皇女の婚姻
「姫様、皇王陛下がお呼びです」
薄暗い自室のベッドの上、動く様子すら見せない私に、専属侍女のアンナが躊躇いがちに声をかけた。
「………今、行きます」
たっぷり数秒の間を空けてようやく返事を返す私。そんな私の顔を見てアンナは辛そうに表情を曇らせる。どうやら私はずいぶんとひどい顔をしてるらしい。
「…先ずお顔を洗って下さい。お着替えと、御髪も整えなくては」
「……光の聖女も形無しね…、とても、人前になんて出れないもの…」
自分の今の状況なんて簡単に想像がつく。何日も食事を取ってないし、眠れてもいない。下手な病人よりも青白い顔をしているに違いない。出来れば睡眠は取りたいのだが、どうしても眠る事が出来ない。もうずっと目覚めなくてもいいのにね……。
「いくら時間がかかっても連れて来いとの陛下のご命令です。多少ご準備に時間をかけても大丈夫ですよ」
「あの忙しい方が珍しいのね。娘になんて関心が無いと思っていたのに」
「せっかくですので、たっぷり時間をかけてご準備いたしましょう」
少しでも身綺麗にして私を元気づけたいのだろう。アンナが優しく提案してくれるが。
「いいわ、顔を洗うからドレスを適当に見繕ってちょうだい。大した用事でもないでしょうから早めに終わらせましょう」
そう、今のこの人生も何もかも…。このままずっと何も食べず、眠ることさえ出来ずに緩やかに朽ちてくのも悪くないだろう。何もかも諦めた心の中で私は一人呟いた。
「久しいと言う程でもない。彼の者の葬儀以来か、元気であったか?」
「…………」
人払いがされた謁見の間。その玉座に座って早々の皇王マクシミリアンの言葉は、気が利いてないどころの話ではなかった。さすがに返事どころか顔も上げない娘に怒るわけでもなく、軽くため息をつくと、その場を沈黙が支配する。
それにしても、この様子を見てなお元気かと問うとは…。ただ思った事を口にしたにしても無神経にも程がある。いくらか体調を気遣っているのだけは珍しいけど。この父親は相変わらずのようだ。
そして長くもない沈黙の後、告げられた話はやはり碌でも無いものだった。
「そなたに縁談が来ておる」
「お断り下さい」
開口一番の言葉を即答で断る私。
なんとなく予想はしていたのだ。傷心の娘に適当な嫁ぎ先を見繕って、万事めでたしめでたしってところだろう。
皇王は特に声を荒げるでもなく、淡々と話を続ける。
「ようやく口を開いたかと思えば、即答で断るか。せめて、嫁ぎ先の事を聞いてからでよかろう?」
「無駄である事がわかって、なお聞かねばなりませぬか?」
「余はこの縁談を、そなたが喜ぶと思っておったのだがな」
「―――っ! そんなわけ!」
あまりにも無神経な物言いに思わず声を荒げてしまうが、なんとか踏み止まった。
「ふむ、そのくらいの元気はまだあると見える」
「失礼いたしました。ですが、私は何処にも嫁ぎたくありません。無理にございます」
どうしても苛立ってしまう心を抑えながら、なんとしてもこの話を断ろうとする私。この男が無神経なのは知っていたが、傷心の娘に対してこれはないだろう。ただでさえ弱った身体で目眩まで起こしそうだ。
こんな茶番はもうこりごりだ。 早くこの場から下がろう。私が辞去の挨拶もせずに立ち去ろうとしたところで、皇王がさらに言葉を続ける。
「嫁ぎ先は、ディアナ王国。ラピス公爵家だと聞いてもか?」
「は――――?」
思ってもみない、あまりにも予想外の言葉に私は顔を上げた。
「ようやく、こちらを見おったか…」
相変わらず表情筋の乏しい冷徹な顔だが、僅かに口角を上げる皇王。自分の父親が笑っているところなど初めて見た。しかし、私の心はそれどころではない。今、確かにラピス公爵家と言った。あの家にクリス以外の男子はいないはず…。
「余も知らなんだのだが、彼の者のには、実は双子の兄がおったらしい」
「へ、陛下…」
「なんでも、生まれつき身体が弱く、長く存在を伏せていたそうな」
「それは…」
「それがこの度無事に快癒し、嫡男として公にお披露目する運びとなったそうだ。そこで是非お前を花嫁にと…」
「お父様っ!」
恐れ多くも皇王その人の言葉を遮るなど、無礼以外のなにものでも無い。しかしそれを咎めるでもなく、皇王は、私の父親は静かに話を促す。
「なんだ?」
私の見間違いでなければ優しげに微笑む父親に、私は震える声で問いかけた。
「………そ、その者は、私の考えている人物と、同じ…、なのでしょうか?」
先ほどから高鳴っている心動の音が大き過ぎて、自分の声ですらよく聞こえていない。あまりにも胸が苦しくて、呼吸も上手く出来ている気がしない。かすかに灯った淡い希望にすがりながら私は祈る思いで次の言葉を待つ。
「―――その通りだ」
「―――――――っ」
それを聞いた瞬間、一筋の涙が私の頬をつたい、床に落ちた。
「クリスが、生きてる……」
自らの呟いた言葉は安堵を誘い、身体中の力の抜けてしまった私は、崩れるようにその場に膝をついてしまう。人前で、しかも父親の前で泣いている事に気が付いた私は直ぐに両手で顔を隠すけれど、もう涙が止まらなかった。
「ふむ、人払いしておいて正解だったか、ふっ、お父様か、なかなかに悪くはない」
狸親父が何かいらぬ事をほざいてるが、単純な私の心はすっかり温かいもので満たされ、しばらく子供のように泣き続けた。しかし体力の無い今の私は直ぐに泣き疲れてしまい、その場に座り込んでしまう。すると今度は、ほんの少しの空腹と睡魔まで襲ってくる。そのまま気を失うように眠りについた私は久しぶりに前世の夢を見た。
はにかむような笑顔の彼と手を繋いで一緒に帰る夢を。




