百合の願い(六)
胴国の中真ん中から少し左腕に偏った場所。旧心国のあたりを端花は歩いていた。
緑礬は捕らえられ、胴国の牢に入った。今回のことは岩小国の神代主は感知しておらず、決して胴国に害意はないという岩小国の姿勢を見せるためだとも言われている。神子の今後の生活に支障のない金は岩小国が用意するとのことだった。
(神子様の今後が保証されたのならよかったけど)
神子にとっては別に嬉しくもないだろう。彼女は父親を心配させながらでも、愛する人と共に過ごしたかったはずだ。
謁見の間での騒動が片付いた翌日、端花はもう一度神子の部屋を訪ねた。婚約が破棄されたことを伝えると、ぼんやりとしていた怨邪は紅石の姿を取った。
『ありがとうございます。これで心残りはありません』
本来ならこの時点で意志を失った怨邪は浄化されるのだが、今度は作られた邪としての性質が現れる。名がわかっていても浄化できないのだ。
「清、紅石はどうなっているのですか?」
「ご心配なく。今ではほとんどただの邪気です。これから浄化します」
端花は神子の不安を消すために微笑んだ。
作られた邪を作った者以外が浄化する方法は三つ。一つは緑礬に言った通り、作った者を殺して生まれた邪を浄化することだ。
邪気分離の術は邪気を扱えることが前提である。自分の邪気を入れた玉を刀などにはめ込み、しばらく寝かせる。そうすると邪気を纏った刀ができる。それは邪気に侵されて形を崩し、実際にはただの気となり果てている。変事の起きないはずの神代主の宮で、侍女に刀を刺すことができたのは、そのただの気だけでは侍女を殺すことも傷つけることもできないからだ。
問題はその後である。見せかけの刃の先は、人の魂の在りかであるといわれる心の蔵に届く。そこでその者の邪気を自分の邪気で掴み、刀身を通して玉まで引き込む。そうすればその者の魂から邪気が分離され、邪気が分離した魂は清らかな気となり、結果的にその者は死ぬ。
後は自分の邪気を一部残して引きずり出した邪気を放つだけだ。本来なら神戴国では邪にならないはずの邪気でも、他者の意志を持って怨邪となってしまう。作った者にしか浄化できないのは、作られた怨邪自体は名を支配され浄化されようとしても、くっついた生者の邪を浄化することはできず、その邪気に引きずられて浄化されることができないからだ。
つまり、作られた怨邪から作った者の邪気を取ればよい。一つ目の方法は作った者の邪気を浄化し、しがらみとなる邪気を消して、もとの邪気に戻す方法だ。しかしながらそれでは生きている者を殺すことになってしまう。
二つ目の方法は場合によっては一番簡単だ。作った者に自分の邪気を戻させる、もしくは切り離させればいい。これももとの邪に戻る。今回は侍女が普通に怨邪となったため、実行できなかったのだろうが。
三つ目は本来なら正道であったかもしれない方法だ。
「神子様、ここで見たことはどうかご内密に」
端花は精霊剣を腰から外した。端花はちらりと共に来た誠也を振り返り、何も言わずに神子に向き直る。
精霊剣を包んでいた布を取れば、真っ黒な剣が現れる。白い紋様が鞘を飾る、この世に二つとない特別な剣だ。
(創造主が御心、双結神――)
声に出さず唱える端花の背後で、誠也が息を飲むのがわかった。
彼女が引き抜いた刀身もまた黒く、全てが鞘から引き抜かれたところで、眩い光が集結し、一人の青年が現れる。真っ黒な衣に身を包んだ双結だ。
双結がふっと細かい息を吐くと、黒い糸が現れる。端花はそれを受け取り、邪の中に手を突っ込んだ。目を閉じて集中すれば、小さな異物のような邪気がわかる。その邪気を包むようにして糸を掛けると、二つの邪気は分離し小さな邪気はどこかへ、緑礬の元へと飛んでいく。
後に残ったのは神子の元侍女の邪気のみ。
『この度は、誠にありがとうございました』
ぼろぼろと形が崩れ始めた侍女の邪気は、端花に近づき、その足元へと固まった。
『僅かばかりではありますが、この残滓をあなたに捧げます』
端花は邪気に手を伸ばし、人差し指を軽く触れさせ、
『許す』
元侍女の邪気がすっと端花に流れ込む。それが自分の邪気に置き換わったのを感じて、端花は剣を鞘におさめた。すると双結の姿も消える。
「神子様、終わりましたよ」
浄化士ではない神子には邪気も双結も見えず、声も聞こえない。
端花が知らせてようやく、彼女は悲し気に、それでも晴れやかに微笑んだ。
その後も誠也は何か言いたそうにしたが、端花は気づかない振りをし、数日を過ごした。繫留神が直接礼を言いたいとのことで、今日まで右脚に帰ることもできなかった。
(右脚に帰れば、それはそれで気まずいか)
端花は干からびた大きな窪みにたどり着くと精霊剣を抜いて腰を下ろし、双結を顕現させた。
「懐かしいな……」
双結は窪みの中心に下りて、座り、手で地面を撫でる。
かつて胴国の中ほどに心国という神戴国があった。またの名を生国といい、心神――双結神、命神ともいう――を源泉の主としていた。綺麗な糸を作ることで有名で、織物が名産として知られていた。
端花が物心つく前に、心国は滅んだ。
親のいなかった端花を、神代主や預泉を失って国の形を留めておけなかった双結が拾い、育ててくれたのだ。
優妃に弟子として拾われるまではこの元源泉の周辺が、端花の家であった。
「双結、もし――」
「言うな。俺は俺の意志でここにいる。お前のそばに」
「そうか……。誠也は私が端花だと気づいただろうね。怒るかな?」
「知らぬ。私はあの無礼者が好かん。よりによってあいつのところに端花を降ろすなど、頸神も意地が悪い」
端花の人生は短かった。その中でも誠也と過ごした時間はそれほどなかったが、何故か誠也と双結はお互い気に食わないようで、会う度口論を交わしていた。
「そろそろ時間か、繫神に会いに行こう」
*
端花は与えられた客間を片付け、胴国の源泉へと向かう。途中で誠也と合流したが、彼は何も言わなかった。
「右脚国囲山家麗誠也様、清様、此度は誠にありがとうございました」
宮殿の出口から源泉まで案内してくれたのは胴国の預泉だった。黄色い生地に赤で刺繍が施された胴国の士服の上に、預泉の証として、同じ色の袖の長い羽織を纏っている。
その預泉は地面に裾が広がるのも気にせずに、片膝をつき、深く首を垂れた。
「おやめください、預泉様」
「いえ、今回はただ邪を浄化していただいただけでなく、この国を救ってくださったのです。神子様、ひいては胴国の未来を守って頂きました」
立ち上がった預泉は、誠也ではなく端花を見た。
射貫くような黒い瞳に、端花は思わず唾を呑みこんだ。
(預泉は気づいているのか?それとも事前に知らされている?)
「妖端花が処刑されて十五年が経ちました。しかしながら彼女のもたらした影響は大きく、今でもまだ浄化士の数が足りていません。郡や集では浄化が追いつかず、凶暴化した怨邪が暴れることもあります。
この時代に囲山家の者を派遣していただくことは、右脚国にとって大変なことだったでしょう」
そこで預泉は誠也を見てから再び端花に視線を戻す。
「この国に混乱をもたらした妖端花を憎まずにはいられません。邪気を扱い、危険な術を編み出した妖端花はこれからも怒りと恐怖の対象となるでしょう。
今回は邪道を用いてこの件を解決してくださったと聞いております。悪名高い妖端花によって作られた術を用いたとはいえ、清様は神子様をお助けくださいました。そのことには感謝の念しかございません」
「身に余るお言葉を頂き、ありがとうございます」
(まわりくどいが、私が妖端花であることは知っている。それでも今回は感謝するということか)
礼を返した端花の口元には自嘲が浮かんでいた。
「清麗神が直々に感謝をお伝えしたいとのことです。佩剣したままで構いませんが、決して泉には入れぬように」
「承知しております」
預泉が飾り玉の一つに手を伸ばし、それを握ると、源泉を守る結界に切れ目ができる。
「どうぞお進みください」
誠也と端花が源泉の結界内に入ると、その切れ目は合わさって元の結界に戻る。
「ようこそいらっしゃいましたね」
澄み切った泉の中に、美しい女性が一人浮かんでいた。艶やかな髪を見事に結い上げられ、色とりどりの玉がその黒を際立たせている。黄色と赤の神服は濡れることなく水面に浮かんでいる。
誠也と端花は片膝をついて首を垂れた。
「繫留神様――」
「挨拶は結構です。時間がもったいないわ。私の預泉はどうやら貴女を警戒しているようだから」
誠也は横で同じく礼をしている端花を見た。
「二人とも立ちなさい」
その言葉に二人は立ち上がり、繫留神と向き合った。
「あなたが噂の端花ね。どうぞ剣を抜いてくださいな」
「失礼いたします」
端花が剣を抜き、刀身を露わにすると、眩い光が凝縮され、一人の青年が姿を現す。
「随分と久し振りね、命神」
「命神?!」
誠也が驚いたように顕現した双結を見た。
彼は生前何かと気に食わず言い争っていた刀憑きが元心神であるとは知らなかったのだ。
双結は誠也を一瞥しただけで何も答えなかった。
誠也はこの場に自分の発言権はないのだと考え、静かに成り行きを見守ることにした。
(右脚に帰ったらゆっくり話を聞こう)
「わざわざ端花に呼び出させて、何のつもりだ」
「何もないわ、そう警戒しないで。ああ、端花、あなたは私に訊ねたいことがあるのではなくて?」
端花は一度言いよどみ、息を整えて口を開く。
「繫留神様、侍女――紅石は清らかな気として天に受け入れられたのでしょうか?」
怨邪は無事に浄化できた。しかし、彼女の魂が天界に受け入れられたかはわからない。
端花が今この地にいるのは、彼女が同性を愛し、邪とのつながりが切れなかったからである。
「端花、あなたは一つ勘違いをしているわ。先に答えると、紅石は既に天界に受け入れられたわ」
「それは――」
「あのね、端花。人を愛することが邪道なわけがないでしょう」
繫留神の言葉に、端花は胸の奥が熱くなった。
(私は、私のこの想いは、罪ではなかったんだ……)
「今に至るまで同性を愛した者がいなかったとでも?もちろん愛し方を間違えば、悪いことも起きるでしょう」
例えば、端花が優妃のために源泉を滅ぼしたように。
「けれど、人を愛する気持ち自体は素晴らしいものよ。それを邪道だなんだと呼ぶのが人間の罪ね」
端花は天界での出来事を思い出した。
『妖端花、君の魂は邪気との結びつきが強すぎる。君の生前の行いを考えれば当然とも言えるが、他に思い当たる理由はあるか?』
端花が邪道に走ったと言った時、頸神は肯定しなかった。
『端花、君の師は今どこにいるかわかるか?』
『共に天に昇ったはずです。今この場に私しかいないということは、師は既に清らかな気として天界に受け入れられているのでしょう』
『ああ、その通りだ。それがどういう意味かわかるか?』
端花はその問いに師が愛してくれなかったと答えたけれど、頸神は既にそのことについて話してはいなかったのだ。けれどまだ端花が師を愛したことについて話した。
『端花、君のことがよくわかった。君はまだ学ぶべきことが多そうだ』
あの言葉は、端花が同性を愛することを邪道だと思っていることに対してだったのだろう。
そうして端花は穢れた地を浄化し、罪を償うようにと言われ、地上に降ろされた。
「私はどうしてこの地に降ろされたのでしょうか?」
地上ですべきことは告げられたが、結局どうして端花が天界に受け入れられないのかの理由は話されていなかった。
端花が女性を愛したのが罪ではないならば、一体どうして端花は天界に受け入れられなかったのか。本来であれば邪気と分離されるはずの魂が、清らかな気になれなかったのはなぜなのか。
「頸神は口下手というか、言葉足らずと言うか……。自分と同じ頭脳を相手に求めるのは困ったところね。
頸神はあなたに邪気との結びつきが強すぎると言った。それが大きな理由よ」
「私が生前数え切れぬほどの罪を犯したからですか?」
「いいえ――」
「繫留神」
双結が睨みつけるも、繫留神は微笑むだけだった。
「何かしら」
「神々は地上のことに関与しないのでは?」
「あなたに言われたくはないのだけれど?」
「俺はとうの昔に天界から降ろされた身だ。それでも弁えている」
「それならそのまま黙っていてちょうだい。今回は私の国を救って頂いたんだもの、相応のお礼よ。そうでなければ、祈られた私達がそれに応えて手を貸すことも禁じられてるはずだわ」
双結にぴしゃりと言うと、繫留神はもう一度端花に向き直った。
「端花、いくら罪を犯したところで世の理――人間の理ではない理が変わることはないわ。人が死ねば魂から邪気が分離され、魂は清らかな気として天界に受け入れられる。
どうしてあなたの魂は邪気との結びつきが強いのか」
続きを促され、端花は信じられない気持ちで言葉を紡いだ。
「私はまだ、死んでいないのですか?」
確かに端花は処刑されたはずだ。大勢の観衆が野次を飛ばす中、ひたすら愛する師匠だけを視界に入れて、その生涯に幕を閉じたはずだ。その師匠の死は頸神が認めている。同じ時に同じ場所で処刑されたはずの二人は、片方は死に、片方は死んでいない。
(いったいどういうことだ?)
「教えてあげられるのはここまでよ。その答えに私は肯定も否定もできないわ」
頸神が天界で問答ばかり続けたのも、神々のこうした性質によるものなのだろう。
「端花、あなたの今の状況は天界にとっても少々困ったことなの。私達はただ見守ることしかできない。自分の力で解決なさい。
今日はよくここまで足を運んでくれました。誠也、端花、ありがとう。命神も機会があればまた会いましょう」
繫留神の姿が消えると、それが合図だったかのように、再び結界に切れ目ができる。端花は精霊剣を鞘に戻して双結を戻し、誠也とともに源泉の結界から出た。
「誠也様、清様。此度は誠にありがとうございました。各々の六神のため、これからも励みましょう」
右脚と胴国の国境まで二人を送った預泉は、その言葉を残して胴国へ引き返していった。
こうして、二人の胴国での任は完了した。