●30 神の見えざる手 2
聖神が箱庭に下界する際には、分身体と呼ばれる仮初めの肉体が必須となる。
よって聖神アテナとポセイドンが下界した時、自動的に彼女と彼の意識は、事前に用意されていた分身体の中へと収納された。
――聖神アテナ専用分身体・ミネルヴァ、起動。
――聖神ポセイドン専用分身体・ネプトゥーヌス、起動。
各種起動シークエンスをエラー一つ起こすことなく完了させた二柱――否、二機は、おもむろに動き出した。
主たる照明こそないが天井、壁、床がほんのりと光っている故に明るい、白を基調とした部屋。
その壁際に並べられている、いくつもの分身体の一つ――金褐色の短い髪に、明るい蒼の瞳をした女性型アバターが、不意に両手を上げて大きく伸びをした。
「……あー、この感覚、久しぶりっすねー。分身体に入るのなんて研修の時以来っすよ――って、うわっ、ウチの声ってこんな感じでしたっけ? 受肉するの久々過ぎてめちゃくちゃ違和感あるっす」
つい先程まで作り物の人形のごとく微動だにしなかった肢体が、今はしなやかに躍動して喋っている。まるで命を吹き込まれたかのごとく。
実際、分身体の中に意識が宿ることによって、先刻まで無機物に過ぎなかった肉体は有機物のそれへと変化していた。聖神の誇る超技術の一端である。
分身体に意識接続した聖神アテナこと、アバターネーム〝ミネルヴァ〟は、両手足を動かしながら自らの機体を見下ろした。
彼女のアバターが身に纏っているのは、赤を基調としたフルボディスーツ。いわゆる『聖具』を扱うのに特化した、特製の【武装】である。
「あー……そういえばこれキャラメイクしたのかなり前なんで、服のデザインがめちゃくちゃ古臭いっすね……あのぉ、人間界に行く前に買い換えてもいいっすかー?」
この世界――『箱庭』において、聖神が活動するために自らの分身であるアバターを必要とするのは、先述の通り。
アバターの素体は好きにデザインすることが可能で、さらに聖神界と呼ばれる場所へ行けば、カスタマイズ用のアイテムがいくらでも手に入る。無論、対価は必要となるが。
このため『箱庭』に下界する聖神の間では愛用のアバターを着飾ることが流行しており、運営神社の貴重な収入源の一つとなっていた。
「アホ抜かせ。そんなん気にしとる場合か。俺ら普通のアカウントやのぉてスーパーアカウントで接続しとんのやぞ。遊んどる時間あると思うてんか?」
青みがかった灰色の長い髪を後ろで束ね、淡褐色の双眸を細めた男性型アバターは、けっ、と吐き捨てるように答えた。聖神ポセイドンの専用アバター、〝ネプトゥーヌス〟である。ミネルヴァ同様、青を基調としたボディスーツに身を包んでいた。
「えー、でもポセかちょー」
「〝ネプトゥーヌス〟や、つうか『箱庭』の中で本名と役職呼ぶなや。ダイブリテラシーのなっとらん奴やのぉ」
抗議するように名前を呼ぶミネルヴァに、語調を強めてネプトゥーヌスは注意する。原則、箱庭の中では素性を隠すのが聖神のマナーだ。よって、本名を呼ぶのは重大な禁忌となる。
「ネ、ネプ、チュ、ネプトゥー……めんどいんで〝ネプさん〟でいいっすか?」
「諦めるの早すぎんか……? まぁええわ。ほな、俺もミネって呼ばせてもらうで」
「うぃっすー」
ミネルヴァは軽い調子で形のなっていない敬礼をした。反対側の手がペンギンのようになっているあたり、完全に形骸化してしまっている。
「――お? なんやヘパイストスの奴、自分のアバターここに置いたまんまやん。こっちは全然使っててへんかったんやな」
白く輝く部屋に安置されているアバターは、全て運営側の者が使用する特別かつ専用のものばかり。現在は休眠中の一つに目を留め、ネプトゥーヌスは、はん、と鼻を鳴らした。
「あー、何か一般アカウントを何個も作って、そっちから下界してたみたいっすよ。デメテルさんが言ってたっす」
「なんやそれ、えらい回りくどいことしよるやん。ポイントも手間もえらいかかるやろに……どんだけ英雄ユニットのこと嫌っとんねん、あいつ。その執念深さにだけは敬意を表するわ」
呆れ果てたとばかりに深い溜息を吐きながら、ネプトゥーヌスは両の掌を握ったり開いたりを繰り返す。ミネルヴァ同様、久々に接続した仮初めの肉体が正常に動くか、テストしているのだ。
「……ん? つうか、一般アカウントの素の状態はとても〝人間〟に見えへん感じやったと思うんやけど……アイツそこんとこどうしとったんや?」
「あーそれはっすね、なんとカスタマイズなしで、頭からすっぽりシーツみたいなのを被るだけで誤魔化していたらしいっすよ? いやー、それで騙される人類もどうかと思うっすけどねー」
通常、どこの神社のどの『箱庭』においても、アバターの基本形というのはそっけなくつまらないデザインとなる。それはもちろん箱庭内に生息する各種生物と混同されないようにとの配慮でもあるが、同時に下界しているユーザーにポイントを消費してもらうためでもある。
ちなみにこの箱庭における基本アバターのデザインは、一言で言えば『機械兵士』と呼んで差し支えない武骨な見た目である。誰がどう見ても人類には見えない、恐ろしい異形だ。
「うぉいマジか……そんなバレバレの恰好で暗躍しとったんかい、あの阿呆……」
ネプトゥーヌスは軽蔑の眼差しを、聖神ヴァルカン専用分身体へと向ける。一般アカウントを複数作ったということは、それらをとっかえひっかえしながら人間界を動き回っていたということになる。想像するだに面倒くさい話だ。
「あれ? そういえば、人間界にいる時って切断できないんじゃなかったっすか?」
「おう、そこは改竄行為でも使うたんやろ。アイツ、ああ見えて箱庭の基幹システムやらにかなり詳しいしな。そもそも、過去のバージョンで封印したアイテムなんかも復活させとるし。他にも俺らに隠れて色々とやっとるはずや。――つか、それだけやれてアバターのデザインだけ手ぇ抜くてどういうことやねん」
一方では余人に真似のできない神業を見せておきながら、一方では素人じみたことをしでかしていた同僚に、ネプトゥーヌスは首を傾げた。
「や、多分っすけど、アバター関連はデメテルさんの管轄なんで、そこじゃ無茶できなかったってことじゃないっすかね?」
「……なるほどやな!」
ミネルヴァの指摘は実に的確で、ネプトゥーヌスは思わず手を叩いて納得してしまった。ここまで怖い物知らずで事を進めてきたヘパイストスをして、あのデメテルだけは無視できなかったと見える。さもありなん、と二人は頷き合った。
「しっかし、逆に考えると、デメテルはんの管轄外ならいくらでも好き勝手してそうやな……あの阿呆、自分が犯人やとすぐにゲロったんはええけど、具体的に何やったかまでについては黙りやからな。どこに地雷が埋まっとるかわからんのは難儀なことやで……」
前途多難の予感に、はぁ、とネプトゥーヌスは吐息を漏らす。
一方、ミネルヴァは、あはは、とあっけらかんと笑い、
「ま、そこんとこはどうにかやっていくしかないっすねー。今頃ノスぶちょーが事情聴取を続けてくれてるっすから、そっちに期待して行っきましょー。あ、ところでこっちのがノスぶちょーとデメテルさんのアバターっすか? うは、ノスぶちょーコレ渋すぎじゃないっすかちょっと。全然イメージと違うっすよ。あ、デメテルさんはさすがに美人っすねー。いいなーキャラメイクうまいなー、羨ましいなー」
「おうこら、他人様のアバターを勝手に触るんやないで。つくづくマナーのなっとらん奴やのぉ」
休眠状態にある他のアバターを指してキャッキャッとはしゃぐミネルヴァに、やれやれ、とネプトゥーヌスは呆れ返る。内心、この若い部下と一緒に仕事を進めることに一抹の不安があった。能力だけなら間違いなくあるのだが、いかんせん精神的にムラっ気があり過ぎるのだ。
「――あ、ネプさん。そういえばデメテルさんからいくつか参考画像もらってるっすよ。見るっすか?」
くるり、と振り返って、今ちょうど思い出した、みたいに重大なことを宣うミネルヴァに、ネプトゥーヌスは一瞬怒鳴り散らしそうになったのを、ぐっ、とこらえつつ、
「……そういうことは真っ先に言っとかんかい、このバカタレが。はよ見せぇ」
「はいっす」
返事した途端、ミネルヴァの動きがピタリと止まった。
「……お? どした? はよ出せよ」
一向に参考画像とやらを開示しないミネルヴァに、しびれを切らしたネプトゥーヌスが催促する。
「――あれっ? 今そっちにウチの送った画像が届いてないっすか? なんか上手く送れないんっすけど……」
「? ? ?」
まったく要領を得ないことを言うミネルヴァに、ネプトゥーヌスは怪訝そうに首を傾げた。数瞬後、会話の齟齬の原因に気付いた彼は、おいおい、と呆れ、一周回って苦笑いすら浮かべる。
「……おい、あのな? わかってへんお前のために、丁寧に確認したるからよう聞けよ? ええか、ここは箱庭の中や。俺達はそこで活動するために、わざわざこのアバターに接続して下界しとるんや」
「――? そ、そうっすね……?」
今更の確認に、ミネルヴァは相槌を打つ。顔と声音がいかにも理解してない風なので、妙に間が抜けている。ネプトゥーヌスは苦虫を噛み潰したような顔をして、
「つまり、今の俺達はいつもと違うて肉体を持っとる。人類とは異なる機械の体やけどな。まぁ、これでも基本性能は極力、生身のそれに寄せとる。つまりや」
「つまり?」
「今の俺らには十感のうち【五感】しかないっちゅーわけや。お前さっき自分で言うてたやろ、受肉するの久々過ぎて違和感あるて。その違和感の正体が【コレ】や」
「ぅえ……!? って、っていうことは……!?」
「そや、〝上〟におる時と違って直接情報のやり取りはできん。五感で感知できる形やないと情報共有はできんのや」
元来、聖神は形ある存在ではない。『情報存在』ないしは『星幽体』と呼ばれるものであり、それ故に肉体を持つ者が有する五感を超えた〝十感〟を理解する。
また、肉体を持たないが故に情報伝達は物質を介さず、直にやりとりすることが可能だった。
「え、ってことはウチがさっき送った情報は……」
「送ったつもりなだけで、全然送れとらん。つか、送れたとしても俺が受け取れん。残念やけどな、箱庭の中やとそこそこ手順を踏まなあかんのや」
「えぇえぇえぇえぇ……面倒くさいにも程があるっすよぉぉぉ……!」
「本気で嫌そうな顔すんなや」
露骨に絶望の表情を浮かべたミネルヴァがその場にへたり込むと、そんなん最初からわかってたことやろがい、と言いたげにネプトゥーヌスは吐き捨てる。
「じゃあ何すか、ここからは画像の共有には実際に見せるしかなくて、音声を届けるには実際の音響が必要ってことっすか……」
「せや。実際、今もこうやって音声で会話しとるやろが」
とっくにアバター特有の制約の中でコミュニケーションを取っているというのに自覚のなかったミネルヴァに、やれやれ、とネプトゥーヌスは肩をすくめた。
「ま、一応ありがたいことに俺らが使うとるスーパーアカウント用のアバターなら、五感だけやのうて第六感と七感も解放されとるんやけどな」
「――! マジっすか! それならちょっとマシじゃないっすか! いや強くてニューゲームってやつっすよ! 俺TUEEE最強無双キタコレ!」
「いうて、基本は五感で楽しむんが箱庭のモットーやからな。六感はともかく、七感は条件が揃わんとウンともスンともいわんぞ」
「くたばれクソ運営ぃぃぃぃっす!!」
「その運営が俺らやけどな」
情緒の忙しいやっちゃな、と呆れの息を吐くネプトゥーヌス。へこんだ次の瞬間には元気になり、かと思えば拳で床を叩いて怒りと怨嗟の声を張り上げる。精神が主体となる聖神としてはあまりに未熟と言わざるを得ない。
今回の下界の目的は、聖神ヘパイストスがやらかした違反と暴挙の調査、およびそこから波及した諸々の事態への対処である。それ故、普段なら許可されないスーパーアカウントの使用も認められたのだ。
つまり――場合によっては、この箱庭にいる英雄ユニットとも争わねばならない事態も予想できるのである。
「……ほんまに大丈夫なんか、これ」
「――へ? 何か言ったっすか、ネプさん?」
「何でもあらへん、ただの独り言や」
思わず漏らした不安の呟きをミネルヴァに耳敏く聴かれてしまったので、適当に誤魔化した。
「そんなことより、ほれ、時間が押しとんのや。体の慣らしが終わっとるんなら、とっとと行くで。はよ立てや」
「えー? まだコツ掴んでないっすし、衣装も買い換えたいっすよー。――あ、そうだ! ネプさん、体の慣らしがてらちょっと聖神界の中を歩き回るっていうのはどうっすか? アバターの操作にも慣れるし装備も変えられるし一石二鳥っすよ!」
「お前な……」
「だってほら、もしかしたら英雄ユニットともドンパチしなきゃいけない可能性もあるっすよね!? だったらアバター操作に慣れとくのは大事っすよ! あと衣装だけじゃなくて武器とか回復アイテムとかも補充しておいた方が絶対にいいっすよ! ねっ! ねっ!?」
勢いよく立ち上がり、両の拳を握って、小さな子供が駄々をこねるようなテンションでまくし立てるミネルヴァ。
これはもう説き伏せる時間の方がもったいないな――そう判断したネプトゥーヌスは、片手で後頭部をガリガリと掻きむしると、かっ、と吐き捨て、
「しゃーない、ええやろ。けど、ここまで譲歩したるんや、それなりに結果出せへんかったら容赦せんからな。こう見えて俺は課長職や。神事評価にもそれなりに影響与えられるんやからな、肝に銘じておけよ」
「やったー! はいっすー!」
打てば響くような気持ちよさでミネルヴァが片手を上げ、ピンと背筋を伸ばす。そのノリの軽さに、少しでも恩情を見せたのは失敗だったか、と早速ネプトゥーヌスは後悔した。後の祭りである。
「ええか、準備を整えたらすぐに人間界に行くからな。見た目にばっか気ぃ取られんと、ちゃんと役に立つアイテム集めぇよ。わかったな?」
「はいっす! このアテ――じゃなかった、このミネルヴァにお任せっすよー!」
元気よく満面の笑みで返事する少女アバターに、やはり一抹以上の不安が払拭できず、ネプトゥーヌスは重苦しい溜息を吐いたのだった。




