百合の願い(一)
端花が天から降ろされて一月が経った。大きな事件もなく誠也と右脚の中を浄化して回る日々が続いていた。誠也が言っていた通り、源泉がなくなった小国との境では邪が発生しやすく、神戴国の浄化士も暇ではなくなってしまったのだ。
端花は特に何も感じなかった。頸神に言われた『愛する人に殺される』という条件は到底叶わないからである。
天界に受け入れられるのは死後のみ。死なねば天界にはいけない。端花は今、死ねない体になっている。
その条件を果たせば死ぬことができるというが、それによって何が変わるのかわからなかった。愛する人に殺されるのは相当な罰とも言えるが、端花の愛する人は今は亡き師である。例え新しく誰かを愛するにしても、端花が今度は正しく男性を愛せるという保証もないというのに。男を愛する、というのが条件であれば、まだ理解もできた。端花が正しい道に戻れば、邪との結びつきも取れるだろうから。
神は嘘をつかない。だから端花が死なない体であることも、愛する人に殺されない限り死ねないことも事実である。
端花は特に誰かを愛そうとはしなかった。ひたすらに邪を浄化して回る。そのことは贖罪でもあった。実は半永久的に端花に浄化士をさせることが、真の目的ではないのかと思えてきた。
けれどそこで疑問が生じる。神は下界のことに干渉しないはずなのである。もしかすると、邪気が取れない端花を天界では受け入れられず、何とか邪気と引きはがそうと下界で浄化に当たらせているのかもしれない。一々死なれても、結局天界では受け入れられないのだから、達成しえない条件を課すことで端花の死という面倒な事象を避けようとしているのかもしれない。
延々と続く思考に飽きて、端花は何も考えないようになった。頸神も言っていたのだから、穢れた地を浄化して回り、その罪を償うことは正しいことである。だからひたすら浄化に明け暮れていればいいのだという結論に至った。誠也も端花との任に慣れてきた頃だった。
「清、明日から胴国に向かう。神代主様直々のご依頼だ」
この件が下界に戻ってからの端花の方針を一気に変えることとなった。
*
地上には十二の神戴国と数十の小国、連がある。
創造主によりつくられた六神を源泉の主とする神戴国の一つ、胴国。またの名を央心国といい、胴神――繋神、繫留神ともいう――を源泉の主とする。神戴国の中心に位置し、高い泉力を宿す玉が良くとれる。
同じく女神を源泉の主とする右脚国とは仲が良く、昔から交流がある。
そして、胴国は端花の故郷でもあった。正確に言うならば端花は胴国の出身ではない。彼女の故郷が今は胴国にあるのである。胴国に足を踏み入れると、抜くことがなく最早飾りと化している精霊剣がカタリと鳴った。
端花と誠也は迎えに来た従者によって神代主のもとに案内された。
源泉に程近い場所に建てられた館は、国の特産をふんだんに使って作られており、半透明の石によって透過した光が美しく漂っていた。
「右脚国が囲山家、麗誠也、そして清といったか。よく来てくれた」
胴国の神代主は人好きのする笑みを浮かべて端花達を迎えた。浄化士ではない神代主はかなりの老人で、十年もすれば息子にその座を譲るだろうと言われていた。息子は父に似て優しく、繫留神の名を持つ胴神の代わりに国を治めるに相応しいとの評判で、既に子もおり跡継ぎに関してはなんの心配もないという。
「私ももうすぐ、天に昇ることになるのだが、一つだけ死ぬ前に解決しておきたいことがあってな」
誠也と端花は神代主と向き合って席についていた。机には綺麗な石でできた容器にお茶がいれられていた。浄化士、それも囲山家ともなればそれなりの扱いをされる。
「娘を結婚させたいのだ」
「結婚、ですか?」
誠也が驚くのも無理はない。
神代主の年齢からすれば、彼の娘はもう結婚というような歳ではないはずだ。
「本人がどの縁談も断ってしまって。恥ずかしながら、無理に結婚させることもないだろうと様子を見ていたらいい歳になってしまった。
神代主の家系とはいえ、独り身では何かと不便だろう。私は早くに妻を亡くして子は二人しかいない。もっと兄弟がいれば、誰かの家に身を寄せることもできただろうが、それも叶わない。息子は神代主としての役目で、あまり娘の面倒を見てやる暇もないからな。信頼していた侍女も亡くなってしまって、途方に暮れていたのだ」
神代主は悲しそうに語るが、端花達は人材派遣を行っているわけではない。婿を探してくれと言われても何もできない。
もしや誠也を婿にかと、端花がちらりと顔を伺うと、何となく意図を察した誠也が睨みつけて来た。
「恐れながら、我々は浄化のみしか行えませんが……」
誠也が言うと、神代主ははっとして苦笑いした。
「ああ、すまないすまない。相手を探してくれという訳ではないのだ。
娘もようやく結婚を決めてくれてな。それも今勢いのある岩小国の神代主の息子の一人で、やっと私も安心できたのだ」
「おめでとうございます」
「ありがとう。だが、一つ問題があって結婚にいたれないのだ」
これが今回、端花達が呼び出された本題だろう。
「娘の部屋の前に怨邪がいてな、動かぬのだ」
「何か悪さはするのですか」
「いや、何もしない。だから最初は気づきもしなかった。だが岩小国の婿殿が浄化士ということもあって異常に気づいてくれた。すぐさま浄化士に頼んだのだが、上手くいかなかった」
「怨邪の名前がわからなかったのですか?」
「いや」
神代主は即答した。
その顔には深い悲しみが浮かんでいる。
「よくわかっている」
「それでも浄化できなかったのですか」
「そうだ」
「それでは岩小国の婿殿に頼めばよいのでは――いたっ」
口を挟んだ端花の頭を誠也が軽く叩いた。
「すみません、道理のわかっていない若輩でして」
「はは、お気になさらず。もちろん婿殿には頼んだのだ。岩小国はあの妖端花によって生まれた邪気を利用する方法を見つけていて、通常の浄化とは違った方法をとるという」
端花は急に自分の名前が出て驚いた。
彼女が生きていた頃、彼女以外に邪気を使う者はいなかったはずだ。それも国単位でなど。
「彼によると発生の方法が特殊らしくてね。岩小国の預泉家なら必ずや浄化できるというのだが、こちらも神戴国、それも六神を祀る常国である以上、小国に頼るわけにはいかぬ」
そこで端花はなぜ自分が叩かれたのか理解した。
(叩く必要もなかったと思うけど)
「それで預泉に頼んで、わが胴神様にお訊ね申し上げたのだ。私事ではあるが、一応特殊な怨邪の事例だからな。そうすると、右脚の君たちに頼るといいだろうとおっしゃられたのだ」
神はこちらの世界に基本的には干渉しない。祈られた時に自然や運命を少し操るだけである。
「右脚国なら昔から交流もある上に、神同士も仲が良い」
「どうして私達だと不思議には思わなかったのですか?」
「おい」
「はは、よいよい。
思わなかったよ。神様が仰ったことだからね。きっと解決するだろうと信じている」
圧力ではなく優しく与えられた期待に、端花と誠也は深く礼をして、正式に任を拝命した。
*
「お前、無礼が過ぎるぞ」
滞在のための部屋にそれぞれ案内されてから、誠也と端花は胴国姫君のもとへ呼び出された。姫君は部屋に閉じこもっており、その前にいる怨邪の気配を辿ればよいので途中で案内を返した。宮中で働く者は浄化士ではない。顔を真っ青にさせてまで前を歩かせたくはなかった。同じようなことをした誠也と途中で出くわした第一声がこれだった。
「無礼?」
「なに佩剣してるんだよ」
端花の腰には精霊剣があった。
「神の住処たる宮で物騒なことは起こらない。あったとして怨邪の襲来だが、怨邪も宮中では力がない。札で事足りるだろ」
神代主が住む宮は元々は神のものである。誰かの意図による人死には起きないし、神戴国ともなれば、怪我さえ起きない。神の、源泉の力が強ければ強いほど宮中は安全であり、事変は起きず、国は安定する。
「誠也にはわからないだろうけど、これは護身用ではない」
「ああそうだろうよ。お前が剣を抜いているのを一度だって見たことはないからな。
それなら余計にだろう。重たいだけの剣など無駄だろう」
「重たいだけではない。これは私を守る」
「は?さっき護身用ではないって言っただろう」
「うん」
「うん?おい、待て清。お前は都合が悪くなるとすぐ黙るな」
「口より手足を動かせ。姫君を待たせるつもり?」
「このっ、かわいくねえ!」
そうは言っても姫君を待たせることこそ無礼にあたるので、誠也はそれ以上追及はせず、端花の剣が隠れるようすぐ隣を歩いた。
「誠也」
「あ?」
端花が誠也の袖を引く。
「さあ、礼儀を教えてくれ」
「何だよ急に」
「神戴国の囲山家の者と、小国の神代主の子息。どちらがえらい?」
誠也が考える間もなく、廊下の角から一人の事物が姿を現した。
灰色の士服を身に纏った、若い青年である。誠也の方が若者に見えるが、彼は二回の神力授与を受けている。何の飾り玉もさげていない目の前の青年の方がずっと若い。
「ああ、これは。右脚の誠也殿。遥々ご苦労なことだ。何か私の力が必要であればいつでも呼ぶと良い」
にこりと笑うと、礼もなしにそのまますたすたと歩き去って行ってしまった。
あまりの出来事に、誠也はしばらく瞬きもせず制止していた。
さっきの若者ももう遠くへ消えたところで、端花がひらひらと手を振って、意識を戻してやる。
「俺の方が偉いに決まっとるだろう!!」
歯の隙間から絞り出した声が静かに響いた。
神戴国とはそれだけで特別である。特に六神のいる常国は六仮神のいる流国とも一線を画している。神戴国の神代主はもちろん神の代わりでこの上なく尊いが、神の力を与える源泉を預かる預泉――つまりは浄化士の頭領も神に近く、両者に上下は存在しない。
囲山家とは預泉家の次に力があり場合によっては預泉家ともなりうる存在である。誠也はその囲山家の者だ。
地上で最も尊ばれる神戴国常国の囲山家に、たかが小国の神代主の息子(それも時期神代主ではない)が、同等に語るのでも眉をひそめられるのに、まさか上から物を言うとは。
呆れて物も言えないところから帰って来た誠也の頭は怒りでいっぱいになった。
「あのクソガキめ、もう神戴国の親族になった気か。まだ結婚はしてないんだろうが」
「誠也は二回も神力授与してるのに」
「お前は本当にそれが好きだな」
「誠也は舐められやすいんだよ」
「特にお前とかにな」
鼻をつまんでやろうとして失敗した。くるりと回ってそれを避けた端花は笑っていたが、
(こいつ、さっきどんな顔してた?)
急に。誠也が目の前の人物に釘付けになっていた時、いったいどんな表情をしていたか、なぜか無性に気になった。
「お前――」
(岩小国に何か良くない思いがあるのか。だから剣を離さないのか)
「誠也は、根がいいやつだから、仕方ない」
『誠也は根がいいやつなんだよ。だから舐められるのも仕方ないよ』
誠也の声が飛び出る前に、過去の誰かの言葉が耳を掠めて行った。
『悪いことじゃないよ』
「悪いことじゃない」
(今、目の前で喋っているのは、誰だ?)
混乱して、端花に何か訊ねることはできなかった。
「誠也?どうしたの?まだ怒ってるのか?」
「そんなわけないだろ」
「なら行こう。姫君の場所までまだ遠いぞ」
剣を揺らしながら行ってしまう端花に何だかどうでもよくなってしまい、誠也はしぶしぶとその後を追った。