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●44 あれこれの顛末




 結果として、ではあるが。


 俺はかつてないほどの権力を、その手にした。


 手にしてしまった。


「……はぁ……」


 頭の中を占める大多数は、もちろん自己嫌悪だ。


 何のことはない。どうしようもなく自覚しているし、どんな言い訳も通用しない。


 畢竟ひっきょう、俺がやったのはただの〝弱い者いじめ〟である。


 それ以外に言いようがない。他に何と言う? 正義の味方ごっこ、ってか?


 もちろん、相手は並ではなかった。


 なにせ聖神だ。神を名乗る存在であり、実際に高次元の情報生命体だった。


 普通に考えれば〝弱い者いじめ〟になんてならない強敵――だったはずだ。


 だが、そうはならなかった。


 俺があまりにも完璧に、高次元に適応してしまったが故に。


 我ながら異常だ。都合が良すぎる。まるでこうなることが最初から決まっていたかのような。そう思ってしまうほど、俺は神の領域である高次元に馴染んでしまった。


 おそらくは一身に集めた八悪の因子のおかげだとは思うのだが――


 もし、そうでなかったとしたら?


 なんて思考が意識の片隅をよぎり、得も言えぬ不安が生じる。


 考えてもわからないことを考えても無駄なのは、わかりきっているのだが。


 ともあれ、俺の力は高次元にあってなお強大だった。


 こんなこと、ガルウィンやイゾリテに知られたら、


「流石はアルサル様っ! まさに神の王! つまり神王ですねっ!!」


「違います、お兄様。アルサル様の威光はもはや王程度のくらいに収まりきれないものかと。つまり、アルサル様は王よりも上位の存在……つまり神。ゴッド。そう、ゴッド・オブ・聖神。あるいは聖神ゴッド。いかがでしょうか?」


「おお、なるほどそうかっ! 確かにっ! 流石は我が妹! 素晴らしいぞイゾリテっ!!」


 などと、頭がお花畑の馬鹿なやりとりをするに違いないのだ。


 よって、絶対にバレないようにしなければ。


 なんにせよ、今回の顛末についてエムリス達には話さないといけないだろうが、逆に言えば、情報を共有するのはたった三人だけでいい。


 厳重に箝口令を敷いて、絶対に情報漏洩を防がねばならない。特にエムリス。あいつには全力で念を押しておかねば。


#Zeus 000『――アルサル様、ロールバック作業が完了いたしました』


 と、俺のもとに重苦しい雰囲気の籠もった通信が届いた。


 いや、通信というより、念のようなものか。


 誰からと言えば、ヘッダーの表示からも、『情報』から滲み出る圧力からもわかる通り、聖神の箱庭運営組織の一つ――希臘式きろうしき神社かいしゃオリュンポスの主神しゃちょうこと、聖神ゼウスである。


 あの傲岸不遜、傍若無人――は言いすぎか――だったゼウスも、いまとなっては俺の眷属。絶対服従の召使がごとき存在だ。


 聞いての通り、俺のことを下郎呼びしていた野郎が、なんと『アルサル様』呼びである。


 自分でやったことながら、〝眷属化〟の強制とは、げに恐ろしきものであると言わざるを得ない。


 まぁ、八悪の因子の影響で強化されているとは言え、もとを辿れば聖神が俺達〝英雄ユニット〟へ直々(じきじき)に与えたもう権能なんだがな。


 こればかりは因果応報、自業自得と言う他ない。


#Arthur 999『ご……おう、わかった』


 ゼウスの念話――細かく言えば聖神独自の話法プロトコルのっとって、俺は応答する。


 このあたり、俺は感覚でチューニングして会話しているが、エムリスあたりに言わせれば、きっと邪道だと文句をつけてくるに違いない。


 それはともかく。


 ――あっぶね、思わず『ご苦労』とか言いかけちまった。いやご苦労もクソもねぇだろ。


 アルサル様、なんて呼ばれたせいだろうか。反射的にガルウィンに対応するような態度が出かけてしまった。


 しかし、ゼウスは下位次元の生命をもてあそぶ聖神の、その筆頭とも言える存在だ。


 ねぎらってやる義理など一片いっぺんもない。


 よって、俺は敢えて尊大かつ容赦のない態度を取った。


#Arthur 999『下がれ。とりあえず、もうお前らに用はない』


 肉体のない高次元であるため腕などないが、それでも気持ち的にてのひらをシッシッと動かす。


#Zeus 000『――はっ』


 たとえ内面でマントルのごとく憤怒と憎悪が煮えたぎっていようが、ゼウスはおくびにも出さず、素直に引き下がっていく。


#Arthur 999『あ、ちょっと待て』


 ふと思い出したことがあり、俺は適当な調子でゼウスを呼び止めた。


#Arthur 999『いったん、とりあえずの指示だけは出しておいてやる。お前らは――【これまで通り過ごせ】。何一つ変わりなくな。神社かいしゃの経営だとか、箱庭の運営だとか、俺はそういう細かいところにまで口を出すつもりはない。今まで通りの精度で、遅滞なく業務を続けておけ。いいな』


#Zeus 000『――はっ』


 ひとまず〝眷属化〟を駆使して聖神――いや、その集団の一つであるオリュンポスの頂点に君臨した俺だったが。


 言わずもがな――ノープランである。


 なにせ俺の目的は、イゾリテを取り戻すこと、ただそれだけだったのだから。


 成り行きとはいえ、えらいことをしてしまったものだ、と今更ながらに反省――否、後悔している。


 だからと言って今更、後戻りなど出来るはずもなく。


 とにかく今後のことについては、元の世界に戻ってからエムリスやシュラト、ニニーヴなどと相談して決めていくしかあるまい。


 何故なら、あいつらも俺と同じ、聖神に複製召喚された被害者なのだから。聖神のこれからについて口を挟む権利もあろうはず。


#Arthur 999『今後のことについては追って命令する。それまでは全員、自分の役割を全うしろ。手は抜くなよ。余計なこともするな。舐めたことしたら全員お仕置きだ。いや、どっちにせよお仕置きは絶対にやるけどな』


 ゼウスを始め、全ての聖神は長きに渡って命を弄んできた歴史がある。見ているだけだった奴とて同罪だ。


 無論、一朝一夕で許すことなどまかり成らない。


 よって、俺は全員に報いを与えることを決めていた。


 ポセイドンやアテナにそうしたように、どいつもこいつも一度以上はフルボッコにしてやるつもりだ。


 そうやって、俺や仲間達、ひいては歴代の勇者パーティーが味わってきた地獄の一片でも思い知ればいいのだ。


 聖神には肉体がなく、頑丈なアバターしかないので、己の吐いた血反吐の上でのたうち回らせてやれないのが、少々――いや、かなり残念なのだが。


#Zeus 000『……………………はっ』


 かなりの逡巡しゅんじゅんの間を置いて、ゼウスは返事をした。


 まったく、馬鹿野郎が。こうやって事前に予告してもらえるだけありがたいと思いやがれ。俺達なんかいきなり召喚されて、何の脈絡もなく生き地獄に落とされたんだからな。


 ゼウスの気配が遠ざかっていく。と言っても、高次元には距離の概念もない。これはあくまで修辞的な表現だ。


「……さて、と」


 意識を切り替えるため、意味もなく独り言ちる。


 気分的には全身で伸びをしたいぐらいだが、情報生命体となっている今の俺に実在の肉体はない。それは〝あっち〟に戻ってからの楽しみとしよう。


 何はともあれ、晴れて目的は達成された。


 箱庭のロールバックは完了し、今頃は世界の時間がイゾリテが消滅する前の時点へと回帰しているはず。


 その結果、聖神らが懸念していたクレームが嵐のように巻き起こり、運営としては炎上不可避案件だろうが、俺にとってはまったくどうでもいい。


 というか、いずれそのクレームをつけるユーザー聖神らも、俺か仲間達の眷属にしてやろうかと思っている。


 人を見せ物にしていた連中も大概ゴミだが、それを見て楽しんでいた奴らはゴミ以下のクソだ。


 まったくもって高次元の上位存在とやらは、度し難い奴ばらである。


 娯楽の為に他人の人生を弄びやがって。


 いずれ、どいつもこいつも相応の報いを与えてやろうではないか。


「よし、戻るか」


 高次元でやるべきことはまだ多く残っているが、そんなものは後回しでいい。


 今はとにかく、イゾリテの無事を確認したい。


 もしこれでロールバックが失敗していたり、思った通りの結果が出てなかった場合は、またこちらへ戻ってきて大暴れしてやるからな――


 そう心に誓いながら、俺は意識を集中させる。


 ぶっちゃけ最初は、この高次元にこうして昇華シフトすることすら、かなり無茶な賭けだと思っていた。


 いくら八悪の因子が一身に揃っているとはいえ、次元の壁を超えるなど荒唐無稽にすぎる。


 しかしながら、一度でも成功したのなら、それはもう【未知】ではなく。


 なおかつ、高次元に来たことで俺の存在強度は桁違いに増大し、それこそ神をも超える力を手にしてしまったわけで。


 何が言いたいのかと言うと――つまり、元の世界に戻るなんて赤子の手をひねるようなものだ、って話だ。


 帰還する――そう願った次の瞬間には、俺の意識は聖神が言うところの下界ダイブを実行していた。




 ■




 肉体から離れていた意識が回帰し、再び定着する瞬間。


 それはどこか、機械の再起動にも似ている。


 広大無辺の情報世界と同化していた意識が、しかし人間の肉体という極小の器へと、無理矢理にねじ込まれる。


 一瞬、得も言えぬ息苦しさが魂の奥底を貫いた。


 だが窮屈さと同時に、なんとも不可思議な懐かしさが、胸に去来する。


 ああ、戻ってきた――と。


 全身に神経が通う感覚。四肢を巡る血流。肉体という輪郭。自他の絶対的な境界線。


 圧倒的なまでの『俺』という【個】の〝領域〟。


 固定化。


 まさしく地に足をつけた圧倒的な安心感と共に、俺は瞼を開いた。


「――おや、随分と早かったね?」


 目と鼻の先にエムリスのドアップがあった。


「おわっ!? な――なにしてんだお前!?」


 いきなりすぎて思わず声が上擦った。やめろよ、いくら何でも距離が近すぎだろうが。ちょっとしたホラーだぞ。


「君が目を開けるのが早すぎるんだよ、アルサル。ボクは〝あっち〟に行ったであろう君の様子を観察しようと思って顔を近付けただけさ」


 ひょい、と顔を引きながらエムリスが不敵に笑う。


「……どれぐらい時間が経った?」


 エムリスをして『早かった』を繰り返すので、気になってしまった。


「ほんの数秒程度さ。十秒はかかってないね、確実に。……その割には雰囲気が一変しているようだから、どうやら【成功した】……ということでいいのかな?」


 何もかも見透かしたように、ふふ、と笑うエムリス。


 ふと、後頭部に柔らかく暖かい感触を覚え、気付く。


「……ニニーヴ?」


「へえ、ウチならここに」


 にゅっ、と視界の上方からニニーヴの顔が現れた。それも、逆さまになって。


 それで理解した。今、俺はニニーヴの膝枕で地面に寝そべっているのだ――と。


「……もしかしなくても、ぶっ倒れたのか、俺」


「そうだ」


 問うというより確認の意が濃い呟きを、聖神ゼウスとはまた趣の違う重苦しい声が、短く肯定した。響きだけでシュラトだとわかるので、誰何すいかの必要は皆無だ。


「あー……」


 俺は片手を上げ、掌で顔を覆う。


 なるほど、完全に理解した。


 八悪の因子を用いて魂の位階を強制的に昇華させ、聖神のいる高次元へと飛んだ俺――正確には、その肉体――は、実質的に意識を失って後方へとぶっ倒れた。ここからは完全に想像だが、そんな俺の背中をニニーヴが支え、そのままゆっくりと下ろし、この膝枕の体勢へと誘ってくれたのだろう。そして、心配して様子を見ようとしたエムリスが顔を近付けてきた瞬間に、俺はパッチリと目を覚ました――


 そんなところだろう、おおよそ。


 言うまでもなく〝こっち〟で大した時間が経過していないのは、〝あっち〟が時間の概念のない世界だったからだ。


 いや、より正確に言えば〝あっち〟にも時間の概念はある。ただ、〝あっち〟の時間は絶対不可侵ではなく、また不可逆なものでもなく、自由自在に制御可能であり、動かすことも止めることも【ほしいまま】なだけで。


「……よし、整理できた。悪いな、ニニーヴ。膝を貸してもらって」


 そう言って身を起こそうとした俺の肩を、何故かニニーヴの両手がしっかりガードする。ニッコリとした笑みが、楽しそうに俺を見下ろし、


「ええんよ、こんくらい。むしろ役得やし?」


「――は?」


 役得? 何だそれ? と問い返すよりも先に、


「それで、一体何があったんだい? まぁ、結果については聞くまでもないようだけれど」


「? どういう――」


 意味だ、と聞き返すよりも早く。


 全身を覆う奇妙な感覚。


 時間が間延びしたような、世界が粘土のように捏ねられているような、得も言えない酩酊感。


 直感的にわかった。


 これが【ロールバック】なのだ――と。


 時が戻る――のとは少し違う。これは『時間の逆行』とは似て非なるものだ。


 ロールバックは時間の経過はそのままに、世界に存在する各々の状態の変化だけを遡行そこうさせるのだ。


 ゲームっぽく言うと――あんまりこんな言い方はしたくないが――、各種オブジェクトのステータスを元に戻す、といった感じになる。


 実質的に時間が戻っているようなものだが、そうではない。あくまで【そう見えるだけ】で、時間の流れは戻ることも止まることもなく、そのままなのだ。


「……なるほど、な」


 エムリスの言葉の意味を、俺は聞くまでもなく理解した。


 こうして一個の人間の肉体――というには微妙に語弊があるか。決してまともなもんじゃないからな――に魂を収めている今の俺に、高次元にいた時ほどの全知全能さはない。


 だが、それでもわかる。


 見ずとも、聞かずとも、触れずとも。


 曖昧な気配だけで、わかった。


 この世界にイゾリテが存在している。


 イゾリテが生きている――と。


 俺は両肩を押さえるニニーヴの手を強引に振りほどき、上体を起こした。


「あ。いけずぅ」


 ニニーヴが妙なことを呟くが、敢えて無視した。


 ――どこだ? イゾリテはどこにいる?


 いや、探す必要などない。イゾリテの状態が巻き戻されたのなら、その居所は一つしかない。


 イゾリテが消失した地点――つまり、すぐそこだ。


 視線を向ける。


 今なおロールバックが現在進行形で続いているのだろう。周囲の風景が異様な変化を見せている。蜃気楼のように揺らめき、あるいはモザイクがかかったかのごとく不鮮明になり、変化しているのがわかる。


 そんな奇妙な世界を背景に、しかしそこだけ切り取ったかのように、くっきりと。


 イゾリテの姿があった。


「イゾリテ……!」


 少女の身は宙に浮いている。


 さもありなん。聖神ヘパイストスが渡した自爆用ペンダントの爆心地にいるのだ。イゾリテの肉体が消滅する直前、そこには地面があった。だが、今はそこに大きなクレーターが出来上がっている。後ほど大穴も補修されるだろうが、イゾリテの肉体が【復旧】されるのは、消滅する寸前にいた座標となる。そのため、一時的に肉体が宙に浮いた形になっているのだ。


 意識は――あるのかないのか、判然としない。目を開いてはいるが、表情がうつろだ。唇も呆けたように開いている。おそらく肉体の復旧が先で、精神の方は後回しになっているのだろう。


 先述の通り、ロールバックによって変化するのはイゾリテだけではない。


 この世界そのものだ。


 とりわけ、俺やエムリス、ニニーヴの戦いの余波で滅茶苦茶になってしまった大地もまた、元の状態へと戻っていく。時が逆巻くようにして。


 俺からは観測こそ出来ないが、今、世界中で同じ現象が起こっているはずだ。もちろん、それぞれ規模の大小はあるだろう。その上で、そうなった記憶は誰の頭にも残らない。当然だ。記憶や感情、行動でさえ全てが巻き戻されてしまうのだから。


 一方で、こうして俺には何の変化もない。すぐ近くにいるエムリスやニニーヴ、シュラトも同様だ。しばし観察してみるが、見事なまでに何も起こらない。


 その理由が、今の俺ならわかる。


 現在、八悪の因子は全て俺の内に宿っている。だが、エムリスもニニーヴもシュラトも、一度は因子を受け容れた身だ。


 外部世界の因子と触れ合った時点で、俺達四人は『世界のことわり』の外へと出てしまった。


 故に、ロールバックの対象外となっているのだ。


 システム外の異物イレギュラー――箱庭を仮想現実とするなら、そういった呼称がおそらく適切だろう。


 この世界における森羅万象とは無関係な、完全無欠の異邦人。


 別の世界から複製され、召喚された俺達四人には、いっそお似合いの立場とも言えるが。


 世界の全てを逆巻く処理は、大して長くは続かなかった。


 時間にして数十秒と言ったところか。間違いなく一分は経っていない。


 荒々しく粒立つぶだっていた世界の解像度が、徐々に明瞭になっていく。


 イゾリテの足元に地面が再生し、靴底がしっかりと触れる。宙に浮いていた体に重力が覆いかぶさり、風に吹かれるようになびいていた髪の動きもおさまる。


 その頃には精神および記憶の復旧も行われたようで、緑の瞳に理性の光が蘇っていた。


 ふと、視線が俺の方を向く。まるで磁力か何かで吸い寄せられたかのごとく。


「――。」


 ちょっとだけ虚を突かれた。


 いや、なにしろ唐突すぎる。まさか俺専用のセンサーとか、特殊な理術とか使ってないよな? 脇目も振らず、さっ、とこちらへ目が向いたように見えたが。


 いや、そんなことはどうでもいい。


 良くも悪くも、イゾリテらしいと言えばイゾリテらしい挙動だ。今更どうということもない。


「――はっ……」


 思わず笑みがこぼれた。


 そうとも。実にイゾリテらしいではないか。一度死に、ひどく強引な手法でよみがえったかと思えば、いの一番にやることが〝俺を見る〟だ。


 いい言い方をすれば、一途で健気な少女のかがみと言える。まぁ悪い言い方をすれば、一途とか健気とか通り越して、執着の権化、と言えないこともないが。


 ともあれ、あれは間違いなくイゾリテだ。聖神が代替として用意したものではなく、正真正銘、俺の知っているイゾリテが戻ってきたのだ。


「…………」


 イゾリテはどこか無機質な瞳を、じっと俺に向けている。まるで、生まれたての小動物が生みの親を見つめるような、そんな眼差しで。


 もちろん、俺はそんな大層な奴ではない。


 急いで駆け寄りたい気持ちを抑え、俺は静かに立ち上がった。なにせ教え子の前だ。取り乱して我を失うわけにはいかない。情動に突き動かされるまま行動する姿など、みっともなくて見せられない。


 努めて平静に、足を進める。こちらを見つめるイゾリテは、どこかキョトンとした表情を浮かべている。無理もない。一度死んで、超常の理によって蘇ったばかりなのだ。状況が呑み込めないのも当然だ。


「……アルサル、様……?」


 手が届くほどまで近づくと、それこそ子猫のようにイゾリテが小首を傾げた。


 その瞬間、どうにか保っていた俺の冷静さが瓦解したように思われる。


 刹那、俺はほぼ無意識に腕を広げると、そのまま懐へとイゾリテを誘った。


「――え……?」


 胸元からイゾリテの不思議そうな声が上がる。痛くはなかったはずだ。ほとんど衝動的な行動だったにも関わらず、我ながら俺の動きは静かで優しかったのだから。


 そう、つまり――俺はいつの間にか、イゾリテを抱きしめていたのである。


 もちろん、軽くだ。羽毛に触れるかのごとく、優しく。力強く抱きしめるのではなく、そっと包み込むように。


 得も言えぬ感情に突き動かされたとはいえ、最低限の理性は残っていたらしい。


 というか、俺が本気で抱きつくと勢い余ってイゾリテを殺してしまいかねないからな。冗談抜きで。


「……よかった。本当によかった。よく【戻ってきてくれたな】……」


 右手でイゾリテの後頭部を、左手で背中を軽く叩きながら、俺は噛み締めるように呟く。


 言葉にした瞬間、怒涛のように実感が込み上げてきた。


 ああ、生きている――暖かい体温がある。鼓動を感じる。呼吸している。小さな頃から変わらぬイゾリテ特有の匂いがする。


 紛れもなく、俺の可愛い教え子がここにいた。


 凄まじい安堵感が、俺の中で嵐のように吹き荒れる。正直、このまま腰砕けになって崩れ落ちたいぐらいだ。それぐらい、ほっとしていた。


 無論、イゾリテの前で無様を晒すわけにはいかないので、全力で我慢するわけだが。


「はー……本当に、よかった……」


 自分でもくどいとは思うが、それでも改めて思いを口にしてしまう。それほどまでに感無量なのだ。


 目の前でみすみすイゾリテを喪失してしまった時はどうなるかと思ったが、これでようやく肩の荷が下りた気分だ。セントミリドガルのガルウィンにも顔向けが出来る。


 そうして、しばらく。


「――ひゃっ……!?」


 不意に胸元から、変な声が上がった。まるで小動物の鳴き声のような、妙に可愛らしいものだ。


「ん?」


 同時に、懐のイゾリテの体が小さく震えたような気がしたので、俺は反射的に声をこぼしてしまった。


 途端、イゾリテの背中に軽く当てていた左手に、熱。


 イゾリテの体温が急激に上昇していくのがわかった。


 視線を落とすと、見えるのはイゾリテの頭頂部。そこから視野を広げると――真っ赤に染まった両耳が目に入った。


 イゾリテの肌は浅黒で少しわかりにくいが、それでも紅潮しているとはっきりとわかる程度には、赤かった。


 さらに言えばイゾリテが俯いているせいもあって、わずかにうなじも見えているのだが、そこも赤味を帯びている。


 はた、と気付いた。


「――おっと、すまんな。思わず、つい。悪かった」


 そういえばイゾリテは、こう見えてもまだ幼い少女だったのだ。しかも、自分で言うのははばかれるが――この娘にとって、俺は崇拝にも近い憧憬を捧げる対象。そんな相手にこのように抱きしめられれば、年頃の少女としては劇的な反応をしてしまうのも道理である。


 俺は腕を離すと、一歩後ろへ退しりぞいた。


「…………」


 イゾリテは無言。深く俯いているせいで表情は見えない。だが、両腕を胸の前で交差させ、全身を縮こめさせている。のっぴきならない状態にあるのは間違いなかろう。


 だが。


「――いえ、少し驚いただけですので」


 秒で建て直した。すっ、と背筋を伸ばし、表情にカーテンをかけ、何事もなかったかのようにこちらを見返してくる。


 流石はイゾリテである。正直、小動物のように狼狽うろたえるイゾリテも可愛らしいとは思うが、ずっとそんな状態でいられるより、今のように落ち着いてくれた方が俺も話しやすい。


 イゾリテは冷静な所作で左右を見回し、状況を確認。それから俺に緑の瞳を向け、


「ところでアルサル様、ここは――」


 どこなのですか、とおそらく問おうとしたところを、俺はわざと遮った。両手で軽くイゾリテの肩を掴み、


「その、なんだ、イゾリテ。痛いところとかないか? 体に違和感は? どんな些細なことでもいい、何かあるようなら今すぐ言え」


「――?」


 質問に答えず、逆に問いを重ね掛けしてきた俺に、イゾリテが不思議そうに首を傾げる。


 その隙に、俺は理術を使ってイゾリテの全身を走査スキャン。ロールバックによって再生された肉体に異常がないかを確認する。


 反応は『問題なし(オールグリーン)』。至って普通――エムリスの眷属のため、そうとは言い切れないが――の人間の肉体であり、健康状態も良好。不備、不具合は特になし。


「あとお前、どこまで憶えてる? 一番新しい記憶を言ってみろ」


「……はい」


 思うところは色々とあるだろうが、イゾリテは俺の意思を尊重し、まずは質問に答えるべく思考を巡らせる。


「――エムリス様とニニーヴ様の戦いを止めるため、アルサル様が出陣なさったところまでは……憶えております」


「……なるほど」


 なんとも絶妙なタイミングである。


 そういえば高次元あっちにいた際、ロールバックの指示こそ出したが、具体的にどこまで戻すかについてまでは言及していなかった。一応イゾリテを蘇らせる旨だけは伝えていたので、そこだけは確実に実現できるとは思っていたが――どうやら幸いなことに、コマンドの実施者は細かい機微のわかる奴だったらしい。


 そうとわかった上で周囲を見回せば、なるほど、確かに諸々の破壊跡が絶賛エムリスとニニーヴがり合っていた時のそれだ。


 現状でもかなりの壊滅っぷりだが、俺が参戦してからは目も当てられない惨状と化したので、これでも全然マシな方と言える。


「申し訳ありません。一体、何が起こったのでしょうか? 何故、私はここに――不思議なことに記憶が、」


 そこまで言いかけたところで、イゾリテの動きがピタリと静止した。ふ、と緑の目が遠くを見るかのように胡乱うろんになる。


 おそらく、思い出しかけている。ヘパイストスから与えられたペンダントに操られ、自爆した時の記憶を。


 いかん、と思った時には手が動いていた。


 右手でイゾリテの顎に触れ、くい、と上を向かせる。


「待て、考えるな。俺を見ろ、イゾリテ」


「え……?」


 顔を近付け、イゾリテの瞳に視線を射込む。強い眼差しを送って、強制的に意識をこちらへ向けさせる作戦だ。


 噛んで含めるように、俺は告げる。


「いいか、【それ】は考えなくてもいいことだ。いや、考えたらダメなことだ。気になる記憶があるかもしれないが、大丈夫だ。問題ない」


「……問題ない、ですか?」


 多少なりとも俺の勢いに気圧けおされつつも、イゾリテが静かに問い返す。


 俺は力強く頷いた。


「ああ。【俺が全部まるごと完全に解決した】。だから気にするな」


「…………」


 しばし、信じがたいものでも見るかのように俺の顔を凝視していたイゾリテだったが――


「――かしこまりました」


 やがて、会釈するように目を伏せた。もうこれ以上は何も言いません、と言外に告げるかのごとく。


 あまりのあっさりさに、俺は肩透かしを食らった気分になる。


「お、おう……?」


 いや、確かに説得していたのは俺の方だったが、こんなにもすんなりと話が通ると、それはそれで微妙に気持ち悪い。


 そんな俺の気持ちを察したのか、イゾリテが瞼を開いて改めて俺を見つめてくる。


「アルサル様がそこまでおっしゃられるのです。考えるなと言うのであれば、考えません。イゾリテはアルサル様を信じております。あなた様が『全部まるごと完全に解決した』と仰るのであれば、その通りなのだと納得するのみです。例え、事情が一切わからなくとも」


「そ、そうか……」


 全幅の信頼――と呼ぶにはあまりにも純粋で、一途で、鮮烈すぎるものを浴びせられ、俺はやはり内心で甘引きしてしまう。


 わかってはいたが、相変わらず凄まじい。こうも混じり気のない好意を真正面からぶつけられてしまうと、汚い大人になったと自覚している己としては、微妙に心苦しいというか、得も言えぬ居心地の悪さが去来してしまうのだ。


「あー……そういえばイゾリテ、お前ペンダントつけてるだろ? それ、ちょっと出せ」


「ペンダント、ですか? いえ、私は――」


「いいから、ちょっと胸元を探ってみろ。【今なら認識できるはずだ】」


 渋るイゾリテに、俺は強引にうながす。自覚がないのも無理はない。聖術士ボルガンことヘパイストスに精神操作を受け、自爆用ペンダントを肌身離さず持ち歩いていることを認識できないようにされていたのだから。


 怪訝に首を傾げながらもイゾリテは俺の言う通り、てのひらで胸元をしばし撫で、


「……これは?」


 はっ、と異物感に気付き、何度かそこを軽く叩いた。すぐさま、さっ、と背中を向けたかと思うと、服のボタンを外し、内側へと手を差し入れる。


「……どうして……?」


 無意識の独り言だろう。俺と対話する時とは少々異なるトーンの声音。知らないうちに身につけていた、見覚えのないペンダントへの疑問の声。すかさず身を翻し、


「――アルサル様、これは一体な」


 んですか、と問われるよりも速く。


「ぶっっっっ!?」


 胸元を盛大に開いたままイゾリテが振り返ったものだから、俺は慌てて顔を逸らして目線をあらぬ方角へ飛ばした。


「ま、待て待て、隠せ隠せっ」


 強めの小声――というのは矛盾しているようだが、そのあたりは察してくれ――で言うと、イゾリテも動揺している自分に気付いたのだろう。


「も、申し訳ありません……っ……!」


 珍しく少し乱れた口調――こういうところは少しガルウィンと似ている――で謝罪して、小さな衣擦れの音を立てつつ素早く胸元を直した。


 音響だけでイゾリテが服装を正したのを確認すると、


「あー……それ、こっちにくれるか?」


 俺は視線を戻しつつ、イゾリテに片手を差し出した。


「はい。アルサル様、これは一体何なのでしょうか? 私にはまるで覚えがなく……」


 素直に手渡してくれながら、イゾリテは改めて疑問を口にした。


 俺は再び真っ直ぐ目を合わせ、告げる。


「【これ】も、気にしなくていいやつだ。既に解決済み、ってやつだな。安心しろ。回収するのは念のためだ」


 とうにこのペンダントの機能は失われている。そうするよう、俺が聖神らに命令しておいた。だから別にイゾリテが持ち続けていても問題はない。ないのだが――


 ぶっちゃけよう。


 俺が嫌なのだ。


 仮にも一度イゾリテの命を奪った代物が、今なおその手元に残り続けることが。


「…………」


 しかしながら、流石に説明不足が過ぎたらしく、イゾリテが不満そうに押し黙った。いや、表情はいつも通りで変化はほとんどない。だが、雰囲気でわかる。怒気も苛立ちさえも感じないが、それでもイゾリテが不服に思っていることが。


 とはいえ、どう説明したものか。難しいにも程がある。


 例えば――色々あってお前が死んでしまったのでちょっくら聖神の本体がいる高次元まで殴り込みに行ってロールバックという時空の巻き戻しみたいな事象を引き起こさせた結果こうしてお前が蘇ったわけだが――みたいな話でもしろと?


 いや無理だろ。完全に無理。絶対に嘘だと思われる。エムリスやシュラト、ニニーヴに話すならともかく。


 そもそも、イゾリテには俺達の正体すら話していない。もちろんイゾリテとて、俺達がもはやただならぬ超常存在であることは察していよう。だがまさか、聖神によって別の世界から複製された模造品だとは思うまい。


 とはいえ、だ。そこまで説明すると、もしかしなくともイゾリテが俺達に抱いている憧憬しょうけいが台無しになってしまわないだろうか。というか、そこまで話すならこの世界が聖神によって創造された箱庭であることにも言及しなければならない。


 こんな残酷かつ、荒唐無稽な話をしてよいものか――と、そんな風に高速思考で悩んでいた刹那。


「――別にいいんじゃあないかい、アルサル? イゾリテ君に説明してあげても」


 あらぬ方角からエムリスの声が飛んできて、俺はそちらへと振り返った。


 わざとだろうか。わざわざ逆光を背にする位置、しかも俺の頭より高い座標まで浮上して、エムリスがこちらを見下している。定番の大判の本に腰かけて。


 余計な茶々を入れられた、と感じた俺は溜息をこらえつつ、


「……適当なことを言うなよ。そんな軽々しい問題じゃねぇだろ」


 軽率に過ぎる発言をたしなめたところ、ニヤリ、と笑ったエムリスは高見から偉そうに嘯く。


「おや、心外だね? ボクは適当になんて喋っていないさ。なにせ目下の懸念だった〝怠惰〟と〝残虐〟は、今や君の中だ。思考もすっかりクリアになって、いやらしい考えも浮かばなくなった。そうとも。今のボクは、十年前アルサルから『委員長っぽい』と言われた頃のボクに回帰しているのさ」


 いやどこがだ。〝怠惰〟がいなくなって思考が明晰になっているのは間違いないだろうが、少なくとも〝残虐〟の影響は色濃く残っているように見えるぞ。


「嘘つけ。十年前のお前なら、もっと可愛かったぞ」


 脳裏に浮かぶのは、まさしく学級委員長然とした十年前のエムリスの姿。今とは打って変わって、真面目一辺倒の堅物だったものだ。あの頃の面影は、見た目以外にはほとんど残っていないと言っても過言ではない。


 俺の嫌味に、さらに調子に乗った放言が飛び出すかと思って内心身構えたのだが、


「…………」


 意外なことに、エムリスは不満そうに眉をひそめて沈黙した。怒りを視線で伝えるかのごとく、じっと俺を睨んでくる。


「――?」


 いわくありげな目線の意図がわからず、俺は少なからず困惑した。てっきり、


『アルサル? 笑顔で言うけれど女性に対して年齢に関するネタで弄るのはやめておいた方がいいとボクは思うよ。これは別に他意はないのだけれど、ああそうとも、決して他意はないのだけれど――月のない夜は身の回りに気を付けた方がいい。ボクからは以上だ』


 などといった返しがくるものとばかり思っていたのだが。


 まさか、ここまで露骨に不機嫌な態度を取るとは。


 やがて、エムリスの唇がへの字に曲がったかと思うと、


「……ふん。まぁいいさ、あえて言及しないでおいてあげようじゃあないか。もっとも、その程度の【おべっか】でボクが態度を軟化させると思っているのであれば、それは大きな間違いだとは言っておくけれど」


 腕を組んで、ぷい、と顔をそむけられてしまった。


「お、おう……?」


 はて? おべっか……? よくわからないが、どうやらエムリスにはそのように伝わったらしい。『可愛かった』という言葉が入っていたせいだろうか。俺としては、思いっきり皮肉のつもりだったのだが。


「アルサル様」


「ん?」


 恬淡な声に呼ばれ、振り向く。すると、そこには何故か満面の笑みのイゾリテがいた。


「――。」


 おいマジか。なんだこの笑顔は。すごいぞ。心底ビックリした。いや、驚いたなんてものじゃない。驚愕だ。驚天動地だ。これほどまでの笑顔、イゾリテが幼い頃でも見たことがあったかどうか。


「説明を、希望します」


 にこやかな表情のまま、イゾリテは氷柱つららのような声で言い放った。


「いや、あのな――」


「私は、説明を、希望します」


 珍しく喰い気味にイゾリテが俺の言葉を遮った。


 待て、この雰囲気――覚えがあるぞ。そうだ、エムリスだ。割と本気で怒った時のエムリスが、まれによくこういった態度を取ることがある。内心では激怒しているくせに、何故か顔は満面の笑みで。それでいて語調は強く、グイグイと押し迫ってくる勢いで。


「だからな――」


「お願いします。説明を。詳しく」


 センテンスを区切って強調するように、同じ要望を繰り返すイゾリテ。カチコチに固まった笑顔のまま。


 しまったな。イゾリテをエムリスの眷属兼弟子にさせたのは大きな誤りだったかもしれない。変なところが似てきている気がする。


「……はー……」


 我ながら、やけにわざとらしい大きな溜息が出てしまった。


 呆れ半分だが――もう半分は、ここまで押しが強くなるほど成長した元教え子への感嘆もある。また、こうして押し問答が出来るのも生きているからこそ――という微量の喜びもあった。


「仕方ないな……」


 ここは俺が折れるしかないようだ。変にこじれて妙な空気が漂ってしまうのもよろしくない。もっとも、俺が固辞したところでイゾリテが幼子のように駄々をこねるとも思えないが。


「わかった、話してやる」


 俺はまず頭上のエムリス、そして先程から少し離れた場所からこちらを見守っているシュラトとニニーヴに視線を向けると、


「じゃあ……ついでに〝あっち〟であったことも話す。お前達も同席してくれ」


 面倒なことはひとまとめにさせてくれ、と頼む。


「いいとも」


「わかった」


「へえ」


 満場一致で快諾をもらえたので、イゾリテに向き直って手招きしつつ、


「少し長い話になるからな。ま、コーヒーでも飲みながら聞いてくれ」


 そう言った途端、ストン、と音が聞こえてくるほどの勢いでイゾリテの笑顔が滑り落ち、無表情へと取って代わった。


「ありがとうございます。アルサル様の御寛容ごかんように、心より感謝申し上げます」


 心なしか、いつもより丁寧に頭を垂れるイゾリテ。何を思っているかはわからないが、それでもやはり、先程の態度はイゾリテなりにやり過ぎたと感じているのかもしれない。


 それにしたって、笑顔と無表情の場面がてんで逆ではなかろうか。いや、それもイゾリテらしいと言えばイゾリテらしいのだが。


 斯くして俺は、テント近くに設営した野外用テーブルとチェアにイゾリテをいざなったのだった。




 ■




 荒唐無稽――


 突拍子もない。無茶苦茶――


 不条理。非合理。馬鹿馬鹿しい――


 俺が話した内容とは、まさにこれらの乱舞であった。


 正直、自分でもどうかと思う。だが、全て嘘偽りない事実なのだ。


 話に耳を傾けている間、イゾリテの表情はずっと【無】のままだった。


 さもありなん。逆の立場だったなら、俺だって絶対そうなっていたはずだ。


 だが今回は状況が状況で、面子が面子だ。いかに空想夢想じみた話であっても、俺の言葉を疑う者は一人もいない。


 俺が聖神の本拠地である高次元へと乗り込み、大暴れした挙句、主要な奴らを軒並み眷属にして帰ってきた――という馬鹿げた話を。


「――なんだ、案外つまらない連中だったんだね、聖神とやらは」


 開口一番、エムリスはつまらなさそうに息を吐いた。ほのかに光っているように見える青白い瞳は、白けたように細められている。


「話を聞くに、どいつもこいつもとんだ俗物じゃあないか。よくもまぁ、そんな体たらくで〝神〟なんて名乗れたものだよ。僭称せんしょうというものじゃあないかな、流石に」


 聖神に対するエムリスの評価は、実に手厳しい。


 だが無理からぬことだ。エムリスは普段から魔道士――即ち『魔の道を往く者』として自己を定義している。


 魔と相反するものは、聖。あるいは、神。


 エムリスがとする『魔』。それを否定する『聖』と『神』を冠した存在――それこそが聖神なのだ。


 敵の強大さとは、つまるところ己の偉大さの反映でもある。


 敵が強ければ強いほど、大きければ大きいほど、それと敵対する己もまた、同等かそれ以上の存在であると定義できるのだから。


 故にエムリスは、仮想敵としての聖神に、それはもう巨大な期待を寄せていたはずだ。


 想像もつかないほどの超常存在を思い描いていたはずだ。


 だが、しかし。


 俺の話から浮かび上がってきた聖神像は、ひどく程度が低かった。


 落胆するのも当然だ。


 生涯を懸けるべき最大の宿敵――そのように想定していた連中が、しかし期待した水準以下の存在だったのだから。


 落胆もひとしおなのは、想像にかたくない。


「せやから言うたやん? ウチの聖神はんらは神様いうても人間味が多すぎて、そんな大したことあらへんで、って」


 一方、ニニーヴは暢気なものだ。聖神教会に属し、聖女の地位につき、日頃からその特技でもって上位空間の会議を盗聴していた曲者くせものである。これっぽっちも動じてなどいない。


「けれどねニニーヴ。神だよ、神。よりにもよって全知全能の存在を自称しておきながら、会議の間で夫婦喧嘩なんてするかい、普通。常識的に考えて。いっそ頭がおかしいとしか言いようがないよ」


 それはそう。まったくもって同感だ。神だの何だの関係なく、ゼウスとヘラの馬鹿夫婦には、仕事に私情を持ち込むなと言いたい。


「問題はそれだけではない」


「ああ、君の言う通りさシュラト。トップ二人――いや、神だから二柱かな? どうでもいいけれど――の夫婦喧嘩なんて氷山の一角に過ぎないね。全体を通して、何と言うべきか、こう……………………」


 たっぷりの間を置いて、エムリスは断言した。


「 ひ ど い 」


 情感どころか魔力やら言霊やらを満載した一言だった。


 気持ちはわかる。俺もあいつらの会議を俯瞰していて似たような感想を抱いたしな。ニニーヴは聖神を指して『人間味が多すぎる』と評していたが、多いどころではなく、ぶっちゃけ人間味しかない。


「せやけど、そのおかげでアルサルはんが上手くあちらはんを制圧して、そっちの子が戻ってこれたんやさかい、ええことやんなぁ」


 ニニーヴの対応は微塵もぶれない。というか、一周回って冷淡とも言える。仮にもヴァナルライガーの聖女なのだ。自らが仕える神々が侮辱されたというのに、激憤するどころかほのかにエムリスの辛口批評に同意すらしている。熱意がまるで感じられない。


「おいおいニニーヴ、そんなこと言っていいのか? 十年前から仕えてきた大事な神様なんだろ?」


 ニニーヴの肩書は〝白聖の姫巫女〟であり、その所属は聖神教会。聖神教会はその名の通り、この世界を創造した聖神を信仰対象とした宗教団体なのだが――


「――? 何言うてはるん、アルサルはん。聖神はんらは〝神様〟とはちゃうよ」


 にっこりと笑ったニニーヴは、やんわりと俺の言葉を否定した。


「〝神様〟いうんは、もっと深遠で、荘厳で、崇高で……そういう、【わけのわからんもん】やさかい」


「お、おう……」


 いつものように柔らかい口調ながらも、その笑顔の裏には何やら硬質こうしつなものがあるように感じられ、俺は僅かながら腰を引いた。


 思えば神の存在についてニニーヴと語り合ったことなど、とんと記憶にない。もしかしなくても未知の地雷だったのかもしれない。触れてはいけないものに触れてしまった――そんな予感に、俺は早々と手を引っ込めた。


「……私が……アルサル様を……この、私が……」


 などと元勇者パーティーが益体もない話をしていたところ、それを他所にして、盛大に落ち込んでいる少女がいる。


 言うまでもなく、イゾリテだ。


 にわかには信じがたい話だろう。無理もない。ロールバックによって記憶は失われているだろうし、そもそも自爆した時の様子ではまともな精神状態だったとも思えない。


「……そう落ち込むなって。今はこうして〝なかったこと〟になったんだ。もう気にしなくても大丈夫なんだって」


 あまりの衝撃に地べたに座り込んでいるイゾリテに、俺はできるだけ声音を柔らかめにして慰めた。


 打ちひしがれているイゾリテはもちろん、当初はローチェアに腰を下ろしていた。だが、話がヘパイストスに手渡されたペンダントに及んだところ、椅子を蹴って立ち上がり、そこから今のように崩れ落ちてしまったのだ。


 ――正直、こういう姿を見たくなかったからこそ、話したくなかったのだが。


 そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。エムリスが口元に微笑を浮かべ、


「そう苦虫を噛み潰したような顔をするんじゃあないよ、アルサル。イゾリテ君は真面目で誠実な性格だ。後で知られるより、今ここで話しておいた方が間違いないのは確かだよ。往々(おうおう)にしてアルサルは隠し事が下手だからね。最悪の状況とタイミングでバレる可能性を考えれば、これが一番イゾリテ君のためになる」


 飄々(ひょうひょう)ともっともらしいことをのたまうエムリスを、俺はジトリと軽く睨む。


「俺の隠し事が全部バレること前提はやめろ。馬鹿にしてんのか」


「正直で嘘がつけない性格だと褒めてあげてるんじゃあないか、熱血勇者くん」


「それを馬鹿にしているっていうんだよ、根暗ねくら陰険いんけん魔道士」


 十年前の魔王討伐の旅の頃、口論から口喧嘩になった際に使っていた罵倒を互いに投げつけ合う。ニヤニヤ笑うエムリスと俺の間で視線がぶつかり合い、不可視の火花を散らした。


 と、その時だ。もぞり、とイゾリテが動いた。立ち上がる――のではなく、膝から崩れ落ちた状態からさらに体を丸め、まるでダンゴムシのごとくうずくまり、


「申し訳ありません……………………もはや謝罪の言葉もありません……………………」


 土下座だった。いや、土下座以上の何かだった。出来うる限り身を小さくし、額を地面に擦りつけての謝罪。


「やめろ、顔を上げろ、そんなことしなくていい」


 思わず声に険が出てしまうほどの勢いで制止する。だがイゾリテは頑として聞かない。


「いいえ、いいえ……私はもうアルサル様に顔向けができません……合わせる顔がありません……」


 淡々と、それでいて弱々しい声音でイゾリテは拒絶する。


「結果的に無傷だったとはいえ、矮小十把わいしょうじっぱの分際でアルサル様に刃向かい、ましてや傷つけようとしただなんて……」


 イゾリテの声が明確に震え出した。うずくまって体を丸めているせいで見えないが、どんな顔をしているのかなど容易に想像できる。


「エムリスはん、泣いてしもうたみたいやけど?」


「…………」


 事ここに至って、先程は『これが一番イゾリテ君のためになる』などと豪語していたエムリスも言葉を失った。流石にイゾリテがここまで消沈して歔欷きょきするとは、夢にも思わなかったのだろう。珍しく顔を蒼くして面食らっていた。


「……だから言いたくなかったんだけどな、俺は」


 あからさまに『しまった間違えた』みたいな表情を浮かべているエムリスに、俺は溜息交じりに、しかし低い声で告げる。


 途端、はっ、となったエムリスは慌てて、


「い、いや、いやいやいやいや! イゾリテ君ちょっと落ち着こうか! そうだ落ち着いて息を整えよう! ア、アルサルも言っていたじゃあないか、今はもう〝なかったこと〟になっていると! そうとも、君の行動は世界を想像した聖神の手によってキャンセルされ、実際的には未然に防がれたのさ! だから気にする必要なんてない! ああもうまったく! 起こってないことはつまり存在していないということ! 君は一切何もしていないんだよイゾリテ君!」


 宙に浮く大判の本に腰掛けたまま、子供のように丸まったイゾリテの周囲を飛び回りつつ、一生懸命慰めの言葉をかけまくる。相手が泣いた途端、掌を返して謝りまくる子供そのものだ。大人としてはかなり情けない姿である。


 だが、エムリスの必死の訴えにもイゾリテは耳を貸さない。雷の音に怯える小動物のように小さく縮こまって、小刻みに身を震わせるだけ。


 そこに、意外な声がかかった。


「泣かない方がいい。アルサルのことを思うのなら」


 シュラトだった。俺もエムリスも、さらにはニニーヴまでもが目を丸くして視線を集中させる。


 意外に過ぎたのだ。こういった場面で、シュラトがこのような発言をすることが。


「アルサルを大切に思うのなら、その心遣いを踏みつけてはいけない」


 朴念仁ぼくねんじん――この言葉を擬人化すればシュラトになる、と言ったのは誰だったか。かつてのシュラトは――いや、今も大概だが――本当に口数が少なく、細かいコミュニケーションなどとれた試しがなかった。


 だが、十年と言う時間は誰をも成長させる。まさかシュラトが俺をおもんぱったセリフを口にする日が来るとは。


「シュラト様……」


 あまりの意外性のせいか、さっきまで完全に自己閉鎖に陥っていたイゾリテが震えを止め、顔を上げていた。人語を話す動物でも見るかのような瞳を、真っすぐシュラトに向けて。


 ここでようやく、俺も我に返った。


「――そ、そうだぞイゾリテ、シュラトの言う通りだ」


 遅ればせシュラトのナイスフォローに気付いた俺は、これを最大限に活用させてもらうことにした。


 椅子から腰を上げ、イゾリテに歩み寄り、手を差し伸べる。


「確かにお前は聖神のクソ野郎に操られていた。その結果、俺に自爆特攻かまして消滅しちまった。だが俺はそれが我慢ならなくて、聖神の世界にまで殴り込みに行って、力尽くでお前を復活させた。俺【が】、お前を取り戻したくてやったんだ。その結果、こうしてせっかく戻って来れたってのに、もう合わす顔がないとか、顔向けできないとか、そんなさみしいこと言ってくれるなよ。な?」


 それじゃ頑張って取り戻した甲斐がない、と俺は笑う。


 いや冗談抜きでマジでそうなんだが。恩着せがましくならないよう、割と抑えた説明をこそしたが、実際問題、俺がやったことは奇跡の連発だったと言っても過言ではない。


 次元の壁を突破し、高位存在へと昇華し、さらには神にも等しい存在を傘下に置いてきた――このように表現すると、我ながら意味不明なぐらい凄まじいことをしてしまったな、と改めて思う。


 いや、うん、はっきり言おう。


 阿呆だ。


 もし俺以外の誰かからこんな話を聞かされたら、一発でホラ話だと決めつける。間違いない。それぐらい度し難い話だ。


 女子供一人の為に、世界を創造した神々に反旗を翻した挙句、勝利した――なんて話など。


「アルサル様……」


 唖然とした表情で俺を見上げるイゾリテ。思ったほど顔つきは崩れてなかったが、緑の瞳がウルウルしている。唇も引き結ばれ――ああ、いつだったか、こいつのこんな顔を見たことがある。あれは、初めて出会った時だっただろうか。セントミリドガルの場内で迷子になって、途方に暮れていたであろう時。


「――アルサル様……!」


 大抵のことではまず崩れないイゾリテの声音が、かなりの割合で崩壊した。表情筋が死んでいるのではと思うほど変化の少ない顔が、かつてないほどに歪む。目の端から、とうとう涙があふれだした。


 イゾリテが震える両手で、俺の手を握った。


 それ以上はもう言葉にならなかった。


 ――これ以上、幼い少女が号泣する姿を詳細に語るのは、流石に無粋の極みだろう。


 ましてや、大人四人がどうやってそれを慰めたのか、についても。


 よって、この話はここまで。


 これにて一件落着。


 それでいいじゃないか。


 だろ?





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