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七星軍-4

コズを始めとする〈王国〉軍幹部の考えは、後に判明した現実と比較すると、楽観的でもあり悲観的でもあった。


まず彼らが非常に危惧していた王都への急襲作戦など、レマ公国軍は最初から考えていなかった。そもそも王都が空であるという事実を知らなかったのだから当然である。


〈王国〉軍の出撃が諸々の混乱で遅れたことは、皮肉な形でレマ公国軍の判断を誤らせた。

レマ公国軍偵察部隊は王都の近くから動かない〈王国〉東方方面軍を、王都防衛の為の部隊であると報告したのだ。


東方方面軍の出撃は単に物資集積が手間取ったせいで遅れていたのだが、もちろんレマ公国軍にそんな事情を知る術などない。

彼らは王都周辺から動かない部隊は守備隊だろうという、とても自然な判断を下した。これだけの防衛軍がいる以上、王都の早期攻略など不可能であると。


コズたちが恐れた王都陥落の危機は、結果から言えば杞憂そのものだったのだ。




 一方で〈王国〉軍は、レマ公国軍の機動力について楽観的過ぎる考えを抱いてもいた。

砲兵を伴う大軍が素早く移動できる訳が無いという、自軍を基準とした疑似的常識を、無意識のうちに敵軍にも当てはめていたのだ。


神殿騎士団本部からはレマ公国軍の輸送力についての報告と警告が送られていたが、末端で握りつぶされていた。

敵軍後方部隊が使用する機材についての情報など、戦争が終わってから吟味すればよい。そんな無理もない判断が行われたせいで、実は死活的に重要だった情報は末端の通信所を除く誰の目にも触れず終わったのだ。

この失敗のツケは、極めて高くつくことになった。






 〈王国〉中央方面軍がようやく川を越えてレノ州中央部に差し掛かった日の翌日、南東支隊はシドン高原に到着しようとしていた。

タード州のレマ公国軍は主にシドン川から補給を受けており、シドン川の幅は同じ名前を持つこの丘陵地を分かつ渓谷で最も狭くなる。

ここに砲兵を展開させればシドン川を分断し、レマ公国軍の補給船を通行不能に出来るのだ。

この作戦が成功すれば少なくともレマ公国軍の一時後退、上手くすれば殲滅が可能になると判断されていた。



 その彼らの前方に、2000程のレマ公国軍が立ちはだかった。全て騎兵である。騎兵たちは襲撃を予想していなかった〈王国〉側前衛を撃破すると、本隊を伺う動きを見せた。


 「無視して前進しろ。攻撃してくるようなら、弓兵を出して蹴散らせ」


 報告を受けた南東支隊司令官、〈王国〉第3王子サダクはそう命じた。敵軍の襲撃は予想外だったが、結局はただの苦し紛れだと判断したのだ。

騎兵2000が何をしようと、5万の兵力を持つ南東支隊を止めることは出来ない。その僅かな兵力自体が、敵の窮状を物語っている。



 サダクの判断を裏付けるように、騎兵たちは〈王国〉軍が迎撃の構えを見せるとそれ以上近づいては来なかった。矢や砲弾が届かない距離から、遠巻きにこちらを伺っているだけだ。


それを見た〈王国〉軍の各指揮官は、安心して自隊を前進させた。

敵軍は南東支隊の動きに対処できず、少数の騎兵部隊を送るのが精いっぱいだった。そうとしか見えなかったのだ。

〈王国〉軍は速度を緩めず、シドン川を見下ろす2つの丘陵を登ろうとした。




 「うん、あれは!?」


 視力の良さを買われて哨戒班に配属された兵の1人が、目の前に迫ってきた丘を見てふと声を上げた。

丘を覆う林の中に、妙に真っすぐな切れ目が何本も走っていることに気付いたのだ。

しかも折れて地面を覆っている枝の数が不自然に多い。まるで切れ目やその他の人工物を隠そうとしているように。


 「敵軍の一部が丘に潜伏している可能性があります」

 

嫌な予感を覚えた彼は、ひとまず班長に報告した。


この手の微妙に不自然な光景は見逃さない方がいい。高確率で何かが潜んでいる証だ。村で猟師をやっていた経験がそう告げていた。

風も無いのに折れている太枝、部分的に草丈が低くなっている草原、水場の周りを囲う葦の中にある大きな切れ目。こうした徴候に気付かず進むと、四半刻後には熊や森林象と鉢合わせすることになりかねないのだ。

目の前の丘からは、そういう不吉な気配がふんだんに漂っていた。




 「分かった。上に前進を見合わせるよう伝える」


 班長から分隊長、そして小隊長に連絡が送られ、小隊長が伝令を走らせる。

魔導士による通信の方が速くて確実性が高いのだが、魔導士は希少であり、各小隊に配属できる程の数を揃えられないのだ。大隊規模以下の連絡手段は、伝令や旗流信号頼みだった。


 (大丈夫か?)


 最初に異常を報告した兵は、火と氷を同時に飲まされたような焦燥感を感じながら、その光景を見守っていた。

各員は最善を尽くし、一刻も早く情報を伝えようとしている。いるのだが、あまりに遅いのだ。


小隊長が連絡文書を書いて伝令が走っている間にも、〈王国〉軍は2つの丘陵に近づいている。

情報が命令系統を通るのにかかる時間も考えれば、前進を継続するか否かの決定が下される前に、軍の前方が丘を登り始めてしまうだろう。




そして伝令の背中を見ていた彼は前方で発生した轟音を聞いて、飛び上がるように振り返った。丘陵から炎と煙が上がっている。

何が起きているかを悟る前に、彼の意識はその頭部ごと捥ぎ取られた。5寸砲の列から雨のように放たれた鉄球の1つが、不運な兵士の側頭部を直撃したのだ。


彼だけでは無い。傍にいた小隊全員が、丘陵に潜んでいたレマ公国軍砲兵が放った散弾によって薙ぎ倒された。

生き残ったのは、もはや自明となった敵の潜伏可能性を伝える為に隊から離れていた伝令1人のみである。

もう少し早く伝わっていれば数千を救ったであろう情報は、たった1人を助けるだけに終わったのだった。



 この時〈王国〉軍の大半がレマ公国軍の火砲群から見て、僅か1-3小里程度の位置にあった。地形効果を加味すれば、散弾でも十分に届く距離である。

しかも致命的なことに、〈王国〉軍はレマ公国軍砲兵が出て来る可能性を考慮しておらず、時間を節約する為に密集隊形で進んでいた。




 実はレマ公国軍にも色々と失敗はあった。

 本来はもっと引き付けてから撃つ予定が、平均1.8小里からの砲撃になったのはその代表例である。

 緊張した兵士が転んで発射レバーを倒したせいで暴発が起き、それに釣られて各砲が発砲したという、何とも馬鹿馬鹿しいミスによるものだった。

 散弾の一部が樹木に当たって発射位置に跳ね返り、中隊長以下30人以上が死傷するという、悲惨かつ滑稽な事故も生じている。

 

 この戦い以後、〈王国〉軍兵士の中にはレマ公国軍が悪魔や邪神と契約して力を得ているという噂が広まるが、実態としてはこんなものである。

 レマ公国軍は神的ないしは悪魔的な力など持っていないただの人間の集まりであり、随所で非常に人間的な失態を晒していた。

 

 だが〈王国〉軍が犯した失策と、レマ公国軍が犯したそれには決定的な違いがあった。

 後者はどれも実践過程における事故であり、影響は局地的なものにとどまった。

 一方、〈王国〉軍の失敗は行動方針自体であり、当然ながら全体を深刻な形で巻き込んだのだ。具体的に言えば、多数の火砲が配置された山に向かって、軍を密集隊形で前進させるという形で。

 



 2つの丘陵地帯から発砲煙が上がり、硝煙で味付けされた鉄の豪雨が降り注ぐ。

 固まって進んでいた〈王国〉軍の各部隊は、後退や回避どころか地面に伏せる事も出来ないまま、それを正面から浴び続けることになった。



 奇跡的に生還したとある士官は、回顧録にこう記している。「血飛沫と肉片が混ざった赤い雨が降り、数呼吸ごとに一個中隊が消えた。我々は家畜のように死地に送られ、家畜のように殺された」と。

 またレマ公国側の士官の回顧録における、この戦いの記述は以下のようなものである。「あれは戦闘ではなく射的だったという者がいるが、若干事実に反している。射的競技には相応の技量が必要だが、あの戦いでは撃てば必ず当たった」。


 発砲が開始されてから四半刻のうちに、〈王国〉軍は最低でも6000を失った。

 






「後退だ。一時後退して、攻城砲部隊の到着を待て」


 惨状を見た第3王子サダクは、奇妙なほど落ち着いた声で命じた。

 局地的敗北には動じないという将としての大器の表れなのか、単に部下将兵を含む他人の生命に対して無関心なだけなのか、周りの人間には分からなかった。或いは本人にも分かっていなかったのかもしれない。

 

 確かなのは、結果論的に言ってこの命令が完全に誤りだったという事実である。いっそ全軍突撃を命じた方が、まだ〈王国〉軍の勝率は上がったかもしれない。

 最悪の状況下で後退という困難な機動を命じられた〈王国〉軍は大混乱に陥り、無数の大渋滞と将棋倒しが発生したからだ。

 共同訓練をしたこともない部隊群を寄せ集めて作った5万の軍を敵優勢下で秩序だって後退させるのは、勝利する以上に困難だったのだ。

 


 

 そしてレマ公国軍は、混乱した敵に立て直しの時間を与えなかった。〈王国〉軍の側面から突然砲声が上がり、渋滞を避けて横に逃げようとした将兵を次々に撃ち倒したのだ。

 

 この攻撃は、龍兵と並ぶレマ公国軍独自の部隊、騎砲兵によるものだった。

 騎兵突撃に追随して砲撃支援を行う部隊で、小口径砲と銃を装備する。騎兵とともに前進して敵指揮所や砲陣地に銃砲撃を浴びせ、騎兵突撃に対する敵軍の抵抗力を削ぐのが主任務だ。

 

 今回の戦いでは潰すべき砲陣地が存在しなかった為、騎砲兵は単なる機動力の高い砲兵として運用された。丘陵の向こう側に隠匿され、戦闘開始と同時に〈王国〉軍側面に躍り出たのだ。

 やや変則的な運用だが、効果は絶大だった。

 敗走中に正面と側面から同時に攻撃を食らって耐えられる軍隊など存在しない。

 騎砲兵を潰そうと自暴自棄の攻撃に出た〈王国〉軍部隊もいたが、同時に展開していたレマ公国軍歩兵によって簡単に阻止された。


 



 「勝ったな」

 

 レマ公国軍第2軍集団を率いるセラニア・ソランは西側の丘の頂上に設けた指揮所から戦況を観察し、冷然と呟いた。

 戦いは始まったばかりだが、結果は決定されたも同然である。と言うより、始まる前から決まっていたと言うべきか。

 

 〈王国〉軍は知る由も無かったが、シドン高原の2つの丘陵地帯とその背後には、レマ公国軍第2軍集団の大半、9万が展開していた。

 何度も偵察した結果、ハビシャラの〈王国〉軍に解囲を行う能力は無いと判断したセラニアは、第2軍集団の大部分を反転させていたのだ。

 シドン川はハビシャラからシドン高原に向かう形で流れており、陸路では5日かかる距離を、下り方向水路では1日で移動できた。

 神殿騎士団の情報網ですら、この機動に追い付いて第2軍集団の現在位置を報告する事は出来なかったのだ。

 

〈王国〉軍南東支隊が到着するより2日前に、レマ公国軍第2軍集団はシドン高原への展開を完了していた。

 絶対制水権、及びこの時代には馴染みが薄い概念だが絶対制空権を持つ軍隊だからこそ出来る動きである。

 


 そして〈王国〉軍はその罠に自ら飛び込む形になった。彼らは丘陵地帯に設けられた防御陣地と火砲550門に向かって、頭から突っ込んでしまったのだ。

 しかも〈王国〉軍は先入観からかまともな偵察を行わなかったせいで、もっと慎重に動けば避けられたであろう側面攻撃までもろに食らった。

 〈王国〉軍がここから戦況を挽回できる可能性は、全身に錘を付けられて氷海に投げ込まれた人間が生還する望みより低かった。

 


 指揮所からは火砲に乱打された〈王国〉軍が、死に物狂いで後退というか潰走していくのが見える。

 後退しようとする指揮官がその馬で部下の兵士を踏み潰す。或いは逆にパニックになった兵を制止しようとした指揮官が、暴徒と化した部下によって刺殺される。そんな光景が散見され、さっきまで〈王国〉軍がいた場所には、将棋倒しになった人間たちで構成された奇怪な彫刻が積み上がった。

 

 追い打ちをかけるように何かの拍子で〈王国〉側の火砲が発射されて味方を薙ぎ倒し、それが更に混乱を倍加させる。〈王国〉軍は悪循環の中でのたうち、自らを崩壊させていった。

 



 「勇敢なる〈王国〉軍に告ぐ。直ちに降伏せよ。さすれば諸君らの身の安全を、レマ公爵家の名において保証する。降伏を受け入れない場合、遺憾であるが諸君らを殲滅せざるを得ない」

 

 念の為に相手の退路に騎兵を展開させつつ、セラニアは降伏を勧告した。もはや勝敗は決した以上、無駄な戦いは避けるのがお互いの為である。

 

 もう少し切実な事情として、レマ公国の労働力不足がある。

 奴隷を含めて〈王国〉の2割弱の人口しかない国が15万もの軍を動員した影響で、レマ公国では各産業での人員不足が顕在化しつつある。

 それを補う為にも、敵兵はなるべく生かした状態で捕獲したかった。

 






 半刻程後、〈王国〉軍南東支隊は降伏旗を掲げた。この時降伏した兵力は負傷者を含めて1万8000程。他に1万1000が戦死し、脱出に成功したのは2万強に過ぎなかった。

 対するレマ公国軍第2軍集団の被害は1500未満であり、後者の完勝と言える。

 

 ただし〈王国〉側に立つ歴史家の中には、この戦いを〈王国〉軍の戦略的勝利と呼ぶ者もいる。

 南東支隊が身を挺して時間を稼いでいる間に、第2軍集団主力がいなくなったことに気付いた〈王国〉東方方面軍が、ハビシャラに急行していたのだ。

 レマ公国が東方方面軍を、王都守備部隊と判断したが故の誤算である。


 セラニアが残していた監視兵力では10倍の戦力を持つ東方方面軍に対処できず、彼らは火砲などの重装備を置き捨てて後退した。

 恐ろしい代償と引き換えに、〈王国〉軍は開戦後初めてレマ公国軍を後退させたのだ。

 


 だがシドン高原で戦った〈王国〉軍敗残兵にとって、それは遠い世界の出来事だった。

 彼らは敗北に打ちひしがれ、無敵のレマ公国軍が追撃してくる恐怖に怯えながらひたすら逃げた。そのうちハビシャラの東方方面軍に合流したのは、5万いた南東支隊のうち3000に満たない。


 最初は2万を超えた脱出者のうち、最低4000がレマ公国軍騎兵部隊の追撃で戦死または捕虜となり、他に5000以上が負傷の悪化や食料不足により路中で死亡した。

 原因さえ分からないまま消えた者も、同じ位存在する。


 自らの犠牲によってハビシャラ、ひいては王都が救われたのを知って彼らがささやかな慰めを得たか、それは定かでは無い。

 












 タード州を中心とした東部の戦いから僅かに遅れて、〈王国〉西部ではレマ公国軍第1軍集団と〈王国〉西方方面軍が激突していた。

 

 西方方面軍の指揮官は、シザ郡から辛くも脱出に成功したノイド候が務めている。

 敗北した指揮官の続投は奇妙に思えるが、これにはただの情実人事ないし階級社会特有の腐敗とも言えない切実な理由があった。

ノイド候は敗将ではあるが、他に比べれば数段マシだったのだ。

 彼が指揮した部隊は壊滅に近い被害を受けながらも、何とか秩序を保って後退している。

 レマ公国軍と対戦した他の指揮官が自隊をほぼ文字通りの意味で「消滅」させてしまったのに比べれば、上出来と言える結果である。

 敗北した指揮官は惨敗した指揮官より良いという、ある意味情実人事より悲惨な理由に則り、ノイド候は緒戦で壊滅した西方方面軍の立て直しを任されたのだった。

 

 

 そして彼は、少なくとも軍官僚としては非常に優秀な部類に入ることを示した。

 各地に潰走・離散した兵力をかき集め、倉庫に死蔵されていた物資を探し出し、何とか敵を上回る8万の軍を編成してみせたのだ。

 補充兵や物資が王都に近い東部に優先して送られ、西方方面軍の補給要請はほぼ無視されていたという事実を鑑みれば、驚嘆すべき成果と言える。

 


 

 その西方方面軍8万は、イザカ郡北東部の運河沿いで、レマ公国軍と戦闘に入った。

 上流からの落葉で染まった水の色と、茶葉を運ぶ船が頻繁に通ることからの連想で、俗に紅茶水道と呼ばれる場所である。この紅茶水道西側で、〈王国〉軍はレマ公国軍を待ち構えていた。

 

 運河沿いに並ぶ〈王国〉軍砲列が自軍船舶の通行を遮っているのを見たレマ公国軍第1軍集団は、挟撃作戦による撃破を試みた。

 正面からは第1軍と第2軍合計3万5000が攻撃し、〈王国〉軍の注意を引き付ける。その間に第3軍1万2000が北方に迂回して渡河し、〈王国〉軍を後方から襲撃するというのが作戦の骨子である。

 

 数が少ない側が陣地に籠っている敵軍を攻撃するのは邪道と言えるが、火力ではレマ公国軍優位である為、問題は無いものとされた。

 これまでの戦い全てにおいて、レマ公国軍の強力な砲兵隊は〈王国〉軍を打ち砕いてきたからである。

 




 黎明、レマ公国軍が陣取る紅茶水道東側から砲声が上がった。3寸砲と4寸砲合計400門に加え、本来は攻城砲である6寸砲50門をも含めた砲撃が、〈王国〉軍陣地に降り注いだのだ。

 攻城弾と散弾の嵐を浴びた〈王国〉軍陣地からは無数の飛沫と土が舞い上がり、その中に含まれる人体の一部によって紅茶水道は普段より濃い赤茶色に染まった。

 朝靄に交じった泥の飛沫が〈王国〉軍陣地周辺を覆い尽くし、あたかもその存在自体が消え去ってしまったような錯覚を、レマ公国軍将兵に与える。

 彼らは歓声を上げながら、自軍が誇る砲兵が敵陣を叩く様子を眺めていた。

 



 砲撃が敵陣地を十分叩いたと判断された後、小型船が連結された浮橋が、西岸に向かって伸び始めた。同時に手漕ぎ舟に乗った兵士たちが運河横断を開始する。

 

 第3軍による迂回襲撃を待つまでも無く、第1軍と第2軍の正面攻撃だけで敵軍は排除できるのでは無いかと、レマ公国軍将兵は船を駆りながら思っていた。

 〈王国〉軍陣地は完全に沈黙しており、レマ公国軍の渡河を阻止する動きを全く見せなかった為だ。

 


 だが地獄は唐突に発生した。

 浮橋が完成して最初の兵たちが対岸に渡り、手漕ぎ舟の第2波が川の中ほどに達したその時、〈王国〉軍陣地から砲声が上がったのだ。


 レマ公国軍の準備砲撃で沈黙したと思っていた陣地から砲撃されたことに驚く間もなく、散弾の鉄球が嵐となって川岸に密集しているレマ公国軍将兵に降り注ぐ。

 最初の半刻で約2000が原型を止めない挽肉に代わり、同じ位の数が人体としての形状を辛うじて保っているだけの状態で、断末魔の苦痛に喘ぎながら岸に横たわることになった。

 シドン高原の惨劇が立場を変えて再現されたような光景である。

 

 背後の運河に飛び込んで逃げようとした兵もいたが、彼らは単にある死に方を別の死に方に変えたに過ぎなかった。

 この時期の夜から昼前までの時間、紅茶水道の水温は氷点付近を上下している。水に含まれる不純物と流れが氷結晶の形成を妨害する影響で、何とか凍結していないだけなのだ。

 そして凍りかけた水は人間にとって、沸騰しかけた水に準じる致死性を持つ。西岸に逃れるどころかまだ泳ぎ出しもしないうちに、早まって運河に飛び込んだ兵たちは意識を失った。

 


 岸と川面に木材と人体の破片が積みあがるのを見たレマ公国軍は、慌てて砲撃を再開した。各種の砲が咆哮し、西岸に残っているレマ公国軍将兵の残余が歓声を上げる。

 

 だが幾ら砲撃を叩き込んでも、〈王国〉軍陣地は沈黙しなかった。〈王国〉側火砲は撃たれていることすら感じていないかのように射撃を続け、西岸にいるレマ公国軍将兵を刈り取っていく。

 あまりの被害に青ざめた指揮官たちはひとまず舟で生き残りを救出しようとしたが、〈王国〉軍火砲に新たな的を提供しただけだった。

 満載状態の手漕ぎ舟は動きが鈍くて狙いやすく、しかも散弾の子弾1発で沈没するのだ。舟は次々と転覆し、乗っている将兵を凍るような水に叩き込んだ。

 

 死者とともに水面に漂う死にかけた者たちは、苦悶と同時に困惑の表情を浮かべている。

 レマ公国軍は無敵では無かったのか。何故砲撃で〈王国〉軍の火砲を無力化出来なかったのか。彼らは一様にそう思いながら、今や紅茶水道では無く紅水道と呼ぶべき赤く染まった流れに押し流されていった。

 

 


 彼らは答えに辿り着けないまま岸の漂着物や川底の沈殿物と化したが、紅茶水道でレマ公国軍の砲撃が機能しなかった理由は後に判明した。

 この場所の〈王国〉軍陣地はこれまでより堅牢だった上、自然によって防護されていたのだ。

 

 紅茶水道西岸に設けられた〈王国〉軍陣地は、これまでのような木製の簡易陣地では無く、建設途上の倉庫を流用したものだった。

 土台と壁部分の大半が出来た所で放置されていた建物を補強して砲を据え付け、陣地として完成させたのだ。

 凝砂石と鉄骨で出来た壁は木製の防材に比べて強度が遥かに高く、レマ公国軍が誇る高初速火砲の集中射撃を受けても崩れにくかった。

 

 

 ついでに自然も、〈王国〉軍の味方をしていた。

 まず元の壁の周りに補強として積み上げられていた土嚢が、夜の冷え込みによって凍結し、強度を増していた。

 第2に、砲撃が巻き上げた粉塵と水滴が朝日を照り返し、レマ公国軍砲兵の目を眩ませた。砲兵たちには砲弾が命中しているか、命中したとして目標を破壊出来ているのかが分からないままだったのだ。

 

 〈王国〉軍自身ですら一部把握していなかったこれらの理由によって陣地は破壊を免れ、〈王国〉軍はレマ公国軍に初の痛打を浴びせることに成功した。

 西岸に渡ったレマ公国軍第1軍と第2軍の先鋒合わせて1万5000は、僅かな例外を除いて丸ごと戦死ないし捕虜となった。

 北方から渡河しての攻撃を試みたレマ公国軍第3軍も、強固な陣地を攻めあぐねて後退した。


 紅水道の戦いと呼ばれるこの会戦で、〈王国〉軍は開戦以来初めてレマ公国軍に対する明確な勝利を収めたのだ。

 

 そしてこの勝利は、相次ぐ敗北で自国の戦争遂行能力への自信を失っていた〈王国〉政府と軍高官たちを発奮させた。

 ハビシャラ周辺地域の奪回と合わせ、〈王国〉はようやく戦争の流れを変えることに成功した。少なくとも〈王国〉政府はそう思い、軍に追撃を命じたのだ。


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