百合の願い(五)
降邪を終えた端花は、床に倒れ込む。飛び出ようとする双結の邪気を抑え込み、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたは、清ですか?」
「はい、力不足で申し訳ありません。もう少しお話できればよかったのでしょうが……」
「いいえ、十分です。話をする手段も勇気もなかった私に、清は手を差し伸べてくれました。
邪を降ろすのは相当な負担だと聞いています。身体は大丈夫ですか?」
差し出された神子の手をありがたく借りて、端花は立ち上がる。誠也が見ていたら目を剝きそうだ。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます。
神子様、紅石の想いを確認されたようですが、どういたしますか?」
「そうね、彼女の望み通り、私の望み通り、緑礬様との婚約を解消できればいいけれど、中々難しいと思うわ」
悲しそうに俯く神子に、端花は気丈に笑って見せた。
「神子様、私は最初に申し上げました。私は怨邪を浄化すると、その手段があると」
「清?」
「方法に拘らなければ今すぐにでも浄化できるのですが、今回は胴国からの任ですから、水国の清麗神様のためにも最善を尽くしたいと思います」
右脚国――水国の源泉に宿るのは清麗神。胴国――央心国の源泉に宿るのは繫留神。二柱は女神同士ということもあって仲がいい。
「まず今回の婚約ですが、紅石を浄化できなかった緑礬様にはその資格はないと思われます。そして私が浄化できるのですから、岩小国に遠慮するところは何一つありません。むしろ侍女を一人失った神子様に何かしらの償いが必要かと思われます。というか、犯罪者ですから投獄でも構わないと思います」
急に元気に喋り出した端花に、神子は唖然とした。
もとより端花は緑礬を許すつもりなどない。邪気分離を使って人の命を安易に奪い、自分の作り出した怨邪も浄化できず、偉そうに胴国に留まっている。
生前では人の命を奪うということの認識が甘かった端花だが、再び地に下りて、それがどういうことなのかを理解した。人はただ一人で存在するのではない。その人を想う誰かがいて、その人が想う誰かがいる。たかが人間一人が奪っていい命ではない。
「神子様、邪道については別に緑礬様は把握しておりませんよね?紅石を怨邪にしたのはあくまで神子様の大事な者を脅しに使いたかったからです。
次に神代主へのご報告ですが、以上の理由から神子様と紅石の関係を隠すことは可能です。傍目から見てもお二人は信頼し合っていたようですから。
大事な人を怨邪にされ、結婚を迫られた。婚約すれば浄化すると言ったのに浄化がされず、けれど相談すれば唯一浄化できる緑礬様に浄化を断られる可能性がある。その彼の出身である岩小国も信頼できない。そうしてずっと相談できなかったけれど、浄化をできるという私が来た。
という感じでどうでしょうか?」
「ちょっと待って」
端花の勢いに驚いていた神子が、自分の机に向かい、端花の言ったことを書き留め始める。
その手が止まったのを確認して、端花は言葉を続けた。
「緑礬様には罪を償ってもらいます。裁くのはどの国でも構いませんが、金銭はしっかり受け取りましょう。神子様といえども、神代主が交代すれば宮を出ることが要求されます。その時に結婚していなくても生活できるよう、住まいを整えるのと人を雇えるお金を受け取るのです」
「難しくはないでしょうけど、父上は結婚しないことを受け入れてくださるか……。私としても父上を安心させたいとは思っているのです」
「今回のことで結婚が恐ろしくなったとお伝えしましょう。そうすればむしろ結婚しないという選択を後押ししてくださると思いますよ」
神代主は繫留神の治める胴国に相応しいほど優しい人物だ。きっとわかってくれる。
「ええ、きっとそうね。
私、部屋に閉じこもるようになって気持ちも塞がっていたみたいだわ」
神子は筆を置いて、端花を見上げ、微笑んだ。
「ありがとう、端花。
私一人では少し怖いの。明日、父上にお伝えする時、一緒についてきてくださるかしら?」
「もちろんです。喜んで」
端花は片膝をついて、深く首を垂れた。
神子の知るところではないが、端花は邪に感謝されることはあれど、人に感謝される経験が生前も含めて極めて少なく、彼女の師である妖優妃くらいだったのだ。
端花は立ち上がると精霊剣を鞘に全て納め、柄に布を巻きなおして再び腰に挿した。双結の邪気が消え、紅石は元のおぼろげな怨邪に戻り、扉の前に戻った。
「では神子様、私はこれにて失礼いたします」
*
端花が客室に戻ると、そこには右脚から帰った誠也がいた。
初日に言い争って以来、気まずそうに話しかけてくる誠也だが、端花は知らない振りをした。誠也が落ち込むと面倒なことを知っているからだ。
「清、どこに行ってたんだ?」
「神子様に呼ばれてお部屋まで」
「な、神子様に呼ばれた?!
待て、お前失礼な言動してないだろうな?」
話すにつれて言葉が崩れていっている自覚はあったので黙っておく。
「こら!お前はまったく、目を離すとこれなんだから」
「目を離した誠也が悪い」
「俺のせいかよ」
「あ、浄化できることになった。それで明日、神代主様に事情を説明する」
「は?」
誠也が目を瞬かせて少し固まる。
端花は耳を塞いで次に備えた。
「はぁ?!おま、何考えて、つか、何がどうなったんだ?!神代主様より先に俺に説明をしろ!」
耳を塞いでもうるさいくらいの誠也にげんなりしながら、端花は短く説明する。もちろん精霊剣を使ったことも、神子と紅石の関係も隠したままだ。
「なるほど……ってか、お前降邪をしたのか?本来なら神を降ろすための術だ。壁護神の結界でも、邪の混入は防ぎきれないぞ」
「大丈夫。私は邪気を扱えると言っただろ。入り込んできた邪気を制御できる」
「そうか、ならいいが――ん?お前いつも札も筆も持ち歩いてないだろう?どうしたんだ?」
「ありがとう」
忘れていた、と端花は誠也の筆と使わなかった札を返した。
「お前なぁ……」
「役に立ったんだからいいでしょ」
「いいけど、もっと感謝しろよ」
最近は端花にも慣れてきて、誠也は怒るのを諦めた。それが生前の端花に接する誠也と近くて、端花は自分が一度死んだことを忘れそうになる。
「誠也、明日は右脚の任はないの?」
「ない。お前一人を神代主様の前に出せない。あっても先に送るさ」
「そう。じゃあ明日は神子様を驚かせなくて済むかも」
誠也がすぱんと端花をはたいた。
「いたっ」
「俺がいなくても驚かせるな。いったい何をやらかしたんだ?」
「何でも」
流石に御前で剣を抜きかけて襲撃を疑われたとはいえなかった。
*
翌日、神子の呼び出しを受け、端花は誠也と合流して、一度神子を迎えに行ってから神代主のもとへと向かった。
神子は緊張した面持ちだが、強い生気が感じられ、誠也は思わず二度見してしまった。
(まさかここまで変わるとは……清にも感謝しないといけないな)
誠也だって神子の様子は気になっていたのだ。端花のように胴国に粘るほどでもないが、大事な人を怨邪にされれば誰だって深い悲しみに落とされる。
先に神代主にもだいたいの話がいっており、混乱はなく神子の話は受け入れられた。神代主としても、恐怖を呼び起こしてまで結婚をさせたいわけではなく、神子の要求は受け入れられた。
「孔雀、嫌な思いをさせたな。結婚を勧める私への遠慮もあったことだろう」
「いいえ、父上。父上の想いはわかっているつもりです。そのお心はとても嬉しいのですよ」
「胴国神代主様!これはいったいどういうことか!!」
親子の穏やかな話し合いに、剣呑な声が割り込んだ。神子が怖がるだろうとわざわざ離れで監視されていた岩小国の神代主の息子であり、かつての神子の婚約者――緑礬であった。
灰色の仕服が他にもいくつか流れ込んでくる。
「岩小国の緑礬様、その言葉そのまま返そう!」
すぐに動いた清に抱えられた神子の顔は真っ青である。せっかく部屋から出て、長年仲の良かった侍女を浄化できると決まり、活力を取り戻そうとしていたところだというのに。神代主は父として怒り、立ち上がった。
普段穏やかな人が怒ると怖いな、と端花は生前の優妃を思い出した。
咄嗟に抱き上げた神子が震える手で端花の仕服を掴んだ。目の前で侍女を殺した相手である。本能的に恐怖を抱くのだろう。端花は意識を現実に戻した。
(せっかく感謝してもらったんだ。守らなければ)
端花は神代主の前から神子を抱き上げて端に移動し距離を取ったが、誠也は胴国の浄化士と共に神代主の前に立った。謁見の間は入り口が一つしかなく、そこを塞ぐ岩小国の者達を退けなければこの部屋からは出られない。
「何をおっしゃいます!たかが孔雀様一人のお言葉を信じ、私を怨邪の作り主として罪人とするなど、神戴国の神代主としていかがなものか!
娘可愛さに私との婚約を取り消そうとするならまだしも、罪人扱いなど、到底許せない!」
相変わらず無礼な態度である。そもそも見張りをどうにか排し、ここまでやって来ている時点でもう犯罪者ぎりぎりだ。
(それにしてもどうやって見張りを撒いたのか。もし邪を飼っているのだとしたら、まだ手持ちがあるかもしれない)
端花は生前、どうしても望みを叶えたい怨邪を玉に入れて連れ歩いていた。無理に浄化するよりかは鎮魂の手段を取った方天界で早く受け入れられるのだと優妃が言っていたからだ。邪気分離が伝わっているのなら、その地に留まりやすい邪を移動させる方法も伝わっていると考えた方がいいだろう。
「黙りなさい!そもそも見張りはどうしたのだ!この宮において事変は起きぬはずだ!」
「ああ、あの雑魚どもなら、今はぐっすりお眠りですよ。よく効く薬があるのでね」
端花には心当たりがった。もともと妖優妃は左脚国の出身である。薬には詳しい。
「神代主様、大丈夫ですよ。毒として認識されない薬はそれほど多くありません。左脚で採れる『夢誘い』は睡眠を助ける薬として広く知られています。胴国の宮は玉で作られていますから、部屋の中の監視には直ぐ効いたでしょうし、倒れた音を聞いて中に入った見張りも、濃度が高い香を嗅げばすぐに夢の世界です。
夢誘いの実は逆に意識を強制的に覚醒させますから、岩小国の者は先にそれを口にしていたのでしょう」
声を上げた端花に視線が集まり、両者の熱は引いたようだった。
誠也だけがぎょっとしたように端花に駆け寄る。これ幸いと端花は誠也に神子を預け、視線に応えるように両者の間に出た。
「初めまして。右脚国囲山家預かり、清と申します」
端花は岩小国に向かって挨拶をした。
「少々面倒なので、岩小国の皆様には私からの説明を聞いてもらいます」
後ろで誠也が怒声を上げたのがわかったが、彼は今神子の守護をしている。こちらに来ることはできない。
「まず神子様が作り話をしてでも婚約を破棄したいのであれば、何の利益ももたらさない小国は黙って従いなさい」
「ぶ、無礼だぞ!」
急に小娘に説教されて癪に触ったのか緑礬は声を張り上げたが、それは端花の思うつぼだった。
「無礼?礼をわきまえていないのはどちらですか?
最初に申し上げました通り、私は神戴国常国右脚国囲山家の預かりです。囲山家は神代主と同格である預泉に次ぐ家格です。ご存じですよね?岩小国は小国の中でも比較的新しく、歴史も浅い上に神戴国ですらない。そんな小国の神代主もしくは次期神代主ならともかく、ただの子息に払う礼儀などない」
清に関しては預かりなので上下を考えるのは難しいが、少なくとも礼を強要される覚えはない。お互いが敬意を持って礼を尽くすのがふつうである。
(とりあえず誠也の借りは返した)
「とにかく、この婚約は破棄で問題ありません。
では話を戻しましょう。緑礬様が怨邪を作ったことについては、私からも証言できます。何故なら私が怨邪から確認を取った上で神子様にお話を伺ったからです」
「な、怨邪に確認を取るなど――」
「できますよ。降邪を使えばね」
どちらかというと端花の後ろがざわざわとした。岩小国の者にはいまいちぴんとこないようだ。
「邪とつきますが、これは正道です。神降ろしの儀を転じたもので、古くから使用されています。邪道を修める岩小国には馴染みがないでしょうか?お望みとあらば御覧に入れますけど」
「そんなこと、できるのならばなぜ胴国の浄化士がやらない?」
「難しい上に非常に危険なのだ。それよりは作った者を見つける方が確実だ」
胴国の浄化士が答えれば信用に足りたのか、緑礬は悔しそうに唇を噛んだ。
「やってみろ、と言う勇気はないようですね。緑礬様、あなたはご自分の罪を認めなさい」
「ああ、認めてやろう。私が孔雀様の侍女を怨邪にした」
まさか本当に認めるとは思わなかったのか、胴国が驚きと怒りに包まれる。
「何という酷いことを!」
「浄化士として考えられぬことだ!」
「うるさい黙れ!」
緑礬は怒鳴ると、歪んだ笑みを浮かべる。
「なぜ神子が私と婚約したかわかるか?作られた怨邪は作った者にしか浄化できないからだ。
私を罪人としてどうする?侍女をあのまま放っておいていいのか?」
完全に悪役だな、と思いながら端花は彼の希望の糸を断ち切る。
「作った者にしか浄化できないなら、なぜお前はそうしなかった?神子との婚約は叶った。ならば直ぐにでも浄化すればよかった。お前は浄化しなかったんじゃない、できなかったんだ。
安心しろ。別に作った者にしか浄化できないわけではないし、方法はいくつかある。ああ、最も簡単なのは作った者を殺し、生まれた邪を浄化することだったな」
端花が睨みつけると、目を血走らせていた緑礬はひっと息を飲む。
「知らなかったのか?邪気を扱うわりに教育が足りていないようだ」
「清、やめろ!」
いつの間にか端花の側にいた誠也に止められ、端花ははっとした。
邪気分離を使って怨邪を作ったくせにその始末もできない、できないくせに威張るという最悪な人間に理性が飛んでしまっていたらしい。
「誠也……」
「自分で飛び込んでいったのなら、ちゃんと最後まで責任を持って説明しろ。
それで、緑礬殿、君は罪を認めた。浄化できる清がいる以上、君はどうなっても構わない。理解できたか?今度は容疑者として隔離するのではなく罪人として捕らえる」
誠也が後ろを向くと、既に胴国の浄化士が動いていた。
慌てて逃げようとする岩小国の後ろにも、離れを出た彼らを追いかけてきた宮の警備の者が集まっており、全員が捕らえられた。