●32 勇者だからこそ
約八十機――否、八十【匹】ほど残存している魔竜アルファードの内、とある一体にさらなる異変が生じた。
ただでさえ半生物として異形化しているところへ、さらなる変態が起こる。
膨張。
機械としても生物としてもあり得ない規模で、魔竜の体が膨れ上がり、巨大化していく。
それに合わせて鮮やかな蒼だった表皮――元は金属の装甲――の色彩が、徐々に暗くなっていく。闇色に近付いていく。やがて漆黒には染まりきらず、しかし限りなく漆黒に近いそれは、まさに〝蒼闇〟と呼ぶ他ない――紛うことなきエムリスの色だった。
アレだ。
あの巨大化した個体にエムリスが搭乗している。間違いない。もう見ただけで確信できる。
巨大化した魔竜――即ち『大魔竜』はサイズが十倍近くまで膨張しただけに止まらず、全体的にシルエットが凶暴化していた。見るからに『魔竜の王』という雰囲気だ。魔王が乗り込んでいるだけに。
大魔竜ないしは魔竜王とでも呼ぶべき怪物から、凄まじい魔力が放出される。ただでさえ一帯に膨大な量の魔力が漂っているというのに、一際強く感じられる圧倒的なまでの勢い。
おかしな話だが、魔力というものはあまりに強くなりすぎると、もはや魔光を放つことすらなくなるらしい。
これまで魔力を扱うエムリスを見てきたのだから既に気付いているかもしれないが、あいつに言わせれば『【光る程度の魔力】なんて恐るるに足らないさ。なにより、目に見えない方が底知れなさが際立つだろう?』とのことで、強すぎる力はまさに人知の及ばない存在へと成り果てるのだ。
『 ――あはははははははは そういえばニニーヴ、君とは前から一度やり合ってみたかったんだ それがこんな形で叶うなんてね ボクは嬉しいよ 』
魔竜王の巨大な顎から魔術で増幅されたエムリスの声が響く。
内容はいつものエムリスだが、口調が明らかにおかしい。
いかにも笑っている風だが、声音はまったくの平坦。それでいて、どことなく嗜虐的な色味を帯びている。
間違いなく〝怠惰〟と〝残虐〟の影響だ。
すると、思いがけずニニーヴから劇的な反応が返ってきた。
『 はぁ? なんやそれ。ウチのことナメとんのか? ええやんけ、吐いた唾ぁ呑み込むんとちゃうぞ! 手加減なしでブッ殺したるわ!! 』
さっきまでと別人過ぎる。というか、こんな風に声を荒げるニニーヴなど初めてだ。
なんなんだ? 一体何が起こっているんだ? というか聖女の面目はどこに行った? やはりこちらも〝憤怒〟と〝嫉妬〟の影響なのか。本気で洒落にならないぞ、おい――
などと瞠目していると、今度はニニーヴがアクションを起こした。
戦場に存在するニニーヴ配下の聖具が、一斉に咆吼を上げたのだ。
『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――――――!!!!』
長い、とてつもなく長い機械の雄叫び。それは内蔵ジェネレーターの駆動音だ。あるいは音波によって何かしらの信号を放っているのか。複雑な音響が一斉に紡ぎ合わされ、空へと吸い込まれていく。
次いで始まったのは正直、半ば予想できた展開だった。
エムリスが魔竜の一つを巨大化させたのだ。ニニーヴもまた、それに対抗できるものを出さねばならない。だが聖具は基本的には機械だ。聖力も、魔力と違って『世界の法則に抗う』ような無茶は出来ない。
ならばどうするか?
――【合体】である。
聖狼フェンリルガンズ、そして聖駒ヴァニルヨーツンが、それぞれ独特の変形を経て、連結し、結合し、新たな機械兵器へと変貌したのだ。
そうして出来上がったのは、筆舌に尽くしがたい形状の巨大兵器。
どこをどう表現すれば伝わるだろうか。まったくわからない。既成概念にまったくない、初めて見る形をしている。聖力と聖術の粋を集めた古代聖具だけに、何かしらの計算のもと効率的な形態を構成したのだろうが――俺にはどこがどう最適化されているのかさっぱり理解できない。
しいて例えるなら、大樹を背負った蜘蛛、とでも言おうか。あるいは、頭から大木を生やしているタコ、と言っても違和感はない。いや、蜘蛛だのタコだのに例えているからといって、足が八本なわけではない。というか、どう考えても十本以上ある。例えはあくまで例えでしかないのだ。
ただ、サイズだけは魔竜王に匹敵するどころか、それ以上にまで膨れ上がっている。合体することによって数こそ一機のみになったが、各所から突き出している砲塔や、機体のど真ん中に出来上がった馬鹿げたサイズの大砲を見れば、実質的な総合火力は決して下がってはいまい。
さらに言えば、合体することによってニニーヴの聖力がより凝縮され、密度が上がっている。おそらく見た目以上に頑健で、馬力も上がっているはずだ。
かくして、魔竜王率いる八十匹のアルファードと、聖狼フェンリルガンズと聖駒ヴァニルヨーツンの合体した名状しがたき巨大兵器の対決という、頭の痛くなる構図が出来上がった。出来上がってしまった。
ここからは、もはや想像もつかない激闘が――
「――いや、させるわけねぇだろ……!」
我ながら情けないことに、ようやっと正気に戻った。このままエムリスとニニーヴを激突させるわけにはいかない。下手すれば、セントミリドガルとヴァナルライガーの半分ずつが消し飛ぶような結果になりかねない。
しかし。
「お待ちください、アルサル様」
改めて飛んでいこうとした俺に、イゾリテから制止の声がかかった。
俺は振り返り、どうして止める? という目線を向ける。するとイゾリテはゆっくり首を横に振り、
「今あちらへ行くのは得策ではありません」
そんなことを言っている場合じゃない、と怒鳴りそうになったが、どうにか理性で感情を押し込めた。
「……どういう意味だ」
問うと、イゾリテは迷いのない真っ直ぐな視線を俺に向け、
「どうか落ち着いてください、アルサル様。現状、エムリス様とニニーヴ様の力は拮抗しているように見えます。つまり、魔力による大気汚染はこれ以上は進みません。事態の鎮圧を急ぐ理由はなくなりました」
確かに、それはイゾリテの言う通りだった。
いつだったかエムリスが言っていたが、俺達は十年前に比べて大きく成長している。エムリスの魔力が天井知らずに強大になっているということは、ニニーヴの聖力もまた同様のはず。
故に、危惧していた魔力による人界の汚染は止められる――そう、それは確かに間違いない。
だが。
「もうそれどころの話じゃない。見てただろ? あの二人が本気でやり合ったら、ここも含めて国一つ分が焦土と化すぞ。止めるなら今だろ」
「いいえ。おそらくですが、そうはなりません」
俺の想定は、しかしキッパリと否定された。おそらくと言いながら、妙に自信ありげに断言するイゾリテに、俺は驚いて軽く目を見張ってしまった。
「――なんでそう言い切れる?」
どう見たって二人の様子はおかしい。互いに加減をしながら戦うとはとても思えない。そして、世界を救った英雄が本気を出せばどうなるのか、俺は誰よりも知っている。
「ですから落ち着いてください、アルサル様。普段のアルサル様ならとうに気付いているはずです。お二人が心配なのはわかりますが、どうか冷静な分析を」
イゾリテは質問に答えず、それどころか俺をなだめてきた。静かな口調だったが、俺はバケツで水をぶっかけられたような驚愕を覚える。
どうやらイゾリテをしてここまで言わしめるほど、俺は動揺しているらしい。イゾリテの指摘そのものより、自分にその自覚のないことの方がよっぽど衝撃的だった。
「〝蒼闇の魔道士〟エムリス様の力は強大です。ご存じの通り、その気になれば世界を滅ぼすことも可能なほどです」
かなり大仰な表現だが、間違いではない。イゾリテは他ならぬエムリスの眷属にして弟子だ。今となっては、俺以上にあいつのことを理解しているかもしれない。
「一方、〝白聖の姫巫女〟ニニーヴ様もまた世界を救った英雄のお一人です。そして、その御力は攻撃よりも防御と支援――即ち味方を守護し慈しむことに特化していると聞きます」
特化していると聞きます――その言い方に、そういえばイゾリテはニニーヴの姿や戦っているところを見たことがないのだった、と思い至る。
一応、俺達四人のそれぞれの能力や特徴は、その気になればいくらでも入手できる情報だ。なにせ十年前は国どころか世界を上げて喧伝されていたのである。魔王を倒し、世界を救う英雄が現れたぞ――と。疲弊した人々の希望となるように。
故にこそ〝白聖の姫巫女〟がいわゆる後方支援型の役割を担っていたことは、その筋の人間なら知らないはずがなく、いわんやイゾリテをや、だ。
「これがアルサル様とエムリス様の激突であれば、懸念されている事態は間違いなく起こるでしょう。滅亡一直線です。しかし、守護と支援に特化されたニニーヴ様であれば、おそらく【凪】の拮抗状態が生まれるはずです」
「――!」
遅まきながら、はっ、となった。
そうだ。力と力なら、ぶつかり合えば余波が生まれる。いつぞやの俺とシュラトの戦いがそうだった。だが、ニニーヴの能力は基本、防御や回復が専門だ。つまりニニーヴなら、エムリスの力を強引にはねのけるのではなく、柔らかく受け止め霧散させることが可能なのだ。
それなら無駄な余波は生まれない。イゾリテの言う通り魔力と聖力が中和しあった〝凪〟の空間が生まれるはずだ。無論、力の規模が規模だ。いくばくかの破壊はまき散らさずにはいられないだろうが。
「いや――でもちょっと待て。あれはどう見ても攻撃兵器だぞ? お前は知らないかもしれないが、ニニーヴは聖女の顔した超武闘派だ。あの様子じゃ真っ向からぶつかり合っても――」
ニニーヴが合体させた巨大な古代聖具――便宜上『合体聖具』とでも呼ぼうか――を指差す俺に、イゾリテは小首を傾げた。
「――? よくご覧になってください、アルサル様。ニニーヴ様が生み出された聖具は、既に聖力のフィールドを展開し、戦場一帯を完全包囲されております」
「……なんだと?」
意外に過ぎる指摘に、俺は目を見張った。
マジか。俺でも気付かなかったことにイゾリテが先に気付くとは。
だが改めて感覚を研ぎ澄ませてみると、果たしてイゾリテの言う通りだった。ニニーヴの作り上げた合体聖具を中心として、巨大な全球型の結界が張られている。既にエムリスを始め魔竜王と魔竜の群は、聖力の結界内に囚われていたのだ。
「――そうか、なるほどな。エムリスの眷属になったおかげで、魔力の流れに敏感になって、それで聖力の動きも読めるようになったわけか」
こう言っては言い訳に聞こえるかもしれないが、俺の感覚の鋭さはあくまで戦闘向けだ。ある程度の距離ならそれなりに働くが、流石に国境線を挟んだ向こうともなると、かなり意識を集中しなければ正確な探知は難しい。
「はい。ご明察です」
一方、あのエムリスから魔力と魔術の手解きを受けたイゾリテは、いまやその筋のスペシャリストである。探知の鋭さはともかく、感知範囲の広さにおいてはいまや俺以上だろう。
そして、風を読みたいなら風そのものではなく舞い上がる砂を見ろ、という言葉がある。
イゾリテはあくまで魔力と理力のみしか感知できない。だが、エムリスとニニーヴが争うあの場においては、魔力の動きをよく観察することで聖力の動向もまた自然とわかろうというもの。
故に、イゾリテは俺以上に戦局を正確に把握していたのだ。
「私は普段のニニーヴ様の言動は存じ上げませんが、たとえ言葉遣いが乱れていても、その御心は凪いだ湖面のごとく静謐のままかとお察しいたします。事実、エムリス様の魔力を通して感じられるニニーヴ様の聖力には、言葉ほどの荒々しさを感じません」
イゾリテの言が真実ならば、ニニーヴのあれは演技ということになる。だがそれならそれで、何故そんなややこしい真似を? と思わなくもない。何か狙いがあるというのだろうか。
いや、だが、しかし――うん、そうか。言葉を翻すようだが、わからなくもない。
イゾリテに言われた通り、落ち着いた頭で考えてみれば、俺にも経験がないわけではないのだ。
なんだかんだ、俺もよく〝傲慢〟と〝強欲〟に【引っ張られる】ことがある。あいつら、肉体と精神の【根っこ】の方に寄生していやがるからな。どうしたって影響が出てしまうものなのだ。特に、戦闘中ともなれば。
そう考えれば、エムリスとの戦闘に入ったニニーヴがオラつく――もとい、荒ぶってしまうのも致し方ない気がする。特に〝嫉妬〟はともかく、〝憤怒〟は戦いに直結するような因子だ。言動に強く作用するのは、むしろ当然のことである。
頭が冷えてきた俺は、ふぅ、と息を吐き、肩の力を抜いた。
「……わかった。言ってくれて助かった。ありがとうな、イゾリテ」
「アルサル様のお役に立てたのなら、これに勝る喜びはありません」
礼を言うと、イゾリテはかしこまって頭を下げた。セントミリドガルの王妹になったというのに、結局、俺を主君扱いするのをやめるつもりはないらしい。
「――それで? わざわざ俺を制止したってことは、それなりの妙案があるんだよな?」
少し揶揄するように俺が言うと、イゾリテは素直に首を横に振る。
「妙案と呼べるほどのものではありません。ただ、現状ではエムリス様とニニーヴ様の御力は完全に拮抗状態にあります。アルサル様が介入されるのであれば、このまましばらく様子を見て、お二人が消耗されてからの方が上手くことが運ぶと思いました」
率直な意見を述べるイゾリテ。まぁ、その程度のことなら誰でも思いつくだろうが、実際にはさっきまで熱くなっていた俺には思い至らなかったからな。貴重な知見である。
「漁夫の利を狙うってわけか」
「はい」
俺が身も蓋もない言い方をしても、イゾリテは素直に頷いた。何かと韜晦するようなことばかり言うエムリスと比べて、応答がハッキリかつスッキリしているので、コミュニケーションが取りやすい。
俺は改めて戦場へ意識を傾けつつ、思考を回転させる。
「……ま、悪くはないな。この状況なら、様子見を続けるのが確かに定石だ。あの二人が疲労してからの方が、何かと与しやすいだろうしな」
エムリスとニニーヴの戦いによる被害がイーザローン平野を超えて広がらないのであれば、二人の消耗を待ってから止めに行くのが賢い選択である。
俺は深く頷き、
「ああ、うん、いわゆる軍の指揮官においては正しい判断だ。間違いないな」
「では――」
と何か新たな提案をしようとしていたイゾリテを遮り、俺は言った。
「だが、〝勇者〟としてはどうなんだろうな?」
「え……?」
珍しいことにイゾリテが目を見張り、口を半開きにして固まった。
俺は丸くなった緑の瞳と視線を合わせ、もう一度問いを放つ。
「昔の仲間同士が派手に喧嘩してるってのに、それを黙って見ている男はちゃんと〝勇者〟してると思うか?」
「…………」
返答はない。イゾリテは身をすくませたように硬直し続けている。
だから俺は自分で答えを出した。
「いや、それはあんまり〝勇者〟じゃないよな。どっちかって言うと〝ズルい奴〟のやり方だ。勇気のない奴の行動だ。そうだろ?」
俺は薄く笑って、同意を求める視線をイゾリテに送る。それから、
「でも、さっきも言った通り、戦略的には正しい判断だ。イゾリテ、お前は間違ってないし、おかしなことを言ったわけじゃない。むしろ正解も正解、大正解だ。大事なことだからもう一回言うぞ。お前は正しい。間違ってない」
俺は片手をあげ、自然とイゾリテの頭を撫でていた。幼子に言い含めるかのごとく。
「――……」
不服なのか、そうでないのか。イゾリテは表情筋を微動だにさせず、されるがまま俺に頭を撫でられる。若干だが拗ねているようにも見えるが――さて、どうだろうか。
ふっ、と思わず小さく笑って、
「だけどな、俺は腐っても元〝勇者〟だ。別に偉ぶるつもりはないんだが……それでも、仲良く旅をして一緒に魔王を倒した仲間達がいがみ合ってるっていうのに、それを黙って見ているなんてわけにはいかないんだ。どうしたってな」
くどいようだが、戦略的にはイゾリテの案が圧倒的に正しい。実際、ニニーヴが出てくるまでは俺も戦局を見極めるためにずっと静観していたのだ。
ここは座視が正解。誰にだってわかる。
しかし今回ばかりは――というか、俺に限ってはそうもいかない。
「いくら何でも、あいつらがガチでやりあっているのを黙って見ているだけ、なんてことしたら男が廃っちまう」
理屈ではない。理論でもない。
これは沽券に関わる話なのだ。
悪く言えば、意地の問題だと言ってもいい。
たとえ、それがどれだけ愚かであろうとも。
たとえ、それがどれだけ無駄であろうとも。
俺という〝勇者〟には、どうしたって行かなければならない時があるものなのだ。
「そういうわけだ。悪いな、せっかく助言してくれたのに。あいつらの喧嘩を、よりにもよって俺が見過ごすわけにはいかねぇんだよ」
イゾリテの頭から手を下ろし、体ごと戦場方面へと向き直る。
正直、俺が割って入ったところで平和裏に争いが収まるとはまったく思わないのだが。なんなら根拠はないが、むしろ戦闘が激化する予感さえしているわけだが。
しかし、行かないわけにはいかない。
何故って、あの二人を止められる奴なんて、俺かシュラトぐらいしかいないのだから。
ちなみに、シュラトには既に連絡を入れている。ただこちらがこうなっている以上、あちらでも何か妙なことが起こっている可能性も十分にある。どうか何事もなく、シュラトが助太刀に飛んできてくれるのなら非常に助かるし、心強いのだが――
「……大変申し訳ありません、アルサル様……」
ともすれば聞き落としてしまいそうなほど、微かなイゾリテの声。
「――ん?」
振り向くと、すっかり彫像と化していたイゾリテが緑の瞳をやや見開き、俺を見つめていた。
刹那、キラーン、とその両の眼が光を放って煌めく。
あ、やばい――そう思った時にはもう遅かった。
「――お許しくださいアルサル様。このイゾリテが愚かでした軽率でした不心得者でした。アルサル様の仰る通りです私こそが間違えておりましたええ井の中の蛙とはまさにこのこと。いいえもはや葦の髄から天井を覗く馬鹿と言っても過言ではありません。そう、そうなのです。そうだったのですアルサル様こそは稀代の〝勇者〟。魔王を滅ぼし世界に君臨する貴き御仁。私ごとき矮小な塵芥が意見するなど百万年早かったようです本当に申し訳ありませんでした」
はっきりとした滑舌で紡がれる怒濤の言の葉。
こういうところは流石に兄妹だな、ガルウィンとそっくりだ――と頭の片隅で思う。
そう、今更言う必要もないだろうが――これは〝暴走〟だ。
いや別に八悪の因子がどうとかの話ではなく、この前のガルウィンと同様、俺への畏敬の念が高まりすぎてイゾリテがおかしなモードに入ってしまったのだ。
まぁ、ガルウィンと比べてさほど勢いがなく、暑苦しくもないのはいいのだが――しかし一見すると冷静そうに見える顔で、よもや唇に油でも塗っているのかと思うほど早口で、饒舌に俺への褒め言葉とイゾリテ自身の卑下をつっかえることなく連ねていく姿は、なんだか色々なものを通り越して背筋が寒くなってくる。
「待て、落ち着けイゾリテ。いったん深呼吸しろ。な?」
と待ったをかけるが、無論のこと暴走モードに入ったイゾリテは聞く耳を持たない。
瞬きもせず、じっと俺を見つめたまま、抑揚のない口調で、
「このイゾリテ深く感銘いたしました。どうか賢しげな口を利いた私をお許しください。アルサル様のご判断が間違いであろうはずがありません。どうか御心のまま。私はアルサル様がどのような道を歩もうとも必ずついて参ります。例え火の中水の中、果ては地獄であろうとも。イゾリテは最後までお供いたします。どうか私をお導きください」
まるで夢遊病者か、自動読み上げ機械か。どちらにせよ常人離れしているのは確かだ。誰が見たってまともな状態とは思わないはずだ。
本音を言えばさっさとエムリスとニニーヴを止めに行きたいのだが、こんなイゾリテを放置していくわけにもいかない。というか、こいつ普通についてこようとしてやがる。
俺は、すぅ、と息を吸って覚悟を決めた。
「――イゾリテ」
まず自分の世界に没頭してしまっているイゾリテの心を呼び戻さなければ。そのためには少々強引かつ過激な手段も問わない。なにせ今は緊急事なのだから。
「お願い申し上げますアルサル様。どうかどうか私を――えっ?」
寝言のように言葉を紡いでいたイゾリテが、異常に気付いた途端、やけに可愛らしい声を漏らした。素で驚いたのだろう。
さもありなん。何故ならこの俺がイゾリテのおとがいを片手で掴み、くい、と持ち上げたのだから。
さらには軽く腰をかがめて顔を近付けているのだから、尚更だったはずだ。
そう、傍から見ればどう見ても『キス一秒前』の体勢である。
「……アル、サル――様……?」
緑色の目が大きく見開く。桜色の唇が呆然と半開きになる。浅黒の肌がやや紅潮しているようだ。
当然ながら、ここは口づけをする場面ではない。
俺は息のかかるほどの至近距離から真っ直ぐイゾリテと見つめ合い、
「いいか、落ち着いて聞け。さっきも言った通り、俺はエムリスとニニーヴを止めに行く。お前はここに残って兵士の面倒を見ててくれ。絶対に俺についてくるな。いいな、絶対だぞ? お前にはまだやらなきゃならないことが山とある。変なところで死なせるわけにはいかないし、死なれたら俺が困る。というか、かなりしんどい。大事なことだからもう一回言うぞ。お前はついてくるな。ここにいろ。何なら危ないと思った時は転移で逃げろ。わかったな」
ここまで言うと、流石に俺の所作がロマンティックなものでないことに気付いたのか、はたとイゾリテの顔色が変わった。
「ですが――」
反駁するのはわかっていた。何が何でもついてこようとするのもわかっていた。故に、俺は告げる。
「こいつは命令だ。俺の判断が正しいと思うなら従ってくれ。間違っていると思うなら無視しろ。どっちだ?」
「――――」
我ながら意地悪な言い方であることは自覚している。俺はイゾリテの畏敬の念を逆手に取って、実質的に一つの選択肢へと追い詰めたのだ。
これまでの言動からもわかる通り、イゾリテは俺の判断が間違っているとは口が裂けても言えない。どれだけ俺について行きたいと思っていても、そこを裏切ることはできない。故にイゾリテは言うしかないのだ。俺の判断こそが正しいと――
そう、今みたいに。
「……従います」
さっきまでの上気したような顔は嘘みたいに消え、仏頂面一歩手前の無表情がそこにはあった。声音の響きからして、唇が尖っていないのが不思議でならない。
俺は頷きを一つ。
「よし、いい子だ」
そう言ってイゾリテのおとがいから手を離した。すると、さりげなくだがイゾリテが一歩後ろに下がった。その所作もまた、どこか拗ねているような雰囲気が漂っている。
やがて視線を斜め下に向け、ぼそり、と。
「……アルサル様はずるい御方です……」
聞こえなかったふりをした。この距離だ、聞こえないわけがない。だが反応するのも悪手な気がしたので、俺は黙殺を選んだ。
それにしても、イゾリテがこんな風に露骨な不満を漏らすとは珍しい。流石に意地悪が過ぎただろうか。今度、何かで埋め合わせしてやらないとな。
「じゃ、ここは任せたぞ。言っておくが、お前だから頼むんだからな。信頼の証だとでも思っててくれ」
心中にやましい気持ちがあるせいか、ついそんなことを言ってしまった。少々ご機嫌取りがわざとらしかっただろうか。
するとイゾリテは我に返ったように居住まいを正し、
「――かしこまりました。アルサル様のご武運をお祈りしております」
内心はどうあれ、頭を下げて了承してくれた。
俺は頷きを一つ。
「行ってくる」
そう告げると、一歩だけ横へ軽くステップを踏み――といってもそれだけで五メートル以上は飛ぶのだが――跳躍の余波が野営道具に影響が出ない位置に立つと、ぐっと腰を落とし、足裏に〝氣〟を籠め、
「――ッ!」
わりと強めに大地を蹴った。
俺の体が撃ち出された弾丸よろしく、一気に宙を飛ぶ。
次いで、背後から落雷じみた爆音が轟く。
あまりに跳躍の勢いが強すぎて、そして飛翔速度が速すぎたせいで、爆発じみた轟音が遅れて俺の背中を追いかけてきたのだ。
いかん、ちょっと強めに蹴りすぎてしまったか。イゾリテに土がかかってなければいいのだが。まぁ、今のあいつならその程度のこと心配ないだろうが。
一瞬で国境線――『ビューボイジャーの森』の上を飛び越えた俺は、そのまま高速でエムリスとニニーヴが対峙する極悪な戦場へと身を投じていく。
目の前に立ちはだかるのは、先程イゾリテが話していた聖力の防壁。
ニニーヴの張った結界だ。
「悪いが――こじあけさせてもらうぜ」
口に出して言いながら、右手に〝氣〟を収束。瞬時に銀剣を形成する。
この手の結界は規模が大きければ大きいほど層が薄くなり、脆くなるのが定番だ。だが〝白聖の姫巫女〟であるニニーヴにそんな常識など通用しない。
ましてや八悪の因子を宿し、魔王を討伐した頃から十年も経過しているのだ。
だからこその全力全開。
「――っらぁッ!」
気合いの声を発し、大きく振りかぶった銀剣を不可視の、しかし向こうの景色がやや歪んで見える障壁へと叩き付ける。
普通のロングソードサイズの銀剣が、インパクトの瞬間だけ一気に爆裂する。
稲妻が爆ぜるような音と、ガラスの砕けるような音が混ざり合い、盛大に響き渡った。
銀色の〝氣〟の炸裂が、ニニーヴの張り巡らせた結界の一部に穴を穿ったのだ。
といっても、大人一人がどうにか通れそうな程度の大きさだったが。
「――おいおい……」
別に額に血管が浮くほど必死にやったわけでもないが、それでも反動が後に引かない程度の全力の一撃だったんだぞ。それでこれぐらいの穴しか空かないとか。ニニーヴの奴、どれだけ硬さが増してやがるんだ。
ともあれ結界は綻びた。俺は何もない空中を蹴って、中へと飛び込む。
そして、この目に飛び込んできたのは果たして――
ただの地獄だった。




