●10 地獄の戦場 12
「――!?」
ガルウィンは息を呑み、慄然とする。
わかる。何も見えないが、それでもわかる。わかってしまう。
土煙の奥に、【何かとてつもない存在】がいる、と。
先程まで、そこには何もなかったはずなのに。
今では立ち籠める爆煙を通して、ただただ肌がひりつくほどの〝圧〟を感じる。
そう――アルサルやエムリスから感じるものと、ほぼ同レベルの〝重圧〟を。
もはやアルサルは周囲にいる魔物の軍勢を完全に無視して、土煙の向こうにいるであろう〝何者か〟に、引き続き声をかけた。
「一応、手加減はしてやったぞ。当然これで終わりじゃないよな? ああ、先に言っとくと逃げようとしても無駄だぞ。十中八九、俺の方が速い。鬼ごっこは面倒だから、さっさと顔を出して大人しく俺にボコられろよ」
端から見ていると虚空に向かって話しかけているようにしか見えないが、しかしコミュニケーションは取れているらしい。アルサルの黒い瞳はまっすぐ土煙を見据え、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
それにしても――とガルウィンは内心で首を捻る。
先刻からアルサルの言動に違和感がある。おかしい、自分が主君と仰いだこの方は、こうまで好戦的な御仁だっただろうか? 以前はもう少し落ち着いた雰囲気の方だったと思うのだが。
何というか、そう――以前よりも〝傲慢〟になったように、ガルウィンには感じられた。
「それとも手勢が全部いなくならないと踏ん切りがつかないか? 魔物なんざいくらでも再生産できるからって、そうポンポンと使い捨てるのもどうかと思うけどな。それに、まさかこれだけの軍勢を率いておきながら、戦局を見極めることもできないってか? もう趨勢は決まってるだろうが」
これ見よがしなアルサルの挑発に、果たして相手は反応した。
『――聞きしに勝る驕慢さだな、〝勇者〟アルサル。仲間とともに魔王様を討ったと聞いているが……とても信じられん。貴様のような小物が、我らが偉大なる主を滅びに導いたとはな』
魔力を帯びた、独特な声が空間に響いた。
突如として烈風が吹き荒び、塔のごとく天高くそびえていた土煙が一気に晴れる。
やがて、岩と砂だけしかない不毛の荒野に立つ、小さな人影が見えた。
彼我の距離はかなりあるが、それでもアルサルの〝眷属化〟によって強化された視力で、ガルウィンはその威容を目の当たりにする。
頭の左右から生えた二本の角は、大きく捻じれ、鋭く尖り、なんとも禍々(まがまが)しい形状をしている。
二つの眼窩に、縦長の瞳孔を持つ瞳が四つ。なんと、片目に二つずつ眼球が収まっているのだ。それも、虹彩の色が一つ一つ違う。向かって右に収まっているのが赤と黄、左には青と緑。
魔族の見た目は人間とさほど変わらないと聞いていたが――実際、十二魔天将と名乗った彼らはかなり人類に近かった――、しかしあくまで『さほど』は『さほど』だった。
人間と同じような顔の形状をしているのに、瞳が四つもある――あるいはそれは、ささやかな違いであるのかもしれないが、ガルウィンの目には下手な魔物よりもよっぽど【異形】であるように感じられた。
はっ、とアルサルが嗤う。
「おう、そうだぞ。こんな小物にやられたんだぜ、お前の魔王様は。っていうか俺みたいな小物にやられたんだから、魔王じゃなくてただの雑魚か? なぁ、よくわからないから教えて欲しいんだが、あれの一体どこが偉大だったんだ?」
自らを『小物』と称した魔族に、アルサルは容赦のない毒舌を向けた。相手の神経を逆撫で――否、【爪を立てて引っ掻く】がごとき言葉で挑発する。
『――貴様』
その短い言葉だけで、魔族の理性が一瞬で蒸発したのが察せられた。
魔族の顔には刺青にも似た痣が浮いているものだが、アルサルと会話する相手のそれには、どこか金属にも似た硬い艶がある。まるで薄い金属板を紋様の形に切り抜き、顔に張り付けたかのごとく。
しかし今、その金属板が魔族の表情ごと大きく歪み、四つの眼球を収めた両目が嘘のように大きく吊り上がっていた。その結果、横に並んで眼窩に収まっていた眼球が、ほぼ縦に並ぶ形となる。
ぎょろり、と四つの目玉が不気味に蠢いた。
「――~ッ……!」
ぞわっ、とガルウィンの全身の肌が生理的嫌悪によって一斉に粟立った。
魔族は全身から膨大な怒気を発しながら、
『いいだろう、よく言った。もはや遠慮は不要ということだな。ではよく聞け。我が名はザフォッスルメント・コリ――』
「あーいい、いい。いちいち名乗るな。どうせ覚えるつもりなんざねぇんだから」
名乗りを上げようとした魔族を、アルサルは無遠慮に遮った。面倒くさそうに片手を振って、はぁ、と溜息を一つ。
「いいから、さっさとかかってこいって。うぜぇ」
最後の一言が引き金を引いたのだと思われる。
ガルウィンの強化された視力――それが捉える視界の中で、ザフォッスルメント何某と名乗った魔族が、無音のまま動いた。
否、正確に言えば――【音よりも速く動いたのだ】。
「――っ!?」
大気の破裂する音と突風は遅れてやってきた。まるで世界が魔族の姿を見失い、慌てて辻褄を合わせたかのようなズレ方だった。
魔族のザフォ何某はほんの一瞬でアルサルに肉薄していた。
百万の魔物が布陣していた領域から、さらに離れた場所に隠れていたというのに。
ここまでかなりの距離があったはずだが、それをまるで瞬間移動でもするかのように詰めてきたのだ。
激突。
全身から紫色の魔光を放った魔族の鋭い手刀と、アルサルの無造作に構えた片腕とが凄まじい勢いで衝突する。
この世のものとは思えない激音が轟き、全方位に向かって放射状の衝撃波が奔った。
豪風が吹き荒れ、ガルウィンの全身に叩き付けられる。
「ぐぅ……っ……!?」
咄嗟に両腕で顔を庇い、両足を踏ん張ってどうにか耐える。怒濤のごとき衝撃波に、骨ごと手足が持って行かれそうになる。アルサルの〝眷属化〟によって強化されていなければ、これだけで即死していたに違いない。
『SSSSSSSHHHHHHHAAAAAAA――!?』『GGGGGGGOOOOOOOOOAAAAAAAAAAWWWWWW――!?』『VVVVVVVVRRRRRRRRRAAAAAAAAAA――!?』
実際、激突の余波を受けた魔物の一部が、そのまま青黒い血を撒き散らしながら何処かへと吹き飛んでいく。場合によってはその場で潰れ、即死するものまでいた。
それほどの衝撃の発生源にいながら、しかしアルサルは涼しい顔をしている。
今なお煌めく魔光の波動を受け止めながら、
「そうそう、そうやって本気出せば魔物の軍勢なんざいらねーだろうによ。十年前もそうだったが、お前らって群れるのが好きだよな、ほんと。何か特別な意味でもあんのか?」
魔族の顔を覗き込んで、せせら笑う。
首領たる上級魔族が動いただけで、配下の魔物があっさり死ぬほどの衝撃が生まれるのだ。集団行動をするには、あまりにも能力差がありすぎる。上級魔族が全てこのレベルなら、下手な魔物など全て足手まといにしかならないはずだ。
「そんなだから俺達に魔王をぶっ倒されるんだよ、お前ら魔族は」
それは実際、子供だった頃に【たった四人で】魔界に乗り込んだことのあるアルサルだからこそ、言える台詞だった。
憤怒のあまりか、魔族はもはや顔を怪物のように変形させ、怒号を放つ。
『――我が名はザフォッスルメント・コリースーダン! 西部方面第一司令にして、誉れある魔界貴族コリースーダン侯爵家が当主! 冥土の土産に覚えていくがいいッ!!』
「覚えてられるか、そんな長ったらしい名前」
意地でも名乗りを上げた魔族に、アルサルは嘲笑を返す。
紫の魔光を放ち、なおも背中から魔力を噴射して加速する魔族の手刀を平然と受け止めたまま、
「ザフォ……メン、コリースー……」
口の中でモゴモゴと呟いたかと思うと、ふと口元を綻ばせ、
「じゃあ略して『ザコ』だな。これなら覚えやすいぞ」
ただでさえ燃えさかっていた怒りの炎に、大量の油を注いだ。
「――――」
一瞬、上級魔族――アルサルが命名するところの『ザコ』の動きがピタリと止まった。
その身に纏う魔光の輝きすら固体化した――そう錯覚するほど、明確な停止だった。
直後、魔光の勢いが一気に倍加した。
『キサマァァアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!』
「うるせぇ」
怒号を迸らせるザコ侯爵を、アルサルは一言で一蹴。
ザコ侯爵が手刀とは逆の腕を大きく振りかぶった瞬間、後の先を取る。
マグマにも似た輝きを放つ手刀を防いでいる片腕をそのままに、反対側の拳をコンパクトなスイングでザコ侯爵の顔に叩き込んだ。
『アガッ――――――――!?』
しなる鞭のような軽く素早い拳打に見えたが、威力は想像以上だった。
クロスカウンターである。
たたでさえ変形していたザコ侯爵の顔面がさらに【ひしゃげ】、馬車に撥ね飛ばされる子供のように、魔光を纏った体が大きく吹っ飛んだ。
『――グッ……貴様ぁッ!!』
が、ザコ侯爵は吹っ飛ぶ最中に魔光を逆噴射して空中機動。体勢を立て直し、アルサルに向き直りながら減速する。
「キサマキサマって、それお前の鳴き声なのか?」
当然、そんな盛大な隙を見逃すはずもなく、今度はアルサルが瞬間移動のような速度で肉薄していた。
既に右拳を大きく振りかぶっている。
『な……!?』
「おらよっ」
何の気負いもない、だからこそ容赦の一切ない一撃がザコ侯爵に突き刺さる。
『ガァ――――――――!?』
先程と全く同じ場所を殴られたザコ侯爵は大きく仰け反り、流星のような勢いで再び吹っ飛んだ。
しかし数瞬の後、
『――ゴォォオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!』
さらに魔光を倍加させ――もはや目で見るのが辛くなるほどだ――ザコ侯爵が獣じみた雄叫びを上げた。
それだけで凄まじい衝撃が巻き起こり、全方位に放射される。地面が穿たれ、土砂が弾丸のような勢いで弾き飛ばされていく。
『殺すッ! コロシテやるぞ〝勇者〟アルサルゥゥゥゥ――――――――!!!』
もはや紫の魔光を放つと言うより、光の中にいるような状態でザコ侯爵が叫ぶ。いまや彼が十二魔天将とともに連れてきた魔物の軍勢は、そのほとんどが死滅していた。他ならぬザコ侯爵の放つ波動によって。
無論、ガルウィンとて無事ではいられない。
「ぐっ……ううううう……!」
深海の底にいるかのごとく、あらゆる方向から肉体に圧がかかる。骨格が歪み、頭の中までもが握り潰されそうだ。
――これが、上級魔族……その貴族階級の力……!




