押しかけフィアンセ
タリス神聖歴998年3の月、セントラル皇国第一皇女ユーフェミア・ファナ・セントラルと隣国ディアナ王国の大貴族、ラピス公爵家の嫡男クリス・ラピスとの婚約が、国の内外に向けて大々的に発表され、両国の国民を大いに驚かせた。
言わずと知れた救国の聖女の突然の婚姻であり、相手は隣国の大貴族の令息である。しかもこの人物は、かの大聖女クリスティーナ・ファナ・ラピスの双子の兄だと言うではないか。
先の古の邪神との戦いと、大聖女となった少女の悲劇的な死から数カ月。悲しみからなかなか立ち直れず、明るい話題に飢えていた皇都の民はこの縁談を大いに歓迎した。
これが半年前であったならこの婚姻は成立しなかった事であろう。いかに隣国の大貴族や王族であろうとも、皇国にとって聖女は宝である。特に聖女教の信者達にとっては、聖女を国外に嫁がせるなど到底あり得ないと反乱すら起こしかねない。
しかし半年経った今では状況がまるで違う。
古の邪神が再封印された事で、暗躍していた闇の教団の力は急速に衰え、戦いで多くの信者を失った教団は壊滅状態となり、魔物の出現率も大きく下がった。元々、魔物や教団と言う共通の敵を抱えていた各国の関係は良好で、それらの脅威が無くなったことで戦いの気運は大きく遠のく事となった。
恒久平和ではないもののそれに近い平和な時代の到来で、聖女の必要性が薄れたのもこの婚姻を可能にした理由の一つである。
さらに嫁ぎ先がディアナ王国であり、大聖女クリスティーナの生家であったラピス公爵家であった事も大きい。
何しろ先の戦いでセントラル皇国はディアナ王国、ひいてはラピス公爵家に返しきれないほどの恩義をこうむったからだ。
かの大聖女クリスティーナは、他国の貴族令嬢の身でありながら聖女として、さらには大将軍として先陣に立ち、文字通り命がけで皇都を守り抜いたのである。その華麗な剣は祖国でなく、皇国のためにこそ振るわれ、若き聖女はついに帰らぬ人となってしまった。
そんな中、ただ一人残された聖女であるユーフェミア皇女の嫁ぎ先として、ラピス公爵家が選ばれるのは言わば当然の帰結であったのである。
しかも婚約相手である公爵家令息は大聖女の双子の兄であり、その妹君に瓜二つであると言う。皇王をして傾国と評されるほどの美貌を持ち、淑女教育の完成形、理想の花嫁とまで言われた大聖女の兄君である。一体どれほど美しい貴公子であるのか想像に難くなく、両国の人々の関心がまだ見ぬ公爵令息に寄せられる事になるのは必然であった。
人々達、特に年頃の令嬢達は直ぐに公爵令息の話に夢中になり、病弱と噂の令息がユーフェミア殿下のために身体を鍛えて、逞しい貴公子になっただの、傷心のユーフェミア皇女の心を、いかに優しく公爵令息が癒したかなど、噂話に花を咲かせ、邪神封印から何かと沈みがちであった皇都の民にとって、久しぶりの明るい話題となった。
そして当のラピス公爵家では―――。
「おねえちゃま、じゃなかった。おにいちゃま」
「なあに、ミリア」
「なんで、また女の子? の恰好をしているの?」
「う~ん、なんでだろうね?」
釜土のオーブンに手をかけている私の格好は、なぜか定番の町娘スタイルだ。料理をするのにひらひらしたドレスは向かないからの選択なのだが、私って男に戻ったよね?
「いーの、もうしばらく、クリスの男装はお預け!」
厨房の入り口の壁際から顔だけ覗かせて、むうっと頬を膨らませているのはユフィである。
「男装って、ひどくない」
むしろ今の姿が女装なのでは?
「あ、あれは、ダメ! ま、まだ心臓が持たないから、ダメ! 他の人が見るなんて、もっとダメ!」
顔を赤くして両手をぶんぶん振りながら抗議する私の婚約者は、ただひたすらに可愛いらしく、あの命がけの激戦が嘘のようだ。
私との婚約間もないユフィが、当たり前のように公爵家にいるのには理由がある。
私の生存を皇王陛下から聞かされたユフィは、矢も楯もたまらず文字通り皇都から一直線に飛んで来たのだ。魔法以外に空の移動手段を持たないこの世界では、最も早く安全で確実な方法ではある。
しかし、着の身着のままたった一人で、空から来訪した光の聖女その人に、ラピス公爵家は上を下への大騒ぎになった。
いかに聖女や皇女であっても、突然空から降ってくれば正体不明のただの不審者である。警備の騎士達に遠巻きに囲まれていたところを、彼女の魔力を感知した私が慌てて駆けつけたと言うわけだ。
そのユフィが、私を見るなりいきなり抱きついて泣き始めたからさあ大変。
いくら女装しているとは言え、公爵家の跡取り息子に、見るからに未婚と分かる美少女が抱きついたのだ。それを見た若い侍女達は悲鳴を上げ、警備の騎士達は判断に迷い、現場は軽くパニックに陥った。私に付いて来たマチルダが、手早くその場を処理して事なきを得たものの、その正体が皇女と分かってからは、更に大騒ぎとなった。
セントラル皇国の誇る光の聖女は、ここディアナ王国でも有名人だ。そして公爵家次期当主、つまり私の未来の花嫁でもある。ほんの僅かな粗相もあってはならないと、使用人達が屋敷中を右往左往する羽目となったのも無理はない。
そしてユフィが公爵家に落ち着いたのも束の間、更に重大な問題が発覚する。
どうやらユフィは皇王陛下はもちろん、専属侍女のアンナにすら何も言わずにここまで来てしまったようなのだ。更に困った事には、空を飛んで移動してきたため、国境どころか関所すらすっ飛ばして今ここにいるのである。どこからどう見ても密入国じゃないか!
本来、国をあげて歓待しなければならない大国の姫君が、こっそり不法入国しちゃいました。テヘペロな状態。この事実に公爵家当主であり、国の重鎮でもあるお父様が頭を抱えたのも無理はない。
いかに公爵家とは言え、一介の貴族がセントラル皇室との魔導通話回線など持っているはずもなく、事の経緯は直ぐさまディアナ王家に伝えられ、エメロード陛下とマクシミリアン陛下の緊急会談を経て、ようやくユフィの公爵家滞在が決定したのである。
案の定ユフィの消えた皇都では、首都を封鎖するほどの大騒ぎになっており、最悪の場合、公爵家は皇女誘拐の疑いをかけられる恐れもあったため、お母様は大喜びだったが、お父様をはじめ他の者の顔は引きつっていた。
ちなみに皇都に置いてけぼりをくったアンナが、はるばる公爵家にまで押しかけ、ユフィに泣きながら説教をする一幕があったのはささやかな後日談である。
前回の投稿からまたずいぶんとお待たせいたしました。
もはやエピローグじみてきましたが、ゆるやかに完結に向かって行こうと思います。