序章 アザラン高原-3
神殿騎士団は重い荷車を曳きながら、突撃とは言い難い速度で敵陣に進んでいった。
危惧していた弩の攻撃は来ない。敵軍が使用した火炎術は〈王国〉軍の攻撃を停止させる一方、副産物として発生した靄によって彼ら自身の視界をも遮っているのだ。
流れ矢によって不運な数名が脱落したのを除いて、神殿騎士団はほぼ無傷で敵陣に到達した。
トルガは素早くその場の状況を確認した。逆茂木と杭の一部が破壊されていて敵味方の死体が幾つも転がっているが、現在戦闘は起きていない。
靄の向こうに見える敵兵は大挙して横の、剣が打ち合わされる音と喚声と悲鳴が聞こえる場所に移動しようとしていた。
「成程、負けたか」
トルガは状況を非常に手短に総括した。ここで戦っていた味方は敗北し、全滅するか離散するかしたようだ。
勝利を収めた敵軍の方は別の場所に向かい、戦闘中の〈王国〉軍の側面を衝こうとしている。
「歩兵隊、突撃せよ!」
トルガは大声で叫ぶと、荷車に積まれていたスコップを構えて走った。こういう場合は複雑な策をこねくり回すより、拙速を選ぶのが賢明だ。即ち、相手が迎撃態勢を整える前に急襲する。
「隊長に続け!」
コズがハンマーを掲げながら触れ回り、5番隊とその護衛を除く歩兵600が一斉に突撃する。
ただその姿は、あまり勇壮には見えなかった。トルガを含む全員が、煌びやかな甲冑どころか鎖帷子すら装備しておらず、作業着に革製の兜と胸当てを付けただけだ。持っている武器もスコップ、ハンマー、鉈などで、ともすればこちらの方が農民反乱軍に見える。
いつもは大工工事ばかりやっている部隊なので、使い慣れた道具で戦った方がいいという判断だが、貧乏くささは否めなかった。
その見ずぼらしい歩兵隊の先頭を走っていたトルガは、〈王国〉軍の側面を衝こうとしていた敵の隊列が混乱するのを見た。数人の敵兵が向き直ろうとした挙句にバランスを崩して転倒し、そこを起点として隊列に隙間が形成されたのだ。
先程騎士に一蹴されたのと同様、やはりこの辺りは農民兵の集まりである。個人の勇気に不足は無くとも、集団戦闘の訓練は出来ていない。
敵軍はある所では武器を使えない程に密集し、ある所には巨大な隙間が空いた状態で神殿騎士団の攻撃を受けることになった。
トルガはその中で、比較的隊列を保っている集団目がけて突進した。まずは態勢立て直しの核となり得る部分を潰す。混乱した敵軍を襲撃する時の基本である。
慌てて槍を構えようとする敵兵に向かって、トルガはスコップを思い切り突き出した。硬いものが軋み砕ける時特有の不快な感触が伝わり、血飛沫と絶叫が上がる。
スコップを戻すと、敵兵の右肩は血と脂肪と断裂した筋繊維と骨の欠片で赤と白に染まっていた。それなりの腕の回復術師に出会えない限り、右腕は一生使い物にならないだろう。
だがトルガが驚いた事に、敵兵はなお戦闘を継続しようとした。残った左腕で槍を短く構えなおし、突きを繰り出してくる。
しかも突きを躱したトルガの頭の真横を黒い影が通過し、風圧が頬を叩いた。隣にいた敵弩兵が射撃を放ったのだ。敵兵1人1人は決して弱兵では無いと、今更ながらに思い知らされた気分だ。
トルガは獣じみた喚声を上げると、スコップを敵槍兵の顔面に叩きつけた。鼻骨が砕けて血が飛び散り、破裂した眼球から漿液が噴き出すのが見える。間髪を入れず、弩を装填しようとしていた敵兵もスコップの柄で殴る。腕の骨が砕ける感触が確かに伝わってきた。
トルガは止めを刺そうとしたが、視界の片隅に現れた銀色の光を見て反射的に後退した。
一瞬後、その銀色の光がトルガのいた場所を貫く。新手の敵兵で、片手剣を持っていた。
トルガは呼吸を整えながら身構えた。敵兵もまたトルガを見つめている。
多分一対一なら負けると、トルガはごく冷静に判断していた。純粋な武器としてはスコップより片手剣の方が優れているし、技量も敵の方が上だ。
敵兵も同じ結論に達したらしく、笑みを浮かべながら進んできた。白刃がトルガの喉元に向かって、矢のような勢いで突き出される。
トルガはスコップの柄で弾き返したが、敵兵はすぐに2撃目を放った。これも何とか逸らしたが、代償としてトルガは無防備に近い態勢になった。
勝利を確信したであろう敵兵は、憐れみさえ含んだ表情で3撃目を突き出そうとする。トルガも彼に向かって決別の笑みを浮かべた。
もっとも現世からおさらばするのは、トルガでは無く敵兵の方であるが。
足音と喚声が響き、敵兵の表情が硬直する。次の瞬間には、敵兵の表情どころか頭部全体が吹き飛んでいた。コズが率いる隊が現れ、コズ自身が振るったハンマーが敵兵の頭部を直撃したのだ。
コズたちはそのまま、残りの敵兵を一掃していく。
「危ないことをなさいますなあ。これじゃ昨日死んだ連中を笑えませんぜ」
「それは心外だな。私はちゃんと成果を出しているぞ」
掃討を終えたコズが呆れたように言い、トルガはにやりと笑いながら返した。
トルガは別に指揮官先頭という美徳を妄信している訳では無い。むしろ大抵の場合、指揮官は後方から全体を見渡すべきだと思っている。
例えば昨日の戦いでは、先頭に立った指揮官たちが真っ先に戦死した為、後に続いた部隊は方針も分からないまま突撃を繰り返して壊滅した。
指揮官が取るべき責任とは生き残って部隊を掌握し続けることであって、自ら死地に飛び込むことではない。それを忘れた英雄気取りの行動は、余計な被害を出すだけの自己満足に過ぎない。
しかし指揮官が先頭に立って突撃すべき場合もある。今回のような速度が要となる急襲が一例である。
こういう戦いでは、悠長に計画を立てて各指揮官に目標を伝えていては好機が過ぎてしまう。攻撃目標を行動で示しながら、細かい部分は下級指揮官たちの自主性に任せた方が良い結果になりやすいのだ。
周囲の光景も、その判断が間違っていなかったことを証明していた。1000を超える敵兵の死体が散らばっているのに対し、神殿騎士団の被害は100にも満たない。
神殿騎士団は敵が戦闘態勢を取る前に襲撃し、壊滅させることに成功したのだ。
「皆、伏せろ」
だがトルガたちは、勝利の余韻に浸っていることは出来なかった。新たな敵兵、それも2000以上が正面から向かってきたのだ。その前列には弩兵の大群がいた。
身の毛もよだつような風切り音とともに周囲の地面が弾け、苦痛と絶望の叫びが上がる。
顔と腕に生暖かい物体が付着したことに気付いたトルガは、その正体に気付いて顔をしかめた。砕けた頭蓋骨と付着した脳漿だった。
横を見ると、頭部の半分だけを綺麗に吹き飛ばされた胴体が痙攣している。どうやら彼が持ち主らしいが、返してやることは出来そうもない。トルガは無言で、所々に赤が混じった白い塊を拭き取った。
トルガは敵の様子を観察した。弩兵は矢を再装填しており、槍兵はゆっくりと前進してきている。
恐らく槍兵が特定の位置に達した所で弩兵がもう一度射撃を行い、それから槍兵が突撃してくるのだろう。なかなか手堅い戦術ではある。
(だがやらせん)
トルガは血のこびりついた頬を掻きながら敵軍を睨み据えた。
神殿騎士団は一見するとまともな武器も無い、敵の農民反乱軍に比べても貧乏くさい集団だ。しかしその背後には神殿があり、古より蓄積された知識がある。
今は亡き〈帝国〉文明の遺産を〈王国〉で最も多く受け継いでいるのは、公式には〈帝国〉を悪しき異教徒の国と呼んでいる神殿なのだ。神殿騎士団が苦心惨憺の末ここまで運んできた兵器が、今からそれを証明することになる。
「5番隊、攻撃せよ」
立ち上がったトルガは、これまで待機していた5番隊に命じた。補強された荷車に乗った不格好な青銅の塊が前進を始める。
敵兵たちはどこか戸惑ったような表情で、その物体を見つめていた。弩砲にも投石機にも似ていない、基部が太くなった金属の筒。それが何の役に立つのか、そもそも兵器なのかさえ分からないのだろう。
しかしこの見た目には冴えない青銅鋳物は、〈帝国〉時代において「軍神の槌」、「戦場の支配者」と恐れられた兵器の末裔だ。設計通りに作動すれば、最大の投石機さえ及びもつかない破壊を敵陣にもたらすことが出来る。
ただ最大の問題はまさに、設計通りに作動するかどうかである。
〈帝国〉の文書によると、この兵器は元々ガロタス油の爆発事故を手掛かりに作られたものだとされる。とある発明家の家が霧化したガロタス油の爆発で跡形も無く吹き飛んだのを見た軍人が、その威力を敵に向ける事を思いついたというのだ。
この逸話はただの伝説である可能性が高いが、下手をすると自らを吹き飛ばしてしまう危険については全くの事実である。本来の鋼鉄鍛造構造を再現できず、強度に劣る青銅で妥協しているとなれば猶更だ。
トルガたちが固唾を飲んで見守る中、5番隊の各班長たちがレバーを引いた。
失敗ならば何も起こらない、または尾栓から火を噴いて機械全体がバラバラになる。
答えは、全ての筒先から飛び出す白い炎という形で出た。巨人による太鼓演奏を思わせる轟音が響き渡り、半固形化した熱波がトルガたちの頬を打つ。前方からは物体が砕かれ、引き裂かれるとき特有の鈍い音と悲鳴が聞こえてきた。
近くに煙が立っていたので見ると、何かに当たって跳ね返ったと思われる焼けた鉄球がトルガの足元に落下し、濡れた地面との間で音を立てている。敵兵に対しては、この焼けた鉄球が何千と飛んでいった筈だ。
「歩兵隊は攻撃、5番隊は前進しつつ再装填」
轟音による一時的な聴覚麻痺を考慮し、トルガは大音声で命じつつ前に出た。
成功であることは聞くまでも無いが、砲身が冷めるまで5番隊の再攻撃は不可能だ。生き残った敵兵は、歩兵の攻撃で始末する必要がある。
5番隊の攻撃の名残である灰色の煙を突き抜け、トルガたちは前進した。危惧していた弩による攻撃は、ごく散発的にしか来ない。
煙を抜けたトルガは、前方を見て理由を悟った。敵弩兵自体がいなくなっている。
彼らがいた場所には、代わりに手足や首を捥ぎ取られたトルソー状物体と元が何だったか分からない人体の破片、それに弩の残骸が散らばっていた。生き残りもほぼ全員が、武器を捨てて逃げ出している。
一方槍兵の被害はそれ程でも無いようだが、こちらも逃げ腰になっているという点では同じだった。
元々職業軍人でも無い彼らの精神は昨日今日と続いた戦闘で摩耗しており、「火砲」という見た事も無い兵器で攻撃されたのが止めとなったのだろう。
「追え! 皆殺しにしろ!」
トルガは咄嗟に叫んだ。既に戦意を失った相手への追い打ちは非情とも言えるが、別に好きで殺戮を行うのではない。今は無力に見えても、いずれは立ち直って再結集するかもしれない為だ。
火砲で薙ぎ倒した敵兵の実数は300程で、敵戦力は未だ神殿騎士団全体の2倍を超える。彼らが逃げているのは、被害に耐えかねてではなく心理的衝撃によるものだ。
敵がこちらの実戦力に気付いて反撃を試みるより早く、抵抗の意志と能力を砕かねばならない。
500にも満たない神殿騎士団は威嚇の喚声を上げながら、武器を持っている者だけで1000近い敵を追撃した。濡れた地面に足を取られて転倒した敵兵が、後続の仲間に踏み潰されているのが見える。
時折反転して反撃を試みる敵兵もいるが、彼らは皆神殿騎士団に包囲され、袋叩きにされた。
民兵隊は籠城戦や正面からの激突では意外な程粘り強さを発揮するが、後退しながら反撃したり再結集したりといった複雑な戦いはほぼ不可能だ。態勢を崩した所で正規軍に襲われれば、初期段階で反撃に成功しない限りひたすら潰走するしかない。
トルガはそれを知っており、敢えて2倍の敵を攻撃するよう命じたのだった。
背を向けて逃げていく敵兵たちは自軍が設置した杭や逆茂木によって足を止められ、振り返った所でハンマーやスコップや鉈の一撃を浴びる。
後方のまだ秩序を保っていた部隊もその潰走に巻き込まれ、団子状になった所で囲まれ、殺戮された。戦闘というより冷酷な作業のように武器が振るわれ、打撲音と絶叫が響く。
敵兵の死体を後方に残し、武器を捨てて逃げる敵を追いながら神殿騎士団は前進した。
気付いたときには、神殿騎士団の目の前からは逆茂木も杭も敵兵も消えていた。戦闘の喚声は全て後方から聞こえて来る。
どうやら神殿騎士団は、いち早く敵陣の1列目を突破したらしい。そして第2列からの攻撃は来ない。荷車の後ろには、僅かな槍兵がいるだけだ。
いやもう1つの敵部隊がいた。戦場には似つかわしくない僧服風の恰好をして、どこかぎこちない様子で馬に乗った集団。それがゆっくりと、印字を切りながら向かってくる。
「5番隊、斉射!」
トルガは咄嗟に命じた。あれが敵の火炎魔導士だと直感したのだ。
彼らは騎乗によって戦場を素早く移動し、前進する〈王国〉軍の先頭部を叩く態勢を取っていた。ちょうどトルガが、騎士たちにさせようとしたのと同じように。
火砲が咆哮し、炎と煙、そして無数の鉄球を吐き出す。
馬がいななき、魔導士たちは溶け崩れるように倒れた。よく見るとただ暴れる馬から落下しただけの者もいるが、いずれにせよ当分戦闘は不可能だろう。
(後はどうするかだ)
トルガは息を切らせながら思った。選択肢は2つ、横に進んでまだ第1列に残っている敵を攻撃するか、それともこのまま第2列を叩くかだ。
安全なのは前者だ。敵の側面から奇襲する形になるので反撃を受けにくいし、最悪の場合も味方と一緒に後退出来る。
対して後者を選んだ場合、戦況次第では敵中に孤立して全滅する危険がある。味方の他の部隊が第1列を突破できていない中、その先に進むというのはそういうことである。
「5番隊、再攻撃の準備を完了しました」
深呼吸しながら悩むトルガに、5番隊隊長のトドスが報告してきた。火砲群の筒先は前方に、敵第2列に向けられている。
「ついでに報告しますが、他の味方は現在止まってます。ソラン伯の親衛隊以外の予備兵力もありません」
「…ふん、分不相応な役割を負わされたものだな」
トドスの追加報告に、トルガは歪んだ笑みを浮かべた。自分たちが期せずしてキャスティングボードを握らされたことに気付いたのだ。
トドスが言った内容が正しければ、他の場所の戦況は膠着状態にあって打開する方法も無い。このまま夜になれば、敵兵は闇に紛れて後退するだろう。
彼らが第2列を強化した場合、戦力が痩せ細った〈王国〉軍は突破できない。要は戦略的敗北である。
〈王国〉軍が勝つためには、第1列を突破した神殿騎士団が第2列をも突破するしかない。敵予備兵力が第1列に集まっている今の間に勝負を決めるのだ。
火砲群が本日3度目の咆哮を上げ、神殿騎士団の目の前にある荷車と敵兵を吹き飛ばす。これで邪魔者はいなくなった。いや本当にそうなのか。
神殿騎士団が今からの攻撃に使える歩兵は、どう甘く見積もっても500程度だ。500でも敵後方の物資集積所を破壊して街道を封鎖することは出来る。
しかし敵に少しでも予備兵力が残っていれば、500が単独で突っ込むのは自殺行為だ。
そうしている間にも、破壊された荷車の跡には敵兵が集まり始めている。数はごく少ない。しかしあれが本当に敵の全力なのか。
「行きましょう、親方。俺たちは騎士になりたいんです」
トルガはコズに意見を聞こうとしたが、コズはその前にぼそりと言った。厳つい顔に嵌め込まれた団栗眼には静かな光が浮かんでいる。周囲の兵たちも揃って頷いた。
「良かろう。神殿騎士団はこれより敵軍後方への攻撃を開始する。天祐を確信しつつ突撃」
トルガはスコップを振り上げると、汚れた作業服を纏った、到底騎士とは言い難い集団に命じた。
あまり分のいい賭けでは無いが、少なくとも賭けにはなっている。そして掛金は皆が平等に払う。この世では珍しい程公平な話だ。
巨大な馬も煌びやかな甲冑も祖先伝来の剣も持たない集団は、敵第1列と第2列の間にある開けた空間を駆け抜けた。それら全てを持っていた人々が昨日虐殺された空間を、血と泥で足を取られながらも駆け抜けた。
「どけ!」
トルガは破壊された荷車の列に残っていた僅かな敵兵に向かって怒鳴った。周囲の騎士団員も釣られたように叫ぶ。
敵兵たちは一瞬逡巡の様子を見せた後で槍を構えなおしたが、トルガは構わず突っ込んだ。半ば飛びかかるようにして、震えている穂先にスコップを叩きつける。槍は呆気なく落下し、目の前に敵兵の顔が見えた。そのまま膝蹴りを浴びせ、地面に押し倒す。
スコップを敵兵の顔面に向かって振り下ろしながら態勢を立て直した先には、夥しい数の天幕が見えた。あれを破壊するとともに後ろの街道を塞いでしまえば、〈王国〉軍の勝ちだ。
「そんな…」
だがトルガは、その間から出て来たものを見て絶句した。黒い巨躯といななき、磨かれた金属特有の煌びやかな光。これまで一度も姿を見せず、存在しないと思っていたもの。敵騎兵。
先頭の指揮官が静かに、トルガに剣を向けた。考えなくても分かる。攻撃の合図だ。
散開して攻撃を躱そうにも、側面には敵歩兵が展開し始めている。その一部には、応急措置を受けただけの負傷兵が混ざっていた。
トルガには分かった。これが最後の、正真正銘最後の予備隊だ。
思わず笑い転げたくなった。騎兵と歩兵を合わせても、その戦力は1000前後。大軍同士の戦いなら、索敵における誤差の範疇だ。
だがその誤差が、トルガと〈王国〉軍を破滅させようとしている。
騎兵を含む1000の兵力があれば、トルガたちを蹴散らして〈王国〉軍最後の勝機を奪うには十分だ。戦いとは、歴史とは何と滑稽なものか。
敵騎兵が進み始める。トルガは痙攣に似た笑みを浮かべながらスコップを構えた。ここまで来たのだ。最低でも1人は、本物の騎士を道連れにしてやる。
だが敵騎兵が進んだ方向は、前では無く横だった。彼らはそのまま踵を返し、立ち去っていく。
「おい、どうして置いていくんだよ?」
トルガは呟いた。酷く不本意なことが起きた気分だ。何故重騎兵が軽装歩兵、しかも密集隊形さえ取っていない集団に背を向けたのだろう。
トルガは次に敵歩兵に視線を向けた。彼らもまた、途方に暮れたような顔になっている。続いてその表情は全き恐怖に変わった。地響きといななきが後方から聞こえて来る。
トルガは思い出した。〈王国〉軍に残る部隊は、正確には皆無では無かった。
「全軍、両側に散開、道を開けろ」
逃げていく敵歩兵を見ながら、トルガは辛うじてそれだけを命じた。笑いと眩暈が止まらない。歴史とはどうやら、思った以上に滑稽なものらしい。
2つに分かれた神殿騎士団の間を、ソラン家の家紋を掲げた500程の騎兵が駆け抜けていく。敵兵全てを追い散らしたのを確認すると、彼らは戻ってきた。
先頭の1人は周りより小柄で、兜から長い髪が伸びている。誰であるかは聞くまでも無い。
「無茶をなさいますなあ。姫様」
トルガは呆れて言った。何かが少しでも違えば、カトナ・ソラン伯はここで戦死した3人目の〈王国〉軍指揮官になっていた。
「せっかく助けに来たのにそれか? 随分と恩知らずなことだ」
カトナが苦笑した。後方の軍楽隊は「追撃戦開始」を示す曲を演奏している。後方を遮断されたことに気付いた敵兵の隊列が、一斉に崩壊を始めたのだ。
物質的損害と言うより心理的衝撃が、彼らの士気を失わせたのだろう。
「しかし、酷い事になりましたな」
兵たちが勝利に湧く中、トルガは嘆息した。
〈王国〉軍は勝った。敵軍は崩壊し、敵兵たちは武器を捨てて投降するか、周りの山に逃げるかしている。逃げた者も大半が遭難するか、山に住む獣の餌になるだろう。
だがその勝利は、総指揮官の近衛隊まで投入してやっと得られたものだ。敵軍の士気がもう少し高く、敵将が徹底抗戦を命じていれば負けていたかもしれない。それ程の辛勝だった。
戦場には数えたくも無いほど多くの〈王国〉軍死傷者が散らばっている。たとえ敵軍全てをこれから捕虜にしても、全く釣り合わない損害だ。
弩兵と弓兵では育成費用が違うし、歩兵と騎兵では更にそうだ。戦術的には惨敗である。
「せめてこれで…」
「アザルカが救援されればと言いたいのか? それとも別の何かを言いたかったのか?」
トルガが飲み込もうとした呟きを聞いたカトナが、苦笑を貴族的微笑に変えながら言った。青みがかった灰色の瞳には笑みではなく、戦いの前と同じ暗い光が浮かんでいる。
「ちなみに私はこう思っている。死んだ兵のうち1万は、本来なら死なずに済んだのでは無いかとな」
カトナはそこで口を閉ざした。トルガと同じく、その先を言うのは危険だと知っているのだろう。
前線では衛生兵が負傷者を応急の診療所に運び、輜重兵が残りの兵たちに糧食を配っている。この辺りは腐っても正規軍であり、反乱軍よりずっと対応が速い。
これら支援兵科が厳密には正規兵では無く、王家から依頼された商人が集めた民間人で編成されているという事実が無ければ、素直に誇れただろう。
そこでトルガはふと、大量に落ちていた反乱軍の弩を拾ってみた。かなり精巧に出来ており、正規軍の装備と比べても遜色が無い。これらは、誰が製造したのだろう。
「北部戦役概略(〈王国〉軍戦史刊行会より出版)」より抜粋
……前略
〈王国〉暦246年4月に発生したアザラン高原の戦いで、〈王国〉軍は反乱軍に勝利を収めた。アザラン高原に展開していた反乱軍3万2000のうち1万9000が戦死または捕虜となり、残存兵力は周囲の山岳地帯に離散した。離散した反乱軍の一部は後のアザルカ攻防戦に参加したと思われるが、数は最大で2000と推定される。残り1万強は山中で遭難するか、戦争難民に紛れて別人としての余生を送った。対戦した敵軍の9割を無力化し、アザルカ救援の道筋を付けたことは紛れもなく戦略的大勝と言える。
しかしながらアザラン高原の戦いにおいては、戦術面における〈王国〉軍の稚拙さが目立ったことも述べなければならない。〈王国〉軍は輜重兵や衛生兵を除いても4万を超える戦力を擁しており、装備や訓練においても優っていた。しかし〈王国〉軍は2日間の交戦で2万7000の被害(うち死亡、行方不明、長期戦闘不能は1万6000)を出している。正規軍が数で劣る非正規軍を攻撃した結果としては大き過ぎる被害であり、後の〈王国〉軍の戦略に多大な影を落とした。
その理由についてはまず、戦力の逐次投入が挙げられる。〈王国〉軍は道路網の不備が原因で各部隊がばらばらに戦場に到着する形となった上、各指揮官は協調しなかった。結果として攻撃はいずれも敵より少ない戦力で行われ、敵軍は孤立した各部隊に対して予備隊による側面攻撃を容易に加えることが出来た。〈王国〉軍損害の過半は、側面攻撃を受けた部隊が崩壊、潰走する過程で生じている。
……中略
以上のように会戦初日における〈王国〉軍の戦術能力に見るべき点は無いが、2日目においては後の対陣地攻撃戦術の萌芽が見られた。投射兵と歩兵の共同による敵反撃能力の弱体化と、騎兵による敵陣後方への浸透と掃討である。アザラン高原の戦い後半ではこれらが不完全ながら実施され、最終的に敵軍を崩壊させた。この成果については砲兵を指揮したトルガ・セタ、及び後半戦の総指揮を取ったカトナ・ソラン伯の働きが大きい。
ただその後の〈王国〉軍において、すぐさまアザラン高原の戦訓が生かされたとは言い難い。北部戦役及びその後のカジン諸侯乱において、〈王国〉軍は度々敵軍の防御陣地攻略に失敗し、大損害を出している。結局、〈王国〉軍が一級の軍となるには、サラカ・セタなど後の世代の登場を待たなければならなかった。
またトルガ・セタもしくはカトナ・ソランは〈帝国〉からの転生者もしくは転移者では無いかという意見も強いが、本人たちは明言しておらず、真偽は不明である。
……後略