●39 勇者が勇者たる由縁
シュラトが合流した後も、俺達は変わらず野営を続けていた。
不毛の荒野と化したイーザローン平野、そのど真ん中で。
無論、北の大国ニルヴァンアイゼンを制圧しに向かっていたシュラトは細かい事情を知らなかったため、新しいコーヒーを淹れつつ説明をした。
「了解」
一部始終を語ると、シュラトは深い声で、しかし端的に得心の意を示した。
別に拍子抜けなどしない。シュラトは昔からこういう奴なのだ。言葉少なだが、頼りになる男――それが〝金剛の闘戦士〟シュラトという男だった。
一方、シュラトの方の首尾はと言うと。
「制圧は完了した。後のことはレムリアとフェオドーラに任せてきた」
シュラトの口から二人の嫁の名前が出ると、俺の脳裏にそれぞれタイプの違う美女の姿が浮かび上がる。
一見すると、たおやかな美姫にしか見えないシュラトの伴侶らだが、ああ見えてイゾリテやガルウィンと同じく〝眷属化〟している。潜在能力を限界まで引き出されているので、その強さは生半可なものではない。もっとも、俺の教え子であるイゾリテやガルウィンほどの才能は持ち合わせてないだろうが。
「妥当な判断だね。君の奥さん二人は政治的なことに詳しいだろうし、セントミリドガルのガルウィン君と連携して上手くやってくれることだろうさ、きっと」
早くもネプトゥーヌスこと聖神ポセイドンの帰還を待つことに飽きたのか、どこからともなく取り出した魔導書を読み耽るエムリスが、どうにも投げやりなことを宣う。姿勢も悪い。宙に浮いた大判の本に尻を載せ、自慢の長い髪をソファの背もたれよろしく寝そべり、同じく髪の毛で作った無数の手で支えた本に顔を向けているのだから。
「いつも助かっている」
表情も声の調子も変えず、シュラトが首肯した。そういえば、シュラトのこういうところはイゾリテに似ている。あいつも恬淡と必要なことだけを言うやつだった。
――いや、過去形を使うな、俺。この世界から消滅してしまったイゾリテを取り戻すために、ここでこうして待機しているのだろうが。
イゾリテは必ず取り戻す――例え、どんな手を使ってでも。
「人間、長く生きてみるもんやなぁ。まさか、こんな風に惚気るシュラトはんが見られるやなんて、思いもせんかったわぁ」
頬に片手をあて、ニニーヴがころころと笑う。そういえばシュラトとニニーヴは久しぶりの再会になるはずだが、それらしい様子は皆無だな。まぁ、高速思考の通信で情報共有はしていたので、今更感が強いのかもしれないが。
「じゃあ、後でヴァナルライガーを落とせば、実質的に人界は統一ってことだな」
中央のセントミリドガルは既にガルウィンが王に即位し、東のアルファドラグーンは魔王――実際はどうあれ世間的にはそう呼称される状態のままだ――エムリスが陥落させた。北のニルヴァンアイゼンが制圧された今、残るは西のヴァナルライガーだけとなる。
と言っても、既にヴァナルライガー軍はほぼ壊滅状態。聖神教会の誇る聖堂騎士団も同様だ。
かてて加えて、先程までイーザローン平野の戦いに居合わせた勢力のほとんどがもはやその勢いを失ったはず。
主に、俺のすぐ目の前でのんびりまったりしている二人の女傑の対決のせいで。
「……いや、人のことは言えない、か……」
俺は呟きながら、改めて周囲を見回した。いまやぺんぺん草一つ生えない不毛の荒野と化したイーザローン平野には、しかし激闘の痕跡は何一つ見当たらない。破壊された各種聖具の残骸も、人間はもちろんのこと魔物や魔族の死体ですらも。
何もかもが、俺達の戦いの余波で吹き飛び、消滅した。
残ったのは、ひたすらに荒れ果てた大地。ただただ、虚無の空間。この地に再び命の息吹、つまり正のエネルギーが満ちるまで何百年、否、何千年かかるのかもわからない。それほど深い傷跡――と呼ぶことすら憚れるが――が刻まれてしまっていた。
しかしながら、俺が言うのもなんだが、これだけで済んだのがむしろ奇跡的だと言っても過言ではない。毎度のことだが俺達の戦いとは、一歩間違えれば即、世界が滅ぶような代物なのだから。
ともあれ、こうして人界統一への障害は全て消え去った。
人間の世界がガルウィン王のもとで一つになる日は、もう目の前である。
「ほなら、こうして待っている間にヴァナルライガーを陥してきたらええんとちゃうん?」
目の前に垂れているエムリスの髪の毛先に手をやり、もてあそびながらニニーヴが嘯く。ちょうどエムリスの浮いているのがニニーヴの直上にあたるので、位置的に髪の一部の先端が彼女の眼前に来る形になっているのだ。
だが、侮ることなかれ。見た目だけなら手持ち無沙汰っぽくエムリスの髪をいじっているだけに見えるが、実はそうではない。ああして手と髪を触れ合わせることで互いの輝紋を直結させ、何やら情報のやりとりをしているらしいのだ。
どうも聖術や聖具、そのあたりに関する情報を交換し、エムリスの研究材料としているらしい。
エムリスも傍から見ると単に魔道書を読んでいるだけのようにしか見えないが、エムリスは思考を分割させることが出来るので、同時に複数のタスクをこなすことが可能なのである。
別段、珍しい光景でも何でもない。十年前の魔王討伐の旅においては、毎晩のように見た二人の姿だ。しかしだからこそ、得も言えぬ懐かしさがこみ上げ、心の奥が締め付けられるような疼きが生まれるのだが。
「――それはダメだ」
「あらあら。即却下されてもうた。なんでやろ?」
黄金の瞳をパチクリとさせるニニーヴに、俺は視線をあらぬ方向へと逸らしながら答えた。
「ヴァナルを制圧しちまったら、セントミリドガルに戻らないといけなくなるだろうが」
ぶっきらぼうに言い放つと、エムリスが割って入ってきた。
「そうだね。まぁ、ガルウィン君もとい、ガルウィン王陛下にちゃんと報告しないといけないからね。もっとも、別に理術の通信でも問題ないとは思うのだけれど……そこはそれ、礼儀や義理の問題と言ったところかな?」
「――? 別にええんとちゃうの? 通信で報告して問題ないんやったら」
小首を傾げるニニーヴに、俺は溜息を吐いた。
「……例え通信でも、今はガルウィンと話すわけにはいかねぇだろ」
「その通りさ、ニニーヴ。アルサルの心情を慮ってあげなきゃいけないよ」
「? ? ? どういうことなん? シュラトはん、意味わかる?」
大仰に肩をすくめて俺に同調してくれるエムリスに、ニニーヴはしきりに小首を傾げ、シュラトに助けを求めた。
「なんとなく、だが」
そう前置きしてから、しかし大柄な青年は事の本質をズバリと言い当てる。
「合わせる顔がない、のだろう」
あまりにも的確過ぎて、ぐうの音も出なかった。
「――あ、せやね。そっか。そういうことやね」
得心がいったらしく、なるほど、と頷くニニーヴ。こういった時、ニニーヴの反応が妙に淡泊なのには慣れている。多分、元いた世界での価値観の違いなのだろう。四人の中で、一番特殊な感性をしているのがニニーヴなのだ。
しかしながら、まったくもってシュラトの言う通りである。
そう。今の俺は、ガルウィンに合わせる顔を持たない。
一体どの面下げて『お前の妹を死なせてしまった』などと言えばいいのか。
しかも、俺の不手際が原因で。
「……はぁ……」
後悔は先に立たずとは言うが、どうにもこうにも悔いる気持ちが抑えきれない。
やはり初期の段階でイゾリテを追い返しておくべきだった。もちろん、とうの昔に聖神ヘパイストスがイゾリテに何かしら小細工を仕掛けていたのはわかっている。だが、それでも、という思いがどうしても拭えない。
あの時、即座に突き放して追い返しておけば――少なくとも今、こんなことにはなっていなかったのではないか?
そんな考えが、いくら振り払っても心の奥底から泡のように浮かび上がってきては、水面でパチンと弾けて消えていく。
いや、わかっている。女々しい思考だということは。過ぎたことをウジウジ考えるのは実に非生産的だ。無駄の極みである。
「……とにかく、だ」
いかん、このままでは気分がどん底まで落ちてしまう――と判断した俺は、努めて大きめの声を出した。
「聖神側でこの世界……箱庭だったか? それのロールバックさえ実行されれば、全部なかったことになってやり直しだ。イゾリテのことどころか、何ならお前ら二人がドンパチやったこともチャラになるかもしれねぇんだ。今は待機一択だ、こんちくしょうめ」
自分で言っておきながら内心ではまったく納得いってないらしく、俺の口調は自然とぞんざいなものになった。
もしかすると、そのあたりを見透かされたのかもしれない。
「へえ、それは随分と――アルサルはんらしくおまへんなぁ?」
「……あ?」
そこはかとなく鋭い棘を絶妙に隠した風なニニーヴの揶揄に、俺の神経がささくれ立つ。思わず威圧的な声を出してしまった。
しかし。
「同感だ」
たった一言、かなり強い語調でシュラトの同意が続いた。途端、凄まじい圧力が場に充満する。
気付くと、この場にいる全員の視線が俺に集中していた。
というか、三人からすごい勢いで凝視されている。
「な、なんだよ……?」
思いもよらぬ展開に、俺はついたじろいでしまった。何故だか、三人ともが責めるような眼差しを向けていたから。
「らしくない」
ズバッと切り捨てるようにシュラトが断言した。
すると、
「――ああ、なるほど。言われてみれば確かにその通りだね。改めて考えると、実にアルサルらしくない」
しれっとエムリスが会話に入ってきて、しかもニニーヴとシュラト側に立ちやがった。二人の意見に同調して、本を眺めながら、うんうん、ともっともらしく頷きやがる。
「なぁ、一体どないしたん? 熱でもあるん?」
今の俺が風邪なんぞひくはずないと知っていながら、ニニーヴはそんなことを訊ねてきた。言うまでもなく、嫌味だろう。
「らしくないって……何がだよ」
仲間達から集中砲火を受けた俺は、苦虫を噛み潰したような声を返した。
エムリスは、ふふん、とからかうように鼻で笑い、
「何がって、決まっているじゃあないか。君のその態度だよ」
「態度だぁ?」
「お使いに出した聖神が帰ってくるのを大人しく待っている――アルサル、君ってそんな悠長な奴だったかい?」
「は?」
いぶかしげに目を細めると、さらにエムリスは嘲笑するかのごとく、はぁぁぁ、とこれ見よがしな溜め息を吐いた。
「なんだいなんだい、自覚もなかったのかい? どうやら君、色々とあって及び腰になっているようだね。まぁ無理もないと思うのだけれど」
「何の話だよ」
「だから、君の【性格】の話さ、アルサル。十年前の鬱陶しい熱血野郎の君はどこへ言ってしまったんだい? 十年という月日は君の魂から熱を奪ってしまったとでも?」
エムリスめ、やけに仰々しい言い方をしやがる。舞台の台詞でもあるまいに。変に芝居がかった口調が何故だか妙に神経に障った。
俺は苛立ちまぎれに舌打ちするのを堪えつつ、
「当たり前だ。十年一昔、魔王を倒した俺達のことが忘れ去られるぐらい世の中だって変わるんだ。俺だって大人になるに決まってるだろうが。青臭い時の話なんかされてもどうしようもねぇぞ」
はんっ、と吐き捨てたところ。
「それでも、アルサルはアルサルだ」
意外なことにシュラトが反駁してきた。真紅の双眸がこちらをひたと見据え、
「本質は変わらない」
はっきりと断言する。
「せやねぇ。ウチの知っとるアルサルはんは、こないなところで油売っている暇があったら、自分から乗り込んでいく人やったさかい。【らしくあらへん】っちゅうのは、つまりそういうことどすえ?」
「な、何を根拠に……」
「根拠も何も、【それ】が君だったじゃあないか、アルサル。守りに入って手をこまねくぐらいなら、無謀でもいいからとにかく突撃する――十年前、魔王を倒す旅の中でいくらでもやったことだろう? 覚えていないとは言わせないよ」
シュラトに追従したニニーヴにどうにか言い返そうとするも、中途で遮られ、エムリスにねじ伏せられた。
覚えていない――とは流石に言えない。そう言ったら嘘になる。嫌になるぐらいばっちり覚えていた。
「…………」
もはや返す言葉もなかった。
「懐かしおすなぁ。あの頃のアルサルはんは、ほんまによう尖がっとってなぁ」
「まったくさ。覚えているかい、ニニーヴ? 魔界に突入してすぐの頃の作戦」
「へえ。あった、あったわ。えらい無茶しよった時のやろ?」
「そうそう。『果ての山脈』を越えてすぐ、当時のボク達の力では微妙に敵いそうにない連中がいてさ。でもアルサルが絶対に倒してから進むと言って聞かなくてさ」
「四人で連携して、罠にはめて全滅させた」
「あら、シュラトはんも覚えとるん? ほんま、道中は色々とあったけど、あの時のが一番しんどかったかもおまへんなぁ」
「確か、ボクが森の奥に大きな攻撃魔術の陣を仕込んでさ、そして君達三人が囮になって引きつけてね」
「発動時に巻き込まれかけて、危ないところだった」
「ああ、そうだった! シュラトが一番深くまで敵をおびき寄せてくれたから、炸裂時に君にも魔術がかすってしまったんだったね」
「そんで、シュラトはんの傷をウチが治したんよ」
昔話に花が咲き、エムリスとニニーヴが楽しげに笑い、シュラトすら微笑の雰囲気を纏う。
が、俺に視線を向けた途端、はん、と鼻で笑って肩をすくめ、
「やれやれ。初めて出会った時は大人しくて、中庸な性格の持ち主だと思ったから、ボクは君をリーダーに推したのだけどね。まさか、旅を続ける内にどんどん前のめりになって、絶対魔物殲滅主義者になるとは夢にも思わなかったよ」
なんだよ、絶対魔物殲滅主義者って。そんなの聞いたことないぞ。
「せやけど、熱うなったからいうて、無理くりな特攻だけはせぇへんかったなぁ。アルサルはんはいっつも驚くぐらい冷静で、やけに具体的で、それでいて緻密な作戦を立ててくれとった。そのくせ、敵さんを殺すことに関してはウチらが引くぐらいの情熱と執拗さがあってなぁ」
「命懸けだった」
過ぎた過去を想起するニニーヴに、シュラトが重く相槌を打つ。
「――もういいだろ、あの頃の話は」
いかん。この話題は俺だけ一方的に不利だ。たった一年程度とはいえ、魔王討伐の旅は濃厚すぎた。こいつらは俺の黒歴史を知悉している。三人で手を組まれたら俺に勝つ術はない。
「それに……いや、何でもない」
エムリスの言う絶対魔物殲滅主義とやらについて言及しようと思ったが、どうにも言い訳くさいものしか思いつかなかったので中止する。
すると、
「おや? 何か言いたいことがあったんじゃあないのかい?」
エムリスが楽しげに食い付いてきた。まるで獲物を見つけた野獣のごとく。
「もういい、言っても無駄だ」
「そう拗ねるものじゃあないさ、アルサル。言い分があるなら聞こうじゃあないか」
「……チッ」
「な、舌打ちしたね!? なんて失礼な男なんだ君は! 仮にも仲間に向かって! いくら何でも余裕を失い過ぎじゃあないかな!?」
意地悪モードに入っていたエムリスが、俺が苛立たしげに舌打ちした途端、過剰な反応を見せやがった。なんだこいつ。今の俺がどんなに余裕を失ってるのか見誤ってやがったのか? こちとら大事な教え子を奪われてる上、自分の身がおかしなことになってるんだ。他人に気を遣う余裕なんぞあるものか。
とはいえ、ここで変にこじれては更に面倒だ。
俺は、はぁ、と溜息を吐いて自己制御。
「――別に。あの頃の俺が急に必死になったのは、単に自分の勘違いに気付いたからだよ」
「へえ? 勘違い? それはどういう意味なんどす?」
ニニーヴが小首を傾げ、興味深そうにこちらを覗き込んでくる。
俺は仏頂面をしながら、記憶の抽斗をあさっては当時の感情を思い出しつつ、
「……ぶっちゃけ、こっちの世界に来た当初はゲーム感覚だったんだよ。自分でも無自覚にな。だってそうだろ? いきなり召喚されて、お前は〝勇者〟で、異世界の危機だなんだ――とか言われて。そりゃもう、ゲームや漫画みたいじゃんって浮かれても当然だろうが。なにせ当時はただのガキだったんだからな」
まぁ実際には召喚ではなく、存在情報のコピーアンドペーストだったわけだが、それはともかくとして。
「そんなもんで、口ではあーだこーだ言いながら、その実……心のどっかじゃ軽く考えてた。楽観視していた、とも言えるな。どうせ俺は勇者なんだから、それなりに苦労はあるだろうけど、最終的には予定調和っぽく全部上手く行くんじゃねぇかって――そんな風に思ってたんだ」
今思い出しても、我ながら浅慮なガキである。表面上は『世の中はそんなに甘くない』などと嘯いて斜に構えておきながら、心の奥底では生存バイアスだらけの思考に凝り固まっていたのだから。
「でも当然、そんなのはどえらい勘違いだったよな」
思わず自嘲の笑みが浮かぶ。そう、あまりにも浅はかな思い違いだったのだ。
「魔物と戦えば当たり前に大怪我して。一歩間違えれば死ぬような目にもあって。つうか、今こうして生きているのが奇跡だって断言してもいいぐらい、滅茶苦茶な毎日だったよな。勇者だの魔道士だのなんてのは、所詮ただの言葉。大層な肩書なんざ何の役にも立たなかった。どんな御託を並べようが、魔物の爪や牙に喉元引き裂かれりゃ誰だっておっ死ぬんだ。そんな当たり前のことが、こっちに来たばかりの俺にはわかっちゃいなかった」
冗談抜きで、死の寸前まで行ったことが幾度もあった。回数なんて数えきれない。特に魔界に入った後なんて顕著だった。戦いが始まれば、今の一秒から次の一秒への綱渡り。生と死の狭間を駆け抜け続け、気付けばまだ呼吸している自分を見つけては『よかった、まだ生きている』などと安堵する――その繰り返し。
「……最初の一歩を踏み間違えた時に、ちゃんと気付ければよかったんだけどな」
くどいようだが、俺の考えは凝り固まっていた。岩よりも固く、それこそ鉄のように。
だから、すぐには気付けなかった。
「結局、自分の見ている世界が楽観主義のフィルターを通してのものだったって気付いたのは、無関係の人間が死んでるのを見た時だったよ」
誰のものであれ『死』というものは衝撃的だが、一番最初のものほどインパクトを持つものはない。
――あれはまだ、俺達四人がアルファドラグーンを旅していた頃のことだ。
極東の『魔界』と隣接するアルファドラグーンは他国よりも魔物や魔獣の出没数が多く、それに応じて被害も大きかった。
そんなアルファドラグーンの北寄りの辺境の、そこそこ大きめの村――だったと思う。
結論から言おう。手遅れだった。
おそらく、付近の集落や王都、冒険者組合などに助けを求める暇もなかったのだろう。
俺達四人が訪れた時には、事後一日から二日が経過しているように見えた。
村人は全滅していた。
魔物の群れに襲われて。
邪悪なる獣共の爪や牙に蹂躙され、ことごとくズタボロの肉塊へと化していた。原形をとどめている者など一人もいなかった。女子供も関係なく、容赦なく食い散らかされていた。歩いていて、ふと何か柔らかいものを踏みつぶしてしまったような感触があった。あれはおそらく、周囲の状況からして、誰かの眼球だったのかもしれない――と今でも思い出すたびに怖気が走る。
俺達四人が召喚され、セントミリドガルの王都を出てそれなりに月日が経っていたが、この時まで俺は明確な【人間の死】というものを目にしたことがなかった。
無論、諸々の事情があって迷宮に潜ったりすると、かつての敗残者が骸を晒していることも少なくなかった。だがそれは長い年月を経て朽ちてしまっていて、ミイラ化するか白骨化しているかのどちらかだった。
人間大のオブジェ――そう、教科書や博物館で見かける太古のミイラや、化石化した白骨を見ているような気分に近かったのだ。もちろん、そこで誰かが死んだという事実そのものは、総毛立つほど恐ろしかったが。
だが、俺はそれらの遺体に対して【体温を感じていなかった】ように、今なら思える。
一方、【できたて】の村人の屍の山は、あまりにも生々しすぎた。
まだ乾いて固まり切れていない血だまり。墨を落としたようにどす黒く変色した血痕。ザクロのように開いた傷の断面は、乾燥してビーフジャーキーみたいになっていた。
衝撃的だったのは、なにも見た目だけのことではない。
周囲に漂う腐臭。例えようもないが、強いて言うなら――鼻と喉の奥に手を突っ込み、胃の中を直接まさぐられるような、そんな嫌な匂い。
吐き気が止まらなかったし、実際に俺は朝食を戻してしまった。
嘔吐くだけ嘔吐いて、やがて嫌でも気付く。
【これ】が現実なのか――と。
全身にかかっていた分厚い膜が、一気に剥ぎ取られたような。怒濤のごとき現実感が俺の精神に襲いかかり、それまでにあった楽観的な認識を根こそぎ押し流していった。
バケツで氷水をぶっかけられたような気分だった。
人が死んでいる。殺されている。それも、これ以上もなく残忍な方法で。
目の前にある死体の群れは、かつてないほどグロテスクな感触を俺の五感に与えていた。
それこそ、死というものの【手触り】が感じられるほどに。
そうだ。人は死ぬのだ。この世界は作り物めいてはいるが、しかし決して作り物ではない。元いた世界と同じく、当たり前のように人が生きて、当たり前のように死んでいく――そういう世界だった。
そんな世界に生きる人々を救うべく――目の前にある屍の山を生ませぬよう――俺は〝勇者〟として召喚されたのだ。
やっとそれがわかった。理解できた。
この村人達にとっては、とうに手遅れではあったけれど。
「……あれからだったな。俺の意識が変わったのは。強制的に頭のスイッチが切り替わっちまった」
俺の話を聞く三人が、揃って神妙な表情を浮かべていた。きっと同じ場面を思い出しているのだろう。
当時の反応を思い出すに、シュラトとニニーヴは人間の死体を見ることに慣れているようだったが、それでもなおショックを受けている様子だった。エムリスにおいては言わずもがな。理屈が先行しがちな奴は、目の前にある現実から刺激を受けやすいものだ。俺と同じく胃の中のものを嘔吐していたのをよく覚えている。
「目が覚めた、って感じか? ゲーム感覚だったのが急に現実味を帯びてきやがってな。自分の行動一つで、こういう犠牲者が増えたり減ったりするんだ……って、いきなり自覚しちまった。適当にのんびりしていたら、こういう村がもっともっと増えるんだ――とか考えると、もういてもたってもいられなくなってな」
こんな逆境の世界を救うのが自分の使命なのだ――遅まきながらそう認識した瞬間、めちゃくちゃに焦ったのを覚えている。
とっくのとうに四の五の言っていられる状況ではなかったのだ、と気付いた。この世界はずっとずっと追い詰められていたのだと。俺の知らないところで、俺の知らない命が、一秒ごとに失われていく。残酷に殺されていく――と。
人の命がかかっているのだ。『どうせなんとかなる』なんて考えている場合か――と、見えない掌に頬をぶっ叩かれたようだった。
「だから、前のめりになったんだよ。一分一秒でも早く、魔王を倒さないといけない――ってな。そんだけだ。マジでそんだけ」
そう言って、俺は話を打ち切るように片手を適当に振った。
思えばあの頃、俺の中に芽生えたのは『勇者としての自覚』のようなもの――だったのだろう。どんな経緯であれ自分は世界を救うべく呼び出された人間であり、その己が仕事を全うしない限り、無辜の人々は終わることなく犠牲になり続ける。
そう。俺がやらねば誰がやる?
そういった気持ち――否、【思想】へと至ったわけだ。
我ながら歪んでいる。
今になって思えば、そこまで思い詰めることもなかろうに。
だが、俺も若かったのだ。あの頃は十代前半。思春期も真っ盛り。無理もない話か。
はっ、と吐き捨てるように笑い、
「ま、今となっちゃ人間なんざ滅びさえしなければどうなったっていいけどな。魔王や魔族にどうこうされるんならともかく、内輪もめで数を減らす分には自業自得の極みっつー話だ。流石にそのへんは勇者の出番じゃねぇからな」
俺のスタンスについてはこれまでも述べた通りだ。外敵からの侵略に対しては剣にでも盾にでもなってやるが、内輪もめには出来るだけ関わりたくない。まぁそんなことを言いつつ、ガッツリと関わってしまっている我が身の情けなさが骨身に沁みるわけだが。
「ふぅん……ま、そんなことだろうとは思っていたけれどね」
やたらとせっついて俺から話を引き出した張本人であるエムリスが、しかしつまらなさそうに吐息を一つ。いや予想がついていたんならいちいち聞くなよ、まったく。
「同感だ」
かと思えば、シュラトまで重苦しく同意しやがる。おいおい、そんなにわかりやすかったか、当時の俺?
「わかりやすかったえ、そらもう」
「……いや心を読むなよ!? 怖いなお前ニニーヴ!」
いきなり俺の心の声に同調するような言葉を吐くニニーヴに、思わず声を高めてしまった。
ニニーヴはコロコロと笑い、
「へえ、いかにも『俺ってそんなにわかりやすい奴だったか?』みたいな顔しとったさかい。うふふふ」
くそ、そんなことまで顔に出てやがったか。それにしたってニニーヴのやつ、俺の表情を上手く読みすぎだろ。空恐ろしい眼力である。
「と、ともかくだ。あの頃の俺は焦っていたし、視野も狭かった。それは認める。認めざるを得ない。だけどな、だからってあの時の俺を指して『俺らしさ』どうこう言われても困るだけだ。俺からしてみれば『らしくない』ってのは、むしろあの頃の方なんだからな」
「じゃあつまり、今の君こそが『アルサルらしいアルサル』とでも言うのかい?」
「……それはそれで、ちょっと肯定しにくいけどな」
「何だいそれは」
俺の微妙な物言いに、エムリスが呆れの息を吐く。
「あのな、見りゃわかるだろ。落ち着いているように見えるだろうが、今俺の中には八悪の内六つが宿ってんだぞ? こんな状態が『俺らしい』なんて言えると思うか?」
「あらあら、それもそうやなぁ? ほな、そっちの意味でも落ち着いて話しとる場合やないんとちゃう?」
遠回しに同意してくれたニニーヴだったが、その言葉に隠れた不穏さを嗅ぎつけ、俺は聞き返す。
「――? どういう意味だ?」
「せやから、アルサルはんの中に八悪の因子が六つも入っとる状態がもうおかしいんやろ? 幸い今は何ともないみたいやけど……いつ【おかしくなっても不思議やない】んとちゃうの? 大丈夫なん? こんなのんびりしとって」
「…………」
何となく頭の片隅で考えてはいたことだったが、こうしてストレートにその点について問われると、言葉に詰まってしまった。
刹那、自分が絶句してしまったという事実そのものに、内心で愕然とする。
――思考停止、していたのか? 俺が……?
そう、頭のどこかではわかっていたはずなのだ。わかっていたはずなのに、そこから先の思考を進めなかった。何の対策も立てようとしなかった。半ば無意識に。
「おやおや、どうやら無自覚だったようだね。イゾリテ君を喪ったダメージは思った以上に深かったようだ。ま、それこそ【アルサルらしいと言えばアルサルらしい】のだけどね?」
二の句が継げず硬直してしまった俺に、エムリスのからかうような声が浴びせられる。心なしか、一パーセントほど憐憫の情が混ざっているようにも聞こえた。
「やはり、らしくない」
シュラトも追い打ちをかけてくる。今度ばかりは否定の気持ちも浮かんでこない。
「因子の影響なんかな? ま、しゃーなしやね」
ニニーヴが同情的なことを言ってくれるが、そういう言葉こそが逆に刺さる。我知らず〝自分らしさ〟を見失っていた己が、ひどく惨めな存在のように思えてくるのだ。
「おそらくだけれど、八悪の因子の数が増えたことで自然と自制心が強くなってしまったんだろうね。そのあたりについては、流石は我らが勇者様、なんて褒めてあげたいところだけれど……」
やれやれと言わんばかりの口調は、言うほど褒めたいと思っているようには聞こえない。
「さて、そんな我慢強い大人になったアルサル君に朗報だ。聞くかい?」
妙に回りくどい言い方に少々イラっとくるが、ここでキレてはエムリスの思うつぼだ。俺は溜息をこらえつつ、
「いちいち煽るような言い方すんな。今の俺がちょっとおかしいってことはよくわかった。さっさと話を進めろよ」
朗報とやらの続きを促した。
「今、【裏】でニニーヴと色々と情報交換やら情報処理やらのやりとりをしていたんだけれどね、なかなかに面白いことがわかった」
「へえ、思いついたんはエムリスはんやけど」
裏というのは、俺達がその気になれば発動できる高速思考の世界のことだろう。こうして駄弁っている間も、二人が高速思考による情報共有を続けていたことは察していたが。
「具体的には」
シュラトも気になったのか、言葉少なに先を求める。
エムリスとニニーヴは一瞬だけ顔を合わせ、視線を交わす。それから、うん、とエムリスが頷き、
「――結論から言おう。アルサル、君だけなら聖神の世界――即ち【高次元】へ行けることがわかった」
「……は?」
唐突過ぎる話に、思わず変な声が出た。
「聖神の世界って、お前……」
それはつまり、
「……情報生命体しか行けない次元に行けるって、そういうことか?」
「正確には【行ける】というより【介入できる】と言った方がいいのかもしれないけれど――つまりはそういうことだね」
荒唐無稽な話を、しかしエムリスは自信満々に肯定した。
「君の意識が次元を超越し、聖神と同じ〝神の領域〟へと至ることで可能となる。あっちまで自由に行き来できるなら、別にネプトゥーヌスとやらの帰還を待つ必要なんてないだろう? いつもの君よろしく、力尽くでどうにかしてくればいいさ」
「おいおい、簡単に言うけどな……」
次元を超越する――それがどれだけ途方もないことなのか、俺はよく知っているつもりだ。例え、それが意識だけであっても。
次元が違う、なんて修辞表現があるが、要は『突破することが不可能』であることを示している。つまり、次元の壁は超えられないという大前提がある上での表現なのだ。
実際、初めて魔王と対峙した時に俺はそう思った。【こいつは次元が違う】――と。絶対に勝てない、それどころか絶対に殺せない、と。
そんな魔王を殺したこと自体が、まさしく『次元を超越する』に等しい奇跡だったのだ。
しかし――
「不可能だと思うかい? けれど、必要な条件は揃っているじゃあないか。くしくも、【あの時】のように」
不敵に笑うエムリスを見て、俺も気付いた。
そうだ、確かに。今ここに、【あの時】と同じ条件が全て整っている――と。
「へえ、アルサルはんがいて、エムリスはんがいて、シュラトはんもいて、ウチもおって」
微笑を浮かべたニニーヴが、掌で順に俺達を示し、
「八悪の因子が、ここにある」
シュラトが己の胸に握り拳を押し当てながら、言い切った。
そう、揃っている。
魔王を殺しおおせた時と、同じ条件が。
次元を超越するために必要な力の根源が、ここには揃ってしまっているのだ。
「ただし、問題がないわけじゃあない。ボクの見立てなら、アルサル、君一人に八悪の因子を集中させて、ニニーヴの『神威降臨』を併用すれば、理論上は聖神のいる次元へ行くことが可能だ。もちろん、君の肉体はこの世界に置いたままでね。というか、置いていかざるを得ない。流石に君を丸ごと情報生命体にするのはリスクが大きいというか、単純に【戻ってこれなくなる】からね。まぁ、彼ら聖神のような手法を使えば、その限りではないのだろうけれど……」
「それは流石に御免こうむるな」
俺自身が聖神と全く同じ存在になるなど、とんでもない。死んでも願い下げだ。反吐が出る。
「そう言うと思っていたよ。さて、この方法の最大の問題点は――」
「俺への負担がデカすぎて、最終的にどうなるかが全く予想がつかねぇってんだろ?」
勿体ぶって語ろうとしたエムリスを先取り、俺は結論を述べた。
「ご明察やねぇ」
「一目瞭然」
すかさずニニーヴがからかうように褒めそやし、シュラトが身も蓋もないことを呟く。
考えるまでもない話だ。
今の俺はどういうわけか【ごちゃ混ぜ】状態。勇者であり魔王であり、八悪の因子を六つも宿す前代未聞の怪物だ。
ここへさらにシュラトの持つ〝色欲〟と〝暴食〟を追加した上、ニニーヴの『神威降臨』でブーストするときた。
ただで済むはずがない。
十年前、四人で八悪の因子を用いて魔王を殺した際も、存在としての本質を根底から作り換えられた。
不死に、一定の状態からは衰えない不老。人の身には到底収まりきらない膨大な力。気を緩めれば容赦なく精神を犯して乗っ取ろうとしてくる悪魔の因子。
こんな俺達を、羨ましい、なんて思う人間もいるかもしれない。いや、間違いなくいるだろう。
永遠の命は人類の夢と言っても過言ではない。永久の栄華、無限の謳歌、悠久の享楽――
だが、そんなものは【まやかし】だとしか言いようがない。
見てみろ、聖神を。
あの不老不死の情報生命体を。
あれが理想か? あれが究極か? あれが果てない夢の行き着く先か?
ただの【なれ果て】ではないか。
少なくとも俺は、あんな奴らを羨ましいなどとはこれっぽっちも思わない。まったく一切、微塵の一つも。
肉体を手放して永遠を手にした挙句が、快楽と愉悦にうえ、俺達のいる『箱庭』のような【かつて自分達がいた世界に似せたもの】を作り、それを眺めて無聊を慰める――そんな存在に堕するなど。
結局のところ、永遠と退屈は表裏一体、背中合わせのものなのだ。
よって不老不死というのは、手に入れた時点で〝永遠の退屈〟が約束された、カス以下の代物なのである。
つまり何が言いたいのかというと、十年前の時ですら不老不死のようなクソ副作用があったというのに、今度は八悪の因子を一身に集めた上で無茶をやらかした日には、何がどうなっても不思議ではない――という話だ。
「最悪、この世界から消滅する危険性だって、ないわけじゃあない」
珍しく真面目な顔つきでエムリスが言う。真っすぐ、俺の顔を見つめながら。
俺は、はっ、と鼻で笑い、
「ま、消えるだけならまだマシというか、ある意味じゃ望むところなんだけどな」
死にたくても死ねない呪いがかかっているのだ。いっそ消滅できるというのなら、それも悪くない。
しかし。
「――これが例えば、どこかもわからない空間に一人で閉じ込められるとか、そういうのはマジで勘弁なんだよな……」
そう、そういうのが一番きつい。ただでさえ〝永遠の退屈〟が約束されているというのに、そこに孤独まで合わさると冗談抜きでまずい。想像しただけで胃に来る。
死ねないということは、終わることができないということ。そんな状態で絶対に出られない牢獄に囚われた日には、この世界に生まれてきたこと自体を恨むことにもなろう。
俺達みたいな不老不死の存在には、そういうのが一番効く。
あと、実際に俺が聖神らにやったように、死なないのをいいことに延々となぶり続けるとかな。
俺は真剣な眼差しを向けてくるエムリスに振り返ると、
「でもお前はどうせ、【それでも俺はやる】とか思ってんだろ?」
でなければ、最初からこんな話はすまい。
リスクがあるのは承知の上で、なお俺という男は実行に移すに違いないと、エムリスは踏んでいるのだ。
あは、と〝蒼闇の魔道士〟は笑い、瀟洒に肩を竦めてみせた。
「そう思っていない人間なんてこの場には一人もいないさ。ねぇ、そうだろう? ニニーヴ、シュラト」
その問いかけに〝白聖の姫巫女〟と〝金剛の闘戦士〟は同時に頷き、
「へえ、アルサルはんが今も〝勇者〟なんやったら」
「実行して当然」
確信に満ちた瞳で俺を見つめてくる。
まったく、変な信頼だけは高いんだな、俺ってやつは。まぁ、自業自得なんだが。
ならば、仲間の期待には応えてやらねばなるまい。
「はっ――」
他ならぬ〝銀穹の勇者〟として。
「――勇者を舐めるなよ?」




