12 憐れみ大作戦
『チュッ』
微睡の中、不思議な音と不思議な感触を頬に感じ、
「優くん起きて、時間だよ。優くん、ほら、起きて。」
聞いたことのある声で僕は強制的に目覚めさせられた。
「やっぱり、明日香か。」
目を開けるとそこに明日香の顔があったのだが、言ってしまってから『やっぱり』ではない事に気が付いたのだ。
「明日香、どうして。あ、おはよう。」
「おはよう。一緒に学校行こうね。ほら、早く着替えて。」
そう言うと、明日香は部屋を出て行った。
謎である。
確かに中学二年まで、こうして明日香に起こされる事が度々あった。だから初めは『やっぱり』と思ったのだが、でも今は『やっぱり』ではない。どうして明日香がここにいるんだ?と考えて、明日香が『24時間サポート』だった事を思い出した。
『憐れみ大作戦』は結果的に僕に引導を渡す形となってしまった。目の前で繰り広げられた詩織による電撃彼氏解任劇を目撃してしまい、彼女達に良心の呵責と更なる憐れみが生まれたのではないだろうか。その為『憐れみ大作戦』の継続が決まり、明日香が僕の部屋に来た。という事なのだろう。そうでなければ明日香が僕を起こしに来るはずなど無いのだ。
だとすると、今日の学校は天国なのかもしれない。そして、僕にはもう天国を拒む必要など無いのだ。
不本意ではあるが、思いっきり天国に溺れよう。
ササッと身支度を整え、リビングへと向かった。リビングでは明日香と母親が談笑しており、明日香に差し出されたべらぼうに美味しいトーストを食べて明日香と玄関を出た。
学校へと明日香と二人並んで歩く。明日香との登校は数年ぶりである。五月下旬の朝は爽やかで、そよ風は時折『心に沁み渡るべらぼうに優しい匂い』を運んできてくれた。
「優くん、こうやって並んで歩くのしばらくぶりだね。」
中学二年まではこうやって毎日一緒に登校していたのだが、数年のブランクを経た今は緊張感が半端じゃない。
「そうなんだけどさ、だからかな、何か緊張するよ。」
「うん。私も緊張してる。でも嬉しい。」
そう言うと、明日香は僕の制服の袖を掴んだ。掴んだと言うより摘んだって感じなのだが、それでも僕の心臓はドクンと一回大きく跳ねた。いくら『憐れみ大作戦』だとしても、これは想定外の事態である。
男子高校生にとって彼女と一緒に登校するという事は、甲子園と並ぶ男の夢である。しかし明日香は彼女ではない。疎遠だった幼馴染なのである。二年以上にわたって会話さえほとんど無かった元幼馴染なのである。なのに、いや、むしろ元幼馴染だからなのだろうか、べらぼうに恥ずかしいのだ。元幼馴染に制服の袖を摘まれる事が、こんなにも恥ずかしいとは思いもしなかったのだ。隣の明日香の様子を横目で伺う。明日香は頬を赤らめ俯いていた。明日香もきっと恥ずかしいのだ。
「あ、明日香?」
「な、何?」
「ええっと、あの…………いい天気だね。」
「うん。」
僕は頑張ったと思う。でも、これが限界だったのだ。
僕には隠れて付き合っていた詩織という彼女が昨日までいた。隠れて付き合っていたため、詩織とのデートは現地集合、現地解散を基本としていた。ファミレスに、図書館にと、スマホで集合場所を連絡し合い、後は肩を寄せ合って座っているだけという健全な交際をしてきたのだ。街中を並んで歩いた事などほとんど無かったのである。
だから、現在のこの状況に対処出来る知識も経験も僕には無い。どうして良いのかわからないのだ。
僕は今学校へと歩いている。隣には、僕の制服の袖を摘んだ明日香が並んで歩いていて、明日香も僕も俯いて先程から一切の会話が無い。ただ黙々と歩いていて時々肩と肩がぶつかる。その度に僕の身体には電流が走っていたのだ。
二人黙々と歩き学校へ到着した。校門の前には太陽の光に金髪をキラキラと輝かせ麻里香さんが立っていた。
「おはよう、優くん。一緒に行こう。」
「うん。あ、おはよう、麻里香さん。」
麻里香さんは嬉しそうに僕の隣に並ぶと、あろうことか明日香と同様に僕の袖を摘んだのだ。非常事態である。これから学校に入って行くのに、僕なんかが袖を摘まれていて良いはずがないのだ。しかも両袖を、である。
男子高校生にとって彼女と一緒に登校するという事は、国立競技場と並ぶ男の夢である。しかし、麻里香さんは彼女では無い。水曜日の図書室でしか話をしない図書委員なのだ。そんな彼女が顔を赤らめ俯いて僕の右袖を摘んでいるのだ。
では、僕はどうしたら良いのだろうか。
「ま、麻里香さん。い、いい天気だね。」
「うん。」
これが僕の限界なのだ。僕はこれ以上何も出来ないのだ。
左手には甲子園球場、右手には国立競技場。地理的にはめちゃくちゃなのだが、その間に両袖をそれぞれ摘まれている僕がいる。僕達は横一列の隊列を組み校門をくぐった。
僕達は下駄箱に向かって突き進んだ。相変わらず袖は摘まれているのだが、全員が下を向き無言の行進である。両側に並ぶ美少女達の『心に沁み渡るべらぼうに優しい匂い』と『そこはかとなく奥ゆかしさを感じる素敵な匂い』を感じてはいるのだが、それを堪能する余裕など無い。
今は通学時間のピークであり、僕達は多くの視線を集めてしまっていた。視線を痛いほど感じるのだ。
麻里香さんは当校一の天才であり、唯一の金髪ギャルである。間違い無く当校一の有名人であり注目を集めるのは必至なのだが、さらに、明日香も麻里香さんに勝るとも劣らず美少女として有名なのだ。その二人に両袖を摘まれた正体不明の謎の生物が加わったこの不思議な隊列を、視線の主達はどう見ているのであろうか。
『この辺で100円玉落としちゃってさぁ、麻里香さんも明日香も探すのを手伝ってくれるって言うんで、さっき通った道でローラー作戦を展開中なんだ。』
一応誰かに訊かれた時のために、答えは用意しておいた。
僕達の隊列は下駄箱で一度解かれた後直ぐに組み直され、今度は教室へ向けて行進を再開した。相変わらずローラー作戦を展開中であり、無言のまま淡々と突き進んだ。決して広くは無い廊下で僕達の隊列は間違い無く邪魔なはずなのだが、誰に何も言われる事も無く教室の前までたどり着いた。
そして、やっぱり声をかけられた。
「おはよう、高橋君って、何? え? これって、ちょちょちょちょ…………。」
顔上げて確認するまでも無く、美咲さんである。




