●42 強襲、満を持して
まもなく会議が再開された。
休憩を挟んで思考を整理したアポロンは早速とばかりに立ち上がる。
「はい皆さん、お疲れ様でーす。会議を再開しましょーかー」
努めて声を高め、瀟洒な所作で手を叩く。
聖神の属する高次元において、時間の概念は存在しない。故に〝休憩〟といった概念もないと思われるかもしれないが――それは違う。
意識、精神――特に思考は連続体である。一繋がりとなって初めて意味を持つ。たとえ過去現在未来が同時に存在し、重複していようとも、そこだけは変わらない。
例えば、本。本の中には全ての文字列が【同時に存在している】。プロローグもエピローグも、本になった時点で【全てがそこにある】。だが本文の内容は順に読み込んでいかなければ理解できず、少なくともこの次元において、理解されないものに意味はない。そして、意味のないものに情報的な存在価値もまたない。
畢竟、高次元では思考することが主観的な時間の経過となる。誰しもに平等な〝時間〟の概念こそ存在しないが、それぞれの『個』の内には時間経過が存在するのだ。
思考の活動にはエネルギーを要する。情報生命体である聖神の精神に負荷がかかる。思考の複雑さが増せば増すほど、それらもまた増加する。
消耗したエネルギーはいずれ自動的に回復するが、そのためには一時とはいえ思考の速度を落とす必要がある。これが聖神にとっての【休憩】であり、あるいは【睡眠】の近似とも言える。
だからこそ、時間の概念のない次元においても〝休憩〟という概念は存在し、意味があった。
「さて、先程はロールバックの実施と様子見、どちらも同数でしたので、改めて意見を出し合い、話を詰めていきたいと思います」
また言うまでもなく、この会議の場は擬似的な箱庭空間であるため、擬似的な時間経過の概念が存在する。本格的に作成した箱庭空間ほど完全に同期しているわけではないが、各々の参加者にとって違和感がない程度には時間経過の感覚が調整されていた。
「では議題を新たなステージへと発展させるため、貴重な証人を召喚しましょう。第七運営部所属のポセイドン、およびヘパイストス」
アポロンがさっと宙空に手を差し伸べると、円卓の中央に忽然と巨大な鳥かごが現れた。どこに吊されるでもなく、ポツンと空中に浮いた形で。
真鍮製に見える鳥かごの内には、成人男性の分身体に宿った聖神が二柱。特徴的なことに、どちらも白と黒の拘束服に身を包み、さらには革製と思われるマスクで口を塞がれている。
「見ての通り、彼らは凍結処分を受けてます。理由は先程のウラノス部長の報告にもあった通りですが。ヘパイストスは職権乱用による箱庭への過剰な干渉。ポセイドンはヘパイストスへの同調、業務に関する問題発言などなど。まぁ、いま持ち上がっている問題に比べれば取るに足らないレベルなんですけどね」
はっ、と心底馬鹿にするようにアポロンは鼻で笑った。
そうすることでヘパイストスとポセイドンの起こした問題を矮小化させ、まるでこの場に召喚される資格があるかのごとく思わせる魂胆である。
「ウラノス部長、彼らの凍結処理をオレの権限で解除しても?」
よき? と笑顔で小首を傾げながら問うと、ウラノスは沈痛な面持ちで頷いた。
「は……!」
そのまま、もはや生殺与奪の権はアポロンにあり、とばかりに顔を伏せる。あるいはヘパイストスやポセイドンと目を合わせるのを避けたのかもしれない。
「ありがとう。じゃ、まずは――」
アポロンは笑みを浮かべたまま、円卓の中央部に浮かぶ鳥かごへと視線を向ける。
鳥かご内の反応は二極化していた。
「…………」
無言のまま、真っ赤に血走った目でアポロンを睨むヘパイストス。
「んー! んー!」
一方、ポセイドンは今すぐにでも訴えたいことがあるのか、口を塞がれているにも拘わらず必死に呻き声を上げている。
「んん……?」
微かな違和感にアポロンは少し視線を泳がせた。
――あれ、おかしいな? 話によると急先鋒なのはヘパイストスの方で、ポセイドンはそのシンパ的な話じゃなかったっけ? なんか見た感じ、印象が逆なんだけど?
アポロンの事前予想では、ヘパイストスあたりが呻き声を上げ、ポセイドンなどは落ち込んでうずくまっているものと高を括っていたのだが――出てきたものがほぼ真逆で面食らってしまう。
――ま、いっか。修正できる誤差の範囲だ。
アポロンはそう判断し、再び表情を笑顔で固定した。
「――ヘパイストスから話を聞こうかな。彼は今回の件の主犯である勇者ユニットに以前から注目し、その行動を掣肘するため、多くの規約違反を行っているからね。たくさん言い分があるだろう」
パチン、とアポロンが指を鳴らすと、ヘパイストスの口を塞いでいたマスクが消失した。
「…………」
が、ヘパイストスは無言のまま。露わになった口元は、唇がへの字を描いたまま固まっている。
「さぁ、ヘパイストス。ここは自由に発言していい場だ。言いたいことを言ってごらん」
アポロンは掌でそう促すと、席に腰を下ろした。隣のヘラが、チッ、と露骨な舌打ちを放つ。極端なところがある性格のヘパイストスを、ヘラは以前より嫌っていた。あるいは同族嫌悪かもしれない、とアポロンは見ているが。
「……話すことなど、何もありません」
長い沈黙の果て、ヘパイストスはひどく低い声で吐き捨てた。ふっ、と薄ら笑いすら浮かべて。
「……え?」
思いがけない第一声に、円卓についたほぼ全員が虚を衝かれる。代表するようにアポロンが声を上げると、それが妙に広がって響いた。
「あー……ごめん、もう一度言ってもらえるかな?」
気を取り直して問うたところ、ヘパイストスは意味ありげに視線を逸らし、
「話すことなど何もありません、と言ったのですよ。お願いですから、同じことを何度も言わせないでくださいね。んっふふふ……」
明らかに嘲笑を浮かべた。この場にいる自分以外の全員を嘲弄するものを。
ごりっ、と鉱石と鉱石が擦れ合うような音が響く。ヘラの歯ぎしりの音だ。
「ヘパイストス、テメェ……ッ!」
女神の拳が凄まじい勢いで円卓に叩き付けられる。
轟音。
不可視の不可に固定されていなければ、超重量の円卓が跳ねていたほどの威力だった。
「舐めてンのかァッ!!」
怒髪天を衝く女神。怒りのオーラがヘラの全身から迸る。大音声が仮想の大気を盛大に震わせ、ビリビリとした衝撃波をまき散らした。
「落ち着け、副主神。何度も同じ愚を繰り返すな。そのように恫喝しては話すことも話せんだろう」
ヘラの騒々しさに、再びゼウスが苦言を呈する。残念ながら、それが火に油を注ぐ行為だと当人だけが認識していない。何故ならゼウスにとって、ヘラは怖い存在であると同時に、愛すべき妻でもあるからだ。
「ぁあッ!? やかましい黙ってろッ! アタシはヘパイストスのクソが舐めやがったことを言いやがるから――」
「はいはいはいはい、いい加減にしてくださいって。話になんないですからー!」
激発しかけたヘラを遮断するためアポロンが強めに両手を叩いて、パンパンパンパン! と音を鳴らす。そのヤケクソぎみな音に気勢を削がれたのか、
「――クソが」
美しい顔を歪めてそれだけ吐き捨てると、ヘラは椅子の背もたれに全体重をぶつけるようにして座り直した。
んんっ、とアポロンは咳払いを一つ。
「……ヘパイストス、話すことがない、とはどういう意味かな?」
あくまで穏当にアポロンは問い質す。
ヘパイストスは皮肉な笑みを口元に貼り付けたまま、
「そのままの意味ですよ、アポロン専務。どうせ、私が何を言っても誰も聞く耳を持たないのですから。何もかも無駄です。大体、今更になって何ですか? これまで私の意見など封殺されてきたではありませんか。何のつもりかは知りませんが、そう都合よく私を利用できるなどと思わないことですね。んっふふふ……」
テンションこそ低いが耳障りの悪い喋り方は相変わらずだな、とアポロンは頭の片隅で思う。だが今の口上で、ヘパイストスが何を言いたいのかは大体わかった。
「もしかして……拗ねてたりする? ヘパイストスは」
そう問うと、ヘパイストスは全身を拘束されているにも関わらず、器用にも両肩を竦めるようなジェスチャーをしてみせた。
「はっ……拗ねてる? この私が? ご冗談でしょう」
またしても小馬鹿にするようにせせら笑う。
そこへ、
「んー!! んんんー!! んんんんんん!!」
悶絶する芋虫のような動きでポセイドンが割り込んできた。
そんな奴は放っておいて早く俺の話を聞け、と言いたいらしい。
が、ヘパイストスに話を聞いている途中で脱線するのは会議の進行的に褒められたものではない。
「あのさ、ポセイドン、君の話は後でちゃんと聞くから、ちょっと後ろ下がっててくれない?」
「んんんんんんんん――!!」
ふざけんな――と叫ぶようにポセイドンが鳥かごの中で暴れる。ポセイドンの体が飛び跳ねる度、鳥かごがギシギシと軋みを上げて揺れる。
「はぁ……」
頭が痛い。アポロンは片手で側頭部を押さえて溜息を吐く。
「ちょっと静かにしようか、ポセイドン?」
パチンと指を鳴らすと、
「――ンゴッ!?」
ポセイドンが悲鳴と共に、ビクンッ! と電流を流されたかのごとく弾け、ひっくり返った。
「ンンン――!? ンフッ……ンゥ……ンフゥ……」
そのままビクンビクンと痙攣し――やがて静かになる。むしろ、死んだように微動だにしなくなった。
「よし、落ち着いたみたいだね。ところでヘパイストス?」
アポロンはこれ見よがしに、再び指を鳴らすポーズを取った片手をヘパイストスへ向けた。
「わかっているとは思うけどさ、君は今、アバターに入っているわけだよね? つまり――【受肉している】ってことだ。まぁ、それはここにいる全員がそうなんだけど。でもオレ達が肉体を持つってことの意味……当然わかってるよね?」
「…………」
ヘパイストスはアポロンの片手を凝視。血走った眼の奥に、怯えの光が宿る。
「もうオレにこの指を鳴らさせないで欲しいんだけどな」
これ以上駄々をこねるようなら容赦しない、指を鳴らしてポセイドンと同じように制裁を加える――そうアポロンは告げていた。
短い沈黙の後、
「……わかりました。ええ、わかりましたとも」
溜息交じりにヘパイストスは頷いた。
「どうせ無駄でしょうけれど。どうせ無意味でしょうけれど。いいでしょうとも。話して差し上げようじゃありませんか」
落ちくぼんだ目の奥、真っ赤に充血した瞳にギラギラした光を宿して、クツクツと全身を揺らす。
「それで、一体何を聞きたいのですか? この私に」
やっと本題に入れるか――と溜め息を吐きたいところを堪え、アポロンは質問を口にした。
「君は以前から箱庭『セブンスヘヴン』の勇者ユニットに注目し、警戒していたね?」
「ええ、そうですとも。それが何か?」
「理由を聞かせてもらえるかな?」
「……報告書であれば、それこそ以前から何度も奏上さしあげたはずですが?」
「知ってるよ。オレは読ませてもらったからね。でも、ここにいる全員が知っているわけじゃない。わかるだろ?」
お前の口から改めて説明しろ、とアポロンは要求する。
ヘパイストスは両眼を訝しげに細め、周囲を見回す。円卓に居並ぶ神社幹部の面々を一巡りすると、
「……はぁ……」
露骨に面倒くさそうな、かつ落胆の息を吐き、目を伏せた。
アポロンの隣から、ビキビキビキビキィ! とあまり聞きたくない音が響く。言わずもがな、ヘラの憤怒のボルテージが急上昇する音である。
「ヘパイストスゥゥゥゥ……!!」
火山が噴火する直前よろしく、ヘラを中心とした空間が鳴動する。
情報生命体である聖神の激憤は、まさしく『神の怒り』。聖神としての力量が絶大過ぎる者の感情は、たとえ分身体に宿りあらゆる制限を受けていようとも、たやすく下位次元である現実世界へと影響を及ぼす。
「ああもう、何度も言いますけど落ち着いてくださいって副主神。ちゃんと吐かせますから。きっちり落とし前つけますから。ねっ?」
マグマのごとく煮え滾る嚇怒が仮想空間を揺らし、軋みを上げさせる。そんな中、さすがに煩わしさを隠しきれなくなったアポロンが制止をかけるが――
「何度も言わせるな、副主神。話を聞け」
ゼウスが余計なことを言った。これが火に油を注ぐ――ではなく、地雷原に爆弾を放り込む結果となる。
「っっっっやかましいわこの色ボケクソジジィがァ――――――――――――――――ッッッ!!!!」
とうとう爆発した。
この時、アポロンの対応は速かった。
「――総員、防御態勢!」
普段の口調など関係なしに、最速にして最短の指示を飛ばす。
途端、円卓についていた幹部全員が素早く頭を下げた。異変を察知した猫にも似た動きで円卓の下へと潜り込む。
ヘラの全身から凶悪な衝撃波が全方位に向けて放射されたのは、その次の瞬間だった。
轟。
仮想空間が悲鳴を上げ、ひび割れる。何もない空中に亀裂が走り、稲妻のごとく広がっていく。
蜘蛛の巣よろしく展開したクラックによって、背景となっていた宇宙空間が一時的に真っ白に染まり、見えなくなった。
ヘラ本来の力であれば、さらにここから仮想の議場そのものを破壊できるはずだったが――
「――フゥッ……! フゥッ……!」
一応は副主神としての自覚があり、それが最後の最後でストッパーとなったのか。溜め込んでいた鬱憤を発散したところで、ヘラはその暴虐の手を収めていた。
必死の形相を浮かべ、鞴のごとく全身で呼吸し、分身体を巡る〝氣〟を調整する。
「フゥッ……! フ――」
そこで力尽きた。糸の切れた操り人形のように脱力したかと思うと、椅子に腰を落とし、円卓の上に突っ伏す。爆発した力を無理に押さえ込んだ反動で、ヘラの精神と分身体に重篤なエラーが発生したのだ。
しばしの間を置いて、円卓の下に避難した者たちがめいめい顔を出す。
「――ふん、それ見たことか。落ち着いて話を聞いておればいいものを」
ヘラが活動不可――即ち失神したのをいいことに、ゼウスが勝ち誇ったように嘯く。改めて椅子に座り直しながら。
妻が気を失ったというのに、この言い種は――と聞いていた全員が表情に出すが、もちろん声にはしない。中には、ヘラ副主神が失神した途端にこの強気かよ、と露骨に顔を歪める者もみた。
「……あーあー、まったくもう……」
アポロンも溜め息交じりに苦笑いを浮かべるしかなかった。
会議の為に構築した仮想空間を破壊しない程度の理性が残っていてよかった、と言うべきか。そもそも副主神ともあろう者がこんなことで退席するなど言語道断なのでは、と思うべきか。
判断に困る、というのが正直なところであった。
微妙な間が空き、罅だらけの空間に僅かに静寂が満ちる。
そんな中、
「……そろそろよろしいですかね?」
ヘパイストスが呆れの口調で問うた。
まるで空気の読めてない問いかけだった。こうなった原因は誰にあると思っている――という視線が束になって突き刺さるが、鳥かご内のヘパイストスは意にも介さない。
「では、お聞かせしましょうか。あの勇者を名乗る凶星ことアルサルめの話を……んっふふふ……」
仮想空間の自動修復が始まる中、自分の出番が来た、とばかりにヘパイストスはほくそ笑む。
アポロンは内心、こいつ出し渋っていただけで本当は喋りたくてたまらなかったんじゃないのか、と訝しむが、顔には出さず押し殺した。
「ええ、ええ、教えましょうとも! 言って聞かせましょうとも! あの規格外の悪魔のことを! やっと! そう、やっと! この偉大なる私の話を無知蒙昧な皆々様が聞く気になったのですから! 寛大な心でもって語ってあげようじゃありませんかっ!」
拘束服で手足の自由を奪われているというのに、ヘパイストスはクネクネとよく動く。その姿はさながら、笛の音に合わせて踊る蛇のごとし。
「そういう前置きはいいから、手短にね」
呆れ返るアポロンの口調は、石畳のように抑揚がなかった。
その声が聞こえなかったのか、ヘパイストスは揚々(ようよう)と語りだした。
「そう、かの者の名はアルサル! 〝銀穹の勇者〟アルサル! ――ですが、その真の名を皆様はご存知でしょうか?」
ここで一拍を置き、ヘパイストスは聴衆の反応を確かめる。
無論、反応はなし。円卓に並ぶ面々はただ静かに続きを待つ。
「……ふぅ……」
やれやれ、と言わんばかりにヘパイストスは首を横に振った。すぐそこで突っ伏しているヘラの分身体が正常であれば、またぞろ余計な騒動になっていたことだろう。
仕方ないので、アポロンが適当な相槌を打った。
「一応、資料に載っている名前なら知っているけどね?」
先程ウラノスが表示させたスクリーンを指差して、さほどの興味もないように。実際、ここにいる聖神らにとって勇者ユニットの名前など心底どうでもよかった。
しかし、これによりヘパイストスの機嫌は上昇。気味の悪い笑みを浮かべ、歯を見せる。
「そうですかそうですか! ご存じであればよいのです! では僭越ながらこの私めがその名を口にいたしましょう! そう、アルサルと名乗りし者のかつての真名こそ――『熊野一朗太』! とある世界から選ばれた何の変哲もない学生だった者! ただの凡人! しかして、いまや不義不忠の大逆人ッ!!」
ヘパイストスは唾を飛ばす勢いで熱弁するが、会議の場に漂うのは白けた空気のみ。
勇者ユニットに限らず、英雄ユニットに選ばれる者の大抵は凡人だ。偶然にも天才や実力者が選ばれることもあるにはあるが、天文学的に低い確率でしかない。
何故か?
答えは簡単。【それではつまらないから】である。
英雄ユニットを導入する醍醐味は、魔王に支配された世界を圧倒的弱者である勇者パーティーが、それでもなお救うところにある。
弱い者が必死に抗う姿こそが、見る神の心を打つのだ。故にこそ、最初は弱い者が英雄ユニットに選抜され、その存在情報が複製される。もちろんそれだけでは強大な魔王を打倒することは不可能なため、複製の段階で特殊な能力や才能が神為的に付与される。
たとえば歴代〝銀穹の勇者〟には剣士としての才能と銀氣、そして『星の権能』が与えられてきたように。
このような理由から、既に完成された実力を持つ熟練者が選ばれることはまずない。最初から強い者が大した苦労もなく魔王を討伐しては、舞台が盛り上がらないからだ。
無論、そういった需要が皆無というわけではない。とある神社ではそういったニッチな要望に応え『最初から最強』な勇者パーティーを送り込み、その絶大な力でもって無双させる箱庭を用意していたりもする。さらには『爺婆だけの勇者パーティー』や『中高年だけの勇者パーティー』といった、深く狭い層に訴求するものまで。
が、それらはあくまで例外。
先述の通り、英雄ユニットに選ばれる者の大半は〝未熟者〟とレッテルを貼られる者達である。故に、その名前や素性に意味はなく、ましてやそれらを諳んじられる神などまずいない。
「聞き覚えはないでしょうが、あの者は天河川銀河の亜種太陽系第三惑星における大日本国の出身で複製召喚当時の年齢は十三歳で家族構成は父母妹と近所に住まう祖父母と叔母と叔父がおり友人関係は良くも悪く平々凡々といったところで親友と呼べる間柄が二人しかおらず――」
ヘパイストスのような、頭のおかしい例外を除いて。
「うん、まぁ、そのあたりはどうでもいいから、続きを早く」
そのため、アポロンの対応も冷淡にならざるを得ない。先を促すその顔は、皆の気持ちを代弁するように退屈げだった。
調子よく喋っていたヘパイストスはピタリと停止し、一瞬だけ口上を遮られたことに対する不満を顔に浮かべたが、
「……いいでしょう。致し方ありません。【この領域】まで来られる方はそういないでしょうからね……んっふふふ……」
すぐさま謎の優越感を露わにし、不敵に笑う。
なんでお前が上にいる前提で話してんだよ――とアポロンは思ったが、どうにか表に出ないよう押し込めた。
「こいつ何か腹立つな……」
――と思っていたのだが、ポロリ、と無意識に口から呟きがこぼれてしまった。
「……いま、何と?」
小声だったのが幸いして、ヘパイストスにはよく聞こえなかったらしい。怪訝そうな視線を向けられる。
「いや、何でもないよ。どうぞ、続けて?」
偽の笑みを顔に張り付けたまま、アポロンは掌で促した。
ヘパイストスは僅かな間だけ訝しげにしていたが、次の瞬間には忘れたように声を高める。
「では! ではではではでは! かのアルサルこと熊野一郎太の犯した罪について――」
「ああ、だからそうじゃなくて。オレが聞きたいのは【君がどうして事件の前から勇者ユニットに注目していたのか】、だ。君が〝そうなった〟理由とも言えるね。それだけご執心なんだ、何かしらきっかけがあったはずだよね? それを教えてもらいたいんだけど」
再び調子よく放言しようとしたヘパイストスの出鼻を、アポロンはやんわりと挫いた。
執拗なアンチの情熱は、熱烈なファンすら凌ぐという。ヘパイストスはどう見ても前者だ。勇者ユニットを嫌悪し憎悪するあまり、誰よりも執着を持って粘着している。このまま好き勝手に喋らせては、いつまでたっても本題に入らない。
そも、勇者ユニットのプロフィールなどアポロンが求める話題の〝核〟ではない。ピントが大いにずれているのだ。
「理由……きっかけ、でございますか?」
今更そんなことが聞きたいのか、とでも言いたげなヘパイストス。小首を傾げ、こちらの正気を疑うがごとき視線を向けてくる。
「…………」
イラッときた。
しかし、やけに癪に障る態度だが、ヘパイストスの気持ちもわからないでもない。あちらとしては散々、報告書を提出した挙句の今なのだ。ここで問い直すぐらいなら再度、報告書に目を通してみたらどうなのだと言いたくもなろう。
「ええっと、そうだね。信じてくれないかもしれないが、君が上げてくれた報告書にはすべて目を通しているよ。申し訳ないが、事態が【こうなる】までその重大さに気付くことが出来ず、優先順位を上げられなかった。だが、報告書の中に君が勇者ユニットに注目するきっかけは記されていなかったはず。そうだろ?」
嘘である。確かに目を通した憶えはある。そういった書類を上層部――つまりはゼウスやヘラのところへ通すかどうかを判断するのがアポロンの仕事の一つなのだ。
だが精読したわけではない。一度目は報告者の名前がヘパイストスだった時点で流し読みし、二度目以降は似たような内容であることを察した段階で適当に読み飛ばした。
それでもなお『勇者ユニットに注目するきっかけは記されていなかったはず』と言い放ったのは、ヘパイストスのようなタイプは自身の要求を通そうとするあまり、基本を疎かにしているであろうと踏んだためだ。己の主張を押し通さんがため、そればかりを前面に押し出し、読む側のことは一切考えず、言いたいことだけを書く――実際、一度目の報告書はそのような内容だったと記憶している。
「…………仕方ありませんねぇ」
やや長めの沈黙を挟んだ後、ヘパイストスは渋々といった風に嘆息した。
「では、手短にお話しいたしましょう。私がアルサルめの悪辣さに気付いたのは何あろう、【奴が魔王を殺してみせたその時】でありますれば。この事件は皆様、ご存じのこととは思いますが……んっふふふ」
どうやらヘパイストスの中では、この円卓に列席している全員が彼の報告書を読み、その内容を把握しているものと決まっているらしい。
相も変わらず思い込みの激しい男だ、とアポロンは内心で毒づき、ただでさえ低いヘパイストスの評価点にさらにマイナスを付け加える。誰だ、こんな奴を入社させたのは。まったく――箱庭運営に関する特段の技術さえなければ、社内政治を駆使してとうに放逐させていたものを。
逆に言えば、こんな男神でも規格外の能力がある故に起用せざるを得ないわけだが。
「まぁ、その件なら当然ここにいる全員が知っていることだね。仕様上、絶対に殺せないように設計されている魔王ユニットが完璧に殺害されたのは、箱庭『セブンスヘヴン』が最初にして最後だ。――最後なのは、今のところ、だけどね。しかし、あれのおかげでうちの神社も有名になったものだよ。それはもう滅茶苦茶ね。まさに勇者様様と言ったところかな」
思いがけないエラー、仕様の隙を突いた神プレイ、意図せぬバグ――箱庭を鑑賞する聖神らはそのようなイレギュラーをこそ好む。それだけに本来あり得ない『魔王ユニットの死亡』という事件は鮮烈で、聖神の間でも話題となり、凄まじい盛り上がりを見せた。
正直なところ、あれは神社にとっては嬉しい誤算であった。
常識的に考えれば、殺せぬはずの魔王ユニットが死亡したという事態は、重大な不具合である。それも〝勇者システム〟を運営する上で、致命的な。
当初、神社としては魔王ユニットの死亡については修正の必要ありと考えていた。一時は盛り上がろうとも、魔王の完全死亡によって〝勇者システム〟のループが途切れてしまうからだ。
言わずもがな〝勇者システム〟の肝は繰り返すところにある。魔王が千年周期で蘇り、その度に新たな勇者、魔道士、姫巫女、闘戦士が召喚され、新たな戦いが繰り広げられる。
そこには、これまで英雄達が積み重ねてきた歴史がある。先代、あるいは先々代の英雄が残したメッセージが当代の勇者パーティーに届く――なんてこともある。そんな時、箱庭を鑑賞している観客らは大いに喜び、盛り上がるのだ。
だからこそ、運営の不介入が前提とはいえ、連綿と続く円環を途切れさせるわけにはいかない――そう考えていた。
が、そうはならなかった。
何故なら、ユーザーの盛り上がりが想像を超えていたからだ。
誰しもが夢にも思わなかった。箱庭ユーザーの熱狂は箱庭『セブンスヘヴン』の枠内だけでは収まらず、なんと当代の勇者であるアルサルらを元にした【二次創作】までもが生まれだしたのだ。
その勢いはとんでもなく、瞬く間に箱庭クラスタのトップへと躍り出て、一大ジャンルへと成長した。
気付いた時にはもう、今更『あれはなかったことに』などと言える状況ではなくなっていたのだ。
それこそ当時はロールバックが検討されたが、天井知らずに盛り上がる神々(ひとびと)を前に、その可能性はあっさりと潰えた。
今の希臘式神社オリュンポスがあるのも、箱庭『セブンスヘヴン』のおかげと言っても過言ではない。
もっとも、それはあくまで【きっかけ】に過ぎず、現在の規模まで成長できたのは、他の箱庭の運営の成功によるものが大きいのもまた確かなことだが。
今となっては箱庭『セブンスヘヴン』の栄光もかつてのもの。娯楽と刺激に飢えた聖神は、とっかえひっかえ次々にジャンルを乗り移るもの。
次第に一般ユーザーは別の箱庭へと興味を移していった。ただ、魔王を殺してみせた勇者アルサルの人気に陰りが出たわけではない。箱庭そのものへの注目度こそ最盛期に比べれば減ったが、二次創作界隈は今なお健在で、隆盛を誇っている。コアなユーザーはほぼ減っていない。
それ故、神社側は『セブンスヘヴン』に限らず、箱庭への下手な介入を厭う。余計なことをして藪蛇になっては目も当てられないからだ。
先程の採決で様子見が半数になったのも、そのあたりの事情がある。神社の経営が安定期に入ってるため、皆が及び腰で保守的になっているのだ。
「むしろ知らない社員がいたら大問題だ。うちの躍進の歴史の中で最も目立つところだからね。業界では有名な話さ。今でも時々ネットワーク上で擦られる程度には、ね」
勇者パーティーが魔王の命運を完全に断った――今代の英雄ユニットらの活躍は、多少は衰退したとは言え、今なお語り草である。箱庭内とは違って、高位存在である聖神の時間感覚は薄い。主観的時間が経過しても印象深いエピソードは、むしろだからこそ、印象を深めていく。
「――それで?」
「それで……とは?」
アポロンが先を促すと、何故かヘパイストスは不思議そうに首を傾げた。
――ん?
この瞬間、アポロンは猛烈な違和感を抱いた。
今、何かが大きく【ズレて】いた。
その『何か』の正体こそわからないが、アポロンの直感が告げている。この違和感を無視するべきではない、と。
常であれば『また変人がおかしなことを言っている』『やはり変人とは感性が合わないな』と斬り捨てるところだが、ここはそうしてはいけない場面のように感じた。
「……今期の英雄ユニットが、イモータル属性の魔王ユニットを殺した。それが、君が勇者ユニットに固執するきっかけだった、と言ったね?」
アポロンは意識を切り替え、事態を慎重に深掘りしにかかった。嫌な予感が胸の奥で渦を巻き、徐々に膨張していくのを感じる。
ヘパイストスは冷笑とも取れる表情を浮かべ、首肯した。
「ええ、言いましたとも。【絶対に殺せないはずの魔王ユニットを殺したその時】から、私はあのアルサルめらを箱庭から排除すべき害虫だと認識しておりますから」
このヘパイストスの言葉に、アポロンはとてつもない引っかかりを覚えた。
「……絶対に殺せないはず……【絶対】……?」
ふと気付いた。今まで当たり前のように受け止めていた事実が、決して当たり前ではないことに。
そう、魔王は不死属性であり、破壊不能なユニットだ。箱庭においては必ずそう設定されている。設定とは即ち箱庭における【破ってはならない基本原則】に他ならない。
そして、基本原則は箱庭世界において例外なく【絶対】だ。
我知らず、アポロンは片手で自分の口元を隠すように押さえていた。あまりの絶望感に、いっそ笑みが浮かびそうになったためだ。それがこの場にそぐわぬ不謹慎であることを、彼は知悉していた。
「……ヘパイストス、一つ確認させてもらおうか。技術者として優秀な君ならわかると思うんだが……」
「ええ、構いませんとも。何でしょうか?」
技術者として優秀、と褒められたせいか、ヘパイストスは上機嫌に返した。
アポロンは覚悟を決め、睨むような視線をヘパイストスに向ける。
「――【スーパーアカウントなら魔王ユニットを殺すことは可能か】?」
その問いを口にした瞬間、円卓の面々が総じて息を呑んだ。
スーパーアカウントとは、箱庭における運営の力そのもの。外部からのメタ的な介入を除けば、箱庭内で行使できる最大の武力であり権力だ。
しかしそんなスーパーアカウントも、件のアルサルという勇者ユニットの前ではあっさり敗北を喫した。しかも二柱がかりで。
なにせ魔王を殺してのけた例外的な英雄である。その程度のことなら、まぁ出来ないこともないか、とアポロンは軽く考えていた。おそらく他の幹部もそうだろう。
だが、しかし。
これまであまり深刻に受け取っていなかったが、殺せないはずの魔王を殺したというのは、思っている以上に【まずい】ことだったのではないか――そんな思考がアポロンの脳裏にふと過ったのだ。
今まで自分達は事態の重大さを見誤り、ひどく致命的なミスを犯していたのではないか。決して見過ごしてはならないものを、当然のように見過ごしてしまっていたのではないか。
そんな不安に駆られたのだ。
もし――もし仮に、アポロンの予感が当たっていたとするならば。
それは、とんでもなく――
「ええ、【不可能ですね】」
ヘパイストスは断言した。こともなげに。
刹那、議場が一気にざわついた。誰もが愕然とし、中には椅子を蹴って立ち上がる者までいる。
そう、たとえ運営が特別に用意したスーパーアカウントでさえ、不可能なのだ。
箱庭の中で、魔王ユニットを完全に殺しきるなどという芸当は。
「箱庭に設定された基本原則は絶対です。外側から特権をもって改変を加えるのならともかく、内側からはどうあっても設定は変えられません。それがたとえデメテル女史が丹精込めて作成したスーパーアカウントであっても。ええ、それはもう一切の例外もなく……」
ペラペラと調子よく語っていたヘパイストスが不意に動きを止めた。ピタ、と時が停止したがごとき硬直。やがて、
「……まさか……」
と呟くと、さっと表情を変えた。眉根を寄せ、歯を食いしばり、さながら威嚇する犬にも似た顔付きへと。
「まさか、【そこから】だったのですか!? いえ、まだ【そこすら】わかっていなかったというのですか、あなた方は!?」
噴き上がったのは、周囲の無理解――その思いがけない深さへの激怒であった。
ヘパイストスはようやく理解したのだ。自分以外の全員が【何もわかっていなかった】ことを。自身の認識と、他の認識との間に、どうしようもないほどの落差があったことを。
今になって、やっと。
「あなた方は……あなた方は一体何を見てきたのですか!? 私の報告の一体何を聞いていたのですか!?」
ヘパイストスが激発するのも無理はない。今にも両眼から血の涙を滂沱しそうなほどの形相で、拘束されている男神は喚き散らす。
「私があんなにも必死に! あんなにも大きく激しく! 何度も! 何度も何度も! 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も! 声を上げていたというのにッ!!」
拘束服によって自由を奪われている中、唯一動かすことが可能な首を上下に振って、ヘパイストスは怨嗟の声を吐く。
「あなた方は何をしていたのですかッ!? 一体何をわかったつもりになっていたんですかッ!? 私の話の何を……!」
叫ぶにつれ、怒りよりも情けなさが増してきたのだろう。語気が弱まり、声音が震えだした。
ヘパイストスは俯き、怒りに震える息を吐き、
「……ああ……ッ……!」
それでもなお激情が収まらなかったのだろう。勢いよく面を上げた瞬間。
「――ふざけるなぁぁぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁぁぁぁッッ!!!!」
あらん限りの絶叫を迸らせた。
この時、ヘパイストスの全身から放たれた威圧は、先刻の怒れるヘラにも匹敵した。全方位に放射された重圧は円卓に並ぶ幹部――分身体が停止しているヘラを除く――を圧倒し、僅か以上に身を仰け反らさせた。
腹の奥底、否、魂からの雄叫びを絞り尽くしたヘパイストスは、しばし全身で荒い呼吸を繰り返していたが、やがてワナワナと震えだし、
「……ええ、ええ、理解しましたとも。納得しましたとも。あなた方は何もわかってはおられなかった。何も。何も。何も! わかっていなかった! わかっていなかったんですね!」
ここへ召喚された時よりもさらに目を真っ赤に血走らせ、怒鳴りながら周囲を睨み付ける。
「なんと愚かな! なんと怠惰な! 彼奴らの罪過をまるで理解していなかったとは! 私が何故あんなにも声を上げていたのか不思議に思わなかったのですか! この私が! この私がなんてことない事態に大騒ぎする愚か者だとでも!? いいえいいえ、そう思っていたのですね! そう思っていたからこその――愚考! 愚挙! 愚劣の極みィッ!!」
ヘパイストスの悪罵はとどまるところを知らない。口角泡を飛ばす勢いで並み居る幹部を猛烈に非難する。当然、公平な視点からではなく完全なる私怨でもって。
「そんなことだからッ! そんなことだからッ! あの狂星共が野放しになり、我が箱庭が汚染されていくのですッ! 嗚呼、なんと嘆かわしや……! よもや上層部の方々の意識がここまで貧弱だったとは……!」
嘆かわしい、との言葉通り、ヘパイストスは号泣する。嗚咽を漏らし、両眼から大粒の涙をこぼし、声にならぬ声で呻きを上げる。
――あーあ、もう、マジで鬱陶しいな……
男泣きするヘパイストスを尻目に、アポロンは内心で毒づく。
同時に、事実を伏せておいてよかった、とも思う。
実を言うと箱庭『セブンスヘヴン』で現在起こっている事案を、ヘパイストスは知らない。彼は凍結処理を受けた時点までの情報しか有していないのだ。
よって彼が執心する勇者ユニット――本名『熊野一朗太』こと勇者アルサルが原因不明の暴走をし、傲岸不遜にも運営に対してロールバックの実施を要求してきている件については、ヘパイストスには知る由もない。彼もポセイドンも、この議場に召喚されるまで精神的にも情報的にも封鎖された場所へ格納されていたのだから。
「私は、私は……情けない……ッ! 情けないですよ、皆様……! あんなにも、あんなにも、私は、私はァ……!!」
さめざめと嘆くヘパイストスをよそに、場の空気はかつてないほどに白けている。無理もない。誰もヘパイストスの感情の振れ幅についていけてないのだ。
さらに言えば、この男神の心情に寄り添っている場合ではないことが、他でもない彼の口から語られたばかりである。
「……スーパーアカウントでも魔王ユニットを殺せない……? だとしたら、何故……」「……箱庭の仕様が絶対なら、起こり得ないことのはずだが……」「……だが実際に起こったことだ。起こり得ないという前提は通じない……」「……しかし一体どうやって? まさか我々の力を超えた何かが……」「……我々の力を超える? どうやって? こちらで作った箱庭だぞ……」
円卓のそこかしこで、密やかだが深刻な声が飛び交う。
アポロンも我知らず、顔面を蒼白に染めていた。
原因不明――これまでその単語の意味を、あまりにも軽く考えていた。我ながら愚かしいほどに。会議が始まる前の自分を殴ってやりたいぐらいに。
「――待て、待て待て待て待て……」
アポロンは片手で口元を押さえたまま、円卓の一点を見るともなしに見つめ、独り言を囁く。
動揺を抑えようとしていた。だが、どうしても抑えきれない。頭の芯がグラグラと揺れている。
まるで、階段で足を踏み外して落ちる夢でも見て目を覚ましたような気分。あるいは、今立っている場所が地雷原だと気付いたかのような――
「……待ってくれ……いやマジで……」
もはや溜め息すら出ない。
火薬庫のすぐ隣で火遊びをしていたかのごとき、遅まきすぎる危機感と焦燥感。そのことにやっと気付いた手遅れ感と――自己嫌悪。
正直、会議なんかやってる場合じゃないだろ、と言いたい。
それほど事態は切羽詰まっている。いや、とっくの昔に逼迫していたのだ。ここにいるほぼ全員が気付いていなかっただけで。
悠長に話し合って投票などしている余裕などあるのか。いや、ないはずだ。だが今更ここで会議を打ち切ることなどできない。一度始まった会議は結論が出るまで続けるのが鉄則だ。そうしなければ何も決まらず、誰も何も行動に移せない。組織とはそういうものだ。上の決定がなければ、下は動けないのだ。
「……一体、何がどうなってる……?」
ようやく、幾重にも遅れて、アポロンを始めとした上層部はその重大すぎる問いに真っ正面から向かい合った。否、向かい合わざるを得なくなった。
会議が始まってすぐ、アポロンは現状を笑い飛ばしていた。その程度にしか考えていなかった。意味はわからないが、どうせ大したことはないだろう、と。勇者ユニットが高慢にも交渉を仕掛けてきたようだが、所詮は箱庭の住人。〝あちら〟から〝こちら〟には何も出来ない。出来るはずもない。事実、『交渉』という手段を用いているのが何よりの証拠だ――そんな風に考えていた。
だがもし、そうでなかったとしたら――?
仮に、あくまで仮にだが――〝あちら〟から〝こちら〟へ干渉する手段があるとしたら? 規格外の勇者ユニットの性能が、こちらが思う以上に【規格外】だったとしたら?
最初から、何もかも、根本的に、見誤っていたとしたら――?
「――~ッ……!?」
凄まじい戦慄がアポロンの背筋を走り抜ける。得も言えぬ衝撃が仮想の背骨を駆け抜け、我知らず喉奥から声ならぬ声が漏れ出た。
今が分身体にログオンしている状態でよかった、と心底思う。もし通常の情報生命体のままだったなら、周囲にとんでもない影響を出していたところだ。腐ってもアポロンは聖神の一柱。それも神社では専務に就くほどの格がある。本気になったゼウスやヘラほどではないが、地位相応の力があるのだ。
「……いや、いやいやいやいや……」
無意識に、口で否定を繰り返す。自分の得た感情の正体に半ば気付きつつも、素直には受け入れられない。
そう、先刻アポロンが感じたのは――恐怖だった。
得体の知れない未知の存在へ抱いた、深い怖気。
この聖神アポロンとあろうものが。他の凡百ならいざ知らず。
――心の底からマジビビリしたって? このオレが……?
容易には認められない。
だが、認めざるを得ない。それもわかっている。
こういった直感を無視せず向き合ってきたからこそ、アポロンの今の地位があるのだ。
落ち着け。冷静に思考しろ。抽象的なイメージでは駄目だ。具体的に危険性を分析しろ。事態を明確に把握しろ――そう己に言い聞かせる。
「――つまり、相手は箱庭を【イジれる】……? 内部から箱庭の設定を改変して、メタ的な変更を加えることが可能……? だからスーパーアカウントでは歯が立たない、のか……?」
スーパーアカウントを超える絶対権限。外部からの操作と同等、あるいはそれ以上のことを実行することが可能な力。
「……いやでも、ならどうしてロールバックをこっちに要求してきた? ……できないのか? そこまでの権限を持ちながら?」
魔王ユニットの不死属性を解除できるのに、箱庭のロールバックが出来ない道理があるのだろうか。権限レベルで言えば、ほぼ同等のはずだが。
「できない? それとも……【わからない】……?」
権限は有していても、やり方がわからないのでは意味がない。実質的に権限を持っていないも同然だ。
故に、ロールバックの実施を要求してきたと考えれば――辻褄は合う。
逆に言えば、例の勇者が【それすら理解してしまったら】――
「――ッ!?」
最悪の可能性を想起して、アポロンの分身体が総毛立った。
もし勇者が独断で箱庭のロールバックを実施できるようになったら?
そんなものは決まっている。
「……交渉の決裂……」
誰にも聞こえない声量でアポロンは囁く。
自身で箱庭のロールバックが行えるのなら、勇者に交渉する理由はなくなる。
そうなれば、こちら側――つまり運営側の存在は、
「……無意味、無価値になる……」
いや、それだけならまだいい。場合によっては、
「……むしろ邪魔になる……」
自分達は勇者ユニットにとって、広義の意味でも『味方』とは決して言えない立ち位置にいる。それは、箱庭にスーパーアカウントとして降り立ったポセイドンとアテナが徹底的に痛めつけられたことからも明らかだ。
「……人質も無用になる……」
箱庭内に拉致されている形のアテナも、利用価値が消失する。
だが、箱庭の住人がスーパーアカウントの分身体を破壊することなど不可能――そのはずだ。
あくまで、設定上は――
あくまで、理論上は――
それこそ、魔王ユニットがそうであったように――
「……だが、いや、でも……」
さらに言えば、たとえ分身体の破壊が可能だったとしても、その内に宿る聖神そのものを殺すことは絶対に不可能だ。
プレイヤーとして箱庭に下界している聖神は、その分身体が使用不可の状態になった場合、自動的にログアウトするよう設定されている。
つまり、どれだけ分身体を攻撃しようが、高次元にある聖神の本体の命にまでは届かない。
そう、あちらが【次元を超える力でも有していない限りは】。
「――は、はははは……いやいや、それはないでしょ……」
そこまで考えて、さすがに冷静になってきた。
そうだ、いくら何でもそれはない。考えすぎだ。落ち着け、常識的に考えろ。
情報生命体である聖神は、肉体を持たないが故に感情のブレによる性能の変化が激しい。心を乱せばそれだけで弱体化し、知能も下がる。
「そもそも、下位存在に次元を超えることなんて無理無理、絶対に無理……そう、そうだよ、確実に不可能だ……」
己に言い聞かせるように呟き、アポロンは平静を取り戻していく。
考えるまでもない話だ。上から下へ降りる、ないしは落ちるのは簡単だ。だが逆は非常に難しく、不可能であることも多々。
上位存在が下位次元にアクセスすることは、さして難しいことではない。三次元の住人とて、当たり前のように二次元を用い、使いこなしている。さらに上位の次元にいる聖神なら、何をか言わんやだ。
いくら件の勇者ユニットが【規格外】であろうとも、次元の壁を突破するなど到底不可能。聖神とて、今よりさらに上の次元へ行く技術など確立されていないのだから。下位存在である箱庭の住人にそんなこと出来るはずもない。
それこそ、【聖神よりもさらに高次元の上位存在から恩恵でもあずかっていない限りは】。
「……ふぅ……」
落ち着いた。全身の血管が脈打つような焦燥感は潮のように引いていき、思考の芯が冷えていく。
そうとも、焦る必要なんてない。危機感を覚える必要もない。さすがにスーパーアカウントでも魔王ユニットを殺せないという事実は衝撃的だったが、何のことはない。外部からの操作なら自分達でも出来ることなのだ。きっと上手い具合にハッキングすれば、内部からでも可能なはずだ。大体、肝心の情報ソースがヘパイストスなのだ。技術の高さこそ買うが、神格には難のある男神である。その言葉を頭から信じるべきではなかろう。話半分に聞いておくべきだ。
「――ハッキング……?」
ふとした思い付きだったが、そこに無視できない引っかかりを感じた。
アポロンの思考が加速し、冴え渡る。
――そうだ、ハッキングだ。その可能性を真っ先に検討するべきだった……!
運営の、さらに外からのハッキング――つまり悪意ある他社、ないしは第三者による不法アクセスだ。
「……そうか、他社のハッカーと勇者ユニットが共謀して、外と内、双方からハックすれば……!」
箱庭の設定を強制的に書き換え、不死属性の魔王ユニットを殺すことなど造作もない。
そうアポロンが気付いた時、
「――ですからそれは私が散々(さんざっ)ぱら言ってきたことでしょうがぁぁあああああああああああああぁぁぁぁッッ!!!!」
いきなりヘパイストスが絶叫した。
どうやら耳聡くアポロンの呟きを拾ったらしい。
「言いましたよね!? 私は言いましたよねェ!? あの勇者めらは他社のエンジニアと内通し、箱庭にバックドアを仕掛けたに違いありませんと! 誰が見ても明らかでしょう!? あの異能! 明らかなチート行為の数々! 幾度も報告さしあげましたよ!? 私自身ですら数え切れないほどォ!!」
やっぱり報告書をちゃんと読んでなかったじゃねぇかテメェ、と言外に言うかのごときヘパイストスの弾劾。血走った目は大きく見開かれ、今にも眼球パーツが飛び出しそうな勢いだ。
「……ああ、はいはい、そうだったね。わかってるよ」
アポロンは溜め息を堪えつつ、片手を上げてヘパイストスを制した。だが視線は真っ直ぐ向けられず、あらぬ方向へとそらされる。
――やっべ、忘れてたな……
何度も言うが、報告書に目を通したのは嘘ではない。流し読みと飛ばし読みの中間ぐらいの適当さだったが、要点は拾って事態はそれなりに把握していた。
それを場合によっては、うろ覚え、とも言うが。
だがしかし、これはいいことを思い出した、とアポロンは内心で拳を握る。
「――どうやら競合他社の不法介入による不測の事態……その可能性が出てきたようですよ、皆さん」
アポロンは声を高めて、円卓を囲う面々に告げた。
「私もうっかり失念していましたが、そこの彼――ヘパイストスが以前より警鐘を鳴らしていました。これは緊急事態です。喫緊の問題です」
表情筋に力を込め、顔を引き締めたのは、思わず浮かびそうになった笑みを我慢するためだ。
「――悠長に様子見とか言っている場合じゃ、ないですよね?」
天秤は傾いた――アポロンは確信する。
結果は一目瞭然だ。
円卓を囲む幹部連中は総じて顔色を変え、目を泳がせている。動揺は波のように広がり、寄せては返し、その都度に大きくなっていく。
腐っても神社上層部。他社からの侵入行為を想定していなかったわけではない。が、想定はあくまで想定であり、言ってしまえば『そんな可能性もあることは認識していた』程度に過ぎない。
誰もが危機感をもって万全の心構えをしていたわけではないのだ。
故に驚愕し、うろたえている。
ただでさえ不測の事態。そこにライバル神社の介入ともなれば、まさしく存亡の危機だ。日和見などしていられない。
「そ、そんな……ど、どうすれば……!」「こ、これではロールバックどころではないのではないか!?」「いや、こうなればいっそ箱庭を放棄するべきでは!?」「し、しかし損害が……! そんなことをすれば我が社の経営が……!」「何を言っている! 箱庭の一つや二つ!」「ただの箱庭ではないぞ! 今の神社の礎ともいうべき重要な箱庭だ!」「コアな古参ユーザーも多い! 廃棄などしたら一体どうなるか……!?」「他の箱庭からも引退を考えられるかも……!?」
喧々囂々(けんけんごうごう)と、これまでの大人しさが嘘かと思うほどの大騒ぎである。
そんな中、変わらずゼウスは静かに構え、ヘラは今なお停止している。特に後者は無様にも円卓に突っ伏したまま、誰からも見向きもされない惨めな状態が続いていた。
――いや、というか副主神、いつまで固まったままのつもりだ……?
余計なことをされなくて都合がいいが、いくら何でも回復が遅すぎる――とアポロンは頭の片隅で疑念を抱く。通常、分身体に不調があろうと一定の処理を行えば問題なく復帰するはず。それが難しい場合であっても、社内の専門担当社員――主神ですら一目置くと噂の女神デメテル――が会議をモニタリングし、必要があれば相応の処置を行うはず。
――何を手間取っているんだ……?
激昂したヘラの分身体が不調をきたして停止するなど日常茶飯事だ。そのため、いつも副主神のプライベートな友人であり分身体のスペシャリストでもあるデメテルが裏で待機し、必要があればリカバーする――今回もその手筈になっていたはずだ。
――変だな……
確かにこのままの方が静かで助かる。話は混ぜっ返されないし、変な方向に逸らされもしない。こうして目論見通りに話を進められる。
だが――不気味だ。
嵐の前の静けさ、などという言葉もある。
妙な前触れでなければいいのだが――
と、アポロンが密かに危惧しているのを余所に、
「――皆様ぁ、お聞き下さいッ!」
鳥かごのヘパイストスが、騒然とした空気を切り裂くように叫んだ。
これまでと違って芯の太い声音だったせいか、全員の意識がそちらへと向いた。
ここへ召喚された時よりなお両眼を真っ赤にしたヘパイストスは、まなじりを決し、歯を食いしばり、何事かを覚悟したと思しき形相で、
「どうか、どうか私の話をッ! お聞き下さいッ! 皆様はご存じないようですが、あのアルサルを始めとした英雄ユニット共は紛れもなく反逆の徒ッ! 我らが美しき箱庭を侵食する害虫ッ! 彼奴らを箱庭から駆逐しない限り――!」
「あーはいはい、ストップストップ」
どう考えても長くなりそうだったので、アポロンは腕を振って適当に遮った。
「というかヘパイストス、さっきは他社の介入がどうとかバックドアがどうとか吠えてたけど、それって他でもない君自身がしっかり調査して、その上で裏付けが取れなかったってオチがついてなかったっけ?」
だから自分の中でも重要度が低い扱いになっていたのだ――とアポロンは内心で言い訳を付け加える。報告を受けた当時は明らかに信憑性に欠けていたのだから、これはヘパイストスの過失であって、自分の認識不足ではない――と。
痛いところを突いたはずだが、ヘパイストスは歯牙にもかけず、
「ええ、そうですとも!! それはそう!! 否定はしません!! その点については逃げも隠れもいたしませんとも!! 私は証拠を掴むことができませんでした!! 何の成果もあげられませんでした!! それは事実です!!」
大いばりで開き直った。それどころか、
「ですが、もうおわかりになったはず!! 彼奴らの異能、チート能力は他社の介入によるものであることが!! 他に考えられません!! 何故なら――この神社に私を超える技術者など存在しないのですからッッ!!」
事態にかこつけて自画自賛まで始める始末。別段、本神は意識してやっているわけではないのだろう。性根に染みついているのだ、自身を賞賛する癖が。
しかし、言いたいことはわかる。この神社の中でヘパイストスが最高の技術者だと誇るのなら、彼の裏を掻いて箱庭で悪さを働くことのできる者など存在しない、ということになる。
つまり、内通者――内部の裏切り者がいるわけではない。ヘパイストスはそう主張しているのだ。
だとすれば、箱庭を不法介入しているのは外部の者――即ち他社のエンジニアということになる。
――確かにその可能性しか考えられないんだけど……そうだとしても、何だか妙な違和感もあるんだよなぁ……
滾るヘパイストスの力説を耳で適当に聞き流し、視界の端に微動だにしないヘラを収めつつ、アポロンは思索の海へと片足を突っ込む。
「…………」
言っては何だが、この神社のセキュリティは完璧だ。その一言に尽きる。
これは過信ではない。誇大妄想でもない。れっきとした事実だ。疑いようもない、ただの【真実】でしかない。
何故なら――この次元そのものが情報で構成されており、その根幹である概念の一つ『イージス』を所有しているのが、この希臘式神社オリュンポスであるからだ。
情報は保護されなければ情報たり得ない――それがこの次元における基本原則だ。
その『保護』を確固たるものとしている概念が『イージス』。
全ての情報を保護し、『情報』としての形式を保つ――この次元世界の根幹としか言いようのない概念だ。
どのような解釈であれ、ことが『防御』『防護』『保護』といった概念と結びつくのであれば『イージス』に勝るものはない。
これある限り、この次元における防護は完璧としか言いようがない。
完全無欠の防御の概念――それこそが『イージス』なのだ。
――要するに、内部の裏切り者はもちろん、外部からの攻撃も基本的には無効化されているはず、なんだよな……理論的には。
絶対防御の概念でもある『イージス』。
その所有者および権利者は、神社の上層部の共同名義である。
つまり複数の所有権利者が存在し、その全員が同意しない限り、『イージス』をどうこうすることはできない。
これによって『イージス』は個神のものではなく、神社の所有となり得るのだ。
そして『イージス』を所有しているのは、高次元広しと言えど、このオリュンポスのみ。
つまりは独占状態。
他の神社ならともかく、『イージス』を保持しているオリュンポスが外部からの侵入を許すとは、まずもって考えられない。
――とはいえ、実際にそうとしか思えない現象が『セブンスヘヴン』では起こってるわけで……
やはりどう考えても箱庭の住人――ただの駒でしかない英雄ユニットが常軌を逸した能力、権限を持っているのは尋常ならざる事態だ。彼ら彼女らが偶さか、その力を手に入れたとは考えにくい。
――というか、ね。【どうしてこの箱庭だけなんだ】? もし仮に……あくまで仮に、外部の奴が『イージス』の防御を突破できるとして。あくまでも仮なんだけどね。でも、それでやることが……箱庭一つへの微妙な介入? それっておかしくね?
完全無欠の防御をすり抜ける――それ即ち、この神社オリュンポスの中枢に触れるのと同義だ。その気になれば何だって出来る。それこそ一つの箱庭どころか、運営している全ての箱庭クラスタを削除することだって可能だろう。なにせ絶対堅固な防壁を越えた先には、完膚なきまでに無防備なリソース空間が広がっているのだから。
だというのに。
現在『イージス』を越えて不法介入をしでかした者、あるいは者達は、大した悪さをしていない。
やったことといえば、数ある箱庭の一つ、さらにその中にいる英雄ユニットと接触――これはあくまで予想かつ推察に過ぎないが――し、妙な力と権限を与えただけ。
おかしい。
あまりにもバランスが悪い。手段と目的がまるで釣り合っていない。やり遂げた成果に対する結果がまったくチグハグだ。
意味がわからない。
――むしろ今の今まで神社に何の損害もなく、平穏無事だったのが不思議なぐらいなんだよな……
ヘパイストスの主張する他社、ないしは外部の第三者について考えれば考えるほど、不可解な思いにとらわれてしまう。
――一体、何が目的なんだ……? 何がしたいんだ……?
侵入者――詰まる所、神社にとっては〝敵〟と呼称すべき存在の意図が一向に見えず、アポロンは困惑する。
――悪意がない? だから大した目的もない? さては愉快犯? それにしたって、やってることの規模がでかすぎない? というかヤバすぎない? 全部が明るみに出たら冗談じゃ済まないぞ?
言うまでもなく不法侵入は重罪である。たとえ肉体を持たない情報生命体の聖神であれ、集団で活動する限り規範からは逃れ得ない。
現在のヘパイストスやポセイドンが権限を凍結され拘束されているように、犯罪者は星幽体に制限を加えられ、自由を奪われる。どこへでも行け、誰にでもなれ、何でも出来るはずの情報生命体が、その意義を喪失するのだ。苦しいなんてものではない。精神だけの存在である聖神にとって可能性を潰される責め苦は、まさしく地獄だ。
その結果として自我が崩壊し、『情報』としての箍を失い、存在意義を喪失する者とている。
アポロンは〝そうなった〟聖神を知っている。故に、ああはなりたくない、と心の底から思う。だからこそ、
――面白半分でやっていいことじゃないぞ? マジで洒落になってないからな? まさか……本気で覚悟してのことじゃない、のか……?
特に目的意識の感じられない、どこか【ふわっ】とした感じの犯行に、戦慄を禁じ得ない。
――適当……そう、悪い意味での適当だ。やっていることの規模の割に、妙に関心が薄い。箱庭の英雄ユニットに干渉するだけして、それだけ。まるで、管理者であるオレ達が箱庭プレイヤーの希望を叶える時みたいに……
箱庭の運営に『救いの手を差し伸べる』と呼び習わす行為がある。運悪く不遇な境地に追いやられてしまったプレイヤーを助ける、いわゆる救済措置のことだ。
多くの箱庭では仕様上、聖神界から人間界へと移動する際、ランダムで初期位置が決定される。
この時、ごく稀に活動不可能エリアへ転送される場合がある。
極端な例で言えば、海や湖の底、火山の火口の内側や、地底の奥深く――時には英雄ユニット用に設置した迷宮の奥や、内側からは脱出不可能な隠し部屋の中など。
こういった場合、特例として運営が救いの手を差し伸べることが規約で決まっている。
箱庭の運営が直接的な介入を行うことを嫌うユーザーは多いが、流石にこの時ばかりは文句を言ってはいられない。そうしなければユーザーの快適な箱庭ライフが阻害されてしまうからだ。
今回の〝敵〟の行動には、それと似た匂いを感じる。
そう、まるで――【英雄ユニットに力を貸すためだけに行動したかのような】。
――いや、いやいやいやいや……まさかね……ねぇ?
あまりにも荒唐無稽にすぎる想像に、アポロンは内心、慌てて否定の言葉を紡いだ。表情管理が間に合わず、つい唇の端が、ひくっ、と引き攣る。
確かに、〝敵〟と英雄ユニットが秘密裏に手を組んでいた、ということなら辻褄は合う。『イージス』の防御を突破し、その痕跡をヘパイストスにすら掴ませないほどの技術の持ち主が、しかし英雄ユニットの要望にだけ応えたというなら、このチグハグな状態にも一応の説明がつく。
だが、辻褄が合うだけだ。
普通ではない。到底、納得などできない。むしろ、なおさら意味がわからなくなる。
これだけの技術を持つ高次元の存在が何故、仮想の世界でしかない箱庭の、その住人のために危険を冒すのか?
今度はそちらがわからなくなる。
どう考えても割に合わないではないか。箱庭の英雄ユニットにチート能力を付与して、〝敵〟に一体何の得があるというのか。
――いや、待て。違う、得ならある。あると言えば、ある……が……
例えば、箱庭を鑑賞して楽しんでいるユーザーなら、確かに意味はあろう。ある意味〝勇者システム〟とは【そういうもの】だ。別世界から転写してきたユニットに特殊な力を付与して、魔王を討伐させる――それが〝勇者システム〟の基本なのだから。
しかし、これは度が過ぎている。そう言わざるを得ない。
英雄ユニットに箱庭の枠を越える力と権限を付与して楽しむ――その悦楽は理解できないでもないが、そんなことと、凍結および拘束される地獄とを天秤にかけるなど馬鹿げているではないか。
リスクとリターンがまるで釣り合わない。少なくともアポロンはそう思う。
――そんなことを歯牙にもかけない異常者、か? それならまぁ、説明はつく、か……?
アポロンは、今なお何事かを喚き続けているヘパイストスを一瞥して、どうにか自分を納得させようとする。
肉体を捨て精神だけの存在となろうとも、各々が持つ個性の振り幅は人間とさして変わらない。聖神にも頭のおかしい奴は一定数いる。実際、ヘパイストスやヘラ副主神がそうであるように。ついでに言えばゼウス主神もそうだ。いかにも厳めしい顔つきで自分は常識人でございという風体をしているが、実際はあのジジイもかなりろくなものではない。流した浮名は数知れず、詳細を聞けばヘラがことあるごとにキレるのも無理からぬ、と納得できるほどなのだ。
つまり、常識では推し量れない頭のおかしい奴はどこにでもいる、ということ。
今回の〝敵〟も、そういう手合いかもしれない。これまで得た要素を考慮すると、その可能性が一番高い、とアポロンは見る。
とはいえ、微妙に腹落ちはしないのだが――
そんな風につらつらと思考を回していると、いつの間にやらヘパイストスの演説がクライマックスへと突入していた。
「――ですから、私は考えたのです! 考えついたのです! あの害虫めらを排除する方法をッ!!」
どうやらこれまでずっと、英雄ユニットがどれほどの害悪なのかを延々と説明していたらしい。
円卓の面々を眺めやると、どいつもこいつも辟易した顔をしている。ヘパイストスの話など聞きたくもないが、立場上そして場の空気的に、しっかり耳を傾けなければならないので仕方なく――と言ったところか。
ほとんどの者が、深海の底で蠢くグソクムシじみた雰囲気を醸し出していた。
「あやつらは殺せません! 殺そうとしても殺せない、そう、まるで魔王ユニットの不死属性を奪ったかのごとく! だからと言って彼奴らと箱庭をまとめて消すのも業腹でしょう! ならば――」
両手両足が拘束されていなければ、さぞ大仰な身振り手振りをしていたであろう。ヘパイストスは踊る芋虫がごとく体を上下左右に動かしながら、喉を反らして高らかに嘯く。
「【排除】です! そう、【隔離】です! 抹殺することができないのであれば、どこか遠く【隔絶】した場所へ追放してやればいいのです!!」
それがさも名案であるかのように、ヘパイストスは顔を歪めて愉悦の笑みを浮かべた。
「どうやるのか、ですか? それは簡単です!」
誰も質問などしていないのに、勝手に問いを想定して話を進めていく。要するに自己顕示欲が強すぎるのだ。この弾けっぷりを見るに、普段からかなり自身を抑制して過ごしているに違いない。変人にも自制の概念があるとは驚きだが――
――ああ、そういえば第七運営部には【あの】デメテルさんがいるんだっけか。そりゃうっかり変なこともできない、かぁ……
副主神ヘラの親友だけあって、役職こそないがデメテルも【かなりのもの】だ。というより、役職がないのは本人がそう希望したからであり、その理由も『自由でいたいので』という途方のないものだったと聞く。しかも、その要望が社内で当たり前のように通っているというのがまた恐ろしいところだ。
――陰の実力者、か。なんなら第七の話だし、あの女神にも来てもらった方が話も早かったかもなぁ……副主神も大人しかっただろうし……
この仮想空間の外で監視しているはずの女傑を思い出し、軽く悔いる。
いざという時のために待機してもらっているデメテルだが、あの女神がそばに居るだけで、多少なりともヘラの理性が補強される。無二の友人であり最大の味方が近くにいることが、ストレスを和らげるのだろう。
「箱庭をもう一つ用意するのです! そう、彼奴らを隔離するための箱庭を! その箱庭と我らの『セブンスヘヴン』を一時的に合体させ、繋げます! そして隔離用の箱庭へとアルサルめとその一党を追い込み、閉じ込めるのです!」
ヘパイストスが高らかに絵空事をうたう。
箱庭をもう一つ用意するのは構わないが、それにどれだけのコストがかかると思っているのだろうか。
そもそも『追い込む』と簡単に言ってくれるが、誰が、どうやって、それを実行するというのか。
スーパーアカウントが二柱もいて手も足も出なかったというのに。
――あ、そっか。彼、そのことはまだ知らないんだっけ?
先述の通り、拘束および凍結状態にある聖神は情報的にも封鎖され、外界の出来事など知る由もない。
そのため、スーパーアカウントをもって下界したポセイドンとアテナがあっけなく返り討ちにあったことを、ヘパイストスはまだ耳にしていないのだ。
「さすれば、さしもの彼奴らも手も足も出なくなるでしょう! 誰もいない箱庭に、たった四人で! 流石に箱庭を渡る術など持っていないでしょうからね! 彼奴らめの絶望に染まりきった顔が実に楽しみではありませんか!」
その口振りはもう既に勝利したかのごとき勢いで、己の計画が無謬であることを確信しているようだった。
そんなはずなど、あるわけないというのに。
「さらに言えば――!」
「あーもういいよ、ヘパイストス。そろそろ黙ろっか」
パチン、とアポロンが指を鳴らすとヘパイストスの口元を塞ぐマスクが再び具現化された。顔の下半分を完全に覆う形状のため、途端にヘパイストスの声は遮断される。
「ンンン――――――――!?」
いきなりの仕打ちに当然のごとく抗議の呻きが上がる。まだまだ語り足りないことが山ほどあるというのに、と血走った目が必死に訴える。
だが、もう聞きたい話は聞き終えた。むしろ余分が多かったほどだ。これまで話させていたのが余程の温情だった、と理解して欲しいぐらいである。
だというのに。
「ンンンンッ!! ンンンンンンンンンンン――――――――ッッ!!」
しつこい。ヘパイストスは鳥かごの中で飛び跳ね、駄々をこねる。跳躍のたびに鳥かごが大きく揺れ、ガシャンガシャンと耳障りな音を立てた。
「――はぁ……もうオレにこの指を鳴らさせないで欲しい、って言ったのに」
これ見よがしにアポロンは溜息を吐くと、パチン、とまた指を鳴らした。
「ンガグブゥッッ!?」
途端、飛び跳ねていたヘパイストスが空中で、ビクーンッ! と硬直し、そのまま凍ったバナナのような体勢で鳥かごの床へと落下した。
ビタンッ! と顔が床に叩き付けられ、そのまま動かなくなる。
静かになった。
「やれやれ……」
うるさいのが黙っただけに、戻ってきた静寂がやけに空虚に感じられる。そんな中、アポロンのぼやきはよく響いた。
しばしの間を置き、円卓の誰かが安堵にも似た息を吐く気配があった。それを皮切りに、場の空気が少しだけ弛緩する。
それを確認してから、アポロンは改めて鳥かごの中へと話しかけた。
「さて……もう話せるかどうかわからないけど、ポセイドン。いけるなら君の話を聞こうか? まぁ無理はしなくてもいいんだけど」
先程、強制的に沈黙させたポセイドンへと水を向ける。
「――――」
が、返ってくるのは沈黙だけ。おそらくまだ気を失っているのだろう。先刻の『お仕置き』が少し強すぎたのかもしれない。
「ふむ……ほいっ」
気付けになれば、と思ってアポロンはまたも指を鳴らした。ごく弱い衝撃を与えて、ポセイドンの目を覚まさせてやろうと。
「――ンブッ!?」
幸い、ちょうどよかったらしい。すぐさまポセイドンが覚醒し、がばり、と芋虫よろしく身を起こした。
「――!? !?」
首から下を拘束服で縛られているポセイドンは慌てた様子で周囲を見回すと、やがて円卓に座すゼウスの顔を見つけ、
「んー!! んんんんんんんー!! んんんんんんんんんんんんッ!!」
気絶する前と変わらず何事かを必死に訴えかける。
「おっと、ごめんごめん、外すの忘れてたね」
アポロンが指を鳴らすと、ポセイドンの口を塞いでいたマスクが幻のように消失した。
そして開口一番ポセイドンが叫んだのは、
「――逃げてくださいッッ!! はよう今すぐッッ!!」
血を吐くような避難勧告だった。
「は……?」
と声をこぼして首を傾げたのはアポロンだったが、他の面子も同じ気持ちだったであろう。
会議の間にまたぞろ白けた空気が漂う。
「……あのさ、ポセイドン、君まで何を言って――」
おかしなことをほざくのはヘパイストスだけで充分だと思いつつ、たしなめようとすると、
「――【来とる】! 【来とる】んやッ!」
アポロンを無視してポセイドンが畳み掛けた。
「俺にはわかるんやっ! 【アイツ】の力なら何百回も喰らった! せやから気配でわかるんやっ! 【アイツが来とる】! もうそこまで【来とる】んやッ!!」
「き、来て……? はぁ……?」
どうにも要領を得ない話に、円卓についた全員の頭に疑問符が生える。ポセイドンが必死に訴えているのはわかるが、その内容がいまいちよくわからない。ポセイドン自身、自分でも何を言っているのか理解していないのだろう。
「せやからはよ逃げなぁッ! はよう逃げ――頼んます逃げてくださいお願いですから早くッッッ!!!!」
最後には涙目になって絶叫するが、やはりその意気込みは空転するばかりで、議場の皆の心にはまったく響かない。
とっかかりの一切ない、微妙な空気が流れる。
「え、えーっとね……」
この得も言えない雰囲気をどうにかしようとアポロンが口を開きかけた時、それは起こった。
『残念だが、もう手遅れだぜ』
突如、どこからか重い声が響き渡った。
「――!?」
聞き覚えのない声音。そこに込められた途方もない【圧】。
議場にいた全員が一瞬にして圧倒された。
姿も見えない声の主に。
「――何者だ?」
対抗するようにゼウスが重苦しい声で問うた。早くも落ち着きを取り戻し、鋭い視線をそれとなく周囲に配っている。
そんな主神の質問に、
『答える必要あるか、それ?』
声の主は尊大にも半笑いで応じた。
しかしゼウスは微塵も動じず、さらに問い返す。
「名前と所属、目的を答えよ」
あるいはゼウスは、相手が聖神――それも社員の誰かだと思っているのかもしれない。アポロンはそう感じた。
別段、おかしなことではない。ここは仮想空間だが、箱庭ではない。箱庭ではないが、社内の一角とも言える。
よって、この円卓の議場へ来られるのは通常、聖神である社員だけに限られる。
常識的に考えれば、だが。
故に主神の対応、態度はもっともなものである。実に当たり前のことだ。何者かわからない相手に名前と所属、目的を問う。実に【まっとう】な質問ではないか。
だから、【相手が勇者ユニットかもしれない】、などと考えた自分の方がおかしいのだ――背筋を何度も往復する悪寒の中、アポロンはそう自分を納得させようとする。
分身体の頭の天辺から足のつま先まで駆け抜ける慄きが、まるで終わる気配がないというのに。
『ははははは、面白い質問だな』
誰とも知れぬ声の主が笑った。もうこの時点で、社内の誰かという線はとうに消えている。神社の最高権力者である主神にこんな口が叩けるのは、副主神のヘラを除けば、社外の者でしかあり得ない。
『いいぜ、せっかくだから答えてやるよ。こんな場所くんだりまでやって来た記念だ。名乗ってやるのも吝かじゃない』
どこまでも傲岸不遜に――そう、【傲慢】に声は笑った。
そして告げる。
『俺は〝銀穹の勇者〟アルサル。お前らをぶん殴りにきた』
それは聖神をして本能的な恐怖を覚えるほど――ドスのきいた声だった。




