●43 無双
「な――!?」
凄まじい衝撃がアポロンの分身体を貫いた。
不可視の弾丸に胸の中央を撃ち抜かれたかのごとく。
「勇者、って……」
呟く声は芯から震え、掠れていた。
あり得ない。馬鹿な。ここに来られるはずがない。自分達にとっては通常空間だが、あちらにとっては上位の高次元だぞ。自力で次元の壁を越えたというのか。馬鹿な。あり得ない。馬鹿な。あり得ない。馬鹿な。あり得ない。馬鹿な。あり得ない。馬鹿な。あり得ない。馬鹿な。あり得ない。馬鹿な。あり得ない。馬鹿な。あり得ない。馬鹿な。あり得ない――
「――――」
あまりの衝撃にアポロンの思考がループに陥った。そのまま危うく分身体が停止しかけたところ、
「ふざけるのもいい加減にしろ、下郎め」
遠雷のごとき重低音がゼウスの喉から吐き出された。
途端、老爺の引き締まった体躯から得も言えぬ圧力が噴出する。
神威。
ヘラのように、高位の聖神だからこそ成せる【威圧】がこの場を支配する。
妻であり副主神であるヘラが近くにいる時は、過去のいきさつによる負い目もあって大人しくしているゼウスだが、その本質は元来〝雄々しき荒神〟だ。
いかにも〝敵〟然とした存在を前にすれば、このように高圧的かつ好戦的な顔を覗かせるのである。
「しゃ、主神……!」
かつてないほど頼もしい最高権力者の姿に、アポロンは感動を禁じ得なかった。
認めたくないが、こうなっては認めざるを得ない。自分は、突如現れた『銀穹の勇者アルサル』と名乗る存在に怖れを抱いている。もちろん自分だけでなく、円卓に列席するほとんどの者がそうだ。皆、判で押したように畏怖の表情を浮かべている。
当然だ。あってはならないことが現在進行形で起こっているのだから。
声の主の言葉が真実ならば――にわかには信じがたいが――、相手は箱庭から次元を超えて、さらには神社の各種セキュリティを突破してこの仮想空間へと侵入してきたことになる。
それがどれほど【とんでもないこと】なのか、理解していない者はいない。
そして、そんなことをしでかした相手の力は――まさしく【未知数】。
『はっ――』
ゼウスの強圧をしかし、声の主――勇者アルサルは鼻で笑ったようだった。
『下郎め、か。あのな、いちいち笑わせるなよ。腹がねじ切れたらどうしてくれるんだ。はははは』
脇でもくすぐられていたかのように笑っていた声が、次の瞬間、圧倒的な【威圧】を放った。
『 ぶっ殺すぞ 』
「「「――!?」」」
刹那、仮想空間そのものが震えた。
ヘラの怒りも、ゼウスの神威も、比べ物にならなかった。
会議用に作られた仮想空間――その〝核〟が大きく軋むのを、アポロンは確かに察知した。
その上で、気付く。
――まさか……今、手加減、した……のか……!?
声の主アルサルは、その気になればひと手間でこの仮想空間ごと自分たちの分身体をひねり潰すことができる。だが敢えてそれを避け、こちらを殺してしまわぬよう加減した――
何故か、それがわかってしまった。
直感的に。
それはおそらくアポロンだけではなかったのだろう。誰もが息を呑み、仮初めの呼吸を止めていた。
しん、議場が静まり返る中、思いのほか軽い口調でアルサルが続ける。
『ったく……誰が下郎だ、誰が。そういうお前は何様だっつー話だよ。そもそも、どこの誰様のおかげで今、俺がこんな所くんだりまで来る羽目になったと思ってやがるんだテメェは。あーん?』
くだを巻く酔っ払いにも似た絡み方に、妙な人間臭さがうかがえる。思ったほど威圧的な人物ではないのかもしれない――と思わせる擬態かもしれない、とアポロンは偏見を捨てられず、警戒度をむしろ高めていく。
『そうだよ、文句が言いたいのはこっちの方だっつー話なんだよな。お前らが勝手に召喚だの複製だのしてくれたおかげで、俺がどんだけ苦労したと思ってるんだ? それも、わざわざしなくてもいい苦労を』
文句、否、愚痴を無遠慮にこぼすアルサル。この声だけ聞いていると、取っつきやすい青年のようにも感じられる。それだけに先程から時折出る、深い怒りによる威圧が恐ろしい。まるで地雷原に放り込まれたかのような気分だ。
下手なことを言えば、アルサルが爆発するかもしれない――そんなヒリヒリとした焦燥感が、この場にいる聖神の間に蔓延していた。
だが、しかし。
ここは仮想空間で、自分達は仮初めの肉体であるアバターに身をやつしているが、基本はあくまで高次元。物質ではなく『情報』を基盤とした世界。そこでは言葉による対話――【セッション】を行わないことには何も始まらない。
「……か、確認したいんだが、君は……本当に〝勇者アルサル〟、なのかな……? その、うちの箱庭『セブンスヘヴン』――ああ、いや、名前を言ってもわからないかもしれないが……」
しどろもどろ、アポロンは質問を口にしていた。
アポロンも他の神々と同じく動揺こそしているが、思考回路の一部はいまだ冷静に稼働している。
この〝勇者アルサル〟が第三者の騙りである可能性――それを考慮したのだ。
『――ああ、なるほどな。いい質問だ。確かに名乗っただけじゃ信憑性は薄いよな。つか、むしろ名乗った段階で〝どこから来た〟のかを特定されたことを驚くべきか? なんだ、もしかしなくても俺が要求したロールバックについて議論していたとか何かか、これ?』
一体どこから様子をうかがっているのか。アルサルはまるでアポロン達が円卓を囲んでいる姿を見ているかのように話す。
『だが、その質問に答える意味あるか? お前らはどっちにせよ【俺の言う通りにするしかない】んだぜ?。俺が本物かどうかなんて大して意味ないだろ』
問答無用。その四文字を体現するように、アルサルは嘯いた。
頑として変わらない確固たる決意。
アルサルの声から、痛いほどに感じる。
『まぁいいさ。信じる信じないかはともかく、俺に出来るのは姿を現してやることぐらいだ。そら、【そっち】に行くからちょっと待ってろ』
一方的に言い放つと、ふ、と一瞬だけアルサルの気配が消えた気がした。
円卓の議場を圧していた重い空気が消え失せ、しかし。
「――あ、あああ、ああああああ……!?」
喉から得も言えぬ声を絞り出したのは、つい先刻まで大声で避難を呼びかけていたポセイドンだった。
それは絶望の呻き。
見るとポセイドンの表情はこれ以上なく歪み、蒼白に染まっている。目尻には涙が浮かび、唇はわなわなと震え、小刻みに震える歯がカタカタと微かに鳴っていた。
アポロンの耳の奥に、先程のポセイドンの叫びが蘇る。
――【来とる】! 【来とる】んやッ! 俺にはわかるんやっ! 【アイツ】の力なら何百回も喰らった! せやから気配でわかるんやっ! 【アイツが来とる】! もうそこまで【来とる】んやッ!!
「…………」
間違いない。ポセイドンの言う『アイツ』とは勇者アルサルを指していたのだ。今更になって理解できた。
おそらく、とうに手遅れなのだろうが。
視界の端に銀の輝き――そう気付いて視線を向ける。
「――?」
アポロンの錯覚でないことは、他の面々の動きからもわかった。円卓に並ぶ全員が、同じ方向へ顔を向けている。
宇宙空間を背景とする円卓会議の間。
その片隅に、小さな銀の光球が現れていた。
たった一つだった光の球はしかし、すぐその周囲に新たな仲間をいくつも生んだ。瞬く間に数を増やしていく光球は、さながら星々のごとく。やがて光球の群れはフワフワと動き出し、宙を躍り始めた。
グルグルとその場で回転し、加速し、収束し――
刹那、人の形を取った。
『――っと、こんな感じか?』
アルサルの声が響いた、次の瞬間。
銀の閃光が弾けたかと思うと、そこには一人の青年男性が佇んでいた。
黒髪、黒目、精悍な顔つき。およそ神社という場にはそぐわない粗雑な格好。妙に見覚えがあるのは、それが箱庭内でよく採用されている系統のデザインだからか。
「……勇者ユニット……?」
我知らず、アポロンはそう呟いていた。
実のところ、箱庭における英雄ユニットのデザインはある程度パターンが決まっている。世界を救う英雄とはいえ〝視聴者〟にとっては一種のキャラクターであり記号でしかないためだ。
勇者ユニットはどちらかと言えばバリエーションが多い方だが――逆に闘戦士は少ない――、それでも一定の傾向はある。
アポロンから見た勇者アルサルの出で立ちは、まさにそれだった。
ひどく俗な言い方をするなら――まるでゲームからそのまま出てきたかのような。それがアポロンの抱いた第一印象だった。
「――って、そうじゃなくて……ア、アバター……え、なんで……!?」
遅れて気付き、愕然とする。
そう、【ここ】は箱庭と同じ仮想空間。中に入るためには下界と同じ要領で、分身体に意識を宿さなければならない特殊な場所だ。
そして箱庭と【ここ】とでは、基盤となるシステムがまるで違う。
――わざわざ分身体をここまで持ってきた!? いや、そんな馬鹿な、あり得ない! できるはずがない!
アルサルに限らず、精神をアバターに宿す者としてアポロンもその手法を模索するが、手順のとっかかりすら思いつかない。まるで見当がつかない。常識的に考えて、分身体をシステムを超えて移動、もしくは複製することなど不可能なのだ。特に『イージス』によって守護されているオリュンポスのセキュリティは、そんな真似を絶対に許さない。
――な、なら……作った……のか!? 今この場で!? そんなどうやって!? い、いや、違う、そうじゃない、そもそも【なんでここにコイツがいるんだ】!?
永劫にも等しい時を生きる聖神でありながら、かつてないほどの混乱に叩き落とされるアポロン。頭の中が矛盾と理不尽で充満し、思考が千々(ちぢ)に乱れ、一向にまとまらない。
理解不能。あり得ないはずのことが起こっている。異常事態。
冷徹犀利を旨とするアポロンの思考も、この時ばかりは盛大に空転していた。
「んー? あ、あー? あーあーあー? テステス」
一方、暢気にもアルサルは喉を鳴らしながら体を動かし、分身体の出来を確認している。
「よっ、はっ、ほっ、ふんっ」
準備運動のように腰を捻り、関節の各部を曲げたり伸ばしたり、頭を巡らせて周囲の様子を観察する。
ひとくさり確認動作を済ませると、
「あ、うん。――よし」
頷きを一つ。
人差し指を伸ばした右手を掲げ、クイクイ、と指招きする。
「いいぞ、文句のある奴はかかってこい」
自信満々に壮語して、不敵に笑ったのだった。
■
結論から言うと、俺は満を持して敵の本丸へと乗り込んだ。
正々堂々、真正面から。
まぁ、本当にここが【本丸】なのかどうかは実際問題、わからないわけだが。
しかし、俺の超感覚が告げている。
この場にいる聖神達こそが、俺のいた箱庭とやらを運営している神社の幹部に違いない――と。
何故って? どいつもこいつもキラキラと輝く後光が差しているからだ。それも目に痛いぐらいの眩さで。これこそ、俺の超感覚がこいつらを重要人物だと認識している証左に他ならない。
「――ん? どうした? 誰もかかってこないのか?」
挑発したにも関わらず微動だにしない聖神らに、俺は首を傾げた。
時間の概念がないせいで具体的な数字こそ出せないが、それでも主観的に俺がこの高次元に来てから結構経つ。おかげで大分馴染んだし、かなり順応した。
知っての通り、俺は『情報』だけで構成されたこの次元の、あらゆる要素を読み込むことによって、意識下および無意識下で世界を理解しつつある。
そのため――変な言い方になってしまうが――俺は【既に全てを知っている】が、同時にそのことに気付いていない状態にあるのだ。
逆に言えば、俺は全知であることに自覚のない神、ということになる。我ながらおかしな話だが、とにかく今はそういうことになっているのだから仕方がない。
「――そもそもお前は何をしに来た、下郎。疾く答えよ」
十八人――人、という数え方でいいのかどうかはわからんが――いる幹部連中の中で、一際眩い後光を背負った爺さんが、またしても俺を下郎呼ばわりする。
老人にしてはデカい体躯をどっしりと椅子に据えていて、見るからに偉そうだ。
多分、こいつがトップだな。
そう値踏みしつつ、俺は右手に意識を集中させ、銀剣を形成。
下から上へ、軽く一振り。
この場の中央に座している豪勢な円卓をぶった切る。もちろん、上に浮いている大きな鳥かごと、幹部連中を上手く避けた軌道で。
銀光が奔った一瞬後、中央からやや右寄りを切り裂かれた円卓が、重苦しい音を立てて二つに分かたれた。
いきなりの破壊に聖神らが凝然とする中、俺は笑顔を浮かべ、明るい声で言う。
「――ん? げ……何だって? よく聞こえなかったな。もう一度言ってくれよ。疾く、な」
せっかく『銀穹の勇者アルサル』と名乗ったにも関わらず、頑なに下郎呼びを続けた爺さんに、俺は露骨な皮肉を投げてやった。
というか、このジジイ、誰かに似ているなと思ったらセントミリドガル国王だったオグカーバに雰囲気がそっくりではないか。
道理で初対面にも関わらず妙に気に食わないわけである。まぁ、俺にとって聖神という存在がそもそもからして〝敵〟だということもあるのだろうが。
「――つうか、何をしに来たもクソもあるかよ。言っただろ? お前らをぶん殴りにきた、って。話聞いてたか? それとも聞いてもわからないぐらい知能が低いのか? 耄碌してんなー、ったくこれだからジジイはよ」
自分で喋っていて気付かざるを得ないが、今俺の中ですごい勢いで〝傲慢〟が活性化している。いや、〝傲慢〟だけではない。〝残虐〟や〝憤怒〟、ついでに〝嫉妬〟も元気になっているらしい。いや仕事しろよ〝怠惰〟。お前だけがカウンター勢だぞ。マジ怠惰だなこの野郎。まぁ野郎かどうかは知らないが。
「――ああああああああ!? ぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……!?」
「お、おお……? なんだなんだ?」
唐突に上がった悲痛な悲鳴に、思わず間抜けな感じで驚いてしまった。
叫び声の発生源は、さっきまで円卓だった残骸の上に浮いている大きな鳥かご。
――つか、なんで鳥かご? しかも、こんなにでかいやつ?
とか思うが、ここは俺がいたところより上位の次元である。何というかこう、よくわからないルールがしきたりがあるのだろう、多分。郷に入っては郷に従え、という。まぁ、細かいことはあまり気にしないでいこう。
「……なんだ、お前か」
鳥かごの【中身】に視線を移して、あっさり得心した。
誰あろう、ネプトゥーヌスこと聖神ポセイドンだったのだ。
箱庭――自分がいた世界をそう呼ぶのには若干の抵抗があるが――で見た時と同じ面をしているので、すぐにわかった。まぁ、〝あちら〟で見た時よりもさらにひどい顔付きで、憔悴が進んでいるようだったが。
「――ひぃいぃぃっ!?」
俺の視線に気付いたのか、ポセイドン――〝こっち〟だから聖神の名前で呼んだ方がいいよな?――は肉食獣に気付いた草食動物のように全身を跳ねさせ、怯えの声を上げる。拘束服らしき格好で体の自由を奪われているが、尻餅をつき、そのまま芋虫じみた動きで後ずさり、鳥かごの奥へ奥へと退いていった。
それを見た瞬間、俺の脳裏に理解の光が閃く。
「――へぇ、なるほど。俺の【怖さ】を一生懸命、他の奴らに喧伝してくれてたんだな。結構なことじゃねぇか」
へっ、と小馬鹿にした笑みを浮かべてしまうが、これは〝傲慢〟のせいだ。どういうわけか、ここに来て妙に八悪の因子が疼きやがる。それでいて違和感というか、拒否感があまりない。
――今まで以上に馴染んできてる、ってのか? 俺の心と一体化しつつあるから、嫌悪感が薄まってきてるとか、そういう……?
そう考えて背筋に嫌なものが走るが、今はそんなことを考えている場合ではない。とにかく不穏な想像は頭の片隅に押し込んで、現状を優先する。
俺は、固唾を呑んでこっちを見つめてくる聖神らを眺めやり、告げた。
「よし、【理解したぞ】」
左手の人差し指で自分の側頭部をトントンと叩き、エムリスじみた不敵な笑みを浮かべる。
ここまでのやりとりで、読み込んだ『情報』の整理が完了した。
そう、つまり――今の俺は、【ここで行われた会議の内容をすべて把握している】、ということだ。
「ここで俺の要望を受け容れるかどうか議論していたんだよな? 素直にロールバックするか、それともしばらく様子見するか、って。しかしお前らも暢気だよな。いや、上位存在であるが故の自然な高慢か? まぁ最終的には『箱庭の消去』とかいう究極の手段もあるもんな。余裕綽々(しゃくしゃく)ってもんだろうさ。そこのポセイドンとは違って、脊髄がひりつくような危機感なんて感じたりしないよな、そりゃ」
頭の中に入ってきた会議の内容をもとに、俺は煽るように笑ってみせる。
すると、聖神らの表情がさらに強く強張った。何故それを――とほぼ全員の顔が言っている。
――おっと、この反応……ってことは、周囲の『情報』を連鎖的に読み込んで次元そのものを理解するという技能は、ここにいる聖神達は有していないのか?
自覚はなかったが、あちらの反応を見るに俺がやっていることは常識外のことらしい。それとも、別に驚く理由があるのか? ちょっとそこまで『情報』が読み込めていないが。
とはいえ、それはそれで都合がいい。要はカンニングし放題ということだ。あちらにはできない芸当が、こちらには出来る。俺の方があいつらより高次元に適応できている、ということなのだから。
「――その分身体を一体どこで、どうやって手に入れた……? 何が目的だ……? ……勇者アルサル」
見るからに偏屈頑固ジジイが、訝しげに目を細め、問うてくる。先程と比べてかなり勢いが弱い上、俺の名をちゃんと呼ぶ始末だ。
――罅が入ったな、心に。
言うまでもなく、さっきの円卓を切り裂くパフォーマンスが功を奏したのだろう。あのジジイを含め、自分自身を切り裂かれるイメージを抱いてしまったに違いない。それで臆したのだ。
無論、俺と同じでここにある肉体は仮初めなのだろうが。
それでもなお怯えの感情を抱いたということは――大きい。
ここは『情報』だけが存在する、精神世界。
心が怯えたということは――魂の火が弱まったということ。
まさしく、精神的に俺の風下に立ったということだ。
「へぇ、これアバターって呼ぶのか。まぁ確かに語源からするとお前らが使ってこそ、だよな。実際にどうかは知らないが、一応は神を名乗っているんだから。いや語源と言っても、俺が知っている世界での話なんだが」
アバターとは、とある言語で『神の化身』を意味するアヴァターラから派生した単語だという。要は天にいる神が地上で活動するための仮の器――分身という意味だ。
ジジイが怪訝そうにするのも無理はない。何故ならこいつは――
「【奪った】だけだぜ。お前らのお仲間から、な」
俺は傲然と顎を上げて告げた。聖神達を見下すように。
「確か……デメテル、とか言ったか? ここに来る途中、一際強い光――つってもわからないよな。まぁ、気配のデカい奴を見つけてな。そいつと接触して、軽く話をして――それから【強奪】させてもらった。そいつの力ごと、な」
この仮想空間へ介入する前、俺は自力で構築した宇宙空間にいた。いや、いると錯覚するよう自己暗示をかけ、この高次元を渡ってきた。
そして魂が高次元に馴染むにつれ世界の解像度が増し、あらゆるものへの理解が深まった結果、俺はとある聖神のもとへと辿り着いた。
そこにいたのが聖神デメテルである。
ここ――会議場か?――の次に強く大きな光を放っていたそいつと接触し、いくらか会話をしたところ、
『降参します。何でもしますので拷問だけはご勘弁ください』
即断即決で、女神は白旗を上げた。どうやら非常に賢く、目敏く、気風のいい聖神だったらしい。
正直、この俺が驚いたほどだ。こんなにも潔く、かつエグい決断力を持つ奴を、俺は三人の仲間以外に知らない。
まぁ、エムリスにせよ、シュラトにせよ、ニニーヴにせよ、どいつもこいつも頭のネジが外れすぎだろって話なのだが。
とはいえ、降参したから許します、とは当然ならない。俺は基本、イゾリテを奪われて怒り心頭なのだ。ついでに言えば、この神社とやらに乗り込んだ時点で大いに暴れ回っているのである。
今更、情けをかける理由もない。
というわけで、容赦はしなかった。
俺の『情報』の読み込みによる理解から、聖神デメテルが高次元における非常に優秀な技術者だということは、既にわかっていた。その力が俺にとって有益なことも。
だから俺の中に宿る〝強欲〟をもって、その力と技術の粋である『概念』を奪い取らせてもらった。
奪ったものの中にはいわゆる『アバター生成』という能力だか技術だかがあり、それをいい感じに活用させてもらった結果、俺は己の分身を自由に作れるようになった。
というわけで、俺は自作――というか意識を向けただけで勝手に出来た――アバターを用いて、この仮想空間へと侵入してきたわけである。
「……う、奪った? え……? 何それ、どういう意味……? 奪える……? 奪えるものなの……? デメテルさんのアバター生成技術を……? え、それどんな理屈……?」
ジジイの次ぐらいに強い後光を持つ聖神が、唖然とした顔で俺を指差しつつ、独り言のように言葉を紡ぐ。まるで理解不能だ、と言わんばかりに首を傾げており、その姿はやや滑稽だ。
だがまぁ、さもありなん、としか言いようがない。
おそらくだが、俺はこの高次元にまで来てなお、八悪の因子の影響によって『規格外』へと変容しつつあるのだ。こっちの常識はからきし知らないが、相手の反応を見ていればすぐにわかる。
俺が当たり前のように出来ていることが、聖神らには出来ない。というか、考えもしなかった、という感じだ。
――ま、八悪の因子も実体のない『概念』だもんな。下手すりゃ、あっちの世界よりもよっぽど効果的に発動している可能性まであるか……
まっとうなやり方では殺せない魔王を、それでも殺してのけた力の源が〝八悪〟だ。
エムリスが独自の手法で上位次元から呼び込んだ力だと聞いてはいたが、ここに来て初めて、心の底からそういうものなのだと実感できたかもしれない。
俺は頭に疑問符の花畑を咲かせる、オレンジ髪の聖神に笑いかけてやる。
「細かいことを説明する義理はないだろ? というか、俺達そういう関係じゃないもんな? わかっているとは思うが、念のため宣言しておくぞ。俺はお前らの【敵】だ。お前らは俺の【敵】だ。それだけわかれば充分だよな?」
こんなことを話している間にも俺の『理解』は進み、既に頑固ジジイがこの神社の主神のゼウスであり、オレンジ髪が専務のアポロンだということがわかっている。
ついでに言うと、俺がさっき円卓を切り裂いたせいで無様に床で転がる羽目となった女神が、副主神のヘラだということも。なんか会議中にハッスルしすぎてアバターがおかしくなったらしい。読み込んだ会議のログによると、まぁ、まともに動ける状態だったらかなり鬱陶しいタイプだったようなので、そいつが再起不能に陥っているのは割と都合がいいわけだが。
「というわけで、そろそろ本題に戻ろうじゃねぇか。――【どうする】?」
俺は端的に尋ねた。
既にお互いの事情はわかっているはず。
その上で俺は、俺の要求を貫徹する。絶対に引かない。不退転の決意を視線に込め、二つに割れた円卓を囲む聖神らを見やる。
素直にロールバックするのか?
それとも断って俺とやり合うのか?
俺はこの二択を投げかけたのだ。
――まぁ、どうしたって荒事にはなるんだろうけどな。
ぶっちゃけ、内心ではそう高をくくっている。
言わずもがな、いくら何でも俺は暴れすぎで、傍若無人に振る舞いすぎた。こっちの常識は知らないが、普通に考えて許されるわけがない。そも、俺はついさっき敵対者であることを公言したばかりだ。
十中八九、選択は後者になるだろう。
どうあれ一度は激突し合わねばならない運命だ。この問いかけは所詮、その手続きの一つに過ぎない。
表情を探ると、主神のゼウスは俺の顔を睨みつけたまま不動。
専務のアポロンは戸惑いを顔に出しつつ、しかしその目は冷静に何事かを思案しているようだ。というか、あいつ、多分この中で一番フラットな思考を持っているようだな。どこか、こっちに有利に働きそうな【匂い】を感じる。
その他、機能停止しているヘラを除けば、どいつもこいつもただ怯えて硬直しているだけ。もちろん聖神で、かつ幹部だけあって相応の力は有しているようだが、どうにも役立たずの気配しかしない。
中でも一番の役立たずは中央に浮かんだ鳥かごのポセイドンか。前に据えてやったお灸がよほど効いたらしい。俺から一番離れた位置――つまりは鳥かごの最奥でダンゴムシよろしく身を丸め、ガタガタと震えている。
そういえば鳥かごにはもう一人――いや、神だから一柱か? どうでもいいが――、聖神が囚われているようだ。
――と、ここで『情報』が流れ込んで来た。詳しいプロフィールが頭の中に広がる。
もう一人の名は――【聖神ヘパイストス】。
またの名を――宮廷聖術士【ボルガン】。
イゾリテが消滅したことだけではなく、全ての【元凶】――
「 【お前か】 」
刹那、俺の中で怒りの炎が猛然と燃え上がった。
火山の噴火など目ではない。この一瞬の激動だけで銀河系の一つや二つを蒸発させてしまいかねないほど、瞬発力のある憤怒だった。
溢れる激情はそのまま力となり、アバターから放射された。
次の瞬間、宇宙空間を背景とした仮想空間に、しかし無数の亀裂が走る。俺の圧力に耐えかねて、仮想空間が崩壊する兆しを見せたのだ。
おっと、いかんいかん。ここで暴走して何もかも滅茶苦茶にするのは簡単だ。しかし、俺はどうあってもこいつらから『ロールバックする、いや、させてください』という言葉を引き出さねばならないのだ。
イゾリテを取り戻すために。
だが――
「 おい お前ら よく聞けよ 」
俺は力を込めた声で重く強く告げる。
鳥かごを指差し、全ての感情がない交ぜになったからこその無表情で。
「 俺は絶対に そいつだけは許さない 絶対にだ 」
いや、指差しているのは鳥かごではない。その中で、怯えるポセイドンの手前にゴミのように転がっている、そいつ。
「 聖神ヘパイストス ボルガンとか名乗って好き勝手してくれたクソ野郎 」
はっきりと名を読み上げる。何の誤解もないように。何の間違いもないように。
「 そいつだけは地獄に落とす 誰にも邪魔はさせない 邪魔をする奴は一緒に地獄に落としてやる 覚悟しろ 」
ただただ一方的に言い放ち、俺は不動の決定を伝えた。
そうとも。許せるはずがない。
もはや、何のつもりで、何を考えて――なんてことはどうでもいい。関係ない。知ったことか。あいつの事情や思想や動機など。
ただ一つ。奴は、やってはならないことをやった。
やり過ぎた。
許容できる範囲はとうに超えている。俺の広い心はとっくに飽和している。
俺の十年にわたる安寧が破壊され、国外追放された、あの瞬間から。
あの時から、全てが崩れ始めたのだ。
そこから、あらゆるものが連鎖して繋がり、複雑に絡まり――そして現在がある。
その始点こそが、他ならぬあの男神――ヘパイストスなのだ。
ポセイドンやアテナですら心が折れるほどブチのめしてやった。
なればこそ、ヘパイストスはどうしてやろうか。
いや、詳しくは語るまい。やることは決まっている。後はもう、やってみせるだけだ。
「……よし」
言いたいことを言ってやったおかげか、多少なりとも気が落ち着いた。俺はいったん肩の力を抜き、呼吸を整え、
「というわけで俺の要求は二つだ。箱庭をロールバックしてイゾリテが生きていた時間帯に戻せ。あと、ヘパイストスの身柄をよこせ。以上だ」
少しとは言え気を緩ませたせいか、全身から放たれていた威圧も収まる。
すると、何もない空中に走った亀裂がゆっくりと、しかし確実に修復され、消えていく。
どうやら仮想空間そのものに自己修復機能があるようだ。流石は聖神謹製の技術、といったところか。まぁ、こんな風に空間を作成して成立させる技術など、その内訳がとんと理解できないのだが。あるいは、エムリスやニニーヴにならわかるのだろうか。
「…………」
しばし黙して聖神側の答えを待つが、奴らは何も言わないどころか、相談すら始めようとしない。こっちを見つめたまま立ち尽くし、まるで動こうとしない。もしかしてお互いに念話でもしているのかと思えば、どうにもそんな気配もない。
――もしかして戦闘経験とかなくて、マジで茫然自失してんのか……?
考えてもみれば、こいつらは人間ではなく、その上位たる神を名乗る輩だ。しかも、高次元は『情報』だけで構成された世界。物理法則がないだけに、俺達の次元でやるような諍いはまずないのだろう。うん、というか、ない。いま理解った。
「――チッ、まぁここじゃ時間の概念も存在しないみたいだから別にいいんだけどな。けど、それなりに気が立ってるんだ。あまり待たせるなら……」
俺は右手に意識を集中。すると掌から銀光が溢れ、先程の想像宇宙でも振るっていた星剣を現出させる。
しっかと柄を掴み、
「……問答無用で暴れるぞ?」
刃ではなく、脅し文句を突き付ける。
余談だが、本来〝星剣レイディアント・シルバー〟は俺の心臓を鞘とした勇者の剣である。そのため従来なら心臓から引き抜く手順が必要なのだが、どうもここでは簡単に省略できるらしい。俺がすごくなったのか、この次元が凄まじいのか、あるいはその双方か。
この次元について俺の無意識はそれなりに理解をしているようだが、主要人格にして有意識たる『俺』にとっては、何が何だかよくわからなかったりする。とにかくこれまでの常識を超えたとんでもない世界だ、ということぐらいしか。
実際に、今も。
『 』
無言の圧。
そうとしか言いようのないものが突如、この場に出現した。
「――!」
俺をして初と言わざるを得ない、凄まじい気配。
あるいは、かつて戦った魔王エイザソースを彷彿とさせる――否、それすら凌駕する勢いの重圧。
とはいえ今の俺にとっては、もはやあの魔王すら片手で葬れる程度の存在でしかないわけだが。
「ヘ、ヘラ副主神……!?」
聖神らが揃っておとがいを上げ、頭上へ視線を向ける。
――ヘラ副主神? そいつはお前らの足元に転がってるんじゃないか?
とか思った瞬間、無意識から『情報』が伝わって理解が進む。
――なるほど、【本体】か。
今、女神ヘラの本質――つまりは〝魂〟はここにない。ガラクタとなったアバターを抜け、仮想空間の〝外〟にいる。
そう、〝膜〟に包まれた『情報』の状態にあるのだ。先程の俺の想像宇宙でなら、一際強く輝く恒星のように見えるだろうか。
そんなヘラが、アバターを介してでしか干渉できないはずの仮想の会議室に、規格外の圧力をかけている。
『 ――ぇぇぇぇぇぇぇ……! 』
重圧から、やがて声が響き始めた。
なんとアバターなしで仮想空間に働きかけるどころか、声を届けだしたのである。
人間とは当然比べものにならず、聖神としてもかなり馬鹿げた力だ。この俺ですら、わざわざ女神デメテルの力を流用してアバターを作り上げ、この仮想空間に侵入しているというのに。
「――落ち着け、ヘラ! 無茶をするな!」
大声を上げて席を立ったのは、意外にも主神のゼウスだった。
頭上――すなわちヘラの重厚な気配のする方へ顔を向け、必死に叫ぶ。
「下手をすればこの空間が壊れるぞ愚か者め! その際お前にもダメージがフィードバックされてしまう! 最悪、【空間崩壊】が起こるぞ! やめろ!!」
終始テンション低めだったジジイが、ここまで声を荒げて制止するだなんてな。ここで行われた会議の『情報』を読み込んでそれなりに理解している俺ですら、そこそこ意外に思う。
ああ見えてゼウスとヘラは夫婦だという。それを思えば、どう見ても真っ向から対立しあって互いに憎しみ合っている二柱だが、それでもどこかに愛が残っていたのか――なんて思考が頭の片隅をよぎったりもする。
――ああ、いや、それだけってわけでもないな?
遅れて理解したが、この仮想空間が破壊されると、中のアバターもついでに崩壊し、聖神らの本体にかなりのダメージがいくようだ。
なるほど、それで必死になっているというわけか。
というか、アバター自体は空間そのものと紐づいていて、通常の攻撃では破壊できない。
それは俺がポセイドンとアテナのアバターを滅多打ちにしても砕けなかったことで実証されている。
だが――【空間ごとなら】、どうやら『スーパーアカウント』なるアバターをも破壊可能らしい。
――なるほど、こいつはいいことを知った。
とはいえ、俺もここでこうしてアバターに宿っているわけで、いま空間ごと破壊されれば、相応のダメージを受けてしまうわけだが。
だが――何となくではあるが――なんか大丈夫な気がする。うん、俺だけは問題ないはずだ。多分。おそらく。
何と言っても、今の〝規格外〟な状態にある俺がそう思うのだ。ほぼ確実に大丈夫なはずだ。ちゃんとした根拠はまったくないが。
などと、頭の片隅でつらつらと考えながら様子を見ていると、
『 ――ぇぇぇぇぇぇえええええええエエエエエェ! 』
ヘラの声――むしろ怨念とでもいうべきか?――が、むしろ一気に強まった。
ゼウスの制止がで収まるどころか、逆に火に油を注いだかのごとく。
刹那、頭上に黒紫の輝きが生まれ、眩く煌めく。
見上げると、そこには〝ドブになる一歩手前の紫〟としか言いようがない色の、光の塊があった。
さながら、この宇宙空間の会議室へ忽然と乱入してきた凶星、といった風体で。
俺はその光景をざっと見て、すぐ事態を理解する。
「……ああ、なるほどな。【アバターなしで突っ込んできやがった】、ってわけか。無茶が好きなババアだな」
通常、いわゆる――聖神から見れば――低次元の世界で活動するためには、そこに対応した分身体が必要となる。
言ってしまえば、俺が〝あっち〟――即ち聖神らの言うところの箱庭『セブンスヘヴン』に置いてきた肉体すら、アバターの一種だと言えよう。大抵の奴にとってはそれが唯一無二の『魂の器』であり、他に替わりがないから『分身体』などと呼称しないだけで。
だというのに聖神ヘラは、力尽くでそのルールを無視し、アバターもなしに仮想空間へ干渉しようと【ゴリ押し】しているのだ。
それは言うなれば、人間が宇宙服もなしに宇宙空間へ出たり、全裸で深海に潜ったりするような、極めつけの愚行である。
でたらめにも程があった。
ま、俺に言えた義理ではないが。
『 ェエェエェエェ テンンンンンメメェエェエェエェエェェェェェェ! 』
ここにきて初めて、ヘラの声が意味のある言葉を放った。
と言っても、この場に満ちる威圧から、無茶無謀極まる女神の意思などとっくにわかってはいたが。
『 ブブブブッッッココココオオオロロロロロゥゥゥゥゥススススァァァァァオオオオオオオオアアアアアアアアア!! 』
要は『テメェ、ぶっ殺してやる』と言っているのだ。
俺に向かって。
ははは、と思わず笑ってしまってから、俺は頭上のグロい色に輝く光体に向かって毒づく。
「大した執念だよ、ババア。さっきのお前の醜態も【読み取らせてもらった】けどな、よっぽど俺みたいな下位存在が大嫌いみたいだな? その下位存在のおかげで、娯楽ポイントとやらをガッポリ稼いでるくせに。お前この仕事、向いてないんじゃないか?」
ヘラがこのような滅茶苦茶をする理由はただ一つ。
俺が聖神デメテルから力を奪い、再起不能にしたからだ。
本来ならヘラは、デメテルの手によってアバターを修復し、とうに議場へ復帰しているはずだった。
しかし俺の介入によって、その流れが断ち切られてしまったのだ。
故に、まっとうな形でこの仮想空間に戻ってくることが、ヘラには出来なかったのである。
『 ァァァァァオオオオオオオオアアアアアアアアア■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!! 』
俺の挑発がよほど堪えたらしい。
ヘラの怨嗟の声はやがて声ですらなくなり、甲高い駆動音じみたものへと変化した。
堪忍袋の緒が勢いよくぶっちぎれたようだ。
次の瞬間、気持ち悪く明滅する光体が、うねり、たわみ、形を変えていく。
ただの光の球体だったものが、やがて人にも似た形状へと変化した。
だが、そのサイズが尋常ではない。明らかに普通の十倍以上はある。特に手足が異常に長く、他と比して針金のように細い。どう見たって【まっとう】な体つきではない。
そう、頭上に顕現したのは――女神とは到底呼べぬ、雌型の異形であった。
「ヘラ……!?」「ふ、副主神っ!?」「な、なんてことを……!?」「し、信じられない……」「お、おいおいおいおい……!」「ちょっ、まっ、はっ!? ええっ!?」
あまりのことにゼウスを始め、さっきまで唖然としていた聖神らもめいめいに反応を示した。俺が読み取った『情報』からすると、ヘラが破天荒な行動をするのは毎度のことらしいのだが、流石にこれほどともなると、聖神らも驚きを禁じ得ないらしい。
もちろん俺は落ち着き払うどころか、ふてぶてしさをもって中空に浮かぶ異形を眺めている。
――アンデッド系の魔物にこういう感じなのが、なんかいたよな……
なんて感想を抱いてしまうほど、ヘラの姿は醜いものだった。
高次元から下位空間への無理矢理すぎる干渉のためだろう。どうにかアバターに近い形を取ろうとしているようだが、何もかもが間に合っていない。
骨組みはある。むしろ、骨しかない、と言うべきか。つまりは骨格というか、骸骨というか。スケルトンというか、ゴーストというか。そんな感じの状態だ。しかも腰から下がない、上半身だけの。
言わんこっちゃない。
アバターと同じく骨に肉をつけて実体化しようとしているのだろうが、間に合うわけもなく。器もないのに、水をその場に固定化させることなどできるだろうか。何もない空間に、水蒸気をそのまま止め置くことなどできるだろうか。そんなことを考えるのは愚考であり、実行するのは愚行でしかない。
要するに、肉を形成するより速く注ぎ込んだ力が散逸しているため、上半身の骨組みだけしか作れていないわけだ。しかも最大限に力を注いだ上で、それだけしか維持できていない。超高速で傷の再生をしながら太陽へ突っ込んでいるようなものだ。どう考えても力の無駄遣い、その極致である。
『 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――!!!! 』
ここまでくるともはや神というより魔物、もしくは怪物の類いとしか言いようがない。
いや、このジェットエンジンの駆動音じみた咆哮はどこか聖竜アルファードを彷彿とさせる。考えようによっては、聖神らしい、とも言えるだろうか。
「はっ、まぁその根性だけは買ってやるけどな」
俺は鼻で笑うと、右手に握った星剣の柄を無造作に肩に乗せ、緩く構えた。
ヘラが、動く。
完全な形での顕現を諦めたのだろう。巨大な人骨が、異様に長い両腕を大上段に振り上げる。どう見ても俺を叩き潰さんとする動きだ。単調な攻撃だが、いくら骨だけとは言えサイズがサイズだけに、大木のような骨に圧殺される可能性は十分ある。
が――
「……遅すぎるけどな」
当たり前だ。無理を通せば道理が引っ込むなどと言うが、口にするほど簡単ではない。ただでさえアバターなしで強引に顕現しているというのに、そこからさらに攻撃動作ときた。骨に肉を纏わせることすらできないのに、どうしてそんな真似ができると思ったのか。
『 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――!!!! 』
巨人の成れ果てにも似た骸骨が吠え、勢いよく両腕を振り下ろそうとする。この場に大した重力はないはずだが、それでも加速して叩きつければ結構な威力になるだろう。
故に、速度が乗る前に斬った。
星剣の柄から銀色の輝光が勢いよく噴出し、刃となる。
横薙ぎに一閃。
断。
あっけない。振り上げた腕の骨はろくな抵抗もなく切断され、肘から先が宙を舞う。骨格のどこかにあるであろう〝核〟から離れた部位は、そのまま大気に溶けるようにして消失した。
『 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――!? 』
悲鳴、だろうか。機械音じみた声の中に、わずかながら悲哀が混ざっていた気がする。
「というか、ふざけてんのか? アバターもなしに仮想空間に突っ込んできた根性だけは認めてやるが、それで俺に勝てると本気で思ってるんなら、かなりの馬鹿だぞ」
こちらを侮るにしても限度がある。それほどまでに俺を――いや、箱庭に生きる者達を、矮小な存在だと思っているのか。
とはいえ、聖神ヘラのことだ。頭に血が上りすぎて理性を失い、ただ衝動的に行動しているだけの可能性が大だが。一体どのあたりが女神だというのか。ただの猪突バカではないか。
「――勇者を舐めるなよ?」
ちょっと頭に来た。それなりに本気を出す。
まず意識をこの仮想空間全体へと波及させ、情報強度を上げた。こうして補強しておかねば俺の斬撃に耐えきれず、ヘラどころか空間そのものが崩壊してしまうのだ。先程ゼウスが言っていたように。
別段、他の奴らを慮ってのことではない。こいつらに箱庭のロールバックをさせるという重要なミッションが、まだ残っているだけのこと。
そして既にこの高次元の大半を『理解』し、聖神デメテル以外からも無数の『情報』を読み込んで力を得ている『規格外』の俺にとって、仮想空間の強度を高めるなど造作もなかった。
「勇み、奮え、猛り狂え、〝コルネフォロス〟」
星の権能を召喚――と言いたいところだが、ここは厳密に言えば俺がいた箱庭世界ではなく、さらに言えば宇宙空間でもない。そう見せかけているだけの仮想空間だ。
故に、星の権能の力は俺の【内側】から生まれる。正確には俺の精神――魂からなわけだが、この場においてはアバターの心臓から、その輝きは現出した。
心臓から発した輝きは腕を伝い、振り上げた星剣へと流れ込む。
刹那、星剣の柄の先端から極太の銀光が噴き上がった。既に形成されていた光刃を飲み込み、さらに太く、太く、太く――
一瞬の後、剣と呼ぶにはあまりにも太すぎる銀光の塊が、そこにはあった。
むべなるかな。俺が呼び出した〝コルネフォロス〟の権能は、見ての通り棍棒を司る。
知っているだろうか? 女神ヘラの名を冠した伝説の英雄を。『ヘラの栄光』という名を授けられた怪力無双、その得物の一つこそが棍棒であることを。
もちろん、承知の上での皮肉だ。このクソ女神を叩き潰すのに、これ以上の星はないと敢えて判断した。
『 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――!! 』
両腕を失い、余波で今にも原子分解してしまいそうな巨大人骨が、それでもなお憎悪の咆吼を迸らせる。
よっぽど俺のことが気に喰わないらしい。何を言っているのかさっぱりわからないが、しかしそこに込められた激情だけはしっかり伝わってくる。
許さない。潰してやる。グチャグチャにしてやる。泣き叫ばせてやる。後悔させてやる。跪いて額を地面に擦りつけさせてやる。心を完膚なきまでに折ってやる。無間地獄に落としてやる――
やはり、およそ女神とは思えないドス黒い情念だけが、肌を焼くような重圧となって押し寄せてくる。
まるで例のピアスに操られたジオコーザやヴァルドル将軍、アルファドラグーンのモルガナ妃を見ているかのようだ。
やれやれ、どうしてどいつもこいつも、俺に対してこういった火力強めの悪感情を向けるのやら。そんなに悪いことをしたか、俺? これでも一応、世界を救った勇者なんだが。
だが、暴走状態にあった頃のジオコーザ達と酷似しているというのなら、ついでに当時の鬱憤を晴らさせてもらおうではないか。
俺の中の〝強欲〟が大きく脈打つ。既に活性化していた〝傲慢〟が呼応し、連鎖を呼ぶ。次いで〝残虐〟、〝憤怒〟が活性化し、さらには〝暴食〟と〝色欲〟までもが準備運動を始め、しかし〝怠惰〟がどうにか〝嫉妬〟を抑制する。
いやバランス悪いな、我ながら。もう何が何だか訳が分からないぐらい無茶苦茶だ。
だけど、それでいい。
このグチャグチャしたものを、そのまま叩きつけてやる――!
「 くたばれ 」
刹那、怒りが昂りすぎて、いっそ冷たく言い放っていた。
まっとうな型もなく、ただ力任せに星剣を振り下ろす。
刀身の形状は、切っ先へ向かうほど緩やかに太さを増していく棍棒型。切っ先、とは言ったがもちろんそんなものは存在しない。一番端は丸まり、ただ殴り潰すためだけの形と化している。
銀光の巨塊が残閃を描き、猛然と走る。まるで刀身が大きくしなり、鞭になったかのよう。鍔際に遅れて、先端が追いかけるように落下する。
炸裂。
思った以上に手ごたえはなく、斬撃は突き進んだ。
元よりヘラの降臨には無理がありすぎたのだ。おそらく斬ったり潰したりするどころか、指で触れただけでも崩れていただろう。銀光の刀身が当たった端から崩れ、霧のように消失していく。
――チッ……斬り甲斐、いや、殴り甲斐のない野郎だ。
内心で毒づいている内に、膨張しまくった光刃の切っ先が不可視の床へと達した。
轟音。
転瞬、全方位へ迸った衝撃は破滅の嵐となり、空間内を吹き荒れる。
豪風。
宙に浮いていた鳥かご――斬撃の軌道上からは外れていた――がおもちゃのように吹っ飛び、床に転がっていた二分割の円卓も弾け飛んだ。
当然、その周囲にいた聖神らのアバターも巻き添えだ。
元より稼働停止していたヘラのアバターはもちろんのこと、それ以外の奴らも仲良く衝撃波にぶん殴られ、糸の切れた操り人形のごとく飛び跳ねる。
会議場となっている仮想空間全体に激震が走るが、事前に施してあった補強のおかげでビクともしない。素のままだったら、今頃は容赦なく崩壊して、全員が一斉に『外』へと放り出されていたことだろう。
俺の一撃で生まれた衝撃波の渦は空間内をミキサーよろしく掻きまわし、大いに荒らしまくった。
嵐が過ぎ去った後に残るは、凄惨たる光景。
だというのに。
「……くそ」
全然スッキリしない。不完全燃焼もいいところだった。
無理やり顕現していたヘラの姿は、あっさりと掻き消えた。悲鳴を上げる暇もなく破壊の衝撃に翻弄された聖神らは、水死体のごとく不可視の床に転がっている。宙に浮いていた鳥かごは、遠く離れた片隅で芸術的なまでに奇麗にひっくり返っている。
やっちまった、とも、やり過ぎたか、とも思わない。
どうせこいつらは死なない。空間ごと崩壊しない限り、奴らのアバターは破壊されないのだ。
こいつらが自覚的だったか無自覚だったかに関係なく、これまでやってきたことを考えれば、この程度の仕打ちはまだまだ序の口であろう。
箱庭に生きる命を、屁とも思わない連中には、特に。
「――おい、なにヘバってんだテメェら。まだまだこんなもんじゃねぇぞ。立てよ、さっさと。ぶっ殺すぞ」
魂の内部で八悪の因子が活性化しているせいか、言葉遣いがやたらと乱れ、汚くなる。まさに、口を衝いて出る、といった感じで、心にもない言葉が勝手に紡がれる始末だ。
――おいおい、俺よ、品位は保てよ。仮にも勇者だろうが。
我ながらまったく嘆かわしい。もはや神と呼ばれた連中を超越した今となっても、八悪の因子の影響からは免れ得ないとは。エムリスのやつも、とんでもない代物と契約させてくれたものだ。
俺は努めて呼吸を深くし――別にしなくても死なないのだが――、自己制御。オーバーヒートしかけていた頭の芯を冷やすと、
「……ん?」
異変に気付いた。
頭上、つい先程までヘラの巨大骸骨――上半身のみ――が浮いていた空間に、未だしつこく暗紫色の輝きがダイヤモンドダストよろしく散らばっている。
キラキラと煌めく、どこか玉虫色めいた光はしばし所在なさげにしていたが、やがて静かに下降を始めた。
そう――【動いている】。確かな意思をもって。
「――――」
もう一発ぐらい星剣でぶっ飛ばしてやろうかと思ったが、やめた。
この後どうなるのか、大体【読めた】からだ。
何故ならヘラの残滓が向かう先には、奇跡的なバランスでもって逆さまになり、不可視の壁にもたれかかっている巨大な鳥かごがある。
あの中に聖神ポセイドンと聖神ヘパイストスが囚われているのは、既知の通り。
そんな鳥かごに降りかかっていく黒紫の光の思惑など、容易に想像がつく。
だから、俺は黙って見守った。
ちょうどいい、と思ったから。
もしヘラが俺の想像通りのことをしでかしてくれるのなら――【都合がいい】、と言う他ない。
いわば『一石二鳥』というやつだ。
俺の気が二重で晴れ、きっと爽快な手応えが得られるはずだ。
「――ァァルゥゥ……」
案の定、ひっくり返った鳥かごの中から恨みがましい声が生まれる。
「……ゥゥサァァァァルウゥゥゥ……」
俺の名を呼んでいるのだろう。声の響きは男のそれだが――さて、その発生源となっているのは【どっち】なんだろうな?
別にどっちでもいいが。
「アァァァルゥゥゥサァァァルゥゥゥ……!」
地獄の亡者がごとき怨嗟の声。ザラついた響きが耳孔の内側をなぞり、ひどく不快になる。
併せて、分厚い布を裂く音が立つ。頑丈な帆布を、古い刃こぼれしたナイフで切るような音だ。ブチ、ブチ、と力尽くで繊維を千切っている。
おそらくだが、拘束服を内側から破いている音だろう。
やがて、鳥かごの檻、その格子をしっかと握る手があった。
やはり男の手だ。こころなしか、暗紫色の燐光を帯びているようにも見える。
間もなく、バキン、と音がして格子の一部が砕け、引き千切られた。鋼鉄製と思しき金属棒を、クッキーか何かのように素手で破壊したのだ。
驚くほどのことではない。ここは所詮、仮初めの空間であり、そのベースは聖神らの住まう高次元だ。
実際のところ、物質としての属性にほとんど意味はない。見た目などテクスチャでどうとでもなる。物理法則よりむしろ『情報』の密度こそが、ここではものを言うのだ。
その気になれば、金属は金属でなくなるし、逆に豆腐がダイヤモンドよりも硬くなることだってあり得る。
バキン、バキン、と次々に格子がへし折られ、大人の男が出られる程度の穴が出来上がった。
黒紫の煌めきを纏った痩せぎすの手が、鳥かごの縁を掴む。そのまま身を持ち上げ、凶悪な面が、ぬっ、と姿を現した。
やはり聖神ヘパイストス。落ちくぼんだ目は真っ赤に充血し、しかしそこにもヘラの輝きの残滓が混じっている。狂気に顔を歪め、陰湿な視線をこちらへ向けてきた。
「――アァァァルゥゥゥサァァァルゥゥゥゥゥゥゥ……!!」
ヘラがヘパイストスの分身体を乗っ取ったのか。それとも、内部で二柱の神が同居し、同じ目的に基づいて動いているのか。
――この感じだと、後者っぽいな。
あのアバターから放たれる〝圧〟から、ヘラとヘパイストスの気配が同時に感じられる。両者揃って俺を憎悪し、それ故ヘラの輝きがヘパイストスのアバターに宿り、力をブーストしている状態なのだろう。しかも、ほぼ無意識に。
それぐらい、あの二柱の聖神は純然たる憎しみを俺に向けている。
そう、神は神でも、あいつらは『邪神』とでも言うべき存在だった。
あそこまでマイナス感情に振り切った魂が、我が物顔で俺達の箱庭を管理側にいただなんてな。よくぞこれまで破綻しなかったものだ、と逆に感心してしまう。きっと、いや間違いなく、他の聖神の必死なフォローがあった結果なのだろうが。
一呼吸の間を置き、ヘパイストスの激情に火が点いた。
「アァァアァァァアァァァァルゥサァァァァァァルゥゥゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッッ!!!!」
ケダモノじみた叫びを上げたかと思うと、昆虫にも似た動きで四肢を駆動させ、鳥かごから飛び出した。
正直に言おう。気持ち悪い。人型のアバターだというのに、それを完全に無視した挙動。おかげで中身も、人間のそれから乖離していることがわかろうというもの。
「ウウウウウウウウウルルルルルルルルァァアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
神どころか悪魔憑きにしか見えない動きで、不可視の床に四つん這いになり、左右に飛び跳ね、まるでステップを踏むかのような軽やかさで、俺めがけて突進してくる。
重ねて言うが、心底きもい。
想像してみて欲しい。痩せぎす――つまり、もやし体型の根暗男が犬のように這いつくばった体勢で、意外にも猫かバッタかと思うほどの俊敏性で跳躍を繰り返し、落ちくぼんだ眼窩から真っ赤に充血した瞳を輝かせ、口からは意味不明の雄たけび、唇の端からは涎が飛び散らせ、
ものすごい勢いで突っ込んでくるのである。
ゴキブリか。
これを気色悪いと思えない人間とは、どうあっても仲良くなれる気がしない。そんな奴が存在するのなら、根本から価値観が違い過ぎる。それぐらいの気味悪さだった。
「きっつ。いやマジで」
思わず声に出た。衝動的にというか、普通に素で言ってしまった。これもまた八悪の因子の影響だろうか。
しかし、それでも俺の口元には笑みが浮かぶ。
カタストロフィへの期待がそうさせたのか。あるいは、魂に宿る〝残虐〟あたりがより強く活性化したのか。
俺は握っていた星剣の柄を手放し、いったん収納。両の拳を全力で握り締め、
「――待ってたぜ、この瞬間を」
足を前に。矢より、弾丸より、稲妻より速く跳躍し、一気に間合いを潰す。
「――ァアァッ!?」
予想外の事態に驚く程度の理性は残っていたのか、突如として目の前に現れた俺に、ヘパイストスが驚愕の反応を示す。
いきなり瞬間移動のように彼我の距離が消えたのだ。無理もない。
だが。
「なに調子乗ってんだ? ぁあ?」
真っ直ぐ突っ込んできていたヘパイストスの鼻っ面に、カウンターで右拳を叩き込んだ。
もちろん本気で。
炸裂。
拳と頬がぶつかっただけとは思えない爆音が轟き、凄まじい威力が激発する。
「――~~~~~~ッッ!?!?」
思いがけない衝撃にヘパイストスが混乱しながら吹っ飛ぶ――前に、その襟首を左手で掴み、力尽くでその場に縫い止める。
「逃がすかよ」
そうして衝撃の逃げ場を失ったヘパイストスの全身を、俺の拳から伝わった破壊力がこれでもかと駆け巡る。蜘蛛かアメンボのごとく広げていた四肢にも伝わり、ビクンビクンと激しく痙攣する。
「俺はな、お前を思いっきりぶん殴れる時をずっと……ずぅっと待ってたんだぜ」
左手でヘパイストスの胸ぐらを掴みなおし、再び右拳を側頭部へ叩き込んだ。ガツンとした手応えと共に、すぅっ、と胸がすいていくのを感じる。
そうとも、この瞬間をどれほど待ち焦がれたか。
「そもそも発端はお前だったよな? 何もかもお前が元凶だったよな?」
問いながら、しかし俺は腕を止めない。そのまま何度も同じ動作を繰り返し、ヘパイストスの横っ面に拳を叩き付けていく。
重く、鈍い音が連続する。
電流を流されたモルモットのようにヘパイストスが全身を震わせるが、歯牙にもかけない。
「お前が始めたんだよな? 俺との喧嘩を。いや、俺達との喧嘩を」
聖神が使うアバターが壊れないことは知っての通りだ。ポセイドンとアテナを叩きのめした経験則からも、この次元に来てから仕入れた『情報』からも確認済みだ。先程ゼウスが言っていたように、箱庭や仮想空間ごとでなければ破壊不能なのだ。
【だから手を緩めない】。
「――――~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!?!?」
ヘパイストスは悲鳴すら上げられない。何なら、その内に宿っているヘラすらも。
俺は一切の遠慮なく、手加減なく、慈悲なく、俺はヘパイストスを殴り続ける。さながら削岩機のごとく。
こいつとて、いっそ壊れた方が幸せだったろうに。すぐに砕けてしまえば、それ以上は殴る蹴るができなくなってしまうのだから。
しかしながら、そうはならない。こいつらは〝傲慢〟にも、己が使用するアバターにだけ破壊不能属性というものを付与している。箱庭の住人にはそんなもの一切ないというのに、自分達にだけはそのような属性を付与し、特権階級に収まっていたのだ。
言わばこれは、その報いでしかない。
「その挙げ句、お前がイゾリテを殺したんだよな? あんな卑怯な手を使って」
既にこいつが、イゾリテを始めとした俺の関係者に接触し、あれやこれやと【仕込んでいた】ことは完全に把握している。この次元にきて『情報』を読み込むことで、その全てが詳らかになった。今の俺は【すべて】を知っている。
「楽しかったか? なぁ? 面白かったか?」
この聖神ヘパイストスは、卑劣にもイゾリテやガルウィンに自爆用の聖具を与えていたのだ。いざという時の最終手段として。
しかも、選定の基準がクソすぎる。あまりにも下劣だ。
俺に近く、それでいて弱く、庇護の対象になるであろう相手――そう、まさにイゾリテやガルウィンのような教え子を選んで、自爆要員にしていたのだ。
「してやったり、とか思ったか? ざまぁ見ろ、とか思ったか?」
俺が油断するであろう相手に自爆用の聖具を持たせ、しかもその記憶と認識を奪い、当人らにすら『己こそが最終兵器である』ということを知らせなかった。
まさしく、人間爆弾。
そんなものを作り出す行為が、どれほど賎劣で、どれほど醜悪で、どれほど非道なものなのか――知らなかったとは言わせない。
なにしろ聖神だ。聖なる神を名乗っているのだ。道徳について俺が教えを授けるまでもない。
そうとも――【わかっていてやったのだ】、こいつは。
何もかも、全て。
だからこそ許すわけにはいかない。
何もかもを知悉した上で行われた、下衆の悪逆無道。
これを『罪』と呼ばずして何とする。これ以外の一体何を『罪』と呼ぶというのか。
「……ふざけるなよ……」
機械のように正確に、俺の右拳は繰り返しヘパイストスの横っ面を殴りつける。インパクトの轟音がビートを刻む。一撃ごとにヘパイストスの全身が激しく震える。生き地獄を味わっているであろうその姿を見ても、まるで溜飲が下がらない。
まだだ。まだまだだ。
「――っざけるなよ……!」
半ば義務のように動いていた腕に、さらに力が籠もった。決して削れないヘパイストスの顔をなお削るように殴る音が、より大きくなる。
思い返すだに、腸が煮えくりかえる。
発端は、セントミリドガル王国での騒動。ある日突然、十年も勤めた戦技指南役の座を奪われ、死刑を宣告され、すったもんだの挙げ句の国外追放。
そこからはもう、本当に色々なことがあった。枚挙に暇がないほど。『情報』を読み込んだ今なら間違いないと確信できる、聖神ヘパイストスが原因たるアレコレが。
この野郎、俺達四人を箱庭から排除するために、ありとあらゆる手段を駆使していやがった。ジオコーザやヴァルトル将軍、モルガナ王妃のピアスはもちろんのこと。
突如、各国の軍に配備された聖具もこいつの仕業だ。
一般兵が装備する鎧やヒートブレイドを始め、果てはミドガルズオルムのような古代聖具の復活にも、このクソ野郎が一枚も二枚も噛んでいる。
それだけでなく、セントミリドガルにおける五代貴族の叛逆や、人界大戦における中小勢力の台頭、シュラトやニニーヴの暴走まで――
当時の苦労を思い出した瞬間、一気にボルテージが上がった。
「――ざけんなッッ!!」
怒り心頭に発し、拳に凄まじい力が入ったところ、ゴギャッ! とこれまでにない手応えがあった。
「――――~~~~ァガッ!?」
途端、一際激しくヘパイストスの肉体が痙攣した。手足がピーンと伸び、
「――ぉぶぉ……!?」
目、鼻、口、耳――つまりはアバターに空いた穴と言う穴から、何やら透明な液体が盛大に噴き出した。宇宙空間を背景とした不可視の部屋、その床に一瞬にして大きな水溜まりが出来上がる。
血液――ではない。おそらくアバター内部を循環する、何かしらの流体、だろうか。エムリスがこの場にいたら即座に回収して研究対象にしそうだが、あいにく俺にそのような趣味はない。
しかし、箱庭でアテナやポセイドンを蹂躙した際にはこのような汁は出ていなかったように思うのだが――いや、そうか、なるほど。
そういえば、あの時は正真正銘の宇宙空間だった。体液など飛び出た瞬間に凍りつくか、あるいは揮発してしまっていたのだろう。
だが、ここは背景がそう見えるだけで、実際には大気も重力もある通常空間だ。本来、作り物でしかないアバターには呼吸も必要ないのだが、どうせ適当に箱庭の環境設定をそのまま持ってきたとか、そういった理由なのだろう。わざわざ読み込んだ『情報』を精査するまでもない。
「……ぁっ……ぁ……っ……ぁっ……!?」
聖神の思わぬ変化に思わず手を止め、観察していると、いつまで経ってもヘパイストスの痙攣は止まらなかった。延々とビクビクし続けている。
それにしても先程の妙な手応えは何だったのか。見たところ、アバターの頭部に大きな変化はない。どう考えても頭蓋骨を粉々に砕いたような感触があったのだが。
「――ふむ」
ひとくさりヘパイストスの様子を観察すると、またしても新たな『情報』が脳裏に浮かび上がる。
いかん。どうやら俺は自己評価が低すぎたらしい。
ヘラがアバターなしでも仮想空間に顕界できたように、俺にも同質の――いや、それ以上の力が宿っていたようだ。
つまり、今の一撃は仮想空間内という〝制限〟を越えて、直接ヘパイストスの【内部】――魂、精神と呼ばれるものへダメージを与えた手応えだったらしい。
いや、ヘパイストスの本体は仮想空間の外にあるはずなので、外部、と言った方が正確か?
「へぇ……?」
我ながら、自身の進化の速さには感心してしまう。無意識、無自覚のまま、天井知らずに俺は変化を続けている。神の領域すら超越して。
まぁ、これも八悪の因子のおかげかと思うと、微妙な気分にならざるを得ないのだが。
俺は軽く左腕を振るい、ヘパイストスの襟首から手を放す。すると学者然とした矮躯は放物線を描き、真っ二つになった円卓の近くへと転がった。
言うまでもなく、留飲はまったく下がっていない。イゾリテをあんな形で自爆――否、【自殺】させたこいつを、許す道理を俺は持ち合わせていない。
それでも殴る拳を止め、いったん離したのは、このままではアバターと接続しているヘパイストスの本体を精神的に殺してしまいそうだったからだ。
「おい、まだ意識はあるよな? なら俺の声が聞こえるはずだ」
不可視の床上で、陸に上がった魚のごとく震えるヘパイストスに、俺は容赦なく言い放つ。
「……ぁ……ぁ……」
当然ながら返事はおぼつかなく、息も絶え絶えだ。だが、その両手はしっかりと床をつき、どうにか体を起こさんともがいているようにも見える。そう、まだこいつの闘志は【生きている】のだ。
しかしながら、先程の尋常でない一撃がヘパイストスの内に宿るヘラにまでダメージを与えたのか、黒紫の燐光が今にも消えそうに明滅を繰り返していた。
――うっかり殺してしまわなくてよかった、とでも思うべきか……?
俺にとっては大した障害になってないが、客観的に考えれば、恐るべき執念、と称してもいいだろう。ここに来て若干引いてしまう程には、ヘパイストスおよびヘラの執拗さは凄まじかった。あるいは一体化することによって、相乗効果でも出ているのだろうか。
まぁ一切合切、心底どうでもいいことだが。
「お前に――いや、【お前ら】に質問だ」
故に、躊躇いもない。
「返事は必要ない。心に思い浮かべるだけでいい。それだけで『情報』が俺に伝わる」
もちろん、慈悲なんて微塵もない。
「【箱庭のロールバックのやり方、わかるよな?】」
こればかりは敢えて、ヘパイストスだけでなく、この場にいる聖神全員に聞こえるように言った。
そして、それだけで事が済んだ。
「――な……ぁ……っ!?」
そう呻いたのはヘパイストスだったか、それとも壊れた円卓の傍らで尻餅をついているアポロンだったか、あるいはそれ以外の聖神だったか。ゼウスでないことだけは確かだが。
そして、声を出さなかった聖神も含めて全員がアバターの顔を青ざめさせる。これはゼウスも含めて。
「……はっ」
不思議なものだな、と心の中だけで吐き捨てる。
さっき見た通り、アバターの内部に血など流れていない。謎の透明な液体しか詰まっていないはずなのに、こういう時は顔がちゃんと蒼白になるし、怒り狂えば真っ赤になる。おそらく透明な液体が状況に合わせて色を変化させているのだろうが、無駄に芸の細かいことだ、と一周回って感心してしまう。
「……へぇ、ふぅん……【なるほどな】」
頭の中に広がった『情報』に相槌を打つ。
聖神らが脳裏に思い描いたからだろう。【概念的に引き寄せられた】ロールバックの『情報』が俺の魂へと寄り集まり、その詳細が流れ込んでくる。
何ということもなく、あっさりと馴染んだ。
「――なんだよ、大して難しくもねぇじゃねぇか」
少しだけ拍子抜けする。意識に流れ込んできた知識には、さして難しい手順は含まれていなかったのだ。
詰まる所、技術的には非常に簡単な部類、ということ。箱庭の運営をちょっとかじった新人ですら、手順書片手に実行できるほどの。
「まったく、散々もったいぶりやがって」
我ながら〝らしくない〟愚痴が口を衝いて出る。
いや、わかっている。わかってはいるのだ。聖神らが渋っていたのは技術的な理由でないことぐらい。
だが、実際に詳しい手法がわかってしまうと、どうにも腹が立ってしまう。
こいつら、こんな簡単なことを無駄にここまで引き延ばしやがって――と。
はぁ、と溜息を一つ吐いて気持ちを落ち着かせると、俺は努めて明るい声を出した。
「とにかく、これでオッケーだ。やり方はよくわかった。もうお前らに頼る必要なんてない」
そして、呆気にとられる聖神らの顔を眺め回し、一転して低い声音で告げる。
「――用済み、ってことだぜ? つまり」
その瞬間、ゼウスを除いた全員が震え上がった。
「――――――――~ッ……!?」
震える体を叱咤して立ち上がろうとしていたヘパイストスも、凍り付いたように動きを止める。さっきまで苦し気に歪ませた顔で俺を睨んでいたのに、今は絶望の表情に取って代わっていた。
「あー、なんだっけ? この空間ごとぶっ壊せば、お前らの〝本体〟にもそれなりにダメージがいくんだろ? まぁ、俺だけは無傷で終わると思うんだが」
適当に辺りを見回し、いかにも仮想空間の輪郭を眺めているような振りをする。
言わずもがな、この会議用の空間を壊すことなど造作もない。その気になれば、指を一つ鳴らすだけで爆砕できる。
「ここを壊した後、俺の〝本体〟とお前らの〝本体〟とでぶつかり合えば――いわゆる【殺し合い】になるよな? わかってるんだぜ、もう」
ニヤリ、と口元に笑みを浮かべる。
あ、いや、いかん。これじゃ完全に悪役というか、まさしく〝魔王〟ではないか。八悪の因子に色々引っ張られているせいか、段々と悪人ムーブが板についてきてしまっている感がある。自重せねば。俺はこれでも〝勇者〟なのだから。
「もちろん、俺とお前らが本気でやり合えばどうなるかなんて――いちいち言わなくてもわかるよな?」
とはいえ、だ。吐く台詞がことごとく脅し文句になってしまうのは、いかんともしがたい。今はそう状況だ。
「俺は、【お前らを無意味にできる】」
そう嘯いた瞬間、聖神らのほとんどが鋭く息を呑んだ。
「この意味、わからないなんて言うなよ」
無意味にする――それはつまり、聖神の本質でもある〝魂〟を覆っている〝膜〟を破壊することを意味する。
この高次元の本質は『情報の海』。何もかもが『情報』で出来ており、『情報』たることが、その存在を確たるものとする。
そして『情報』が意味を持つのは、〝膜〟で覆われ『個』として確立し、その中身に整合性があるからだ。
しかしもし〝膜〟が破れ、『個』の中身が『情報の海』へと流れ出し、混ざり、意味のわからないものへと変化すれば――?
それ即ち『意味の消失』――そう、無意味化だ。
実際、俺はこの仮想空間に至るまで、あらゆるものを破壊し、無意味化し、蹂躙してきた。
今更ここにいる聖神らをそうできない理由がない。
俺はこいつら全員を無意味なものへと変換し――【殺せる】のだ。
が、しかし。
「――ま、そうしてやろうとは思ってたんだよ。実際。ここに来るまでは」
緊迫した空気を和らげるように、俺は軽く言った。
そう、箱庭をロールバックさせてイゾリテを取り戻したら、聖神という聖神を片っ端から無意味化して、何の価値もないスクラップデータに変えてやろうと思っていた。
何が神だ、何が上位存在だ、どいつもこいつも魔王や魔族以上のゴミクズじゃねぇか。完膚なきまでに滅ぼし尽くしてやる――そう決意していた。
しかし。
「ちょっと気が変わっちまった。まぁ、アレだ。【いいこと】を思いついた、ってやつだ」
ふと俺の中に、一つのアイディアが生まれていた。それが実際に上手くいくのかどうか、根拠はない。
だが、妙な確信がある。これはいけるぞ――と。
もはや自分自身でも把握できない程の超変化を遂げた今であれば、不可能なことなど、そうそうあるはずがない――と。
「……そうだよな。やっぱ【コレ】しかないよな」
俺は一人、勝手に納得して、うんうん、と頷く。
もちろん聖神らはポカンと口を開けて、そんな俺を見つめているだけ。
数多ある箱庭世界の支配者である上位存在とは、到底思えない間抜け面ばかりだ。
そんな呆けた顔の群れに、俺は言った。
「お前らを俺の〝眷属〟にしてやる」
刹那、俺の全身から銀の輝光が放たれる。
無論のこと、ここにある肉体は俺本来のものではない。即席で作った、仮初めのアバターだ。故に、この輝きは肉体からではなく、俺の魂から発せられる輝きだ。
俺はいっそ爽やかなほどの笑みを浮かべ、続ける。
「つまり――お前ら全員、俺の言うことを聞くだけの下僕になれ、ってこった。そうすりゃ命だけなら助けてやるし、俺も面倒くさいことはやらなくて済む。最高の選択肢だろ?」
これ以上、効率的な方法が他にあろうか? いや、ない。
突き詰めて考えると、おそらくはこれがもっとも確実で、もっとも平和的で、もっともあと腐れのない、完璧な最適解なのだ。
「…………………………………………は?」
と、たっぷりの間を置いて首を傾げたのは、アポロン一柱だけ。
その他大勢は、総じて石像になったように固まっている。多分だが、俺の言ったことが上手く咀嚼できなくて、呑み込めずにいるのだろう。
「よかったな。あ、でも、こればかりは礼を言っておくぜ。なにせ〝眷属化〟は、【他でもない〝お前ら〟がくれた力なんだからな】。この力のおかげで、俺はお前らを眷属にできる。お前らも殺されることなく、仕事が続けられる。マジ完璧だろ、これ」
俺は全身を覆う銀の煌めきを、右手へと収束させながら嘯く。
ここでちょっとした思考実験だ。想像してみて欲しい。もし俺がこの場にいる聖神の悉くを殺し尽くしてしまった場合を。
血も涙もない鏖殺の果てに待っているのは――果たして、ただの虚無である。
こいつら聖神が運営管理している箱庭は一つだけではない。俺達のいた世界と同じようなものが、幾十、幾百と存在する。
こいつらがいなくなったら、それらの管理は誰がする? 箱庭クラスタなどと呼ぶぐらいだ。もしかすると各箱庭には何かしらの相関関係があるかもしれない。箱庭が一つ滅べば、何だかんだ巡り巡って、俺のいた世界にも好ましくない影響が出る可能性もある。
故に、殲滅するという選択肢はなしだ。
気持ち的にはそれぐらいやってやりたいが、昂る激情のまま行動できるほど、俺はもう子供じゃない。
後のことをしっかり考える――それが大人のやり方ってものだ。
――つか、今の俺じゃ、昔みたいに『何もかもをかなぐり捨てて魔王を倒す』なんて真似、もう出来ないかもしれねぇな……
なんて自嘲めいた思考が意識の片隅によぎるが、これは無視。過去を振り返ってセンチメンタルになるのは大人の悪い癖だ。
とはいえ、こいつらをぶっ殺せないのであれば、それはそれで後が怖い。
力尽くでも無理矢理でもロールバックを実行させる、ないしは俺自身の手で実施し、イゾリテを取り戻すのは確定事項だ。そのためなら俺は何でもする。どんな残酷なことも厭わない。例えこの身に宿る〝残虐〟の因子がいくら活性化しようとも。
だが、事が済めば、俺もいずれは箱庭へと戻らなければならない。聖神らが生きている限り、その小さな世界は奴らの掌の上にある。
当然、聖神らは一方的にやられたままではいてくれまい。こいつらは必ず復讐を誓うはず。必ずだ。
だから俺は、それに備えなければならない。
ではどうするか?
その答えが〝眷属化〟だ。
「逃がさねぇぞ」
何人かの聖神がここにきてログアウト――つまりアバターを捨て仮想空間から抜け出そうとした瞬間、俺は力を解放する。
俺の足元から銀色の輝きが全方位に向かって駆け抜け、仮想空間全体に広がる。一瞬にして空間全体へ伝播した力は、転じて檻と化す。
奴らの精神をこの空間へと閉じ込める、力の檻だ。
「逃がすわけねぇだろ? 今更なに逃げようとしてんだお前ら。これは、お前らがやってきた結果だろ? 俺が今、ここにいるのは――何もかも全部、お前らの責任だろ? なら逃げるなよ」
こうなってはもう、聖神らに逃げる術はない。いまや、この仮想空間そのものが俺の掌の上――〝手中〟である。
任意の対象を眷属とするには、そいつに触れて〝氣〟を流し込む必要がある。その際、いくつかの条件があったはずだ。
確か、エムリスはこう言っていた。
『当たり前だけど〝眷属化〟は拒絶している相手には施ほどこせない。気を失っている相手にも効果がない。お互いに納得した上で契約を交わして〝眷属化〟する、これが基本にして絶対のルールだ』――と。
だが、今はその絶対のルールを【無視する】。
今の俺にはそれが可能だ。
俺の〝眷属化〟はもはや問答無用。相手の意思など関係なく、無遠慮、無慈悲、そして無造作に浸食し、侵略し、侵襲する。
拒絶不可能な絶対屈服。
それが聖神によって〝銀穹の勇者〟に与えた特集能力が一つ〝眷属化〟――その進化形だった。
因果応報。善因善果にして悪因悪果。自業自得に自業自縛。禍福はあざなえる縄のごとし。
俺と八悪の因子というイレギュラーこそあれど、もって元凶は聖神らの行いにあるのだ。
同情の余地など微塵もなかった。
「――ば、馬鹿な……」
遠雷のごとく重苦しい呻き声は、主神であるゼウスのもの。永劫の時を生き、酸いも甘いも噛み分けたであろう老爺の顔は、しかし絶望に強張っていた。ゼウスをして夢にも思わなかった事態なのだろう。
当然だ。俺だってこんなことになるだなんて、想像もしていなかった。
ゼウスの独り言じみた呟きが呼び水となったのか、地に伏していたヘパイストスが我に返ったように、
「――ふ、ふざけ……!」
るな、とでも言いたかったのだろうが、まだ俺から受けたダメージが完全に抜けきっていなかったらしく、そこで咽せてしまう。
「ゲホッ! ガフッ……! ゲェッ! ……ふっっっざっっっける――!!」
しかし不屈の根性でヘパイストスは身を起こしながら、これでもかと声に力を込め、叫んだ。
「っっっなぁあぁぁああああああああああああああああああああぁッッ!!!!」
猛然と立ち上がり、雄叫びを轟かせる。今の今まで消えかけていたヘラの威光も力を増し、暗紫色の輝きがヘパイストスの全身を覆った。
おっと、こいつはすごいな。パッと見て、まるで主人公のような立ち振る舞いではないか。
不屈の根性で立ち上がる――まるで、そう、いつか魔王に立ち向かった自分達でも見ているかのような気分だ。
ドブ色の輝きを纏い、落ち窪んだ両目に熾火のごとき怨念の光を宿すヘパイストスは、俺を強く睨みつけ、憎悪に塗れた言葉を吐き出す。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなァァァァッッ!!!!」
生まれたての小鹿のごとく震えながら、それでも右腕を上げ、俺を指差し、
「お前がッ! お前ごときがッ! 私たちを〝眷属〟にするなどッ! そんなことが、そんなバカげたことが――許されると、本気で思っているのかぁあああああああぁッッ!!」
激情の突き動かされた舌は時折もつれ、つんのめるが、それでもヘパイストスは口を止めようとはしない。
「この凶賊めがッ! この凶星めがッ! 何が〝銀穹の勇者〟かッ! すべて――すべてッ! すべてお前のせいだ! お前のせいではないか! お前がいたからすべてが狂った! 私の美しき清浄な箱庭がッ! 汚されたッ! 貶められたッ! 何もかも調和のとれた正しき世界がッ!!」
ぶっちゃけ何を言っているのか、さっぱりわからない。
もはや呆れ果てて何も言い返す気になれない。
溜息を我慢する。
だがまぁ、きっと俺が何かしたのだろう。よくわからないが、それだけは嫌と言うほど伝わってくる。
当たり前だが、俺には俺なりの原則がある。同じように、ヘパイストスにも、ヘパイストスなりの原則があるはずだ。
そして、俺の何かしらの言動が、奴のそれに触れてしまったのだろう。理由はどうあれ、たとえそれが誤解であろうとも、ヘパイストスが怒り狂っているのは変えようもない事実だ。
よって、奴が猛り、恨み、妬み、憎悪を燃やし、俺に攻撃してきたことは理解できる。
「――。」
だから何だ。
理解はできる。ああ、理解【は】できるとも。
だがそれがどうした。俺に何の関係がある。奴の事情など知ったことか。興味もない。
「お前が壊したッ! 私の箱庭をッ! 完璧なバランスを、秩序をッ!」
大方、ヘパイストスにとって箱庭運営とは、全身全霊を懸けるに足る芸術作品のようなものだったのだろう。奴の発言内容から、その程度なら読み取れる。心の底からどうでもいいが。
すべては俺が――いや、俺達が、魔王を殺したことから端を発しているのだろう。
こいつの言う『調和』や『秩序』とは、〝勇者システム〟の循環が上手くいっている状況を指すのだと思われる。
ヘパイストスは延々と繰り返される不毛な争いの歴史をこそ、美しく正常なものだと考えているらしい。
しかし、俺達の代でそれが途絶えた。
否、ぶち壊された。
殺せるはずのない魔王を、殺してしまったが故に。
世界の外から八悪の因子を呼び込み、不可能を可能としてしまったが故に。
「お前こそがすべての【元凶】だッ!! お前さえいなければ、お前さえいなければ、お前さえいなければッッ!!」
その被害者めいた叫喚に、俺はもう笑いがこらえきれなくなった。
「――はっ、ははっ! いや、そりゃそうだろうさ」
鼻で笑って、同意を示す。
「俺がいなければ? ああ、間違いなくそうだろうな。俺さえいなければ、俺達さえいなければ、多分お前が理想としていた展開がずっと続いていたんだろうさ。わかるぜ、その気持ち」
笑うと言っても、可笑しいから笑っているのではない。
こいつが救いようもない馬鹿だと思うから、笑っているのだ。
嘲笑だ。
だが、不意に笑いをおさめ、俺は言う。
「だけどな――その俺をあの箱庭に召喚んだのは、他でもないお前らだろうが」
我ながら、鋼鉄のごとき声音だった。
「――~ッ……!?」
途端、ビクンッ! とヘパイストスの全身が跳ねた。激怒と憎悪の炎が揺らぎ、怯えの色が混じる。
どうやら今の俺は、奴にそうさせるだけの目をしていたらしい。
――やれやれ。馬鹿らしくなってきたぞ、流石に。
詰まるところ――【同じ】ではないか。
奴の言っていることと。
俺の言っていることは。
どちらも、まったく同じ話をしている。
ヘパイストスは、俺達がいたから何もかもがおかしくなった、と思っているし。
一方、そもそも聖神が娯楽のために俺達を複製したことがすべての元凶だと、俺は思っている。
水掛け論だ。
何の意味もない、ただひたすらに不毛な。
「――これはお前らが始めたことだろ。全部、何もかも、お前らが発端だったんだ。お前らが余計なことさえしなけりゃ、こんな馬鹿げた状況になることもなかったんだよ。何が娯楽だ。何が箱庭だ。生命を好き勝手に弄びやがって。そのくせ、反抗されたら調和だとか秩序だとか文句つけやがって。自分が悪かった、なんて微塵も考えねぇんだな。頭がお花畑すぎていっそ羨ましくなってくるぜ」
こちとら、魔王を完全に殺しきるために記憶と人生を捧げてしまうほどクソ真面目だったと言うのにな。
俺は溜め息の代わりに、深呼吸をして感情を整える。
「――俺から言えることは、ただ一つ。ああ、そうだ、たった一つだけだ」
左手の人差し指でヘパイストスを示し、視線を真っ直ぐ射込み、告げる。
「〝勇者〟を舐めるな」
威風堂々、胸を張って。
「お前らが与えた肩書きで、お前らが与えた力で、お前らが与えた世界を――俺は救う。それが他でもない――【お前らが俺に与えた使命だ】」
右手に収束させていた輝きを、さらに突き出した人差し指へと集中させる。
一点に凝縮させられた煌めきは、もはや直視できないほどの強い光を放つ。
閃く輝きの濃さが頂点へ達した頃、俺は無造作に指を鳴らした。
パチン、と。
光が弾け、炸裂し、迸った。
それで終わりだった。
それだけで、全てが終わった。
聖神らの意思など無関係に、容赦なく俺の〝眷属化〟は完了した。
あっさりと。
「――よし、これでしまいだ」
いちいち確かめずとも肌感覚でわかる。
俺の〝氣〟は間違いなく、この場にいる聖神全員に伝播した。
何もかも掌握している。これでもう、こいつらは俺に逆らうことはできない。
主神であるゼウスさえも。
当然ながら、どいつもこいつも唖然としている。時が止まったように――というのは修辞表現だが、ここでは実際に時の流れという概念は存在しない――硬直したまま。
だが、奴らにもわかっているはずだ。己が魂の根幹を俺に握られ、その生殺与奪の権が奪われてしまったことが。
俺は足を進めて、敢えてヘパイストスへと歩み寄った。
ただただ愕然としているその顔に、小さな声で言う。
「お前が聞いていたかどうかは知らねぇが……俺はさっき言ったぞ。【お前だけは地獄に落とす】――ってな」
ヘパイストスは無反応。聞こえているのか、いないのか。あまりの絶望に、早くも魂が瀕死状態に陥っているのかもしれない。
「どんな気分だ? 全身全霊、何もかもをかなぐり捨ててでも排除したかった相手の――【絶対服従の眷属】になっちまったってのは?」
我ながら意地が悪いというか、粘着質というか、余計なことを言っているのは自覚している。だが、押さえきれない。八悪の因子の影響もあるだろうが、やはり、イゾリテをあんな風に死なせてしまったことが、ずっと尾を引いているのだ。
「こうなった以上、お前は特にこき使ってやるからな。当然、自殺……いや、自滅も許さねぇ。その魂が擦り切れるまで酷使してやる。文句も言わせない。お前は【永遠に黙ったまま】、ただ俺の命令を聞くだけの機械になれ。それがお前がやったことに対する、せめてもの償いだ」
「――~ッ……!?」
ようやくヘパイストスが反応を見せた。
驚愕、憤怒、憎悪――そして絶望。それらが綯い交ぜになった、複雑かつ激しい感情。
「そして」
ここまで来ると、もはや笑みすら浮かばなかった。
俺は視線を切りながら、シュラトよろしく恬淡と告げた。
「それが、お前の落ちる地獄だ」
「――――!?」
ヘパイストスの全身から凄まじい怒気が吹き出るが、しかし言葉は皆無。先程、俺が命令した通り口が利けないのだ。さらに言えば、念や通信といった手段も完全に封じられている。
俺はその場で踵を返し、聖神らに背を向けた。
「じゃ、お前らはロールバックの準備をしながらここで待ってろよ」
大きく息を吸い込み、面倒臭さを隠すこともなく、俺は気怠げに言ってやった。
「ちょっくら、【残りの連中も眷属にしてくるわ】」
その言葉に聖神らがどんな表情を浮かべたのか、俺は敢えて見なかった。
どうせ気分のいいものでは、なかっただろうから。
総員絶句の静寂を背に、俺はその場を辞したのだった。




