●16 激闘、魔界の空の下 2
よもや戦場に選んだ空間がそんなことになっているなど、露も知らず。
というか、そんな余裕など一切なく。
俺とエムリスは全力全開でシュラトと渡り合っていた。
「〈真・牙裂斬〉――!」
巨大に過ぎる紅銀の大剣を振りかぶり、剣理術を発動。銀色の輝きが皮膚上を駆け抜け、俺の輝紋をこれでもかと励起させる。
相手は他でもない、かつての仲間〝金剛の闘戦士〟シュラトなのだ。
情け容赦など一切なく、俺は全力で斬撃を放つ。
「――ぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおらぁあぁあぁあぁっっっ!!!!」
繰り出すは基本の〈牙裂斬〉から派生した〈牙裂連斬〉の、さらに上位技――〈真・牙裂斬〉。
理力が次元に歪みを生じさせ、全ての斬撃がほぼ同時に襲いかかる――もはや反則じみた剣理術。言ってはなんだが、人の身では到底会得できないチート剣技だ。
弾丸のごとく間合いを詰めてくるシュラトへと、俺は十二の斬閃を同時に重ねがけた。
空を裂く紅銀の弧が、一斉に描かれる。
なにせ十メルトルを越える大剣による斬撃だ。一つの弧の大きさは優に三十メルトルを下らず、魔界の大気に漂う魔力を吸収し凝縮した刃の鋭さは、金剛石ですら断ち切る。
だが。
「――アアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」
シュレッダーよろしく切断の網を張った俺に、構わずシュラトは突っ込んできた。
竜の鱗ですら容易に断ち切る、紅銀の大剣による重連斬撃が容赦なく襲いかかり――
その全てが、奴の黄金に輝く肉体に阻まれ、弾き返された。
「「――!?」」
つまりは衝突。俺もシュラトも反動を喰らい、空中で激突した石礫のごとく大きく吹き飛んだ。
「チィッ……!」
と舌打ち。
さっきからずっとこれだ。
シュラトは近接戦闘の鬼。桁外れの攻撃力と防御力を持つ、無敵の戦士。それが〝金剛の闘戦士〟の特性。
ぶっちゃけ、懐に入られた終わりだ。少なくとも、その一瞬においては俺の負けが確定する。
だから間合いを詰められないよう、長尺の大剣でもってリーチを稼ぎ、離れた距離から一方的に攻撃しているのだが――
てんで効きやがりやしねぇ。
「 〈天星乱舞〉 」
俺とシュラトの間合いが開いた途端、すかさずエムリスが攻撃魔術を発動。ダークブルーの輝紋を励起させ、指先に触れただけで中毒死しそうなほど膨大な魔力を凝縮。
転瞬、青白い光球が無数に生まれたかと思うと、流星群のように光の尾を引いて乱舞した。
一つ一つが家屋に匹敵するような大きさの光球が、群れを成してシュラトへと殺到する。
炸裂。
「――――――――!?」
幾十、幾百にも連鎖する光爆がシュラトを呑み込んだ。
光球一つの炸裂につき、洒落にならないレベルの衝撃波が生まれる。こんなもの、山のようにでかい八大竜公が受けても即座に消滅するほどの破壊力だ。
そんなものを、エムリスは現在進行形で生み出し続けている。光球を出しては着弾座標へ送り込み、マシンガンのように集中爆撃させる――それが〈天星乱舞〉という、名前に似合わず極悪に過ぎる攻撃魔術の正体だった。
この間に俺は体勢を整え、〝ベテルギウス〟による紅銀の大剣を担ぎ直し、
「やったか!? とか言ったらダメなんだっけか? こういうの」
「言わなくても問題ないよ。どうせ【やれてない】からね!」
軽く一息吐きながら嘯くと、エムリスから半笑いの返答があった。
我ながら緊迫感の薄い会話である。
当たり前だが俺もエムリスも、この程度でシュラトが落ちるなどとは、これっぽっちも思っちゃいない。
「――ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
獣じみた咆吼が轟く。
刹那――光爆の群れが、さらに内側からの爆発によって一瞬にして吹き飛ばされた。
その原因は、膨大な黄金の〝氣〟の爆裂。
要は【気合いだけで】エムリスの〈天星乱舞〉が雲散霧消させられたのだ。
「ちょっ――!? そういうのってアリなのかな!?」
流石のエムリスも仰天してか、何のひねりもない言葉を吐いてしまう。
光爆が消し飛んだ後に現れたのは、先程までとは似ても似つかない筋肉ダルマな男。体格が二倍ぐらいに拡張されているが、あれこそ俺達の知るシュラトの姿だ。
肉体操作――優男になったり、幼い少年になったりする力で、今度は戦闘形態である筋肉の塊へと変貌したのだろう。
というか〈天星乱舞〉をぶっ飛ばしたのは、もしかしなくても〝力の解放〟だけで成し遂げたのか?
馬鹿げている。馬鹿げているが――俺もエムリスも十年前と比べて格段に成長しているのだ。シュラトだけが例外になる理由は存在しない。
規格外の存在が、時を経てさらに上位の規格外へと進化した――それだけの話だ。
「そういうのってボクの魔術とは真逆の理屈というか現象というか存在だと思うのだけど――!?」
俺の耳からエムリスの声が遠ざかっていく。
当然だが、今は戦闘中。誰も彼もが立ち止まってなどおらず、常に空中を高速で移動している。
シュラトだって光爆の魔術を受けている間は大きく吹き飛びながらであり、俺とエムリスはそれを追いかけつつ様子見したり攻撃を続行をしていたりしていたのだ。
というか戦闘が始まってからこっち、止まっていられる暇など一瞬もない。
俺達三人は常に魔界の空を馬鹿げたスピードで飛び交いながら、余人にはついてこられない戦いを展開しているのだ。
俺と理術で、シュラトは黄金の〝氣〟――アイツの場合は〝闘気〟といった方が正しいか――で大気を蹴って跳躍し、エムリスはいつも通り大判の本に乗って飛行している。
速度はちょうど、俺が前にいた世界にあった戦闘機ほどだろうか。
つくづく、ガルウィンとイゾリテをあっちに置いてきて正解だった。どう考えても絶対についてこれないからな。
「〈天轟雷神――」
闘気を爆発的に膨張させたシュラトが、慣性で宙を流れ飛びながら呟く。力ある声は高空の風の音を通してすら耳によく透る。
十年ぶりに聞いた懐かしい響きに、俺の背筋が一瞬だけ凍った。
風船のように膨らんでいた黄金の闘気が、瞬時に収斂する。
金色の煌めきの一切が、消え失せる。
「――電烈掌破〉」
これだ。
シュラトのこれが怖い。
エムリスの戦い方を、ド派手な範囲攻撃を得意とする『爆弾型』だとするのなら。
シュラトのそれは、地味で射程も短い『ナイフ型』だと言える。
ただし――そのナイフは【どんなものでも貫く究極の刃】なのだが。
「――~ッ……!?」
俺の肝に霜が降りる。
普通ならこういう時、ドンッ! だの、ガッ! だのといった轟音が鳴り響くものだが、シュラトの場合は違う。
トン、と聞こえるか聞こえないかの微かな音だけで、信じられないほどの超加速をする。
今のように。
「ッ!?」
シュラトが宙を蹴った。すると、目の前にいた。
まるで瞬間移動。
とっくに懐に潜り込まれ、紅銀の大剣の死角に入られていた。
――まず、やられ
「――がはっ……!?」
気付いた時には目の前が真っ暗になっていた。
一瞬だけ意識が飛んでいたらしい。
瓦礫の山の中にいる――肌感覚でそう判別する。
刹那、胸にシュラトの掌打を受け、眼下に広がっていた魔族の街へと叩き落とされたのだ――と遅れて理解した。
俺じゃなかったら即死だった。というか、俺でなければ空中で四散五裂――否、【爆散】していたに違いない。
『アルサル、アルサル! 生きているとは思うけど元気かい!? 君すごい勢いで地面に落ちたよ! まるで流星のようだった! クレーターの真ん中に埋まっているようだけど動けるかな? 大丈夫? 後はボクに任せとく?』
脳内にエムリスの念話が届く。何か妙にテンション高いな、こいつ。いや、久しぶりに肌がひりつくような戦闘だから興奮しているのか。研究について喋る時の早口と同じような速度で思考を垂れ流してやがる。
『食事にする? お風呂にする? それとも私? みたいな勢いで畳み掛けるんじゃねぇよ……』
どこまで深く埋もれているのかわからないので、腕で軽く瓦礫をかき分けてみる。うん、これは相当深いな。魔族の街をかなりの勢いで破壊してしまったらしい。まぁ、ここは魔界なのでまったく心は痛まないのだが。
『すぐに出る。お前はシュラトの相手をしといてくれ』
『もちろんさ。というか現在進行形で相手をしているところだけどね。というか、このままだとキリがないなーと思っているところさ!』
投げやりに念話を飛ばして、俺は全身に力を込める。
肉体が瓦礫の山の中にあるのなら、さっきのシュラトのように全部吹き飛ばして脱出するしかなかろう。周囲への被害はさらに広がるが、まぁ気にしない。
そう――俺は、〝人類の守護者〟であることを自らに課している。そして、魔界に対する限りでは、自身こそが〝人界の代表〟だとも思っている。
だからこそ、俺は明確に線引きをする。
俺が護るべきは人類であり、人界である。
その逆に、魔界の何もかもはその範囲外とする――と。
無論、魔族や魔物とて生命の一つだろう。どこでだったか『命は星よりも重い』なんてフレーズを耳にしたことがあるが、それも然り。
だが、その論法を尊重するのなら、俺は毎日食べる肉にまで気を遣わねばならなくなる。
牛や豚、鶏とて一つの命。人間の命と比べてどちらが重いかなど、人が決めていい領分ではない――と言えば聞こえはいいかもしれないが、言い換えれば、優先順位がつけられない優柔不断の戯言だ。
天秤に傾きを作らない奴には何事も為すことはできない。
かつての俺とて、人類の側に立っていたからこそ、百万を超える魔王軍を突破し、魔王を殺すことが出来たのだ。
だから、今になって天秤の傾きを変えるわけにはいかない。この手で奪った命に対して、俺は責任を全うし続けなければならない。
故にこそ、俺は線引きをする。
魔界の全ては壊してもいいものだ。魔界の命は殺してもいいものだ。魔界は滅んでもいい場所だ。
俺は〝人類の守護者〟。護るべきものを護るためならば、他の全てを犠牲にする。
そう――俺は〝勇者〟なのだから。
「――っらぁあああああああああああっっ!!」
先刻のシュラトに倣って、己の〝氣〟を爆発的に膨張させる。銀光が迸り、闇を照らす。
次の瞬間、爆音と共に周囲の瓦礫が吹き飛び、視界が開けた。
俺はよそ見をせず、即座に視線を空へと向ける。
体へのダメージはもうない。シュラトの掌が胸に炸裂した瞬間は風穴が空いていたかもしれないが、とっくに再生している。どんな傷を負おうが瞬時に回復する――それが俺達なのだ。
あらゆる方角から多くの悲鳴が聞こえてくるが、気にしない。
視界の端に、青黒い魔族特有の血の色が入ってきた気もするが、これも無視する。
魔族の血など十年前の戦いで目が腐るほど見た。今更どうでもいい。
今はとにかく、シュラトを。
靴底に理術を展開し、宙を踏む。全力で跳躍し、一気に空へと上昇した。
その瞬間、雲よりも高い場所で凄まじい閃光が生まれた。
遅れて、世界全体が揺れるような轟音が響き渡る。
エムリスの攻撃魔術だ。
あいつも遠慮なしに大技を連発しているらしい。
さもありなん。そうでもしなければ、さっきの俺みたいに一瞬で肉薄されて一撃必殺だからな。
特にエムリスは〝魔道士〟ということで完全に後衛型だ。何があろうと絶対にシュラトを近付けさせまいと、弾幕ならぬ【魔術幕】を張るのが基本戦術となる。
無論、あのシュラトを遠ざけるような威力の大魔術を連発していたら、いくら空中での発動とはいえ、地上への被害は甚大だ。
戦いが終息する頃には、この魔界の央都は魔王城だけ残して焦土と化しているかもしれない。いや、かもしれないと言うより――十中八九そうなるだろう。
ともあれ、俺としてはまずシュラトに先程のお返しをしなければ。
「――吼えろ、〝シリウス〟」
シュラトの一発を食らった時点で既に〝ベテルギウス〟によって作成した大剣は消えている。よって、俺は新たな星の権能を召喚した。
間違っても人界では呼べない、超絶に強烈な星辰を。
そして俺は加速。全身から銀の輝光を迸らせながら宙を貫くように飛翔し、エムリスの攻撃魔術を喰らってまたも吹っ飛んでいる最中のシュラトへと突撃していく。
「――〈天狼〉」
意趣返しってわけでもないが、囁くように剣理術を発動。俺の両手から膨大な銀光が溢れ、しかし一瞬にして剣の形へと収斂する。
いや、正確には『剣』ではない。刀身が反り、片刃しか持たない――『刀』だ。
銀剣ならぬ『銀刀』を手に、俺は光に近い速度でシュラトに接近し、斬閃を見舞った。
「――!?」
シュラトが俺に気付いて防御態勢を取ろうとしたが、時すでに遅し。脇を締めたコンパクトな斬撃は吸い込まれるようにシュラトの右肩に呑まれ、左脇腹を突き抜けた。
直後、その背後に広がる赤い空が大きく裂け――一瞬だけだが、宇宙の姿が垣間見える。
斬撃の余波が時空を歪め、ほんの数瞬だけ距離の概念を消失させたのだ。
「かっ……!?」
シュラトの喉から掠れた呼気。
俺の剣は『絶対切断の概念』そのもの。だが、シュラトの概念防御も鉄壁だ。
なにせシュラトが肉体に宿すのは『無限成長の概念』。〝戦いの中でだけ〟という制約こそあるが、時が経てば経つほどシュラトの力は成長――強化されていく。
つまり、放っておけば攻撃力も防御力も無限に上昇していくという、反則級の能力を持っているのだ。
――ま、俺に言えた義理ではないかもしれないが。
しかし、だからこその〈天狼〉だ。
これは剣理術ではあるが、技ではない。俺の持つ『絶対切断の概念』を凝縮し先鋭化剣を作り上げる、そういう術だ。
これなら無限の防御力を持つシュラトの肉体さえ、切断することができるのだ。
――どうせすぐ再生されるだろうが、な。
「さっきの借りは返したぜ、シュラト」
そう嘯くと、真紅の瞳が俺を見る。
機械のように無機質な目。ダメージを苦痛ではなく、ただの事実として丸呑みしている顔だ。こいつ、まだ気力は充分か。
「〈我王裂神――」
ロボットのように淡々とした声が、シュラトの唇からこぼれ出る。
こうして近寄ると、さっき再会したときの優男風な顔はどこにもない。大型のゴリラみたいにごつい図体に、角張った顔。丸太のように太い手足――言っちゃあ何だが、化物一歩手前の見た目だ。
そんなシュラトの両拳に、目を灼く程の黄金の輝きが生まれる。
信じられない奴だ。今まさに肉体を両断された直後だというのに、四肢を動かして反撃しようというのだから。
「――通天八極〉」
このままでは先程と同じように、俺はまたも直撃を喰らって遠くへと吹き飛ばされてしまうだろう。いや、ここまでの大技となると流石に五体バラバラになっちまうか?
しかし――この戦いにおいて、【俺は一人ではないのだ】。
パチン、と指の鳴る音。
それを耳で聞いた時にはもう、俺の別の場所へと転移している。
さらに、
「 〈氷結地獄〉 」
エムリスの大魔術が発動。
せっかくの大技のぶつける先を失ったシュラトは、為す術もなく極寒の冷気に晒される。
魔界の赤い空が、一瞬にして純白に染まった。
例えようがないほどの膨大な冷気が生まれ、空そのものを凍結させたのだ。
当然、シュラトも分厚い氷塊の中に閉じ込められ、完全に封印される。
とはいえ――
「……これでどれぐらい保つ?」
「残念だけど、保って一分ぐらいかな? やっぱり強いねー、シュラトは。流石はボク達の切り込み隊長だよ」
俺の質問に、エムリスが気楽に笑いながら答える。
半径数十キロに渡って天空が凍てついたというのに、それが保って一分程度だという。
自分で言うのも何だが、本当に洒落にならない規模の戦いであった。
「……つうか本気でキリがないな、これ」
「そりゃあそうだよ。ボク達は実質的に不死身なんだ。いくら殴り合ったところで意味なんかない。お互いに殺すことは出来ないし、それぞれの所有する『概念』や体に宿した八悪の因子のことを考慮すると、封印することだって不可能だ。ボク達は【戦う前から詰んでいる】……前にもそう言ったろう?」
「百聞は一見にしかず、ってやつだ。実際にやってみて、ようやく実感できることだってあるんだよ」
どこか得意げに語るエムリスに、俺は辟易しながら反駁する。
いざシュラトと矛を交える段になればどうなるか――エムリスとは事前に話し合いをしていた。
結論から言えば『決着は絶対につかない』というのが、答えだった。
そう、結末など最初からわかっていたのだ。
勝敗が決まるはずもない。
人外となった俺達に死はなく、終わりはない。
お互いに負けることがないということは、同時に、どちらも【勝利の栄冠を握ることはない】ということでもある。
だから、どんな攻撃も、どんな防御も、どんな小細工も、意味などまったくない。
戦うことそれ自体が無意味なのだ。
じゃあ、どうして戦っているのかというと――
「……本当にシュラトの目が覚めるのか、こんなことやってて?」
「理論上はね。ボク達自身の持つエネルギーは無尽蔵と言ってもいいけれど、八悪の因子――『色欲のアスモデウス』の力は有限だ。いくら人格を得てシュラトの肉体を乗っ取ろうとも、限界を超えるダメージを受ければ弱体化する。それが道理というものだよ」
つまりは【ショック療法】というやつである。荒療治ともいう。
シュラトが〝色欲〟の力に呑まれて暴走しているのであれば、これを力尽くで叩きのめし、目を覚まさせる――
俺達がやろうとしていることは、つまりはそういうことだった。
「改めて思うが、本気で頭のいい方法じゃないよなぁ、これ」
「仕方ないじゃないか、ボク達はもう細かいことがどうこうって次元にいないんだから。ちょっとした小細工でどうにかなるのなら、ボクがとっくにやっているよ」
呆れの溜息を吐く俺に、エムリスが唇を尖らせる。
エムリスが作り出した超巨大な氷塊――否、空飛ぶ氷山は今なお宙に浮いたまま。
これだけ巨大な物体が重力に引かれて落ちていかないのは、魔力によって浮揚させられているからだろう。
現時点で早くも、全体が小刻みに震え始めている。
「そうは言っても、このまま小競り合いを続けていても埒があかないよな?」
「そうだね、適当に殴っただけでアスモデウスが弱体化してくれるのならよかったのだけど、どうもそう簡単にはいかないようだ。これはもう少し、ボク達も気合いを入れる必要があるみたいだね」
俺とエムリスはお互いに神妙な顔を見合わせる。
大人になると、子供の頃には簡単にできていたことが途端に難しくなったりするものだが、その一つが――【本気を出す】、というやつだ。
特に俺達は、その本気が人界を滅ぼしかねない。冗談抜きでこの十年間は、本気を出す機会がまったくなかった。
ぶっちゃけ、俺もエムリスも『本気の出し方』ってやつを相当忘れてしまっている。
二人して顔つきが憂鬱げなのは、そのせいだ。
「――仕方ないな。久しぶりにちょっくら本気出してみるか」
俺は右手を左胸に当て、息を整える。
「ああ、そうだね。ボクも久方ぶりに【この本を開くとするよ】」
そう言ってエムリスは、いつも尻を乗せていた本から降りた。改めて飛行魔術で宙に浮き、大判の本を顔の前まで移動させる。
氷山の震えが徐々に大きくなってきた。エムリスの〈氷結地獄〉は並の相手であれば時間ごと凍結させてしまう、まさに氷地獄がごとき魔術だ。しかし、そんな大魔術をもってしてもシュラトを封印するには至らない。
今なお〝金剛の闘戦士〟は氷塊の中で無限の成長を続けているのだ。
このままいたずらに時を過ごせば、シュラトの攻撃力と防御力は物理の限界を超え、一種の無敵状態に入る。そうなるともう『殴って目を覚まさせる』どころではない。下手すりゃシュラトのパンチ一発の余波が、遠く離れた人界にまで届き、甚大な被害を出す恐れだってあるのだ。
ついには氷山の揺れが大きな音を伴い始めた。獰猛な肉食獣の唸り声を低く拡張したような、空を圧する轟音。
氷山の内側から溢れてはち切れそうになる力と、それを封じ込めようとする力とがぶつかり合い、拮抗している。
氷塊の表面から細かい欠片が剥がれ、赤い空から降り注ぐ陽光をキラキラと照り返しながら、地上へと舞い落ちていく。
次いで、とうとう均衡が崩れた。氷山のあちこちに罅割れが生じ、瓦解する。
際限なく増えていく罅割れから、黄金の輝きが噴き出す。さながら日の出のようだ。
「来るな」
「来るね」
そういえば〝金剛の闘戦士〟の力は太陽の力だ、って伝承にあったな――と思い出す。
俺が〝勇者〟なのに銀色で。
シュラトは〝闘戦士〟なのに金色で。
いやいや〝勇者〟で金色か銀色かってなら、普通は金色の方じゃないのか? と思ったところ、この世界に伝わる伝承にその理由が記載されていたのだ。
銀は退魔の力の象徴。魔王とは即ち魔の力の結晶体。これを退治するにあたっては、銀の力を持つ〝勇者〟でなければならない――と。
俺が元いた世界では太陽の力も大概魔を退ける力だったような気もするのだが、よく考えたら太陽の光に弱いのは吸血鬼だけだったか? あまり細かいことは覚えていないのだが。
さらに言えば〝銀穹の勇者〟の力は星の力にして、月の力。月は狂気を司る。魔王と相対するには、同等の狂気をもって対抗しなければ、魂が呑まれる――だっただろうか。古い伝承にそんなことが書いてあった記憶がある。
だから、むしろ金色なシュラトの方が〝勇者〟みたいな力を持っているのに、銀色の俺の方が〝勇者〟だなんておかしいよな――みたいな話を、当のシュラトとしたことがあった。
――そういえば、あの時のシュラトはなんて返答してくれていただろうか?
「――ォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォッッッ!!!!」
雄叫びと共に巨大な氷山が砕け散った。
黄金の輝光が爆発する。
一瞬、目を灼く閃光が世界を満たし――
エムリスの〈氷結地獄〉によって生まれた氷塊が、魔界の空を埋め尽くすダイヤモンドダストへと変わった。
煌めく細氷が地上へと降り注ぎ、一種幻想的な光景を形作る。
そんな中に、異質な存在が一つ。
金色の〝氣〟を纏う巨人。
もはや筋肉が増えすぎて、人間のサイズを超越している。
どう見たって俺の三倍以上はある体長に、樹齢千年を越える大木がごとき体幅。
英雄だとか〝闘戦士〟とか〝氣〟とか、そんなものは全然関係なく。
あんな筋肉の塊に殴られたら普通に死ぬ――そう思わせるほどの異形へと、シュラトは変貌していた。
「――どうやらシュラトも【本気になった】みたいだね」
「ああ、久々に見たな、額の【アレ】」
俺とエムリスの視線は、揃ってシュラトの頭部へと注がれている。
黄金のオーラに金色の髪なので一見ではわかりにくいが、そこには王冠にも似た〝目〟がある。
目を模した紋様、と言えばいいだろうか。魔術を使用する際に浮かび上がる魔方陣にも似た、一つ目のマークだ。
それが今、シュラトの額で煌々と輝いている。
「――いくぞ」
「――ああ、やろう」
互いに申し合わせてから、俺達は素早く後退した。宙を滑るようにして、シュラトから距離を取る。当然、味方同士でも間合いを離すことを忘れない。
こっちもあっちも本気モードだ。お互いが近くにいては、存分に本領を発揮することができない。
よって、遠く遠く、俺達はそれぞれに彼我の距離を広げていく。
まるで導火線を伸ばしているみたいだな、と頭の片隅で思う。
最終的に、俺達三人は赤い空に三角形を描くような形で展開した。
俺が言うのも何だが、しっかりと距離を取るまで待ってくれるシュラトもシュラトで、何というか間抜けな時間が流れているなと感じる。
下の魔族の街では俺達がどう見えているだろうか。
いきなり現れて好き勝手して、戦いの余波で街を破壊しまくっているのだ。それこそ悪魔か何かだと思われているかもしれない。まぁ、魔族から悪魔に見られるとか何の冗談だって感じだが。
あるいは、先程のダイアモンドダストで天使か何かだと思われているだろうか。しかし天使ということは神の使いで、この世界で神と言えば魔族と敵対している聖神を指すので、結局は同じようなものか。
――いかん、つい思考が変な方向へと逸れてしまった。
「――よし」
俺は気合いを入れ直すと、改めて自身の左胸に当てた右手に意識を集中させた。
同時、エムリスやシュラトもまた、俺に合わせたように動き出す。
俺は覚悟を決め、十年振りに【この一言】を唇から放った。
「星剣、抜刀――」
決着の刻は、もうすぐだ。




