように見えて、なおさら可愛く見えてしまうことがあるリナディエーサだった。
それはともかく、何やら言いづらい雰囲気のエイグリットを困らせる気はリナディエーサになかったので、書籍をぱたん、と畳んで頷いた。
「分かった。お昼は一緒に食べられる?」
「うん、それは大丈夫。一人にしてごめん」
「それこそ大丈夫だよ。子供じゃないし」
申し訳なさそうなエイグリットに、くすりと笑みを返すリナディエーサ。
それに、エイグリットは安堵のため息をつく。内心、本当は別行動に寂しくも思っていたが。
「じゃあ、中央広場で待ち合わせようか?」
「分かった。じゃあ、行ってらっしゃい」
「……あ、うん。……行って、来ます」
エイグリットは戸惑いの表情を見せて、そそくさの部屋を出て行った。
リナディエーサは、ほう、とため息をついた。
必要に応じての別行動は当たり前だ。でも、離れていた時間が長かったせいか、僅かな時間でも離れたくない、とどうしても思ってしまう。
それでも。
「誰かに行ってらっしゃいって言えるって、いいな」
リナディエーサは笑みを浮かべるのだった。
「悪いことしちゃったかな」
宿を出たエイグリットは、自らの行いを振り返って少し後悔していた。
エイグリットには、以前から気になっていることがあった。
リナディエーサは剣技に長けているが、今は振るう剣そのものを持っていない。買ったりすればいい話ではあるが、正確にはその力に耐えられる剣が存在しない。国宝級の剣でもすぐに折れてしまうのだ。
彼女は体術にも長けているので殴る蹴る投げるでなんとかしてしまうが、それは間合いが極めて近いと言う意味でもあり、いつそれが悪手になるとも限らない。例えば毒を纏うような相手には、聖女の加護があるとは言え、やっぱり危険なので近づいて欲しくはない。
最近は本を読んでいてもそれが気になってしまい、頭に入ってこない。先ほど、ついに耐えかねて、
「なければ作るか。材料を探して来よう」
となったのだ。
ただ、せっかくの贈り物だし、どうせならびっくりさせたかった。
それで行き先も告げずに別行動としたわけだったが――。
「リンが側にいないのが苦しいな……」
つい、胸元を摩ってしまう。そこから何かを抉り取られたような気さえする。
早くに両親をなくし、仲の良かったリナディエーサを引き離されたエイグリットは、「行ってらっしゃい」と言い合えるような関係とは長らく遠ざかっていた。
だから、今でもリナディエーサとのそんなやりとりは、ぎこちなくなってしまう。
せっかく、そんなやりとりをする事が出来ているのに、いざ彼女の元から離れるとこれだ。エイグリットは自嘲してしまう。
「我ながら重症だな」
これを癒すには、なるべく早くリナディエーサの元へ帰るしかない。
エイグリットは表情を引き締めた。
「よし、さっさと済ませよう。まずはガルバディア綱だな。場所はトラッセン王国のゲドア渓谷……よし」
ところで、エイグリットは童顔で、あまり背が高くなく、背伸びするかのように黒いロープを纏っている。そんな少年が憂いや凛々しさを帯びた表情で歩いていると、街ゆくお姉様方の耳目をそれはもう集めるわけである。
集中していたエイグリットはそれに気づかず、人目につかない路地でどこからともなく銀の杖を取り出すと、一瞬で姿を消した。
お姉様方は尾行していた少年が忽然と消えたことに驚き、あれは妖精か、いや天使だったのだと考察を深めたのだった。
無自覚に色々な物を置き去りにしたエイグリットの姿は、街中から一転、崖の上にあった。
空には黒い雲が集まっていて、時折、雷を降らせていた。豪雨でないことが不思議なくらいで、視界はほの暗い。
エイグリッドの側に黄金の光の粒子が集まって、巨大な龍の形を成していく。
『主』
声を発した光の塊は、黄金の鱗を持つ古代龍――エンシェントドラゴン――として顕現した。
それを、エイグリットは興味なさげに振りあおぐ。
「どうしたの、ドライ。呼んでないけど」
ドライと呼ばれたドラゴンは、エイグリットの眷属であった。エイグリットの物言いに、ドライはこれまた巨大な鋭い牙を見せるように口を動かした。苦笑したようである。
『そう言いなさるな。何事をなさるか興味があった。それに、奥方を待たせないためにも、手が多い方がよかろう?』
「……それは、まあ」
ドライはリナディエーサを「奥方」と呼ぶ。それにエイグリットは気恥ずかしくなってしまうが、当のリナディエーサがお気に入りのようなので、エイグリットはその呼び方をやめさせる気はなかった。
「じゃあ、お願いしようかな。目的はガルバディア鋼だけど、分かる?」
『無論。ドラゴンは鉱石に目がない故』
「ドラゴンの生態は気になるけど、後にしたいかな。僕は東を探すから、君は西をお願い」
『承知。ところで主、気づいているか? 多数の群の気配がある事を』
「まあね。でも、興味はないかな」
エイグリットも気づいていた。
ドライは群と言ったが、それは彼の視点ではそうと言うだけで、エイグリットは別の見方をしていた。
軍隊。
そんな規模の多くの人間、そしてそれに対抗するかのような数の魔物たち。
ここは、もうすぐ戦場になるらしかった。
それを察していても、エイグリッドはドライに言ったようにさして興味がなかった。
浮遊魔法を自らにかけて空を行くエイグリッドとは反対の方向へ、翼をはためかせるドラゴン。
エイグリットとドライは、崖下を気にすることなく、捜索を開始した。
そんな彼らを、崖下の渓谷から見上げていた気配があった。
「……行ったか?」
「……はい、王女殿下」
騎士の装いをした女性と、その従者が囁き合う。
彼女たちは、自らの国を襲わんとする魔物の軍勢を撃退するために編成された軍の指揮官であった。
そして、偶然にも目撃してしまった。
崖上に忽然と現れた一体のドラゴンと、一人の人物。稲光を背に、自分たちを睥睨するかのような者たち。
暗雲をしもべとし、影を色濃く背負っていた。
龍は鱗に稲光を映し出して禍々しく、巨大な牙と角、翼はどんな生物も超越して凶暴さを主張する。
そしてなにより、傍にいた人物。そんなドラゴンを、まるで従えるような風情であった。
「まさか、あれが率いているというのか、魔物の軍勢を」
「……撤退いたしますか?」
「馬鹿を言うな。まだ民衆の避難も済んではいないのだ。我々に後があるはずもない」
二人の全身を、いやな汗が流れ落ちる。
「……まさか、あれがテトランザ王国が言う魔王、なのでしょうか」
「あの傲岸不遜な者たちの言う事を信じるのか?」
トラッセン王国第三王女、クローディアは顔を顰めた。彼女は、テトランザの王族を信用していなかった。彼らは私欲しかない愚物だと思っており、テトランザ王国が認定した魔王とやらにも何らかの裏があるとし、存在自体に懐疑的だったのだ。
「……あれが魔王かどうかはともかく、予想外の事態が生じたことには代わりありません」
とりあえず議論を打ち切った、側近にして近衛騎士団長であるゴンスの言に、クローディアは頷かざるを得ない。
「最大限の火力は用意しておく必要があるな。魔術師団に、儀式魔法の準備をしておくように伝えよ」
「はっ」
そんなやり取りが交わされているとは知らずに、黒い雲と灰色の大地の間を行くエイグリット。鉱石探知魔法を維持しながら、東西に伸びる渓谷をなぞるように西へと行く。空を行く速度はそれほどではない。ガルバディア鋼は地中深くに存在する上、この辺りの地層は魔力を撹乱する性質があり、探知魔法があまり有効に作用せず時間がかかるのだ。
しばらくして、エイグリットは探知を中断して空中に静止すると、雲に向かって人差し指で円を描いた。すると、その範囲だけ、エイグリットには雲を透かして向こうの空と太陽が見えた。太陽は、エイグリットが思っていたより大きく動いていた。
「結構掛かってるな。もう面倒になってきた。あたり一帯吹き飛ばすか……? いや、流石に効率が悪すぎるか……」
舌打ちしそうになりながら、物騒な事を口にするエイグリット。
『見つけたぞ、主』
そこに、ドライからの念話が届く。
「ありがとう、助かった。掘り出せそう?」
『かなり深い上に、硬い地層が連なっている。時間をかければ可能だが』
「分かった。とりあえず、そちらに向かう」
エイグリットが杖を振ると、その身はドライの側に現れた。
眼下の地面に目をやるドライと同じく、エイグリットは意識を下に向ける。すぐにその表情が難しいものへと変わる。
「確かに、かなり厄介そうだね。まあ、場所が分かったのは良かったかな。後で掘りに来れるし」
そろそろ、本格的に幼なじみが恋しくなってきていたエイグリットだった。
ふと、エイグリットは視線を空へと向けた。また指を動かし、雲を見透かす。そこにあるのは青空だが、その中に微かに赤い点が見える。
「隕石かな?」
『そのようだ』
ドライは様々なものを見透かす瞳を持っているので、エイグリットと同じものが見えていた。
エイグリットは視線を転じて、崖下の渓谷へと目をやった。そこにひしめいているのは、何者かが統率しているのだろう、整然と進軍している魔物の軍団だった。先頭はゴブリンのような小柄な魔物、後ろに行くにつれて大柄な魔物が増えていく。その向こうには、ドライの力量を大幅に下回るものの、多頭をもつドラゴンも見える。
それらの魔物と隕石を見比べて、エイグリットは名案とばかりに手を打ち合わせた。
「よし、これで行こう」
『どうした、主?』
「あれを何とかするよ。僕は後ろをやるから、ドライは前をお願い。ああ、魂が消滅するような攻撃は駄目だよ」
エイグリットは進軍する魔物たちを指差した。聞いたドライは、半ば呆れたような視線を主に向けた。
『また、えげつない事を考えているな?』
「単なる有効利用だよ。それじゃあね」
エイグリットはそう言い残し、姿を消した。
『やれやれ。まあ、眷属としては、頼られて悪い気はせんがな』
にいっ、と歯を見せるドライ。それは、圧倒的強者の捕食の笑みだった。
口元から炎があふれ出す。
次の瞬間、太陽と見紛うばかりの白い炎が放射された。崖下にいた者たちは、それに巻き込まれ焼けるどころか地面ごと蒸発していく。
それは渓谷の底をなぶるように放射され続け、悲鳴すら打ち消していった。
「なんだ、あれは……」
その呟きは、もはや開戦は残り僅か、と改めて覚悟を決めていたクローディアの唖然とした呟きだった。
まだ距離があるというのに、肌を焼きそうな熱波がここまで届いてくる。
「王女殿下、お早く後ろに……!」
「何事か分からずに退けるものか!」
ドライはそんな細やかな人間の言動など知らず、作業のように魔物を死に追いやっていく。
そんなドライの頭上から、いや、あたり一帯を覆っていた雷雲が、魔物の軍勢の後方に集まっていく。
唐突に差してきた陽光と広がる青空に、クローディアは、
「神の御業か……!」
前方から吹き付けてくる熱波を堪えながら、思わず声を漏らした。
雷雲は遠く、エイグリッドの頭上に集まりつつあった。
「む?」
魔物の軍隊の後方で、前方の異変と頭上の動きに気づいた魔物がいた。一際大きな体躯、黒色の翼、捩じれた角、身体に纏う雷。周りの魔物とは違い、将の雰囲気を纏う異形の魔物は空を見上げた。
エイグリッドは杖を振り下ろした。
異形に向かって、雷雲から何万本もの雷が落ちた。大袈裟すぎる避雷針と化した異形を貫き瞬時に絶命させただけでは飽き足らず、雷光がまるで反射するかのように渓谷内を満たして駆け巡る。
十三魔将第八位、雷霆将スーヘルケッヘという大層な称号と名を持つ異形は、その他の引きつれていた強靭な魔物たちと同じように、ただ蹂躙されただけだった。
ごく短い間に荒れ狂った暴威は、渓谷を削ってより深いものとした。雷の弾ける音、熱を孕む地面は残るが、ただそれだけだった。
そこに魔物の軍勢があった気配も、死の痕跡も残さず、しん、と静まりかえる渓谷。
雷を出し尽くした暗雲はすでになく、広い青空が広がる。
「よし。死んだ魔物の魂を集めて、と」
エイグリッドの掲げた杖の先に、寒色の光が集まっていく。それらはすべて、渓谷から漂ってくる。
「魂魄変換。性質同期。魔力同調……」
集まってくる魔物の魂を、流れ作業のように純粋な魔力に変換し、自身の魔力に近づけて行く。
これから行う作業に魔力は多ければ多いほどいい。だから、特に興味もない魔物たちを討ったのだ。
「ドライ。こっちに来た方がいいよ。巻き込まれたら、いくら君でも耐えられるかどうか分からないからね」
『承知。まさかと思ったが、やはり主はとんでもないな』
全速力でエイグリッドの元に戻って来たドライ。その様は、まさに一目散と言わんばかりだった。
エイグリッドは隕石を見上げた。落ちる先はこちらではない。
だが――そんなことは、知ったことではない。
エイグリッドの頭上と足元に、円形の魔法陣が現れる。
「引力発生」
遥か彼方への落ちようとしていた隕石の軌道が、振り向くようにこちらへと曲がる。
「耐熱付与、形状変化」
隕石の形が、落ちる側を先端とした円錐形に変化する。
「質量増大、加速、貫通効果付与、消音、衝撃範囲限定」
エイグリッドが隕石に魔法を放つたび、杖の先に集まっていた、魂を元とした魔力の集まりが体積を減らしていく。
赤熱した星が、落ちてくる。
エイグリッドは時折、杖を少しずつ動かす。それに連動して、隕石の軌道が意図した方向へ修正されていく。それは、先ほど探知したガルバディア鋼が眠る地点だ。
それらをなんでもないような表情でこなす主の姿に、ドライはドラゴンにも冷や汗という現象が存在することを、初めて知った。
(凄まじい。あの距離、あの速度、あの質量を持つ物体に、これほど精密に……)
満足したようにエイグリッドは笑った。杖の先に、魔力はもうなかった。
「もう大丈夫か。三……、二……、一……、零」
その瞬間、隕石は大地に激突し、その地点に光の柱を打ち立てた。
光の柱の太さは、ドライが羽を広げてまだ余るほど。その高さは大地と天を繋ぐほど。
落下時の衝撃はすべて大地を穿孔するために使用され、周りの大地は小揺るぎもしなかった。
また落ちる音もなく、もし隕石が落ちる瞬間を他に見た者がいれば、隕石はどこに行ったのか戸惑うばかりだっただろう。
やがて光の柱が消滅すると、そこに残ったのは大地の奥深くに続く縦穴だけだった。
『……この大陸が消滅するかと思ったぞ』
「そんなことしないよ。さて、お宝を拝みに行こうか」
とても長く続くであろう縦穴を正直に落下していく気にはなれなかったので、エイグリッドは縦穴の底へと瞬間移動した。それについてくるドライ。
「あったあった。ちょっと心配してたけど、流石、神が欲すると言われるだけあって頑丈だね」
エイグリッドとドライの目の前にあったのは、赤熱した壁と、溶岩のようになった底に鎮座する、一抱えほどもある純白の鉱石だった。
その鉱石を、周りの環境を、平然としているエイグリッドをその大きさの違いから見下ろすことになっているドライは内心、戦慄を通り越して呆れかえって見ていた。
(ここまで、地表からどれだけあることか。少しでも角度と深度を間違えば、ここに至ることはなかった。それに、人間とっては臓腑を焼くようなこの熱気。それに耐えるとは)
こつん、と鉱石に杖を触れさせると、ガルガンティア鋼は杖に刻まれている輪の意匠の中に吸い込まれた。
エイグリッドとしては大満足であった。
ガルガンティア鋼がある地点を把握するだけでも良かったが、それだとまたリナディエーサと別行動をしなければならなかった。
そんな苦痛はなるべく避けたい。
故に、エイグリッドは大満足なのである。
「よし、帰ろう」
『承知した』
エイグリッドとドライは、来た時と同じように姿を消した。
そんなやりとりがあったことなど全く分からない者たちがいる。
トラッセン王国第三王女クローディアと、彼女の近衛騎士団長ゴンスである。
「……どういうことだ」
「……はて。神の気まぐれ、でしょうか」
「戯言を……と切って捨てるにはいかんか」
隕石が間近に迫った時は、絶望の後に更なる絶望が、と膝を折ったものだった。
眼前に広がるのは、ただただ薄暗さをたたえる、以前とは大きく姿を変えた渓谷の姿。
頭上には未来を示すかのような暗雲ではなく、光の柱が立ち上った青空。
祖国に帰ることはもはやないと覚悟を決めてきたものだった。
「……訳が分からんな。さっきのが魔王と言うならば、なぜ配下の者どもをああしたのか。あの隕石はなんだったのか。あの光の柱はなんだったのか……」
「分からぬことばかりです。ですが、一つだけ判明していることがございますな」
「ああ。我らは命を拾い上げた。一兵たりとも、欠けることなくな。神のきまぐれか、魔王の計画かは知らんがな」
クローディアは大きく息を吸い、吐き出した。浮かぶ表情は、冷静な指揮官としてのものである。
「兵たちに伝えよ! 我らは戻る! 生きて祖国へ帰れるのだとな!」
「ははっ!」
喜びは伝播し、薄暗い渓谷は歓声に包まれた。
もちろん、エイグリッドは一国の危機を救ったことなど知らない。
ましてや、本来なら海上に落ちるはずだった隕石が津波と異常気象をひき起こし、複数の大陸に長い冬をもたらすことを阻止したなど、知るはずもなかった。
待ち合わせ場所の中央広場、その中心の噴水の傍に、リナディエーサは佇んでいた。
一言で表すと、リナディエーサは美少女である。
しなやかな肢体、長い手足、白い肌、儚さを感じさせる風貌、何より神秘性に満ちた白い髪と赤い瞳。
着ている服はシンプルなワンピースだが、彼女の持つ神々しさともいうべきオーラを隠しきれていない。たとえ、手に持っているのが屋台で買った肉の串焼きだったとしても、
(着くのが早すぎちゃった。串焼き、冷めちゃうな)
と俗なことを考えていたとしても、である。
だから、彼女の傍らを通り過ぎる街行く人は、その美しさに二度見したり、足を止めたり、パートナーに脇をつねられたりする。
リナディエーサはこれまで色んな視線にさらされてきたので、自然とそれらを意識にしないようになっていた。彼女が気にする視線はこの世でただ一人、大事な幼なじみだけである。
なので、彼女は周りよりも、一緒に食べようと思っていた串焼きが冷めつつあることに頭を悩ませていた。
(うん、食べよう。食べてみて、おいしかったら、一緒に買いに行こう)
一緒に、と言うフレーズに、リナディエーサの目元が僅かに綻ぶ。その表情の変化に気づけるのは、彼女の幼なじみだけだろう。
そんな彼女の時間に横槍を入れた者がいた。
「お嬢ちゃーん、一人かい?」
見るからにゴロツキという風情の男三人組が近寄って来て、そのうちの一人が話しかけて来たのだ。
昼間だというのに三人とも千鳥足で、リナディエーサに話しかけてきた人物は空の酒瓶を手にしていた。
彼ら――街の鼻つまみ者――の登場に、中央広場にさざなみのような動揺が広がる。
今までリナディエーサに向けていた興味深げな視線から一転、恐れや苛立ち、迷惑そうな表情が街の住人を彩り、リナディエーサと三人組を遠巻きにする。
しかし、当のリナディエーサは串焼きにかぶりつくのに夢中で、話しかけられたことに気づいてもいなかった。
(おいしい。エイクにも勧めよう)
口元をソースで染めながら、リナディエーサは幼なじみの事を思っていた。
「おい嬢ちゃん。バランの兄貴が話しかけてんだよ、返事しな」
酒瓶を持った男の舎弟らしき一人が、半分怒り、半分兄貴へのご機嫌取りなのか、リナディエーサに声をかけながら、無遠慮に串焼きを持っている方とは逆の肩を掴もうとする。
その手は、リナディエーサの手に強烈な勢いで払われた。
それだけではなく、舎弟の身体をその勢いのままコマのように横回転させながら身体全体を弾き飛ばし、噴水に頭から突っ込ませた。
何が起こったか分からない、酒瓶の兄貴ともう片方の舎弟。それは、恐々と成り行きを見守っていた街の住人達も同じであった。
もぐもぐ、と二口目を頬張り口を動かすリナディエーサ。
ぶくぶくと泡立つ噴水の水面。
と、その水面が割れて、怒りの形相が飛び出した。
「何すんじゃコラあああぁっ!」
噴水から出て来た舎弟に、兄貴ともう片方の舎弟は我に返って、酒と怒りで表情を釣り上げた。
「おいコラ、姉ちゃん。よくもグランをやってくれたな。ガラン、ちーと、その身体に色々教えてやれや。おっと、俺の分は残しておけよ?」
「へい、バランの兄貴!」
「俺もやり返さねえと、気が済まねえ」
にやにやとした表情を浮かべるガラン、ずぶ濡れのグランが前に出る。
三人とも大柄で、その前ではリナディエーサは子供にしか見えない。遠巻きに見守る人々は、
「官憲を」
「いや、でも」
と、こそこそと囁き合う。
そんな中でも、ただリナディエーサは串焼きを吟味しているだけであった。
「こっち向けってんだ!」
グランの怒声を皮切りに、二人の男がリナディエーサに襲いかかる。
もう駄目だ、という思いがその場に満ちる。
ここに来て、ようやくリナディエーサは視線を上げた。
リナディエーサはグランの右の手首を取ると、沈み込みながら突進の勢いを竜巻のような回転に変える。遠心力で足が浮くグランの身体を、同じく突進して来たガランにぶつけたのだ。
「ぶっ!」
「ぎゃ!?」
ぶつかって、もんどり打つ二人。
衝撃の大きさに、二人とも立ち上がれない。それを見て、中央広場にどよめきが走る。
特に感想なく、三口目を頬張るリナディエーサ。手に残るのは串だけとなった。口元はすでにソースでべたべたである。
「てめえええっ! よくもやりやがったな!」
二人の舎弟を散々にされ、バランは激昂のままに腰の剣を抜く。
ここに至って、周囲で悲鳴が上がった。
「そんなに串焼きが好きなら、同じようにしてやらぁっ!」
躊躇なく、リナディエーサの胴を貫くために突き出される剣。誰もが、血溜まりに倒れる少女を幻視した。
「ん」
食べ終えた串が呑気に突き出された。その先端は、凶刃の突きの先端を無造作に制止させ、バランをつんのめさせた。
「……なっ!?」
驚愕と、剣を握る手に直に返ってきた突進力で、剣を無様に落としてしまうバラン。
なのにただの串は微動だにしておらず折れもせず、それどころか静かに動いて、バランの眉間に突きつけられた。
しん、とあたり一帯が静まりかえる。
響くのは、グランとガランの呻き声だけだ。
バランの全身が、どっと溢れ出した冷や汗に包まれる。彼は、目だけを動かしてリナディエーサを見た。
投げかけられるのは、およそ人に向けるものとは思えない、冷淡な視線。それは、自身が振り回していた剣などよりも余程鋭利で容赦なく、バランの心底を突き刺していた。
「ヒ、ヒィッ!」
心底を砕かれ、バランは尻餅をつく。酔いなど、どこかに吹き飛んでいた。
そしてそのまま四つん這いになり、甲高い悲鳴を上げてその場を逃げ出した。
「あ、兄貴!?」
「置いてかねえで下せえ!」
蹲りながらも様子を見ていた舎弟二人も、兄貴の様を見てその動きに同調した。遠巻きの人混みを抜けて、中央広場から脱出する。
リナディエーサはその動きに頓着しない。
なぜなら、幼なじみとの待ち合わせはここであり、その場から一歩も動く気はなかったからだ。
だから、役目を終えた串も、男たちを退けた時と同じようにその場を動かず、ぴんと指で弾いて近くのゴミ箱に投げ入れた。
からん、という串がゴミ箱に入る音、遠くで聞こえる官憲の怒号と男たちの悲鳴が、その場の時を動かした。
万雷の拍手がリナディエーサに降りかかる。
「おおー! すげえ、なんだ今の!?」
「お姉ちゃん、すごい!」
「結婚してー!」
「やつら、迷惑だったんだ! ざまあみろだぜ!」
拍手するも、リナディエーサの凄さに近寄るものはいない。
いや、一人だけいた。
控えめな拍手と苦笑を携えて、黒いローブの人物がリナディエーサに静かに近寄ったのだ。
「ごめん、待たせたね」
ローブの人物、幼なじみのエイグリットの言葉に、リナディエーサは、ごくん、と最後の串揚げを飲み下すと、ふわりと微笑んだ。
「大丈夫、今来たところ。って言うんだよね、こんな時?」
「何かの本の影響?」
苦笑しつつ、エイグリットはハンカチを取り出してリナディエーサの口元を拭ってあげた。
目を細めてされるがままのリナディエーサと、多くの視線に物怖じもせずに現れたエイグリットに、周りの人々は何かを察したのか、歓声よりも微笑ましい視線を向けていた。
「エイク、探し物は見つかった?」
リナディエーサはエイグリットの事をエイクと呼ぶ。そう呼ばれる度に、大切な幼なじみがそばに居てくれる幸せをエイグリットは噛み締める。
エイグリッドは頷いた。
「うん、なんとかね」
「そう、良かったね」
「うん。格好いいリンも見れたし」
エイグリットはリナディエーサの事をリンと呼ぶ。そう呼ばれる度に、リナディエーサの心にほわほわとした熱が満ちる。
褒められて、リナディエーサの口元が緩む。
「わたし、格好良かった?」
「うん。ソースだらけじゃなかったら、もっとね」
「だって、美味しかったんだもん。エイクもきっとそう思うよ。だから、一緒に買いに行こ?」
そう言って、リナディエーサは自然にエイグリットの手を取った。その柔らかさと温もりに、エイグリットの顔に血が昇る。どこからか、冷やかしの口笛が聞こえた。
「えっと、まだ食べるんだ」
「うん。やっぱり、エイクと一緒がいい」
「……そうだね。一緒がいいね」
エイグリットが目を細めて笑う。
「お幸せに!」
そんな冷やかしの声を背に、二人は離れ離れになっていた時間を埋めるように、寄り添って歩き出した。
読了、ありがとうございました。
忌憚ない意見をお聞かせいただければ幸いです。