●34 操り人形の葛藤 1
ついてくるな、と言われていた。
だから、普段の自分なら絶対についていかなかった。
そのはずだ。
しかし――
「アルサル様……」
我知らず、イゾリテはその名を呟いた。
今の自分はおかしい――イゾリテはそう思う。
本来の自分ならアルサルの言いつけを遵守する。当然だ。かの御仁は、誰あろう〝銀穹の勇者〟なのだ。世界を救った英雄、その筆頭なのだ。
その言葉は絶対。決して違えてはならない金言だ。
なのに、自分はそれに逆らってしまった。
「…………」
現在、イゾリテの身はイーザローン平野の片隅にある。
待機を命じられたビューボイジャーの森付近の野営地を離れ、アルサルの後を追って戦場へ来てしまったのだ。
当然、誰にも見つからぬよう隠伏の理術と魔術を掛け合わせ、完全に気配を消している。よほど入念な探知でもされない限り、相手がアルサルだろうがエムリスだろうが、まず見つかることはない。
そして、今の二人にそんな余裕などあろうはずもない。
なにせ〝白聖の姫巫女〟が張った結界の中で、対決しあっているのだから。
「――――」
類のない光景を前にして、イゾリテは高鳴る胸の鼓動が抑えきれない。今にも爆発しそうな勢いで、心臓が早鐘を打っている。
一つは恐怖だ。いつ戦闘の余波に巻き込まれて我が身が滅ぶかも知れない――蝋燭の火のごとく、簡単に命が吹き消える場所にいるのだ。それを恐れる気持ちが全身を駆け巡っている。
しかし同時に、誤魔化しようがないほど凄まじい昂揚感があった。
今、自分は、英雄の戦いを目の当たりにしている――
そう、伝説をこの目にしているのだ。
無論のこと、アルサルとエムリスの戦いを見るのはこれが初めてではない。
だが、【英雄同士の激突】を見るのはこれが初であり、何より、過去の歴史を紐解いても【かつてない】ほどの戦いなのだ。
どうして胸躍らせずにいられようか。
ましてや、ここには〝白聖の姫巫女〟ニニーヴまでいる。
四英雄のうち三名もがこの場にあって、それぞれ敵対し合っているのだ。
まさに前代未聞、古今未曾有。
おそらく――否、間違いなく、目撃者はここにいるイゾリテただ一人だけだ。
だからこそ昂ぶる。
新たな伝説の誕生に居合わせた幸運に。
人類史上、おそらく最大の戦いを観覧できる僥倖に。
だが――同時に、イゾリテは現在の自らの行動に、多大な疑念を抱いていた。
何故だろう。何故、自分はアルサルの言葉に背いてしまったのだろうか。
抗えるはずなどなかったのに。唯々諾々と従う他なかったのに。
どうして。
確かにこの場にいることはひどく刺激的で、一部始終を近くで見たいという好奇心もある。
なにより、敬愛するアルサルの傍にいたい、出来る限り近くにいたい――そんな気持ちがとても強い。
しかし――自分で言うのも何だが――己自身が、一時の感情で判断を誤るような愚か者だとも思えない。
おかしい。自分には鉄の理性があったはずだ。時折、希に箍が外れることもあったりするが、それでも致命的な間違いを犯したことなど、これまで一度もなかったのに。
なのに、何故。
アルサルからあれほど厳命されていたというのに、どうして自分はここにいるのだろうか。
自分で自分が信じられない。
我ながらあり得ない行動をとってしまったことに、クラクラと目眩がするようだ。
どこか足元がフワフワとしている。現実感が薄い。まるで全身に分厚い膜がかかっているかのよう。頭がぼうっとする。
イゾリテは思考にもやがかかった状態で――それでも、眼前で繰り広げられる光景から目が離せない。
こうして結界内に忍び込む前から、〝蒼闇の魔道士〟エムリスと〝白聖の姫巫女〟ニニーヴの激闘は熾烈を極めていた。そのことを遠見の理術で見て知っていた。
しかし、遠くから観察するのと、こうして近距離から見るのとでは天と地ほどの差があった。
伝説の英雄の強さは、イゾリテの想像する遙か上をいっていた。
アルサルが自分を遠ざけようとしたのも頷ける話だ。
次元が違いすぎる。
ただの人間が武器や理術を使って戦争をするのとは、まったく違う。
完全に別物だ。
この三人がその気になれば、半日と経たず世界は滅ぶ――そう断言できる。たとえ一人だけであっても、一日あれば事足りるだろう。
これほどの強さを誇る存在が、四人も揃わなければ倒せなかったという魔王エイザソースとは、一体どんな怪物だったのだろうか。
英雄の強さを目の当たりにしたからこそ、イゾリテは改めて天災の魔王の恐ろしさに身震いする。
十年前、イゾリテはまだ幼い子供だった。物心すらついていなかったかもしれない。その頃、この世界は冗談抜きで滅びかけていたのだと、今更ながらに思い知る。
結界の外から巨大な聖具の一部――ビューボイジャーの森付近で見た、ミドガルズオルムの残骸だ――が侵入し、熱閃を発射する。連続で乱射される熱光線はもはや豪雨のごとくだ。
それらを高速機動ですべて回避したアルサルは、振り返り様に膨大な冷気を放つ。噴火するマグマのように迸った凍気は、浮遊するミドガルズオルムの残骸を氷結させ、無力化する。
そこへ、エムリスが無詠唱で大魔術を行使した。
怒濤のごとく炸裂する連鎖光爆。
しかしアルサルはその場で回転し、なんと竜巻を発生させてこれを相殺。
そのまま空中へと躍り出て、奇妙な刀身を持つ剣を信じられないほどの長さまで伸び上がらせ、剣理術を発動させた。
「――ッ!」
この瞬間、イゾリテは自らが行使できる防御の術を全て用いて我が身を守った。理術と魔術、双方を駆使して戦闘の余波で死なぬよう全身全霊を尽くす。
一陣の風が吹いた。
その時にはもう、アルサルの攻撃は終わっていた。
幸い、イゾリテへの直撃はなかった。
だが、先程の一撃――否、同時に生まれた十二の斬閃が空恐ろしいものであったことは、嫌というほどわかってしまった。
今のイゾリテは魔力の流れを感知できる。理力は元よりお手の物だ。
〝白聖の姫巫女〟ニニーヴの張った聖力の結界内――その限定された空間内に存在する魔力と理力の繋がりが、ズタズタに斬り裂かれていた。
本来なら断つことなどできない代物だ。否、正確に言えば、一瞬だけなら切断することは可能だろう。しかし、魔力も理力も流体に近い性質を持つ。
海を割って、そのままにすることができようか。
砂嵐を分割し、そのままにしておくことができようか。
それらと同じように、魔力や理力、そしておそらく聖力も、明確に割断することなど到底不可能なのだ。
なのに。
いま結界内の魔力と理力は明らかに分断され、その状態のまま元に戻らない。それぞれが有する性質を忘れたかのように。あるいは、【その本質すらも切断されたかのように】。
絶対切断の概念。
アルサルの刃は真実、物体だけでなく形のないもの、概念ですらをも切り裂く。
存在するのなら、神でさえ断ち切ってしまうだろう。
「……っ……!」
そして気付く。先程の自分の、あまりの愚かしさに。
防御など無駄だ。どれだけ手を尽くそうが、アルサルの刃を防ぐ手立てなどない。今のはたまさか運が良かっただけだ。アルサルの剣閃の走る途上にイゾリテがいなかった、ただそれだけのこと。
もし運悪く直撃していれば、展開させていた防御術などまったく意味を成さず、イゾリテは真っ二つになっていただろう。そして戦場の片隅に、無様な骸を晒していたに違いない。
実際、さほど離れていない空間を斬閃が裂いていった痕跡がある。
剣の軌道がほんの少しでもこちらにズレていたら、今頃は命がなかった――その事実に、今更ながら背筋に悪寒が走る。全身の肌が粟立ち、鋭い戦慄が骨の髄を駆け抜けた。
改めて実感――いや、痛感した。
ここでは、自分など虫ケラ以下の塵芥に過ぎないのだと。風に吹かれただけで散ってしまうような、儚い存在なのだと。
だから、アルサルはついてくるなと言っていたのだ。あんなにも強く。
――ここから離れなければ。
イゾリテは強くそう思った。
このままここに居続ければ、本当に死んでしまう。そうなればアルサルやエムリスに迷惑をかけてしまうし、悲しませてしまう。ここで死ぬほど愚かなことはない。即刻、今すぐ、この結界から抜け出て安全圏まで戻るべきだ。
「――……?」
次の瞬間、己が肉体の違和感に、イゾリテは気付く。
体が、動かない。
いや、まったく動かないというわけではない。手も足も動かそうと思えば動く。だが、それがそのまま『この場から立ち去る』という行動へと繋がっていかない。
おかしい。恐怖に竦んでいるわけではないはずだ。確かに、一つ一つの動作毎に天災じみた結果を生じさせるアルサルらへ恐れをなし、全身が微かに震えているのは事実だ。だが、身動きが取れないほどではない。
頭の中で警鐘が鳴っている。迅速に安全な場所まで逃げるべきだと。そして、従来の自分ならそう判断した直後には動いているはずなのだ。
既にイゾリテの中の天秤は大きく傾いている。先程とは完全に逆転して、好奇心や興味よりも自身の命を優先する方へと方針は変わったはずだ。今やイゾリテの思考は九割方、逃亡の手法に支配されている。
だというのに。
それがまったく行動に反映されない。いや、反映できない。
――何故?
明らかに変だった。やる気を出そうとしてやる気が出ない――などという次元の話ではない。とっくにイゾリテの意志は後退を決定しているのに、肉体が従わないのだ。まるで、催眠術で一定の行動を制限されているかのごとく。
実際、戦場の中心に向かってみようとしたところ、足が一歩前へ出た。しかし、後ろへ下がろうとすると、嘘みたいに足が動かない。神経が、筋肉が、命令を受け付けないのだ。
前には進めるのに、後ろへは動けない――
あり得ないことだ。これでは、別の誰かの意志がイゾリテの神経へと介入し、勝手に操作しているようではないか。
――どうして?
明敏なイゾリテは思考を回転させる。今にも焦りのあまり恐慌に陥ってしまいそうな自分をなだめ、冷静さを保つことに努める。
しかし、そうした途端に意識がぼやけ始めた。意図してイゾリテの思考を邪魔するかのように、全身の感覚に靄がかかっていく。
――これは一体……?
考えがまとまらない。ただ違和感と、焦燥感だけが強くある。上手く頭が回らないため、それらを解消するための策が立てられない。
自分が自分でなくなっていくような感覚。
頭の後ろで、別の誰かが囁く声が聞こえる気がする。
立ち去ってはいけない。観察を続けなければいけない。アルサルから目を離してはいけない。常に機を伺わなければいけない。絶好の機会が到来したその時には、アルサルを■■しなければいけない――
「――~ッ……!?」
限りなく薄まり、遠のきかけていた意識を、イゾリテは気合いで引き戻した。
「はぁ……はぁ……!」
足元がふらつき、その場でたたらを踏む。
もはや気のせいなどではない。明らかに何者かがイゾリテの精神に干渉してきている。確証はないが、確信がある。
今の自分はどう考えてもおかしいのだ。
何もかもが、本来のイゾリテ・ディンドランの所業ではない。
「くっ……!」
襲い来る目眩に耐えながら、イゾリテは唇に歯を立てる。肉を噛んで痛みで自我を保とうとする。もたつく思考に活を入れる。
このままではダメだ。どうにかして意思を保ったまま、精神への干渉を振り払わねば。放っておくと自分が何をしでかしてしまうのか、まったく予想がつかない。
「――ッ!」
唇に立てていた歯が皮膚を裂いて肉に刺さった。途端に電流じみた激痛が走り、口の中いっぱいに血の味が広がる。
構うものか、傷など後でいくらでも治癒理術で治せる。今は理性を保って思考を回転させることを優先だ。
幸い、唇を噛み切った痛みのおかげで多少なりとも頭が覚醒してきた。
――まず精神防護の術を……!
同種の効果を持つ理術と魔術を立て続けに行使する。この意識への干渉が外部から為されているのなら、その〝通り道〟を遮断するのが定石だ。
続いて緊急通信の術を――と考えた時、アルサルらの戦局に大きな変化があった。
これまで姿を見せなかったエムリスとニニーヴが、戦場に現れたのだ。
エムリスは撃墜された巨大な魔竜の遺骸から。
ニニーヴは聖力の結界の外、遙か上空に。
この時、イゾリテは〝白聖の姫巫女〟ニニーヴの姿を初めてこの目にした。
無論のこと、英雄を模した姿絵なら何度も見たことがある。だが所詮、絵とは線の集合体に他ならない。実物の存在感をいくらも再現し得ないものなのだ。
故に、イゾリテは自身の状況すら忘れて息を呑んだ。
「美しい……」
声は自然と唇から漏れ出ていた。完全に無意識だった。
なんという神々しさだろうか。まるで後光が差しているかのように、ニニーヴその人が眩しく見える。
エムリスの時にもその見た目の若さに驚いたが、ニニーヴもそうだった。伝説の英雄に時の流れなど関係ないのかもしれない。思えばアルサルとて年齢に比して若々しく見えることが多々ある。惚れたひいき目もあるかもしれないが、知らない者が見れば兄ガルウィンと同い年だと言っても信じるに違いない。ただ〝金剛の闘戦士〟シュラトだけは別枠だ。かの御仁は見る度に見た目が違う。何か特殊な事情でもあるのだろう。
それにしたって、ニニーヴの非人間的な雰囲気はどうしたことか。
もちろんアルサルもエムリスもシュラトも、常人とは明らかに違うオーラを放っている。イゾリテはそれを嗅ぎ分けることも出来る。
だが、ニニーヴのそれは、より隔絶した別種の【何か】だ。
考えてみれば〝白聖の姫巫女〟は聖神ゆかりの英雄である。人間のそれとはまた違う由来を持つ、特別な存在。理術を主に扱う人間側の〝勇者〟と〝闘戦士〟、魔の力を扱う魔術を朱とする〝魔道士〟とは、また違った空気を醸し出すのは必然かもしれない。
そんなことを思いながら、時を忘れて見惚れていると――
突如、結界内の空気が歪んだ。
「――!?」
今までも信じられないぐらい濃密で膨大な量と密度を見せていたエムリスの魔力と、それとせめぎ合うニニーヴの聖力。
それらがさらに膨れ上がり、密度を増したのだ。
「か……はっ……!?」
どちらも形のないものではあるが、真実イゾリテは圧迫感を覚え、気分が急激に悪くなっていくのを感じた。
当たり前だ。強い光、強い匂い、強い音、強い味、強い衝撃――五感を必要以上に刺激するものは、人体に必ず大きな影響を及ぼす。
理力、魔力、聖力もまた人の身で扱えるものであればこそ、その強さが規格外となった際には、人の身に影響を出さずにはいられない。
まさか強烈すぎる魔力に押し潰されて死にかける事態があるなど、イゾリテは生まれてこの方、夢にも思わなかったが。
だが実際、天井知らずに膨れ上がる力にイゾリテは押し潰されそうになっていた。
そして、聞こえないはずの声が耳に届く。
「 断絶 」
「 封緘 」
転瞬、世界が激変したのを直感的に理解した。
具体的なことは何もわからない。
だが、【何かが変わった】ということだけは断言できる。
戦場の空気が明らかに異質なものへと変化していた。
はっきりと感じるのは、どうしようもないほどの閉塞感。
閉じ込められた――何故かはわからないが、イゾリテは心の底からそう思う。
生まれてからこれまで、ずっと接続していた『世界』から切り離された――そんな風な感覚が全身を覆っている。
「一体……何が……」
自分を取り巻く環境が、矢継ぎ早に激動しているのを感じている。だが正確なところは一切わからない。濁流に翻弄される流木のごとき気分だ。
不思議なことに、さらに聞き取れるはずもない言葉が、イゾリテの元へと届いた。
『勇者を舐めるなよ?』
ザラついた雑音交じりだったが、確かに聞こえた。通信理術による音声だ。
何かの手違いか、あるいは別の要因があるのか。
ただイゾリテにわかるのは、その声の主がアルサルだということ。
聞き違えるはずがない。会えない間、ずっとずっと恋い焦がれていた声音だ。この耳が、この心が、アルサルの気配とそれ以外とを間違える道理がない。
しかし、そう確信した瞬間――
「――?」
自分の左手が自動的に動き、首元へ及んでいることにイゾリテは気付いた。
――なんだ、これは? どうして自分の腕が勝手に? こんなことしようなんて一切考えていないのに。
意味がわからないまま、しかしイゾリテの身体は当たり前のように動く。まるで慣れた動きを再現するように。
頭の裏で誰かの声が聞こえる。
今だ、今こそ好機の時――と。
イゾリテの指が、服の襟と肌の隙間へと滑り込む。
指先に微かな感触。
触感から、細い鎖――おそらくペンダント――だということがわかった。
「? ? ?」
何故? ペンダント? おかしい、自分はそんなものを身に着けていなかったはず。というより、服の下に隠してあってはアクセサリとして意味をなさないではないか。一体いつの間に、誰が? ……私が? いつから?
装着した覚えのない頸飾の存在に愕然とする。一気に自身の記憶に自信が持てなくなる。あり得ない状況に己の認識能力への疑念が生まれる。
自分は今、本当に〝自分〟なのか――と。
意識せずまま、左手は首にかけたペンダントを引き出す。これまで異物感を覚えていなかったのは、イゾリテの体温を受けてすっかり温かくなっていたからか。チェーンを手繰ってペンダントトップを取り出した時、掌に妙な生暖かさを感じた。
露わになったトップパーツは、いつかどこかで見たような、しかし見慣れない装飾。少なくともセントミリドガル産でもなければ、ムスペラルバード産でもない。
「――……」
掌に載せたペンダントトップを、何をするでもなく見つめる。唇を噛む歯に力を込めて、更なる苦痛を刻んで遠のきそうになる意識を繋ぎ止める。今にも乱れそうになる息を、深呼吸を繰り返すことで平静に保つ。
どうして自分は、こんなものを身につけていて、今ここで取り出しているのか? 己が肉体を操る輩は、一体何をさせようというのか?
というより、
――精神防護の術が効いていない……!
イゾリテは顔に苦渋の色を浮かべた。外部から操作を受けているだろうと思って、それを遮断ないし断絶させたつもりだったが、現状を踏まえるとおそらく効果はまったく出ていない。それほど強い干渉を受けているのか、それとも洞察が的外れで対策が間違っているのか。
何にせよ、とっかかりがなさ過ぎる。ろくな情報がない状況ではまともな対応など取れるはずもない。
このままでは、いいように使役されてしまうだけだ。
故に、最悪の想定をする。
もし仮に、いまイゾリテの肉体を操っている者がアルサル、もしくはアルサル達の敵であったならば――
その時は自害しよう、と決意する。
覚悟はあっさり決まった。というより、とうの昔に決まっていた。
この身はアルサルのために。そう誓った日から幾年経っただろうか。
世界を救った英雄。イゾリテが生まれてくる時代を平和なものとしてくれた、人類の救世主。
幼き時に邂逅した時から憧れていた。年を経て身も心も大きくなってきた頃には、その思いは懸想へと変化していた。
アルサルの何もかもが愛おしい。イゾリテはそう思う。
理屈ではない。理由なんてどうでもいい。
自分は、アルサルのためなら死ねる。この命、僅かも惜しくない。
「――そう、ですね……」
覚悟を決めると言うより、自らが既に立てていた誓いを改めて確認したイゾリテは、現状における最優先事項を明確に把握した。
このままでは自分はアルサルに害を及ぼす可能性が高いと判断。故に、その危険性を排除する――
そのための行動を、イゾリテは始めた。
まず、そもそも現段階で自害できるのかどうかを確認する。
舌を噛み切る――否、できない。舌を噛むこと自体は可能だが、一定以上の力が入らない。これでは噛み切ることなど不可能だ。
次いで、自分を対象とした攻撃魔術、および理術の使用――否。術式の制御を敢えて間違えて自爆しようともしたが、そちらも上手くいかなかった。
やはりである。イゾリテの肉体を操っている何者かは、ここから退くことはもちろんのこと、自殺すら許さない。
当然か。イゾリテを使って何かをさせようというのだから、死んでしまっては困るのだろう。いついかなる方法でそうされたのかはわからないが、案の定イゾリテは制約に【縛られていた】。
逆はどうか。
前へ進む――即ちアルサルがいる方角へ進めることは先程確認した通り。では、攻撃は?
魔力を高め、ここから見えるアルサルの背中を標的として〈爆炎流〉を発動させようとする。
是。
途中で解除したが、どうやら術式が止まる様子はなかった。続けていれば、魔術の猛火がアルサルに襲いかかっていたはず。
「……なら問題ありません」
と、イゾリテは独り言ちる。
必要な確認はとれた。
もちろん自害を諦めたわけではない。むしろ、自分がアルサルに危害を加えようとした行為を〝何者か〟が止めなかったことで、より確信が深まった。やはり自分を利用してアルサルに危害を加える可能性が高い――と。
「――申し訳ありません」
虚空に向けて、イゾリテは謝罪する。
謝意を届けるべき相手は複数。これから心痛を与えるであろうアルサル、エムリスに。そして、ここにはいない兄ガルウィンに。突然現れて王妹と名乗った自分を受け容れてくれた、セントミリドガルの民衆に。
――これよりイゾリテは死を迎えます。
己が死んだ後のことを思うと、胸が痛む。
アルサルは怒るだろう。いや、怒り狂うに違いない。言いつけを破って勝手な行動をとった挙げ句、ひどい死に様を晒してしまうのだから。
エムリスはどうだろうか。悲しんでくれるだろうか。それとも笑われるだろうか。あの師匠だけはあまり反応が読めない。少なくとも、喜んではくれないだろう。惜しい才能を失った、という風なことぐらいは言ってくれるかもしれない。
兄は、間違いなく悲しむだろう。体を壊すほど号泣するかもしれない――いや、必ずそうなるだろう。自分で言うのも何だが、ガルウィンは自分をよく愛してくれている。世界一幸せな妹は誰か、と問われれば、迷いなく自分だと断言できる。それほどの愛情を注いでもらったと、口にするのは気恥ずかしいが、イゾリテは自負していた。
だから、本当に申し訳ないと思う。
まんまと何者かの術中にはまり、このような結果になってしまったことが。
もしかしなくとも、自分がこの戦場まで来てしまったことすら、その何者かの謀略だったのだろう。やはり本来の自分なら、アルサルの言葉に逆らうことなどまずあり得ないのだから。
一体いつの間に、こうなるよう仕向けられていたのだろうか。まるで覚えがない。今日に至るまで、こんなことは一度もなかった。だから心当たりすら皆目ない。
情けない。
あまりの嘆かわしさに、イゾリテは自然と涙を流していた。
相も変わらず表情筋は上手く動いてくれない。まるで仮面のような顔付きのまま、ハラハラとただ両目から滴をこぼす。
――後のことは頼みます。
届くはずもない思念を、それでも祈るように告げ、イゾリテは前に進み出た。
アルサル達の戦いの余波に巻き込まれて死ぬ、という自殺を決行するために。
しかし、その刹那。
「星剣、抜刀――!」
アルサルの凛烈とした声が耳に届いた。
ただごとではない緊張感が迸る響きに、今からかつてない事態が起こる――そう直感した。
そして眩い銀の光を目にした。
これまで幾度となくアルサルの放つ銀光を目にしてきた。
だが、今目の前にする輝きは、それらとは比較にならないほど強烈にして凄烈な煌めきだった。
星剣――〝銀穹の勇者〟が振るうという、究極の一刀。
アルサルの切り札にして奥の手。
魔王を打倒した至高の刃。
その伝説に謳われる剣が今、目の前に顕現しようとしている。
言うまでもなくイゾリテは一瞬にして心奪われた。
頭の中が真っ白になり、つい先刻まで考えていたこと全てが消失した。
それが最後の、そして最大の隙となってしまった。
―― 今だ 殺せ 勇者アルサル を
どこまでも無防備だったイゾリテの精神に、その【男の声】は覿面に響き、一気に染み渡った。
理性と本能の境目に強引に割り込み、肉体と精神をもろとも支配する。
「――――」
この瞬間、イゾリテの自我と意識は完全に失われ、その身は完全なる操り人形と化した。
もはや少女の意思とは無関係に手足が動き、目的を果たすための行動を開始する。
既に取り出していたペンダントを首から外し、掌に握り込む。そうしながら歩を進め、戦場の中心地へと向かう。
既にアルサルの心臓から〝星剣レイディアント・シルバー〟は引き抜かれ、より眩い輝きを放っている。凄まじいまでの重圧が全方位に迸るが、イゾリテの足は止まらない。
いくら眷属化によって強化されているとは言え、もはや戦場は、本来なら人の身では立ち入ることのできない領域だ。肉体の各所が痙攣のように震え、その度に足取りが乱れる。
それでもイゾリテはアルサルに向かって進み続ける。
つう、と両の鼻の穴から血が垂れ出てきた。早くも肉体にかかる負担が限界へと近付いている。天災とも呼ばれた魔王をも屠った星剣は、ただそこにあるだけで周囲の生命を奪うほどの力を放っているのだ。
なおもイゾリテの足は止まらず、やや迂回するようにしてアルサルの背後へと回り、距離を詰めていく。
当のアルサルは星剣の制御に意識を集中させていた。イゾリテの接近に気付く様子はない。さもありなん。彼の頭の中では、この場には自分とエムリス、ニニーヴ以外の存在はないものとなっている。いたとしても、現時点ではもう息をして動いているはずがないと思い込んでいる。故に周囲に警戒を払わず、一人の少女がただ歩み寄ってくる気配すら察することができない。
イゾリテを操る者にとって、それはまさに千載一遇の好機だった。
ゆっくり、確実に、イゾリテの足は進み。
距離が近付くにつれ、星剣とアルサルの纏う重圧はより大きく、強くなり。
イゾリテの肉体の各所が壊れ、皮膚が破れ、血が噴き出し、衣服が破け。
やがて、指呼の距離まで近付いた、その瞬間。
イゾリテの手が、アルサルの背中に、ペンダントを――
「――アルサル様……?」
刹那、奇跡的にイゾリテ本人の自我が取り戻され、
しかし動きは止まらず、
その手はペンダントを手放し、
「え……?」
宙を舞ったペンダントが、
アルサルの背中に、
こつん、と当たった。




