●35 収束する因果 2
いつかのシュラトがそうだったように、例え八悪の因子に支配されていようとも、そいつが有していた戦闘力には些かの陰りもない。
それも当然の話で、要は今のエムリスとニニーヴを動かしている人格は、本来の二人のコピーみたいなものだ。
八悪の因子から生まれる悪魔には、〝怠惰〟や〝残虐〟、〝嫉妬〟や〝憤怒〟と、それぞれに冠された名前通りの一面がある。だがそれはあくまで一面に過ぎず、その要素だけで一つの人格とはなり得ない。
故に悪魔は宿主の人格を模倣し、そこに自身の持つ一面を付与、および増幅する。
シュラトの例があまりにもわかりやすいが、知っての通り本来のあいつは〝色欲〟とも〝暴食〟ともほぼ無縁の男だった。が、さりとて欠片も欲望を持っていなかったはずもなく。そのほんの微かな欲を悪魔に絡め取られ、殊更に増幅され、あのような以前の面影など一切ないチャラチャラした優男になってしまったというわけだ。
それでいて、本人はその時の記憶がバッチリ残っているというのが本当に救いがたい。シュラト曰く『別の自分が勝手に体を動かしているのを、映画でも見るかのようにただ眺めていた』という感じだったらしいが。
「 〈ジ・エンド〉 」
禁呪を解放したエムリスが、その『究極魔法の概念』を用いて俺に終焉を叩き付けてくる。
自らを魔法そのもの――魔の法則たらしめる『究極魔法の概念』、それがエムリスの禁呪。そこから発動する〈ジ・エンド〉は魔術などといったチャチなものではなく、魔が支配する世界の真理そのもの。ひどく単純に言うならば『死ね。それが世界の法則だ』という、死神の無慈悲な宣告なのだ。
そこに攻撃といった概念は存在しない。死は死。死ぬべきものは死ぬ。ただそれだけの話。
無論、俺の剣はそれすらも切り裂くのだが。
「 〈夢幻泡影〉 」
一方ニニーヴが発動させるは、究極の防御にして治癒の聖術。
〝白聖の姫巫女〟ニニーヴの切る奥の手は、その名も『神威降臨』――字面のまま、神の威光をその身に降ろすことを示す。
そう、今、ニニーヴは身も心も神と一体化し、超高次元存在そのものと化していた。
悪魔の意思に支配された聖女が、その体に神の力を降臨させるなど質の悪い冗談にしか聞こえないが、事実そうなっている。
この世界に召喚された際、ニニーヴに与えられたのは『永劫回帰の概念』だった。
俺の『絶対切断の概念』、エムリスの『究極魔法の概念』、そしてシュラトの『無限成長の概念』と同じく、魔王と戦うために絶対に必要な特殊能力の一つだ。
永劫回帰――森羅万象は永遠に螺旋を描き、決して終わることはない。この概念を付与されたものは『未完』――即ち『終わることのない』性質を持つ。
前にも言ったが、魔王は存在そのものが〝死〟だ。死の化身だ。死神よりもなお恐ろしい、死の具現化だった。
なにせ、まっとうな生き物は近付くことはおろか、肉眼で視認することすらできない。そんなことをしたら、それだけで死んでしまう。よしんば見ることに耐えられたとしても、魔王の息を浴びた時点で完全にアウトだ。魔族や魔物でも、かなり上級の奴でもなければ魔王城に入ることすら叶わなかったという。
俺達が戦ったのは、そんな埒外の怪物だったのだ。
それほどの化物と戦う――いや、勝利するためには、ニニーヴの持つ『永劫回帰の概念』が絶対に必要だった。
そして、たった今発動させた〈夢幻泡影〉も。
読み方を変えれば『夢幻泡影』という熟語になるこの聖術は、ニニーヴの有する『永劫回帰の概念』と似て非なるものであり、ある意味では真っ向から対立する意味を孕んでいる。
この世の全ては実体がなく、とても儚いもの――それが『夢幻泡影』の意味だ。
全ては永遠に繰り返し決して終わることのない、永劫回帰。
全ては夢幻で泡か影のごとく儚く消えてしまう、夢幻泡影。
矛盾しているようだが、だからこそ合一した時には相乗効果を生み、とんでもない結果を生む。
ニニーヴの切り札は、一言で説明するなら『無敵状態の付与』ということになる。
その身を神の次元まで引き上げ、自らの示すものを永久にして不変な存在へと定義する。そうすることによって対象は死という概念から解放され、また傷つくべき肉体すら喪失する。
と言っても、俺達は既にほぼ似たような状況なのだが――それとこれとはまた別だ。
まさしく【別次元】。
これによって魔王の起こす脅威はしかし、俺達にとっては微風以下のものとなった。それでもなお、あの天災の魔王は俺達を殺し得る奥の手を持っていたのだが――
とにかく〈夢幻泡影〉を発動されたのなら、ある意味そこで戦いは終了となる。
何人もニニーヴにダメージを与えることは出来なくなるのだから。
そう――【常識の範疇にある力】では、決して。
「――おい舐められてんぞ〝傲慢〟! テメェも好きなだけ暴れろ〝強欲〟!」
大上段に構えた〝星剣レイディアント・シルバー〟を疾風迅雷の勢いで振り下ろしながら、俺は体内に宿る因子に発破をかけた。
既にリミッターは外してある。枷などない。日頃の拘束から解放された二つの因子は、水を得た魚のごとく荒れ狂った。
「――ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
電光石火の一閃。
夜空、すなわち宇宙を刀身とした〝星剣レイディアント・シルバー〟は天を突き、空を断ち、虚を裂く。
そこへエムリスの〈ジ・エンド〉が襲いかかってきた。
終焉を叩き付ける〈ジ・エンド〉はもはや魔術を超えた『魔法』。火炎や稲妻のような目に見えるわかりやすい形を持たない。これもまた概念の一種だ。
だからこそ、俺の『絶対切断の概念』と八悪の因子を掛け合わせた力で、強引にねじ伏せる。
「――しゃらくせぇんだよッ!!」
斬った。確かな手応え。俺の〈スーパーノヴァ〉は止まらない。絡みつく終焉の触手を猛然と振り払い、真っ逆さまに落ちる。
先に反撃があったのはエムリスだったが、〈スーパーノヴァ〉の太刀が届くのは、位置的にニニーヴの方が早い。空中に浮かぶ機械天使めがけて、夜空の刃が振り落とされた。
直撃。
ニニーヴが身にまとう淡い純白のオーラに、刀身が食い込んだ。
「――ッ!?」
まるで木の棒で巨大な粘土を叩いたような手応え。俺の腕が急制動を受け、一気に減速する。
振り抜けない。
ニニーヴの『永劫回帰の概念』を受けた〈夢幻泡影〉の効果が、硬さで跳ね返すのではなく、泥土のように受け止め、斬撃を殺し、呑み込もうとしているのだ。
無論、刀身はニニーヴ本体には届かず、傷つけることは叶わない。畢竟、届いていたところで結果は変わらなかっただろうが。
頭上のほんの少し上で静止した〝星剣レイディアント・シルバー〟の刃を、ニニーヴは軽くおとがいを上げて見上げると、
『――おうコラ何してくれとんじゃワレェ!! 調子乗ってると××の××から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタいわしたるぞオラァアァアァッッ!!』
いっそ般若が可愛く見えるほど歪んだ形相を浮かべ、金切り声でわめき散らす。
もはや本人の面影など微塵もない。〝憤怒〟の影響に染まっている。天使という呼び名がまったく似合わない。あんな不細工に歪むニニーヴの顔など見たくなかった。
一方、俺も俺で〝傲慢〟と〝強欲〟の因子が暴走状態にあるため、ほぼ無意識でこう返してしまう。
『うるせえ! テメェこそ頭が高いんだよ! この俺を――見下ろしてんじゃねぇええええええええええぇッッッ!!!!』
ゾンッッッ!!!! と一度は止まったはずの〝星剣レイディアント・シルバー〟に異常な加重がかかった。
傲慢の化身〝ルシファー〟は己よりも偉そうな奴が我慢ならない。そいつを蹴落として上に行くためには、無限の力を発揮するゲス野郎だ。
ググッ、と刃が少しずつだが再び下へと動き始める。
『!?』
ニニーヴの皮を被った悪魔が驚愕に目を剥く。
さらに、
「――お前にやるぜ、【全部奪っちまえよ】〝強欲〟!!」
俺が号令を出すと、文字通り俺の中に宿る〝強欲〟がその顎を開いた。
ニニーヴの展開する〈夢幻泡影〉を、〈強欲〉が星剣の刀身を伝って〝蝕み〟始めた。
強欲の化身〝マモン〟は常時飢え、いつだって身も心も満たすものを求めている。ある意味では〝暴食〟よりなお貪欲で、雑食のクソ野郎だ。
マモンの力が侵食した途端、剣の落ちる速度が劇的に加速した。
究極の防御はしかし次の瞬間、紙切れのごとく破り裂かれる。
淡く白に輝くオーラが風船のように弾け飛ぶ。
『――――――――!?』
直後、星々の煌めきを放つ漆黒の刃が、怒濤のごとくニニーヴの姿を呑み込んだ。
途端、刀身にかかっていた抵抗が嘘のように消える。
邪魔者を蹴散らした〈スーパーノヴァ〉は勢いをいや増して、今度は地上のエムリスめがけて落下していく。
「 〈ジ・カタストロフィ〉 」
俺がニニーヴに手こずっている間に、圧縮言語で次なる『魔法』を練っていたのだろう。
死や終焉を直接ぶつけても効かないのなら、実際的に俺自身を壊してしまえばいい――そう考えての手らしい。
破滅――その『魔法』が発動した刹那、周囲の風景が露骨に歪み始めた。
全方位から圧力を感じる。
エムリスの魔力はとうに隔絶された空間全域へと及んでいる。否、充満して飽和していると言っても過言ではない。それが〈ジ・カタストロフィ〉の『魔法』によって次元を歪めだしたのだ
群青色の輝紋を帯びた手が緩く持ち上がり、白魚のような指が、ぐぐぐっ、と虚空を握りこんでいく。
青白く光る瞳が俺を億劫そうに見つめたかと思うと、
『グチュッとトマトみたいに潰れたまえよ』
ゴミ箱に紙くずを放り投げるかのような口調で、しかし口元に薄ら笑いを浮かべ、エムリスは言った。
一気に掌が握りしめられ、連動して隔絶された空間内の魔力が、次元ごと空間を捻じ曲げた。
だが。
『テメェが潰れろ』
俺は無慈悲に、冷酷に告げた。
この戦いはもとより尋常なものではなく、いわゆる物理法則が何ら意味をなさない次元で展開している。
互いに八悪の因子を宿し、持ち得る概念と概念の激突になった際、勝敗を決するものとは何か?
言っちゃ何だが非常に単純だ。
〝意志の力〟である。
概念とは形のないものだ。従来なら人々の頭の中にしか存在し得ない、抽象的な代物だ。
なればこそ、その強さを決めるのは、扱う者の意志の力しかない。
というか、だ。こうして冷静に状況説明だの解説だのしているから勘違いしているかもしれないが、現在の俺はかつてないほどに【ブチギレ】ている。
大事な教え子を一人、みすみす死なせてしまったのだ。
自分で言うのもなんだが、発狂して憤死していないのが不思議なほどだ。それほど俺は頭にきているし、冷静さも正常な判断力も失っていた。
こうしてここで語り聞かせている俺は、己を客観的に俯瞰している別人格の一種だとでも思って欲しい。
主人格の俺はただでさえイゾリテを目の前で失ってガチギレ状態だというのに、わざと〝傲慢〟と〝強欲〟を暴走させ、そのフィードバックを受けているのだ。
はっきり言うが、正気からは程遠い状態だった。
『――さっきも言ったよな? しゃらくせぇってよぉッ!!』
だからこそ捻り出せる力もある。
頭の中を真っ白に焼き尽くさんばかりの激情が、体内からさらなる力を引きずり出す。
俺の『絶対切断の概念』に〝傲慢〟と〝強欲〟の力が合わさり、無限に等しい力が迸った。
既にニニーヴの〈夢幻泡影〉を破った〝星剣レイディアント・シルバー〟の巨刃は、エムリスの〈ジ・カタストロフィ〉の力さえも喰らい、それにまつわる因果の繋がりさえも切断し、斬閃を加速させる。
所詮、エムリスの行動はただの悪あがきに過ぎなかった。
常に持っていた冷静さすらかなぐり捨てた今の俺に、悪魔なんぞに乗っ取られる程度の奴らが勝てる道理などなかったのである。
とどめとばかりに、俺は吠えた。
「っらぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああぁ――――――――ッッッ!!!!」
ついに斬撃が地表に叩きつけられた。
エムリスの矮躯もまた宇宙を内包した刀身に呑まれ、見えなくなる。
もはや音と表現するのも憚られるような轟音が鳴り響いた。
ここがエムリスの『断絶』とニニーヴの『封緘』で隔絶、封鎖された空間でなければ、このまま大地を割り砕き、この惑星そのものを真っ二つに切断していたに違いない。
皮肉な話だが、八悪の因子の力を用いて張り巡らせた結界のおかげで、八悪の因子の力で世界を滅ぼさずに済んだ。
結局、大陸そのものを断割――とまではいかなかったが、それでも俺の〝星剣レイディアント・シルバー〟による〈スーパーノヴァ〉の一撃は、千年経っても消えない傷跡を大地に刻んだ。
俺の眼前で、今なお破壊の嵐は吹き荒れている。
大気にはまるで海を回遊する魚のように紫電が駆け巡っており、大地は至る所からマグマが間欠泉のごとく噴き上がっている。巻き上げられた土砂が雨よろしく降っており、文字通りの土砂降り状態だ。
有り体に言って、地獄絵図そのものだった。
さもありなん。
切り札の星剣を抜刀し、持ち得る全ての星の権能を総動員し、さらに八悪の因子〝傲慢〟と〝強欲〟をこれでもかと活性化させ、最強の剣技を放ったのだ。
冗談抜きで、隔絶および封絶の結界がなければこの惑星どころか、周囲の衛星も含めて粉々になっていてもおかしくなかった。
「……ふぅ……」
崩壊する天地を前に、俺は息を吐く。
魔王を倒した時以来だ。徹頭徹尾、真剣に本気を出したのは。
おかげで反動がものすごい。肉体的にも、精神的にも。
全身のあちこちに激痛がある。神経経路のいくつかがイカれたのか、顔や四肢に変な痙攣が幾度も走る。
頭の中もグチャグチャだ。〝傲慢〟と〝強欲〟の影響が脳内でエコーチェンバーしている。自分の声が、頭の中で繰り返し反響しているのだ。俺が言うはずもない言葉を。
『ゴミが』『朽ちてしまえ』『頭が高い』『何を偉そうに』『死ねばいい』『奪え』『何もかも』『貪れ』『ことごとくを』『死ね』『殺せ』『潰せ』『犯せ』『消し去れ』『俺が世界で一番偉い』『この世の全ては俺のもの』――
「――はっ、ざけんな……」
傲慢にして強欲な感情の数々。これが八悪の因子が悪たる由縁だ。負の感情を凝り固めた力――それが悪魔の力なのだ。
「ったく、余計な手間とらせやがって……」
無論、覚悟あってのことではあったのだが。
八悪の因子を暴走させている以上、どうしたってその影響からは免れ得ない。
ただ現在は、イゾリテの死による激情があまりに強すぎるせいだろう。どれだけ感情や情緒がめちゃくちゃになろうとも、因子の力に乗っ取られる気が一切しなかった。
「クソどもが。鬱陶しいにも程があるだろ。しばらく死んでろ」
とはいえ、見ての通り既に言動には露骨な影響が出ているわけだが。
というより、こうして一息ついて人の言葉こそ喋ってはいるが、やはり芯の部分では怒りがまったく収まっていない。
体のあちこちが軽く痙攣しているのは、何も八悪の因子の影響だけではない。激怒状態を維持したままの脳が、闘争本能を刺激して『何でもいいから今すぐ目に映る全てをぶち壊しちまえ』の命令を出し続けているのだ。
つまり、今だ身も心も臨戦態勢のまま。
おそらく、いや、間違いなく――またぞろ敵の気配がした時には、再び先程と同じテンションでブチギレることが可能だ。
故に、頭の中では現在進行形で、因子の声が今なお響き続けている。
『鬱陶しい』『手に入れたい』『だるい』『八つ裂きにしろ』『おぞましい』『面倒くさい』『踏みにじりたい』『腹立たしい』『下等生物どもが』『もっと寄越せ』『動きたくない』『妬ましい』『許せない』『跪け』『何もしたくない』『苦しめてやりたい』――
「……………………あ?」
流石に違和感に気付いた。
違う。これまでと。
聞こえてくる声の内容が、明らかに異なっている。〝傲慢〟と〝強欲〟の因子だけでは説明つかない感情が――
『――やれやれ、だね。アルサル、君、とんでもないことをしてくれたものだよ、まったく』
「……は?」
水を差すように届いたエムリスからの通信に、俺は同じフォーマットで返すことを失念して、素で呟いた。
――おい、ちょっと待て。
――どういうことだ?
『ほんま、やってくれはったなぁ。これはさすがにウチも予想外やったわ』
というか、声の調子からしてニニーヴまで元気っぽいのはどういうわけなのか。
冗談抜きで本気の一撃だったんだが。だが。
いやまぁ、どうやら正気に戻ってくれているらしいのは何よりなんだが――
というか、そんなことより。
『……おい、まさかとは思うんだが、俺――』
頭の芯の部分では激憤したまま、同時に冷静に自身の状態を把握するという奇跡的に器用な真似をした俺は、わかりきっていることを口頭にのぼして確認する。
『ああ、そのまさかさ』
『せやで』
明言する前から同意されてしまった。溜息交じりに。
『使ってしまったんだね、〝強欲〟の【例外異能】を』
そこらじゅうを迸りまくってる紫電や、噴き上がるマグマ、叩き付ける土砂、漂う砂塵などでまったく姿が見えないが、エムリスがどんな表情をしているのかわかってしまう。
苦笑。
それも出来が悪い生徒に教師が向けるような表情を、俺は幻視してしまった。
『そんなら確かに、ウチらを一発で止められたんやろうけど……』
んー、と顎に人差し指を添えて難しい顔をしているニニーヴが、脳裏に浮かぶ。心の底から呆れている時、ニニーヴがよくやる仕草だ。
『君も錯乱しているだろうけれど、はっきり言ってあげよう。残念ながらアルサル、君は今さっき――』
引導を渡すかのようにエムリスはいったん溜めを作り、やがて。
『ボクの〝怠惰〟と〝残虐〟』
『ウチの〝憤怒〟と〝嫉妬〟』
『それらほとんどの力を、君の〝強欲〟が掻っ攫っていってしまったんだ。本当に馬鹿らしいことにね』
『ま、全部取られたわけやないみたいやけど、ウチらのとこに残っとるんはほとんどカスやね。生命維持に関するとこだけちゃう? 持っていかれへんかったんは』
「…………」
いまだ俺の目の前では黙示録級の天変地異が続いており、二人の様子はまったくわからない。
もしかすると大怪我をしているのに、そうとは悟らせぬよう演技しているのかもしれない。なんてことはないのだと、強がっているのかもしれない。
だが八悪の因子の力が多少なりとも残っているということは、どのみち命に別状はなく、傷があっても再生することを意味しているわけで。
というか、先程も言った通り俺はエムリスとニニーヴを一回殺すつもりで本気の一撃を見舞ってやったはずなのだが――
いやいや、〝しかし〟も〝かかし〟もない。
詰まる所。
『――俺の〝強欲〟が、お前らの因子を奪う方向にリソースを振り分け過ぎた、ってことか……!?』
単に防壁やら反撃やらを蹴散らすつもり、だった、はずなのに。
勢い余って力の配分を間違えた――らしい。どうやら。
その結果として、エムリスとニニーヴを傷つけるよりも、その力の大半を吸収することがメインとなり、二人はこうして元気に喋っている――と。
早い話が、そういうことらしい。
「…………」
思わず手から〝星剣レイディアント・シルバー〟の柄が落ちた。途端、力の供給が途絶えたことによって巨大な夜空の刀身が消え失せる。
自らの一部と言っても過言ではない星剣を取り落とすほど、俺は着実に狼狽していた。
『……つまり、今、俺の中には……』
『ああ、都合六つの八悪の因子があることになるね。まぁボクとニニーヴのことを心配する必要はないさ。君も含め、ボクらの肉体は既に因子の影響で【作り替えられている】からね。今更因子を失ったところで、死ぬことはないはずさ。というより、もう何がどうなろうと【死ねない】と言った方が正確かな? この世界の根幹に刻まれてしまっているからね、ボク達の存在そのものが』
『エムリスはん、エムリスはん。流石のアルサルはんも、この状況でウチらの心配するのは無理あるんとちゃう?』
『そうかな? 真っ先に気にすると思ったから敢えて言ってみたのだけど。ああ、でもそうか、今は追加されたものも含めて、体内の因子が活性化しているだろうからね。いくらアルサルでも、今はその余裕はないかな?』
全くその通りだ馬鹿野郎。今まで以上に頭の中で色んな声が響き渡っていて、思考のノイズが洒落にならん。あまりのイラつきに今すぐ奇声を上げて暴れ回りたいぐらいだ。
というか、誤算だ。これは大誤算だ。あまりにも誤算過ぎる。
こんな事態は全く想定していなかった。いや、エムリスが言った『〝強欲〟の例外異能』については知っていた。知っていたつもりだった。だが、まさかそれがこんな形で発動して、このような結果を生んでしまうとは。
そう。八悪の因子〝強欲〟には、他の因子と違って特別な異能がある。
それは、他の因子を引き寄せ、吸収する異能。
まさに〝強欲〟の名にふさわしい、実に例外的な異能だ。
こんな埒外の異例を持つが故に、勇者にしてパーティーのリーダーである俺が〝強欲〟を宿す担当になったわけだが――
『……くそ、やっちまった……!』
現時点で既に肩で呼吸していた俺だったが、それでもなおクソデカい溜息が出た。そのまま両手で顔を覆って項垂れてしまう。
ここまで因子の力を使うつもりなんてなかった――はずなのに。
イゾリテを目の前で失ってしまったことで、自制心を完膚なきまでに放り捨ててしまった。考えなしに因子の力を思うがまま全開にしてしまった。
その結果が、これだ。
目も当てられない。
この場にシュラトがいなかったことが、逆に幸いだった。あいつがいたら〝色欲〟や〝暴食〟まで奪うような事態になっていたかもしれない。いや、間違いなくそうなっていたに決まっている。
自分でもわかっているのだ。今の俺がどれほど異常な精神状態なのか。
未だに全身が煮え滾るように熱い。頭の中や、腹の中、手足にまで心臓が出来たみたいに、体のあっちこっちがドクンドクン、ドクンドクンと脈動している。
ただでさえイゾリテが死ぬところを見てしまって情緒が滅茶苦茶になっているというのに、この上、八悪の因子が六つに増えてしまうなど――こんな馬鹿げた事態、一体どう始末をつけろと言うのだ。
「……はぁ……はぁ……!」
ダメだ、色んな意味で抑えきれそうにない。
とうに暴走状態にあった〝傲慢〟と〝強欲〟に連動して、新たに加わった〝怠惰〟と〝残虐〟、〝憤怒〟と〝嫉妬〟までもが暴れ出している。
悪循環の連鎖が止まらない。
唯一、不幸中の幸いは〝怠惰〟の存在だろうか。その他がプラスというか陽の属性というか、活動的な因子なのに対して、〝怠惰〟だけがマイナスにして陰の属性だ。一つだけなのでまるで頼りないが、それだけでもないよりは全然マシな冷却剤となってくれている。
「ああ、ちくしょう……!」
とはいえ、トータルで見ればまさに『焼け石に水』だ。俺自身の〝暴走〟がゆっくりと、しかし着実に進行している。このままでは俺の人格が呑まれ、先日のシュラトや、先程のエムリスやニニーヴのように、人格が変貌してしまう。正確には、活性化して悪魔化した八悪に肉体が乗っ取られてしまう。
『――これはいけない流れだね。ボクの中にあった因子を吸収したせいか、アルサルに魔力が集中していっているようだ』
『あらあら、聖力もやわ。なんや、そんなことにまで紐付いてたん? アレ』
『ボクに聞かれても困るよ、ニニーヴ。確かに外部世界から八悪の因子を持ち込んだのはボクだけれど、詳しいことはほとんどわかっていないんだ。あの時、事前にそう説明したじゃあないか』
『えー、せやったかなぁ?』
『どうせ覚えていないのだろう? それっぽく含みを持たせた言い方はして、ボクが説明していなかった可能性がそれなりにあるかのように振る舞うのはやめたまえよ』
『あーあ、バレてもうてるわぁ。てへぺろ♪』
『てへぺ――なんだい、それは?』
人がのっぴきならない状態で苦しんでいるっていうのに、なに暢気に雑談してるんだお前らは――と、大声でどやしつけてやりたいが、もはやそんな余裕すらない。
今や俺の身に何が起こっているのか、誰にもわからないのだ。ただ二人の言う通り、さっきから馬鹿げた規模の魔力と聖力が全身に集まってきているのだけはわかる。
特に聖力は今日まで感知することすら出来なかったというのに、今では何故か手触りや重さまでわかるほど、肌にしっくり来ている。これはつまり、ニニーヴの聖力に関する記憶すらも吸収したということなのか。うっすらとだが、扱い方も感覚的にわかってしまう。
はぁ、とエムリスが溜息を吐く気配。
『とにかく、もう少しだけ我慢しておくれ、アルサル。情けないことにボクは今、十全に動くことができない。まぁ君にやられたからなんだけれど。動けるようになったら、そちらへ行って君の中から因子を取り出して、再分配できるよう努めよう。大変だとは思うけれど、それまでどうにか〝暴走〟せずに抑え込んでもらえるとありがたいね』
『せやったら、ウチの方が早く動けるようになるかもやで? 回復はウチの十八番やし。アルサルはん、ちょお待っててなぁ』
『待ちたまえニニーヴ。君が早く駆け付けたところで何もできやしないだろう。大人しく回復に専念しておくべきじゃあないのかい?』
『へえ、やけどアルサルはんを励ますことぐらいできますえ?』
『何の足しにもならないと思うのだけどね、そんなことをしても』
『相変わらずやねぇ、エムリスはんは。そないにウチとアルサルはんを近付けとぉないん?』
『ボクは無駄な労力はやっぱり無駄だと、そう指摘しているだけだよ。おかしなレッテルを貼らないでもらえるかな?』
『ほんまにぃ? 嫉妬してるんとちゃうん?』
『いい加減にしておくれよニニーヴ。因子を失って〝暴走〟も止まったはずなのに、どうして君はボクを挑発するんだい?』
『ややわぁ、ウチ挑発なんてしてへんで? 気のせいやってぇ』
おい、だから。人がこうして苦しんでいるのに何わけのわからない話をしているんだ、こいつらは。
まぁ、会話の雰囲気だけは昔に戻ったみたいで何よりだが。というか、昔に戻りすぎか? 二人とも八悪の因子が離れたせいか、口調や性格が初めて出会った頃にまで戻っているような気がする。
そう、エムリスは本来こんな風に生真面目っぽい奴だったし、ニニーヴは鈴を転がすような声で笑いながら、のほほんとしている奴だったのだ。
というか、話を聞いてると二人ともしっかりダメージ受けてるじゃねぇか。やっぱり無傷とはいかなかったか。色々とイレギュラー尽くしの状況なので、これを喜ぶべきか嘆くべきかは迷うところだ。必殺を期した最強の一撃がまったく無意味だったとなるとあまりに悲しいが、さりとて、そのせいでエムリスがすぐに動けず、俺が〝暴走〟する羽目になってしまっては本末転倒である。
どうにか歯を食いしばって、エムリスが動けるまで回復するのを待つしかないか――と、頭の片隅で覚悟を決めようとした、その時だ。
異音。
パキィ――と、薄いガラスが罅割れるような音が聞こえた。
あるいはそれは音波ではなく、第六感による錯覚だったのかもしれない。
『な――!?』
『ほ?』
同時、エムリスの驚愕とニニーヴの不思議そうな声が上がる。
さもありなん。
割り砕かれ、こじ開けられたのは、二人が展開した隔絶と封絶の結界だったのだから。
次の瞬間、十枚以上の窓ガラスを同時に殴り砕いたような大音響が轟いた。
『……バカな、あり得ない。時空間ごと断絶していたはずだ』
観測した現象がにわかには信じられないといった口調で、エムリスが呟く。落ち着いているかと思いきや、すぐさま声を荒げた。
『――いわば世界の内側に作った〝異界〟だぞ! 誰一人として入って来れる道理がない!』
珍しく――というのもおかしな話だが、エムリスの声音には本気の焦慮が滲んでいた。これまで〝怠惰〟や〝残虐〟の影響で生じた余裕が、完全に失われているらしい。生真面目で少々融通の利かないところが完全復活している。
『――あらあら、こりゃ意外も意外やねぇ。こんなに早う、しかも【直接】来はるやなんて。夢にも思わんかったわ』
うふふ、とニニーヴが楽しげに笑う。反応がエムリスとはまったく正反対だ。どんな状況でも――それが例え窮状であっても――笑って楽しむ、そんな豪胆さが俺のよく知る〝白聖の姫巫女〟の長所であり、短所であり、特徴だった。
「……直、接……?」
聞き捨てならない言葉を聞いた気がして、俺は面を上げた。
理性の手綱を手放さないよう気を張りながら、思考する。
ここは完全閉鎖空間。エムリスが言った通り、二重の断絶によって通常の世界の位相から外れた〝異界〟、もしくは〝異世界〟とでも呼ぶべき場所だ。だからこそ、ここならどんな無茶をしても外部には何ら影響を与えることはなく、俺もあいつらも遠慮なく全力を発揮することができた。
そんな隔絶と封絶を、破った奴がいる――らしい。
実際、俺もこの〝異界〟に【穴が空いた】ことを肌で感じている。
何故なら〝穴〟を通じて『外』から大量の魔力と聖力、そして理力が流れ込んでくるのがわかるからだ。一体どういうことか、三種の力が奔流となって俺の元へと寄り集まってくる。まるで俺が渦の中心であるかのように。
故に、ほんの僅かな隙間ではあるが、断絶されていた時空間が、通常の空間と繋がったのは間違いない。
しかし――そんな芸当、一体どこの誰にできる?
真っ先に脳裏をよぎったのはシュラトだった。あいつも八悪の因子持ちだ。その気になれば普通ならできないことすら可能にするだろう。
しかし、シュラトがエムリスとニニーヴの二重結界を突破するには、やはり切り札である『絶技開眼』を行い、あいつの有する『無限成長の概念』を凄まじく活性化させる必要がある。
つまり、めちゃくちゃな手間がかかる。
なら、その前段階に通信などで『到着した。俺も入れてくれ』の一言でもないとおかしい。シュラトは悪知恵の働く奴ではないが、決して馬鹿でも愚鈍でもない。それぐらいの手続きやコミュニケーションはできる人間だ。
だからこそエムリスは驚愕していたのだ。これはシュラトではない、別の何者かだ――と。
そして、ニニーヴの『直接来はるやなんて』という言葉。
この一言が決定打となって、俺の脳裏に電流が走った。
――聖神。
人知を超えた超常の力を持つ存在。
そうだ、奴らしかいない。いないではないか。
「――ッ!」
理解した瞬間、目の前で火花が散った。
頭の中で響いていた因子の声が、一気に遠ざかる。
靄がかっていたような視界がクリアになって、意識もはっきりした。
というか、完全に【目が覚めた】。
刹那――
上空。
先程ニニーヴがいたあたりの高度。
そこに時空間の歪み――〝穴〟が空いている。
見ただけでわかった。ぽっかりと空いた、大きな空隙がある。
丸とは言えない、だからといって四角でも三角でもない。曖昧な輪郭をした漆黒の闇。まるで怪物の腸を輪切りにして、そこに貼り付けたかのような形状。
暗幕のように真っ黒な〝穴〟を背景に、人影が二つ。
目に映えるのは、鮮烈な赤と蒼の二色。それぞれ軍服にも似た、やたらと洒落た服を身に纏っている。
この世界にあって、他に類を見ないコーディネート。全身から漂う異様に神々しい雰囲気。作り物めいた、人外じみた美貌。黄金律を基に設計されたかごとき完璧な肢体――
パズルのピースが次々と埋まっていく。
「――お前らか……?」
間違いない。他に可能性が見当たらない。
「お前らだな……?」
だから確信した。
「お前らが……!」
イゾリテを――
ぶつん、と唐突に何かの糸が切れた。
この瞬間、俺は頭の中が真っ白に染まり――
奴らをぶち殺す。
そう考えるだけの怪物になった。




