●35 収束する因果 1
最後の最期という瞬間になって、今更ながらに思い出した。
ひどく幼い頃の記憶。
本当に今更すぎる、とイゾリテは頭の片隅で毒づいた。
もう間に合わない。
ペンダントはこの手を離れ、アルサルの背中に触れてしまった。
何年も前から周到に用意されていた罠が発動する。
今際の際、イゾリテの思考速度は桁違いに跳ね上がり、一瞬が永遠に等しい意味を持つ。
脳裏をよぎるのは、アルサルと出会った日のこと。
セントミリドガル王城の敷地内で、まだ十にも満たない歳のイゾリテは迷子になった。
その際に助けてくれたのが当時、戦技指南役としてガルウィンを教導していたアルサルだった。
――しかし、その記憶は正確ではない。
正しくは、アルサルと出会う前にもう一人、邂逅していた人物がいた。
それは、漆黒の外套を頭からすっぽり被った、子供心にもひどく怪しいと思った男。
どうして今の今まで忘れていたのか。
今なら理由がわかる。外套の男に記憶と認識を操作されたのだ、と。
『――こんにちわ、お嬢さん』
不自然な記憶だった。忽然と目の前に現れた、どこの誰なのか杳として知れない相手に、しかしイゾリテは不思議に思うこともなく、その存在を当然のごとく受け入れていた。
もちろん、外套の男の仕業に決まっていた。何かしらの手法を用い、イゾリテの認識を歪めたのだ。そうでもなければ、これほど怪しい人物を前にして、子供だった自分が声を上げないわけがない。
んっふふふ、と外套の男は笑い――しかしフードの中にあるはずの顔は一切見えない――、イゾリテと視線を合わせるように腰を屈め、
『これから私の言うことを、よぉく聞いてくださいねぇ』
フードの奥から、赤い光点が二つ浮かび上がる。位置的に両目だと思われるが、明らかに瞳の輝き方ではない。しかし、この時のイゾリテにはそれをおかしいと思うことすらできなかった。
『あなたに使命を与えます。これは絶対遵守の指令です。条件が揃った時には、必ず実行してください』
男の声には不思議な強制力があった。突然現れて理不尽な要求をされているというのに、違和感も嫌悪感もなく、ただ〝従わなくてはならない〟といった義務感だけが生まれ、イゾリテの中に染み渡っていく。
外套の男は懐から奇妙なデザインのペンダントを取りだし、呆けたように高い位置を見上げるイゾリテの首へとかけた。
『まず、あなたにこれを渡しておきます。とても大切なものです。誰にも見つからぬよう、しかし肌身離さず持ち歩いてください。その上で、あなた自身も普段はこれを持っていることを忘れておいてください。疑問は必要ありません。持つ余地すら持ってはいけません』
男の指示は徹底的だった。念には念を押し、さらに釘を刺すほどだった。このことを決して意識の表層に出してはいけない、と。
その上で、
『あなたには〝銀穹の勇者〟アルサルの抹殺を命じます。ええ、ええ、案ずることはありませんよ。方法はとても簡単ですから。そちら、あなたに渡したペンダント、それをアルサルめがけて投げつけるだけで結構です。後はそのペンダントがいいようにアルサルを始末してくれますからね。ええ、何の心配もありませんとも。あなたの手が汚れることもありません。御安心なさい』
んふふっ、と男はいやらしく笑う。もうこの時点で、鼻がもげるほど嘘の匂いが漂っていた。今のイゾリテなら、さもありなん、と思う。
『ですが軽挙妄動はいけませんよ。あなたはとても重要な駒なのですから。じっくり、慎重に行動せねばなりません。そう、あなたは何よりもまず、アルサルめに近づかなければいけません。それは身体的な意味だけではなく、精神的なことも含みます。そう、つまり――【仲良くなる】んですよ。わかりますか』
イゾリテは頷いた。他はともかく、仲良くなる、と言った言葉だけはよくわかった。難しいことはよくわからなかったが、男の言葉は一言一句、イゾリテの心の底に深く刻み込まれていた。それ故、年を経て理解力が上がるにつれ、刷り込まれた命令は効果を発揮するようになっていくこととなる。
『あなたは脆弱な人間です。アルサルめは、業腹ながら、強力な勇者ユニットです。そう易々と隙を見せないでしょう。ですから、あなたはアルサルが隙を見せるほど深い信頼関係を構築しなければなりません。わかりますね』
何となく理解できたので、イゾリテは頷いた。要はアルサルという人物と仲良くなればいい、そういう理解をした。
『であれば、あなたはアルサルを愛さなければなりません。人類の感情には鏡に似た性質があるといいます。愛には愛を、憎悪には憎悪を返すそうで。ならば、あなたがアルサルを愛せば、アルサルもまたあなたを愛することでしょう。あの男も元は人間です。同様の機構がまだ備わっているはずです。そこから突き崩していくのです』
よくわからなかったが何となく理解できたので、イゾリテは頷いた。やはり、とにかく仲良くなればいい、という話で間違いないと思ったのだ。
『そして、いつか必ず来る好機を待つのです。その時こそあなたと、あなたに渡したペンダントが役に立つ瞬間です。いいですか、そのペンダントを使用するのは、アルサルがどうしようもないほどの隙を見せた、これ以上ない絶好の好機だけです。何をどう考えても隙でしかない、何がどうあろうと絶対にペンダントを回避することができない――そんな瞬間のみを狙うのです。ああ、もちろん細かいことはあなたのような人間程度には理解できないでしょうからね。そのあたりの対策はペンダントに施してあります。心配することはありませんよ』
こと細やかに言い含める割には、随分と用意がいい。記憶を再生するイゾリテは皮肉気に思う。
『〝その時〟が来た時にはペンダントから改めてあなたに指令が発行されます。あなたは素直にそれに従いなさい。それだけでいいのです。細かいことを考えてはいけません。余計な感情も思考も必要ありません。ただひたすら使命を果たすのです。いいですね』
自動的に色々とやってくれるのなら自分の理解など不要では? と思いつつもイゾリテは頷く。余計なことを考えないとは、つまりこういうことなのだろう、と。
『よろしい。では私が去った後、ここでのことは全てお忘れなさい。記憶しておく必要はありません。その時が来れば自動的に思い出すようになっていますからね。よいですか、今日のことは記憶の底に沈めるのです。深い、深いところへ隠しておくのです。決して誰にも、あなた自身にも漏らしてはいけません』
何が楽しいのか、外套の男はくつくつと笑う。フードの中は依然としてよく見えないが、その口の端が大きく吊り上がっているだろうことは容易に想像がついた。
『そう、あなたはこれから無意識に、自分でもそうとは知らず、アルサルめを抹殺するためだけに生きるのです。情熱も希望も何もかも、そのためだけに費やすのです。もちろん大変遺憾なことではありますが、これも必要な犠牲なのです。わかりますね』
わからないが、イゾリテは頷いた。もはや子供だった自分に理解できる範囲を超えていた。意味がわかった今では、とっくに手遅れだった。
『いいでしょう。それでは、よろしくお願いしますよ。私は忙しいのです。あなた以外にも〝種〟を仕込まないといけませんからね。では失礼いたしました。今この瞬間から全て忘れて、楽におなりなさい』
そう言って、男は姿を消した。文字通り、夢幻であったかのごとく。現れた時と同じように、忽然と。
思うにイゾリテのペンダントを渡す前後で、もしかしなくとも兄のガルウィンにも同じように接触していたのだろう。イゾリテはそう予想する。
いや、自分達だけではない。
多くの人々の心を操り、記憶を消し、自らの傀儡に仕立て上げ。
この世界の全てを混乱に陥れ。
無数の犠牲を出し。
全てはアルサルを亡き者にするがために。
外套の男は、ずっと昔から闇に潜んで暗躍していたのだ。
そして、自分はまんまと手筈通りに動いてしまった――イゾリテは悔恨する他ない。
痛恨の極みだ。
情けない。アルサルの役に立つはずが、この体たらくとは。
だが、しかし――それでも、とイゾリテは安堵する。
何にせよ、外套の男の用意は無駄だったことだけは確信できる。
アルサルの強さは本当に尋常ではないのだ。このペンダントにどのような仕掛けが施されていようが、この人の命に届くなんてことは絶対にあり得ない――アルサルの背中を見つめながら、イゾリテは心の底から断言する。
そして、ここで自分が終われば、これ以上アルサルに迷惑をかけることもない。自分という痴れ者が、彼の重荷になることも。
さらに言えば――と、イゾリテは内心でほくそ笑む。
外套の男はきっと勘違いしていることだろう、と。
イゾリテがアルサルに傾倒し、敬愛し、熱中してきたのは自分のかけた言葉のせいだと。
外套の男はそう思っているはずだ。
だが、それすら違う、とイゾリテは言い切れる。
この気持ちは、この想いは、決して他人に唆された程度で生まれるものではない――そう確信している。
だから、この愛が人工のものなどと思うのは、外套の男の思い上がりだ。
そんなものがなくとも、自分はアルサルに出会った瞬間、恋に落ちていた。
何故なら。
幼きあの日。外套の男と邂逅し、記憶を封じられた直後。
改めて迷子になっていた自分は、アルサルと出会い、その瞬間に虜になったのだ。
そう、まだ彼の名がアルサルであることも、かつて〝銀穹の勇者〟として魔王を討ったことも、知る前から。
だからこそ、確信できるのだ。
この恋心は本物だ、と。
決して偽物などではない、と。
同時に、だからこそイゾリテは悔やむ。切実に悔いる。
こんな最期になってしまうことを。
何の役にも立てず、間抜けとしかいいようのない死に様を迎えてしまうことを。
――と、アルサルがこちらを振り返った。
どうやらここまでの思考は、ペンダントが背中に当たって彼が振り返るまでの、ほんの僅かな間のことだったらしい。
あるいは、これも〝蒼闇の魔道士〟エムリスの眷属となった恩恵なのだろうか。今際の際の思考加速はこれほどなのかと。これならば確かに、死の直前にこれまで生きてきた人生の記憶が走馬灯のごとく蘇るというのも、納得できる話だ。
アルサルと目が合う。黒い双眸がやや見開かれている。決まっている、驚いているのだ。こんなところに自分がいるから。
ただそれだけのことなのに、イゾリテの胸はどうしようもなく熱くなった。
溢れる。万感の想いが。
――ああ……
もはや言葉にもならない。なるはずがない。
当然、気持ちを整理する時間など微塵もなかった。
思慕や悔恨、その他様々な感情が渦を巻いて渾然一体となり――そして次の瞬間。
切なる想いを抱えたまま、イゾリテは身も心も闇に呑まれた。
一瞬だった。
苦しむ暇もなかったはずである。




