瑠璃繁縷の未練(下)
倒れて気を失った老人の手当てをして、全員が狭い卓に着いた。
机の上に置かれた葉――乾燥した茶葉を見つめ、りんが顔の色を失っている。
「おい、清、説明しろ」
「誠也、怨邪の特徴はわかる?」
「おま――はぁ、邪気と違い人の形をしているところだろ」
「はぁ、見えない人に説明するのに、それを挙げますか?」
呆れたように端花が言う。
「じゃああれだ、見えない自分の代わりに物を置いていくところ」
「ちゃんとわかってたようで何よりです」
誠也は黙って自分の内の熱を抑えた。
「何も残さない怨邪もいますけど、この怨邪はちゃんと自分の存在を示したかったみたいですね」
端花の視線が茶葉に向かうと、りんが青白い顔を上げた。
「これは、左脚国の商人の……」
「そう、りんが話してくれた人物のものです。ただし、彼は左脚の人間ではありませんし、その茶葉も右脚のものです」
「そんな……」
左脚の師を持つ端花が間違えるはずもなかった。
そもそも左脚の良質な植物を、わざわざ集に売りに来る者はいない。例え集を訪れたとて、余剰のない集の人間が定期的に物を購入することはない。一月に一回、必ず、それも嗜好品である茶葉を売りに他国の集を訪れることはない。
「そして、毎晩扉を開けていたあなたは、その茶葉の存在を知っていながら隠していた。怨邪に心当たりがなければ、そんなことはしませんよね?」
言外にとっとと吐けと老人に言うと、彼はぶつけた頭を撫でながら語り始めた。
「そいつは、俺が面倒を見ていた孤児だ」
「孤児?!」
「誠也、まずは話を」
「そいつは体が弱くて、浄化士の修業には耐えられないだろうと思ったんだ」
孤児はほとんどが浄化士になる。六歳の浸泉授力までに各源泉に集められるのだ。
「生まれてからどこで暮らしてたかは知らない。俺が初めてそいつを見たのはそいつが五歳の時だ。死にかけてたそいつを放っておけなくて、しばらく面倒を見てた。それで情が湧いちまって、時々食い物を遣りに行った。近くの集に持ち主が亡くなってほりっぱなしになった茶畑があることを教えてやった。
そいつはその茶葉で商売をして、何とか食えるようになった。俺もそいつとは自然に離れた。そんなある日、俺の家に商人として茶葉を渡しにやって来たんだ。お礼のつもりだったと、言っていた」
その時、老人の代わりに入り口に立ったのがりんだったのだろう。そしてりんは青年の正体に気づかぬまま、恋に落ちていく。
「それ自体は喜ばしいことだった。だが、ちょうど半月前、あいつが俺の仕事場に訪ねてきて、りんと結婚したいと言った」
りんが泣きそうな顔で祖父を見る。
「ああ、お前があいつを好いていたのは知ってたさ。けど、あいつは自分の身を明かしていなかった。そう言うと、次の時に自分が孤児であると伝えると言った。そしてりんが受け入れれば、結婚したいと言った。もしりんが拒否したら二度と俺達家族に関わらないと言って」
しかし青年はその機会を失った。次が来る前に死んでしまったからである。
「彼は、どうして死んだのですか?」
「それは、」
老人は言葉に詰まり、卓上に置いた両手を握り合わせた。
りんは信じられないというような顔で祖父の方を見る。
「りん、おそらくあなたの祖父は彼を殺してはいませんよ。誰かに殺されて発生した怨邪はもっと凶暴です」
端花の言葉にりんは安心したように肩を落としたが、それでは何故なのかと困惑して今度は端花を見た。
祖父の預かり知らぬところで死んだのであれば、何故祖父はその事実を知っているのか。何故わざわざ茶葉を隠したのか。
「ご老人、あなたは獣か何かに襲われている例の孤児を助けなかったのではないですか?」
まるで見てきたように語る端花に、老人ではなく誠也が驚いた。
「どうしてそう言い切れるんだ?」
「言い切ってない」
「言葉尻を捉えるな!」
誠也を一度も見ず、端花は老人を見つめたままだ。
逡巡していた老人は、諦めたように息を吐き出して、自分の目を両手で覆った。今ではなく過去を見るように。あるいは、過去の光景を見なかったことにするように。
「あいつとは言い合いになって、俺がその場から離れようしたんだ。俺がしばらく進んだ時だ。悲鳴がして振り返ると、茂みに隠れていた獣が、あいつに襲いかかっていった。大きくはない獣だった。俺が戻れば獣は逃げたかもしれない。あいつは怪我で済んだかもしれない」
「どうして見捨てたの?!」
我慢できなくなったりんが立ち上がって祖父の両肩を掴んで揺さぶった。
「お前は、優しい子だから、あいつが孤児だと知っても受け入れると思った」
「そうよ!だって私は彼が好きだったんだもの!身分を偽っていようと、私と会う時の彼は彼自身を偽ってはなかったもの!」
りんの眼からぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。綺麗なその雫を、端花はぼんやりと眺めていた。
「どうして!!私が彼を受け入れるとわかっていて、なぜ?!」
りんの体から力が抜ける。その場に崩れ落ちてしまった彼女は、嗚咽を漏らしながら両手で顔を覆って泣き喘ぐ。それまで動揺していた祖母が、彼女のそばにしゃがみ、その上下する肩に優しく手を添えた。自身の夫を見上げる目には、戸惑いと同情が現れていたが、そこにりんのような悲しみや怒りはなかった。
「りん、今回のことは残念でした。けれど、けして彼を恨んではなりません」
孫の泣く姿に目を背けて項垂れる老人は、これまで一度も孤児を見殺しにしたことについて何とも思わなかったのだろうか。死にかけの孤児を助けるような人物が?
孤児の死に際、彼は動揺していたはずだ。
孫と結婚したいという孤児。突然現れた獣。距離は遠くはないが近くもない。孤児を仕留めた次に自身が襲われないという保証はない。ここで孤児が死んでしまえば、結婚すると答える孫に複雑な思いを抱くことはないだろう。その打算は、果たして彼の心をどれほど占めていただろう。
半月もこの怨邪を放置していたのはなぜだ。彼は初めてこの扉を開いた時に戸を叩く者の正体に気づいたはずだ。茶葉が置かれていたのだから。それでもすぐには報告せず戸を開け続けたのは、なぜだ。
「怨邪というのは、ただの邪の分類に過ぎませんが、大抵は誰かに、何かに怨みを抱いています。その対象を見つけた時に命を奪うことも、呪いをかけることもできるんです。それでもこの怨邪はそれをしなかった。そして、怨邪がずっと手を出さないという保証はないのに、あなたの祖父は戸を開け続けたのです。怨邪の正体に気づいていながら、怨邪の仕業だという確信がありながら、半月も放置したのです。
この意味がわかりますか?」
端花の言葉にりんは顔を上げた。
「わからない。わからないわ!そんなこと言われても、今は何も考えられない!」
涙でぐしゃぐしゃの顔を苦しそうに歪めて叫ぶりんは、きっと心の奥底で理解している。けれど、それを整理できるのはかなり先になるだろう。
「今はそれでもいい。けれど、怨邪は、邪というものは、かなり強い意志がない限りその性質を変えやすい。彼らはこの世に存在しているようで、存在していないのですから。
もし、りんが彼を恨めば、怨邪は彼を殺そうとする怨邪に変わってしまいます。だから、今しばらく耐えてください。そして、軽率に人を恨んではなりません」
老人は項垂れたままだった。怨邪に殺される覚悟さえできていた彼は、あまりにも何もされないのでしびれを切らして相談をしたのだろう。危ない場面に妻や孫が居合わせることはないだろうと、一切を隠し通したまま事を終わらせようとしたのだろう。
端花はそれを許さなかった。誠也は端花なりの思いがあるのだろうと推測していたが、実際にはそこに大した意図はない。必要だから、そうしたのだ。
「そしてりん、彼を彷徨わせたくないのであれば、涙を拭いて私の所へ来てください」
「な、に」
反応したのは老人で、驚いたように目を見開いている。端花はそれを一瞥しただけで、もう一度りんに向き直った。
「彼がなぜ怨邪になったのか。自分を見殺しにした人を殺すため?一度は自分の命を拾ってくれた人に、そんな怨みは抱かない。ではなぜか。彼にはやり残したことがあった」
『今度はもっといい茶葉を持って来てくれるって、約束したの』
「あなたなら、わかりますね?」
りんは、端花が差し出した茶葉を受け取り、じっと眺め、匂いをかいでみた。そして唇を震わせて、大きく頷く。
「約束したの。覚えていてくれてたのね」
彼女は祖母に微笑んで立ち上がり、祖父の軽い制止を無視して家の入口にむかった。戸を開け、ひんやりとした空気を浴びながら、手に持った茶葉を胸元で握りしめ、空に言葉を放つ。
「ありがとう」
彼女には見えぬ怨邪が、はっきりと人の形を取った。まだ若い男の姿のそれは、微笑んで、彼女を抱きしめる。そして風のように家の中に入ると、老人の肩を抱き、端花の足元に跪いた。
『この度は、誠にありがとうございました。僅かばかりではありますが、この残滓をあなたに捧げます』
端花は彼に手を伸ばし、人差し指をその額に当て、
『許す』
そう言った瞬間、怨邪は霧となり、端花の周りを渦巻いて、消えた。
浄化後特有の、寂しいほど澄み切った空気が周囲に満ちた。
りんはしばらく空の方を見てから、家に戻り、いつもより老けて見える祖父を抱きしめた。老人が涙を零せば、彼女もまた涙を流し、祖父を力強く抱きしめる。呆然としていた祖母が加わって、三人は身を寄せ合いながら夜を過ごした。
端花と誠也は、彼らの邪魔をしないように、そっと家を後にする。浄化が行われたか否かは源泉を確かめればわかる。
月が照らす夜道を、二人して歩く。集を抜け、無人の荒野が広がる土地に抜けたところで誠也が動いた。
「答えろ、お前は何者だ」
腰の剣を抜き、端花を地面に押し倒して、切っ先を端花の喉元に向ける。
端花は動じなかった。
「なぜ怨邪を浄化できる。怨邪は名を明かさなかった。そもそも、浄化士になっていない孤児には名前がない」
誠也が今回の怨邪が孤児と聞いて声を荒らげたのにはそう言った理由があった。孤児が浄化士にされるのは、名を与えるためでもある。
「なぜそこまで警戒する?邪道による穢れで天に昇れなかったと言われただろう」
「まさか、邪気を扱えるのか?いや、そこじゃない。前提からおかしいんだ。人が死に天に昇る時、その魂は清らかなる気となる。穢れは地上に残り、それを浄化士が浄化する。穢れで天界に受け入れられないなどありえないんだ」
そこは端花だって不思議に思った。生前邪気を力として扱い、多くの邪を生んでしまったことで邪気とのつながりが常人より強かったのはわかる。ただ、それは彼女の師も同じであって、なぜ彼女だけが天から降ろされたのか。考えられるのは、彼女が師を愛してしまったから。それだけだったのだ。
「わかった正直に言おう。たしかに私は邪気を扱える。邪道の者だ。だから怨邪を正道ではない方法で浄化できた」
「それでは、どうして、死してなお、邪気との結びつきが取れないんだ?」
「それは――」
――師を、同性を愛してしまったから。
そう言おうと思っていた。
「お前は、何の罪を犯したんだ」
罪。
端花は目の前が急に真っ暗になった錯覚に陥った。
「わかっては、いたけど……」
「なに?」
純粋に師が大好きだった。何者にも代えられぬ存在。彼女の為ならどんなことだってできた。
(性別が違うだけで、この気持ちは罪になる)
「誠也は、人を愛したことがある?」
言って後悔した。
端花の喉に突きつけた剣先が僅かに揺れる。
「ある」
絞り出された声は小さく震えている。端花はこの声を知っていたのに。
『俺は、お前が好きだよ』
「今でも、その人を愛している」
誠也は目の前の浄化士が端花であると知らない。
「それがどうかしたのか」
「私は、その愛ゆえに今ここにいる」
誠也の前で全てを話してしまうことは何故かできなかった。言ってしまってもいいと思っていたはずなのに。
「何か悪いことをしたのか」
「そう。悪いことだった。あの時は、気づけなかった」
「愛ゆえにか」
「うん」
端花にとっては師が全てだった。
今ではちゃんと、自分がしたことの重さをわかっている。
「そうか」
誠也は端花の喉元から剣を退け、鞘に戻した。手を差し出し、端花を助け起こす。
「今回は俺が悪かった。お前にだって言いたくないことの一つや二つ、あるのにな」
「急にどうしたの」
「すまん。お前のやり方が、俺の知人に似ていたから動揺した」
本人なのだから仕方がない。
そう言って慰めてやることも、また、躊躇われた。
「俺だって、人のことを言えやしない。俺は、そいつのことを、あいつが人の道を踏み外してなお、好きだったんだ」
独り言のように漏らされたそれを端花は拾わなかった。
二人は妙に沈んだ気持ちで、家まで歩いた。
もうお気づきかと思いますが、ネーミングセンス皆無なのでご容赦ください。
瑠璃繁縷は「約束」という花言葉があるみたいです。
清の見た目は端花と一緒ですが、誠也には違う人に見えています。