双河戦役-2
双河戦役の序盤は、戦争において典型的な相互の誤解によって始まった。
まず最初に〈王国〉軍索敵騎兵が北西に移動中のレマ公国軍を発見し、「敵軍3万以上が補給線遮断を意図して進軍中」と報告した。
兵力分散のリスクを冒してまで急進するレマ公国軍はいかにも、レノ州北東部の都市ナザンへの迂回機動を行っているように見えたのだ。
ナザン自体は小都市だが、街道結節点かつ大規模穀物庫が存在する為、戦略的には非常に重要な位置にある。タード州の補給基地をレマ公国軍の奇襲で奪われた〈王国〉中央方面軍が曲がりなりにも行動出来ているのは、緒戦でナザン占領に成功したお陰である。
レマ公国軍はそのナザンを急襲し、中央方面軍の補給線を切断するつもりだと、索敵騎兵及び報告を受けた中央方面軍司令部は判断した。
ナザンを奪還されれば、中央方面軍の補給路は長さが2倍に、街道舗装率が半分になる。レノ州からの撤退を余儀なくされるどころか、飢餓が蔓延する前に国内へ帰還できるかも怪しい。
中央方面軍はすぐさま即応部隊4万を出撃させ、ナザンより手前で「移動中の敵軍3万」を撃破しようと試みた。
一方のレマ公国軍は、〈王国〉軍の大部隊が突然東進を始めたことに困惑した。彼らはそもそも、ナザン攻撃など試みていなかったからである。
〈王国〉軍索敵騎兵が発見したものは実の所、分散して進んでいたレマ公国軍第2軍集団の偵察部隊4000に過ぎなかった。中央方面軍の動きを監視するとともに、必要に応じて遅滞戦闘を行う為に送られた部隊である。
これらの部隊は高速で移動しており、朝と夕方で5里以上離れた場所にいることもしばしばだった。高速で移動する同じ部隊が各所で発見されて別々の部隊扱いされた結果、現実の8倍の大軍に膨れ上がってしまったのだ。
実際の戦力を〈王国〉軍が掴んでいれば、決して4万もの軍は出さなかっただろう。
そんな事情を知る由もないレマ公国軍は、〈王国〉軍の戦力についてはほぼ正確に掴んだが、意図については盛大な過大評価をした。本隊から分離した4万は、以前の南東支隊と同様にシドン高原占領を狙っていると判断したのだ。
セラニア・ソランは自軍の作戦が読まれたかと焦り、一時は第2軍集団撤退とシドン高原放棄まで真剣に検討した。
〈王国〉軍は全く意図していなかった場面で、戦争全体の勝利を掴もうとしていたのだ。
だがこの好機は、〈王国〉軍側面を進んでいた独立騎兵旅団の軽率な行動で台無しになってしまう。
独立騎兵旅団は北西部の遊牧民からなる傭兵部隊で、今回の遠征を豊かな南の財物を摑み取りする好機と見なしていた。都市を無傷のまま手に入れたい〈王国〉軍による略奪禁止命令を、旅団の面々は内心で嫌悪していたのだ。
そして進撃中のレマ公国軍側面に奇襲をかけるよう命じられたとき、独立騎兵旅団は暴走した。彼らはレマ公国軍では無く、レノ州中部の村落を次々と襲撃したのだ。
独立騎兵旅団による被害には諸説があるが、最低でも1200の農民が殺害され、500以上の家屋が全焼した。
戦争につきもののありふれた悲劇の一幕であるが、最後の村落は一矢を報いた。村の民兵が待ち伏せによって先遣隊14名を殺害し、20名を捕虜にしたのだ。
この時、戦死した騎兵の1人が持っていた命令書がレマ公国軍に鹵獲された。更に元々国外の遊牧民で〈王国〉への忠誠心など無い捕虜たちは、〈王国〉軍の作戦計画を簡単に漏らした。
この村落は後に仲間の死を聞いて駆け付けた独立騎兵旅団本隊によって完全破壊されるが、それまでに情報はしっかりと第2軍集団司令部に伝わっていた。
〈王国〉軍の意図がシドン高原奪還でないことを知ったレマ公国軍は、相手の誤解を更に増幅させる為の偽装作戦を開始した。
第2軍集団から見て南西にいた東部予備軍2万を、河南平野の農業用水に沿って北進させたのだ。この部隊は、二分した〈王国〉中央方面軍の隙間を衝く形で動いた。あたかも、レマ公国軍側の意図が中央方面軍の分断と各個撃破であるかのように。
更にレマ公国軍は合計2万弱の民兵にも同じ行動を取らせた上、龍兵によるナザン爆撃まで行い、自軍主力が西部に移動していると思いこませた。
結果的に〈王国〉軍は、まさにレマ公国軍が期待していた類の誤解をした。ナザン占領による補給線遮断、またはそう見せかけての〈王国〉中央方面軍分断と各個撃破、どちらかがレマ公国軍の狙いだと幕僚のほぼ全員が判断したのだ。
〈王国〉軍は東方方面軍をハビシャラからナザンに西進させ、中央方面軍で「北西に進んでいる敵主力軍」への包囲攻撃を試みた。実際のレマ公国軍主力は、北東陸塊気団南下に伴う降雪に紛れて東側を進んでいたのだが、〈王国〉軍の誰も気付かなかったのだ。
〈王国〉軍がセラニア・ソランの第2軍集団を発見するのは、双河戦役中盤になってからであった。
情報において優勢だったのはレマ公国軍だったが、双河戦役最初の大規模会戦は意外にも〈王国〉側による戦術的奇襲で幕を開けた。行軍中だったレマ公国東部予備軍2万と民兵4000に、〈王国〉軍2万が攻撃をかけたのだ。
戦闘準備を全く整えていなかったレマ公国軍前衛はたちまち崩壊し、混乱は本隊にまで波及した。
「奴らが混乱しているうちに潰せ! 砲兵が展開する前に」
神殿騎士団長カドス・セタは逃げ惑う敵兵を蹴散らしながら、直率する第1騎兵集団の先頭に立って突進した。
神殿騎士団精鋭で構成された第1騎兵集団は、全員が品種改良を重ねた良馬に乗り、全員が名匠の手による武器を持ち、最も重要なことに全員が幼い頃から乗馬と武術の鍛錬を積んでいる。恐らくは大陸最強の騎兵部隊である。
それまで逃れ得ぬ災厄と思われていた北西部遊牧民の侵攻すら、第1騎兵集団は6年前に粉砕している。方陣を組んでいない歩兵など、第1騎兵集団の相手にもならなかった。
前衛を一撃で粉砕した第1騎兵集団の側方から、〈王国〉産の馬とは響きが異なるいななきと蹄の音が聞こえる。レマ公国軍もまた、騎兵を繰り出してきたのだ。
見ると左側面にある堤防沿い道路で、レマ公国軍自慢の騎砲兵隊が下馬して横陣を組み始めている。騎兵による正面からの迎撃と騎砲兵による側面からの銃砲撃を連携させることで、第1騎兵集団を撃破するつもりのようだ。
「目標、敵騎砲兵」
だが敵軍は第1騎兵集団の能力を甘く見ていると、カドスは内心でほくそ笑んだ。第1騎兵集団は平地での前進以外の大規模機動が出来ないような、凡庸な騎兵部隊とは違うのだ。
カドスは愛用の大剣を振り上げ、堤防を斜めに駆け上がった。4000の騎兵が1つの生き物のように後に続き、堤防上に達した所で縦隊を横隊に組み替える。
密集隊形で複雑な機動を行ったことによる衝突事故どころか、隊列の乱れさえ生じないまま、第1騎兵集団は敵騎砲兵部隊の後方に回り込んだ。
騎砲兵たちが慌てて銃と砲の向きを変える前に、第1騎兵集団は堤防を真っすぐに駆け下り、騎砲兵を蹂躙した。
各騎兵が持つ剣の白い輝きが、人血で紅くぎらつく。騎砲兵の中で剣を躱そうとその場に伏せた者は馬の蹄で踏みつけられ、血と内臓を吐き出しながら息絶えていく。
騎砲兵の抵抗を文字通り踏み潰した第1騎兵集団はそのまま、平地側に展開していたレマ公国軍騎兵に突っ込んだ。騎砲兵のときと同じように、レマ公国軍騎兵は一方的に蹂躙されていく。
レマ公国軍騎兵の中には試験的に装備された新兵器、騎兵銃による反撃を試みた者もいたが、銃弾は尽く虚空を貫くだけだった。馬を旋回させながら射撃を行った為、照準が碌に合っていなかったのだ。
目標が極端に大きい、または射手が余程の達人でも無い限り、動きながらの射撃などまず命中しない。弓兵や弩兵にとっての常識だが、元々足場が不安定な騎兵にとっては尚更そうだった。騎兵銃による射撃は大きな隙を作り、〈王国〉軍騎兵が肉薄する助けとなっただけだったのだ。
「目標、右前方の敵本隊」
レマ公国軍騎兵を蹴散らした第1騎兵集団は、歩兵の到着を待たずに敵本隊に向かって突進した。一見するとただの暴勇だが、予定通りの行動だ。ここで勢いに乗って前進し続けない限り、〈王国〉軍は容易く粉砕されてしまうのだ。
レマ公国軍は知る由も無いだろうが、実はカドスが率いる〈王国〉軍の数は、騎兵と軽歩兵が各1万のみである。砲兵はおらず、弓兵や弩兵すら存在しないという極端な編成だ。レマ公国軍が誇る砲兵部隊が活動を始めれば、一方的に殺戮されてしまう。
実際司令部では、砲兵かせめて銃兵(鹵獲品の銃を装備)を連れていくべきという意見も上がった。
だがカドスは却下し、騎兵と軽歩兵のみによる攻撃を選択した。速度が鍵となる今回の作戦には、鈍重な砲兵や銃兵は邪魔になるだけと判断したのだ。同様の理由で、歩兵のうち進軍が遅れていた部隊も切り離した。
なおカドスはレマ公国軍を甘く見て、攻撃参加兵力を絞った訳ではない。まともにぶつかりあったのでは絶対に勝てないからこそ、騎兵と軽歩兵のみでの先制攻撃を選択していた。
これまでの戦訓からして、レマ公国軍に対して正面から戦いを挑むのは自殺行為だ。戦場にレマ公国軍砲兵が展開している限り、積極的行動を取ろうとする〈王国〉軍部隊は火力で制圧されてしまう。
ならば敵軍の移動中、砲兵が発射態勢にないときを狙って戦闘を挑むしかないというのが、中央方面軍の方針だった。
敵軍偵察部隊が本隊に連絡を送ってから、砲兵が列を敷いて射撃準備を整えるにはそれなりの時間がかかる。高速の騎兵と軽歩兵がその間に先制攻撃をかけて砲兵を潰してしまえば、後は白兵戦能力で優る〈王国〉軍が押し勝てるという発想である。
無論意図を悟られれば、火力を持たない先制攻撃部隊は遠距離からの砲撃で壊滅してしまう。
その為〈王国〉軍は大々的な偽装工作を行った。本隊は中央街道を進み毎日盛大な炊事煙を上げる一方、カドス率いる別動隊は〈王国〉軍が辛うじて上流の制水権を握っているシドン川西側支流に沿って進んだのだ。
別動隊は索敵騎兵の先導を受けて分散状態で進み、食料、秣、医薬品の補給は水軍から受け取った。敵龍兵がナザン爆撃に投入されていたのも手伝って、別働隊は発見されることなく敵軍捕捉に成功したのだ。後は予定通り、敵砲兵を襲撃するだけだった。
第1騎兵集団が大隊ごとに分かれ、冬の色が混ざり始めた草原と疎林を疾駆していく。音楽的な調和さえ感じさせる整然とした進撃は閲兵式を思わせるが、閲兵式における騎兵の数倍は速い。
時々出現するレマ公国軍部隊は唖然としている間に後ろに取り残されるか、無謀にも立ち向かって一瞬で蹂躙される。そしてカドスの眼光は、待つほどのことも無く目標物を捉えた。
「あれが敵砲兵だ! 叩き潰せ!」
カドスは剣を目標に向けながら獅子吼した。4列に分かれて進む敵本隊は、見るからに慌てた様子で陣形を縦隊から斜め横隊に組み替えようとしている。その中央部、斜行する歩兵の軸となる部分に大量の荷馬がいて、周囲の兵が筒状の機械に取り付けられた索具を外しているのが見えたのだ。
後方には弾薬箱と思われる物体を積んだ荷車も見える。間違いなく、敵砲兵だった。一部の砲は既に射撃準備を整えているらしく、こちらに砲口を向けている。
状況を確認したカドスは第1騎兵集団を右方向の窪地、夏場は排水路となるであろう場所に向かって走らせた。各隊は前進しながら縦隊になり、冬の今は水では無く細かい土が底に溜まっている乾燥した窪地を走り抜ける。
騎兵にとってはかなり危険な傾斜地機動だが、第1騎兵集団には落馬した者も、馬が脚を折って落伍した者もいなかった。全ての騎兵が、煙幕のように土煙を立てながら窪地を走り抜けていく。
左側の敵兵から放たれる驚愕の声が、疾駆する第1騎兵集団の上を掠めていく。「魔導士がいる」、「術式」といった言葉をカドスは聞き取った。
敵兵の大半は位置的に、窪地が存在すること自体分からない。そうでなくても、4000の騎兵が僅かの間に散開した横隊から、密集した縦隊に変わったのだ。視覚的にはいきなり10分の1に縮んだようなものである。
第1騎兵集団が何らかの術式を使用して姿を隠したとしか、レマ公国軍兵士には思えなかっただろう。
兵士たちの声を将校も真に受けたのか、背後では青白い光が煌めいている。第1騎兵集団がさっきいた場所に、魔導士隊が術式を撃ち込んで炙りだしをしているのだ。
完全に無駄で、味方将兵の注意を不適切な位置に集めてしまう分有害とさえ言える行為だが、他にどうしようも無かったのだろう。理解できない状況に直面したとき、静観という選択肢を選べる人間は少ない。大抵は何かしらの無益な行動を取って事態を悪化させる。敵軍の行動はその典型だった。
カドスは頃合いを見て、第1騎兵集団を窪地から上げた。駆け上がった先には大量の荷車と輸送人員がいて、突然出現した第1騎兵集団の姿に皆が顔を引き攣らせている。
カドスは無造作に剣を振り、進行方向にいた敵兵を薙ぎ払った。名のある刀工に命じて作らせた大剣は何の抵抗も無く、敵兵の筋骨を切断していく。
敵兵には荷車に積まれた槍で対抗しようとする者もいたが、構える間もなく第1騎兵集団が振るう白刃の下に沈んでいった。付け焼刃の戦闘訓練しか積んでいない輜重部隊では、精鋭重騎兵部隊に敵うべくも無かったのだ。
攻撃に参加した第1騎兵集団の将兵が振り返って、「戦闘では無く殺人だった」と称する程に一方的な戦いだった。
索具を切って荷馬たちを適当な方向に逃がした後、第1騎兵集団は左方向に反転した。目標は今度こそ敵砲兵部隊である。
敵隊列後部の歩兵は反転して迎撃態勢を整えようとしているが、第1騎兵集団の方が速い。銃の装填が行われる前に、カドスは歩兵の指揮所と思われる場所に辿り着いていた。
騎兵たちは銃を捨てて腰の短剣を抜こうとする敵兵を一刀で切り捨て、或いは返す刀で別の敵兵の側頭部を強打する。
護衛が一蹴されるのを見て逃げようとする指揮官には目ざとい4騎が追いすがり、一瞬で馬から叩き落す。
指揮官の首が天高く放り投げられると、敵全体に動揺が走ったのがはっきりと分かった。その隙を衝いて各騎兵は敵歩兵を突破し、最重要目標の敵砲兵に襲い掛かる。
「これが騎兵だ」
カドスは宣言するように言った。無用論が囁かれることも多い騎兵部隊だが、騎兵に代わる機動力と打撃力を持った兵科は未だ存在しない。適切に運用される限り、騎兵はまだまだ戦場の主役となり得るとカドスは確信していた。
前方では別の戦闘も開始されている。敵の偵察部隊と遭遇した影響で到着が遅れていた騎兵6000と歩兵1万がようやく到着し、攻撃をかけたのだ。
偶然と即興の組み合わせとは言え、〈王国〉軍はレマ公国軍を挟撃することに成功した。遅れて到着した騎兵部隊の先頭が第1騎兵集団と手を握った時、事実上の勝敗は決することになる。
双河戦役最初の大規模戦闘は、こうして〈王国〉軍の大勝利に終わった。奇襲を食らったレマ公国軍は河南平野西部の山岳地帯まで敗走し、その過程で9000を失うことになる。対する〈王国〉軍の被害は2000に満たなかった。
更に〈王国〉中央方面軍本隊は並行して河南平野の重要都市2つを陥落させ、レマ公国軍を東西に分断することに成功。戦略的にも大勝した。緒戦における苦戦が嘘のような快進撃である。
ここで中央方面軍が南東部港湾地帯に突入していれば、〈王国〉はそのまま戦争に勝っていたかもしれない。
だが情報戦における劣勢が、肝心な所で〈王国〉軍を蝕んだ。シドン川西分流沿いで撃破されたレマ公国東部予備軍を、〈王国〉軍はセラニア・ソランの第2軍集団の一部と誤認し、同部隊が河南平野にいると確信してしまったのだ。
レマ公国軍民兵1万数千と第2軍集団から分派された偵察部隊4000が東部予備軍に合わせる形で後退したせいで、〈王国〉軍の誤解は更に強まった。
レマ公国軍主力は山岳地帯に逃げ込んで兵力を再編中であると〈王国〉軍の幕僚たちは判断し、敵主力軍が立てなおる前に止めを刺すと決定したのだ。
中央方面軍は手を伸ばすだけで手に入った港湾地帯では無く、戦略的に無価値な西部山岳地帯に向かって進軍を始めてしまった。
その頃、ハビシャラからナザンに向かって移動中だった〈王国〉東方方面軍は奇妙な噂を耳にしていた。ハビス湖周辺の河川にレマ公国水軍がいるのを、漁師が目撃したというのだ。それも水面を埋め尽くさんとする程大量に。
最初、東方方面軍は噂を一笑に伏した。ハビス湖はハビシャラから見て南東にあり、現在の戦場から遠く離れている。レマ公国の陸軍主力は河南平野にいるのに、水軍がそんな場所に現れる訳が無い。大方霧と雪による視界不良で、流木か何かを見間違えたのだろうと。
だがレマ公国水軍を発見したという報告は絶えなかった。漁師だけで無く、川沿いの農民や商人からも、レマ公国の巨大船団がいたという報告が相次いだのだ。
しかもその報告の位置と時間経過の関係が非常に不吉だった。最初はハビス湖の東から伸びるシドン川小支流、次はハビス湖東部、その次は西部でレマ公国水軍は発見された。報告が事実であれば、段々と西進しているとしか表現できない動きである。
そして遂に、レマ公国水軍がシドン川本流を航行しているのを、複数の軍部隊が発見した。〈王国〉水軍と索敵騎兵によって下流は監視されている筈だが、レマ公国水軍はその眼を掻い潜って突然上流に現れたのだ。
東方方面軍はここに至って、レマ公国水軍の存在を事実と認めた。レマ公国水軍は監視が厳重な本流では無く、東側の支流を通って遡上してきたのだ。シドン川の制水権の大半をレマ公国水軍が握っている以上、遡上するなら本流からだろうという固定観念を逆手に取られた格好である。
気付けばハビシャラの至近距離まで、レマ公国水軍は接近していた。
だが東方方面軍は尚も楽観的だった。レマ公国水軍の行動は、ただの苦し紛れの陽動作戦だと判断したのだ。
空船を使ってハビシャラまたは王都への攻撃を偽装し、「河南平野で敵主力軍を追い詰めつつある」中央方面軍を反転させる。その辺りが狙いの行動だろうと。
東方方面軍は一応中央方面軍にも報告を入れたが、その内容は「敵水軍が東部で陽動作戦を行っているが、こちらで対処するので問題は無い」というものだった。
東方方面軍も中央方面軍と同様に、「敵主力軍は河南平野西部に向かって敗走中である」という認識を共有していたのだ。レマ公国水軍はその間も、シドン川を遡上していた。
セナはサラカの監督の下、神殿騎士団本部の片隅にある練習場で剣を練習していた。別に神殿騎士団の兵士になりたい訳では無いが、自分とアリンを守る為の護身術くらいは覚えた方がいいだろうという考えからである。
何しろこの前のゴグとの戦いでは、銃を撃って外しただけだったのだから。
「私もまだまだ未熟者ではあるが、まずは未熟者なりに最も基本的な剣術を教える。最初にこれを身に付けてもらうことになるから見ていろ」
言うとサラカは訓練用の木剣を構え、目標の藁束に半ば飛びかかるような斬撃を浴びせた。瞬きする間もないうちに木剣とは思えない程に鋭い断裂音が響き、藁束が裂ける。腕力と言うより速度そのものによって、目標物を一瞬で切り裂いたのだ。確かに凄い技ではあるが。
「あの、サラカ様。よろしいでしょうか?」
セナはおずおずと質問した。神殿騎士団という組織は、いかにも頑迷な連中の巣窟を彷彿とさせる名前に反し、割と自由主義的な気風を持っている。一刻を争うような緊急時は別として、他の場面では批判精神と自由な質疑応答が尊重される傾向にあるのだ。サラカの祖父である伝説の将軍、トルガ・セタ以来の伝統らしい。
「どうした?」
「今見せてくださったのは、純粋な攻撃用の技ですよね。それが一番の基本なんですか?」
セナは質問内容を伝えた。サラカが今手本を見せた剣技は、目標に向かって跳躍するように襲い掛かりながら剣を素早く振り下ろすというものだ。
確かに基本的と言えば基本的だが、極端に攻撃に振り切った代物である。これを剣術初心者が真っ先に学ぶべき技とするのは、何やら違和感があった。
「うん、いい質問だ。確かに街の道場などでは、攻撃では無く防御を最初に教える所が多いらしいな」
サラカが頷く。彼女としても、この質問は想定済みだったようである。
「しかし道場が教えるのは剣術の試合や決闘に使う技術だ。真に身を守るという意味での護身術ではない」
サラカが続いて説明した。剣術道場の客である貴族や裕福な平民の青年に必要な剣術とは、武芸の大会や決闘において相手を打ち負かす為の技術だ。
この場合の「打ち負かす」とは相手を殺したり動けなくすることでは無く、単に技量の差を見せつけて負けを認めさせることである。
殺害したり重傷を負わせたりといった行為は、遺恨が残り厄介な復讐騒ぎになりかねないとして忌避される傾向がある。剣術試合はもちろん真剣を用いた決闘であっても、どちらかが息切れしたり掠り傷を負った時点で勝負ありとされることが多いのだ。
道場が教える剣術が防御的なものになりがちなのは、こういう事情が関連しているという。
「本当の護身術はそんなものでは無い。敵兵、盗賊、魔物、本気でこちらを殺そうとして来る相手から身を守る技術だ。そういう連中から身を守る方法はただ1つ。自分が殺される前に相手を殺す事だ」
サラカがやや過激とも言える表現を用いながら言った。実戦は試合や決闘では無い。こちらが負けを認めたからと言って、相手は立ち去ってくれない。また相手の攻撃を100回防いでも、101回目で受け損ねれば死が待っている。
こういう戦いにおいて必勝とは言えないまでも最も勝率の高い戦術は、最初の一撃で相手を倒すか、少なくとも受け身に回らせることだ。
攻撃を受け止めるのではなく、こちらが先に攻撃して相手の攻撃能力そのものを奪ってしまう。実戦ではそちらを選んだ方が、助かる確率が高いという。
「という訳で、自分や主人を本気で守りたいなら、行うべきは攻撃だ。今見せたような攻撃を身に付ければ、盗賊や徴集兵程度は簡単に倒せるようになる。もっともまずは、剣の扱いに慣れるのが先だが」
サラカは説明し終えると、自分の鍛錬を始めた。セナも見様見真似ながら、彼女に合わせて木剣を振るう。サラカに言われた通り、最初は手首や肘を傷めないようにごくゆっくりだ。
サラカから次の段階に進んでいいという指示が出たのは、3日後のことだった。
午前中は剣の練習をしているセナであるが、午後はアリンに魔術の基礎である〈帝国〉文字と〈帝国〉語文章を習う。奴隷階級がこれらを習うのは違法行為だが、アリンは全く気にせず教えてくれることになった。
と言っても、セナがまともな術式を使えるようになる可能性は低い。前段階である識字能力の習得は時間と金さえあれば大抵の人間が出来るが、魔術は当人の素質に大きく左右される。
アリンによると、成人のほぼ全員が識字者だった〈帝国〉でも、実用レベルの術式を使用できる人間は人口の1割だったという。
それと、魔術に必要な素質は遺伝する。両親ともに魔導士である場合、子供も魔導士になる可能性は7割前後。これが片親のみだと3割に落ち、どちらも使えない場合はほぼ見込みが無い。
セナは両親についてよく覚えていないし彼らが魔術を使えたかも知らないが、使えた可能性は極めて低いと思う。〈王国〉でまともな魔術が使えるのは貴族と大商人の一部だけであり、両親がそんな身分ならセナが奴隷階級に落ちる筈が無いのである。セナが魔術を学んだとしても、多分大したことは出来ないだろう。
と言う訳で、セナは魔術習得の下準備と言うより、読み書き用として〈帝国〉文字を習っている。術式が使えた方がいいのは間違いないが、読み書きだけでもそれなりに重宝される技能になる。
某大貴族をひたすら褒めちぎる文章を書いて広めた詩人がその貴族から爵位を授与され、貧乏平民から貴族に成り上がった例もあるのだ。
もっともセナはその手の向上心から読み書きを習いたいと思った訳では無い。ただ、アリンと書物についての話が出来るサラカやエリスが羨ましかっただけだ。
サラカ・セタとエリス・ソランは神殿騎士団の士官に相応しく、一般に禁書扱いの〈帝国〉古書を含む数多の書物に造詣が深い。2人は”〈帝国〉軍基礎教令”や”地理気象学とその応用”、”基本力学と輝石力学”と言った名前は有名だが滅多に世に出ない古書の内容について、アリンと頻繁に語り合っている。
アリンはそれらが売られていた時代の人間であり、抜けたページも写し間違え箇所も無い完本が持ち物に入っていたのである。
そういう実用書以外の他愛無い物語本について、サラカやエリスがアリンと語り合っている姿もよく見る。字が読めないセナには不可能な会話であり、羨望せずにはいられなかった。
その様子に気付いたアリンが、セナに読み書きを習うよう勧めてくれたのだった。
現状のセナはまだ簡単な単語と単文を読み書きできるようになっただけで、専門書や物語の内容を語るには程遠い。
それでも、アリンと共通の話題が少しずつ広がっていくのは嬉しかった。憧れの恩人が文字列の向こうに見ている世界を、僅かずつでも共有できるようになるのは。
「次はこの台詞文だけど、どういう意味か分かる? 分かる所だけでいいから言ってみて」
「えっと話してる人はまず”許せない”と言ってますね。絵でも怒った顔をしていますし。後、怒りの対象は奥に描かれている国王の行動です」
「正解。2日前にちょっと教えただけの構文なのによく覚えていたわね」
「ただ、国王の行動の内容がよく分かりません。”殺害”を変形させたような単語が使われているので、国王が誰かを殺したのを、話してる人は怒っているんだと思いますが」
「そこまで分かるの? 自信が無いと言っていたけど凄いじゃない」
「いや多分、アリン様の教え方が上手いだけだと思います」
授業の中でアリンが感心したように微笑んだのに対し、セナはそう返答した。
学問はあまり得意では無いので、ちゃんと教えられるか分からないとアリン本人は言っていた。しかし実の所彼女はかなり教えるのが上手い。少なくとも生徒のセナはそう思う。
ちなみにアリンが教材として使っている本であるが、ある意味”〈帝国〉軍事教令”の注釈付完本より希少な代物である。大量の挿絵が入った、というかほぼ挿絵で構成された〈帝国〉時代の物語本だ。
当時は広く読まれていたらしいが、内戦の際に過激派が「頽廃文化」に指定、焚書にしてしまった。実用書で無い為に神殿騎士団による復元も行われておらず、完本はたぶん世界にこの1組しかない。セナは考えようによっては、非常に貴重な教育を受けているのかもしれなかった。
「もう少しで、私が〈帝国〉語について教えられることは無くなるわね」
そして本日の練習が終わった後、アリンはそんなことを言った。剣術でサラカも言っていたが、「習得させる」ことが可能なのは技能のうちごく限られた部分だけだ。後は当人の才能とやる気で決まるという。
「そうですか」
それを聞いたセナは喜びより寂しさと不安を感じた。アリンと2人きりで話せる〈帝国〉語の練習時間を、セナは密かに楽しみにしていたのだ。
だがその時間はずっと続くわけでは無いし、続くべきでも無いのだろう。紅茶を淹れているアリンの綺麗な細い指を見ながら、セナはそんなことを思いもした。
アリンとセナには差があり過ぎる。日陰の草が、陽光を浴びて輝く大樹に触れるべきでは無いのだ。
「今度は私がセナから、〈王国〉の言葉について教えて貰わないと」
「え? でもアリン様は〈王国〉語を……」
しかしアリンが続けた言葉に、セナは耳を疑った。セナがアリンに何かを教える? そんなことがあり得るだろうか。
大体〈王国〉語を学ぶと言うが、アリンは幾らか訛りはあるものの〈王国〉語を話せるでは無いか。
「ああ、書き言葉の話よ。こういう悲惨な状況を、どう解決するべきなのかという」
言いながらアリンは、机の上にある本数十冊に視線を向けた。いずれも〈帝国〉語教材として、神殿騎士団書庫からアリンが借りてきたものだ。
最初の授業でアリンはそれらにしばらく目を通した後で、教材としてこれらは使わないと述べていた。
「全部立派な本ですよ。何か問題が?」
アリンが何を言いたいのかよく分からず、セナは首を捻った。アリンが「悲惨な状況」と評した書物群だが、いずれも価値のある稀覯本の筈である。
それとも〈帝国〉人であるアリンの知識に照らすと、内容に間違いがあるのだろうか。
「言いたいのは中身では無くて書き方。私の時代の基準で言っても古語に近い文章で、多分古〈帝国〉語の素養が無い人間には全く意味が分からないわよ、これ」
言いながらアリンは、街で購入した〈基本医学〉や〈万物の歴史〉と言った比較的一般向けの本と、神殿騎士団蔵書を並べた。両者の内容は情報の質という点でかけ離れているが、それ以上に単語と文法が違うというのだ。
一言でいうと、前者がこの国で一般に使われている〈王国〉語、要は簡易版〈帝国〉語なのに対し、後者は魔導書で使うような古語で書かれているらしい。
「普通の人間が使う言葉で書かれたまともな本が、この国には無いのよ。今戦争している相手に大砲や船の数で負けているのは、そのせいだと思う」
アリンが珍しく熱い口調で言った。彼女は間違いなく、大きな何かをしようとしていた。




