神殿騎士団-5
神殿騎士団本部とアザラン街道の間には山岳地帯が広がり、全体が温帯から亜寒帯地域の高地に相応しくない程に高密度の樹木で覆われている。
これらの山は周辺地域に比べて有意に降水量が多く、高地にも関わらず気温が高いのだ。
山の奥深くに青輝石の鉱脈があるからそうなっているという噂もあるが、大量の魔物が徘徊する森に敢えて入ろうとする者もいないので、真偽は定かではない。
山を縦断する街道を作る計画もあったが、崩れやすい地盤と魔物の妨害によって予算が足りなくなり、計画は放棄された。
幅で見れば平均7里、最も狭い部分では2里ほどに過ぎない山と森と湿地は、巨大な城壁のように人間の往来を妨害し続けている。
その山岳地帯の一角で突如轟音が響き、鳥たちが一斉に飛び立った。数本の樹木が前触れも無く倒壊したのだ。同種の倒壊は計10回ほど連続した後、唐突に終了した。
「本部より偵察。射撃データの収集は完了とする。そのまま戦闘部隊の救援に向かってくれ」
「偵察より本部。了解した。これより前線支援に向かう」
セナの前方では携行飛翼を操るアリンと本部のエリスが通信機で、何やら緊張した会話を繰り広げている。
軍事用語混じりの難解な言葉の応酬を、アリンは心なしか楽しんでいるようにも見えた。本人によると、彼女は一時期、軍人を目指して勉強していたことがあるのだという。
そして携行飛翼は急加速し、軍用地図と異なり一般人でも購入できる簡易地図、およびエリスからの誘導に伴って神殿騎士団と魔物が戦っているという場所に向かった。
部外者に軍用地図は提供できないというエリスに対し、セナが提示した妥協案である。
もっとも、地図と誘導の両方を要求する必要は無かったかもしれない。あっという間に戦場上空に到達したセナはそう思った。
歩きだと最低1日はかかるというからどんな遠隔地かと思っていたが、空路で見た場合、戦場は目と鼻の先にあったのだ。
これなら簡易地図と方位磁針だけで行きつけるどころか、少し上に上がって双眼鏡で観察するだけで、戦場がどこに存在するかは分かった。
どの道作戦会議と倉庫からの火砲類搬送に時間が必要だったので、地図の準備によって時間が浪費されたという訳では無いが。
「あ、いました! 多分あれがサラカ・セタという方です!」
素早く双眼鏡で地表の状況を確認したセナは、アリンに注意を促した。
双眼鏡は航法補助機材としてエリスから借りたものだが、そのエリスが救助を頼んでいたのと外見的特徴が一致する人物が見つかったのだ。
くすんだ赤色の髪にセタ家の家紋が入った甲冑、周りの兵に比べて明らかに小柄な体格、恐らく間違いない。神殿騎士団の臨時指揮官、サラカ・セタである。
「了解」
アリンは短く返答して降下を開始した。翼が軽やかに風を切り、砂粒のように小さかった地表の物体たちが徐々に大きさを増していく。
その中でセナは、サラカと思われる人物がゴグの攻撃を受けて倒れるのを見て息を呑んだ。
サラカは何とか起き上がってゴグを倒したが、明らかに重傷を負っている。そこに残りの象たちが前進し、止めを刺そうとしていた。
「……!!」
セナは絶望に近い焦燥を感じた。アリンとセナによる救出より、ゴグがサラカに止めを刺す方が速いのは明らかだ。
アリンは偉大な回復術師であるが、流石に一度死んだ人間を生き返らせることは出来ないだろう。それは偉大な魔導士の称号である「半神」ではなく、「神」そのものの領域だ。
そしてセナの方はもちろん何も出来はしない。ただ依頼が失敗するのを見ているだけである。
サラカが死亡してもセナやアリンに実害は無いという考えもあるが、神殿騎士団からの依頼に失敗したとなると、〈王国〉ではいろいろやりにくくなる。
それにセナは、依頼者であるエリス・ソランを失望させたくなかった。〈王国〉ではエリスのような、低い身分の人間の意見にも耳を傾けてくれる貴族は希少なのだ。
セナの焦燥を他所に、前方のアリンは何やら術式を編み始めた。
回復術師がこんな場所から術式を撃ってどうするのかとセナが疑問に思う中、術式が青い光の形で放たれる。
そして次に起きた出来事は、恐るべきものだった。光の中から多数の氷片が飛び出したかと思うと、その軌跡を追う事さえ出来ないような速度で飛翔を開始したのだ。
氷片群は1つ1つが白い靄を纏っており、晩秋の外気と比べても非常な低温になっていることが伺える。
その極低温の氷で出来た矢の雨はほぼ一瞬のうちに、サラカを踏み潰そうとしていた森林象、その背中に乗っていたゴグに突き刺さった。
突然身体の数十か所を貫かれたゴグたちは、悲鳴すら上げないで動きを停止すると、象の背中から落ちていく。
急に主を失った象は困惑したように止まると、本来の住処である森に向かってゆっくり歩き始めた。
流血も悲鳴も断末魔の絶叫も無く、ただ「死」という結果だけが象を操っていたゴグにもたらされたのだ。
未だ空中にいるアリンが第2の矢を放つ。
今度の目標は、神殿騎士団歩兵が作っている方陣の隙間を通過して、サラカに襲い掛かろうとしていたゴグたちだ。
さっきより更に多くの氷の矢が彼らの頭上から降り注ぎ、ゴグの群れは急な地震にあったドミノ倒しの駒のように倒れていった。
一見するとただ驚いて倒れたようにも見えるが、よく観察すると彼らの身体には綺麗な丸い穴が無数に開き、その周辺が白く凍り付いている。
氷の矢はゴグの皮膚や筋骨を一瞬で貫通したばかりか、傷口と周辺組織を完全に凍結させてしまったのだ。無論、彼らの生体機能は完全に停止している。
戦闘関連の術式としては驚くほど綺麗で手際が良く、それ故に何か薄ら寒いものを感じさせる術だった。
「……あ、アリン様は、回復術とか水術の専門家なのでは?」
文字通りの死屍累々を見て恐怖に近い驚愕を感じたセナは、辛うじてそう呟いた。
アリンが使った術は一般に「氷刃」と呼ばれる攻撃術式である。しかも極度に強力な、普通なら数十人の魔導士が集まってやっと撃てるような代物だ。
それを何故、回復術師のアリンが連射出来るのか。
「確かに私は水系統の技しか使えないけど、それでもこの程度の攻撃術式は撃てるわよ。回復と浄水だけが、水属性術式では無いわ。一応戦闘もやろうと思えば出来るの」
「……は、はい」
対するアリンは何故か憮然とした口調で答え、セナは恐る恐る頷いた。
「氷刃」が水属性に分類される術式なのは、確かに常識に近い事柄である。
ただ途轍もなく高レベルの回復術と攻撃術を両方使える魔導士というものが、それ以上に非常識なだけだ。
「私だって別に、魔力量しか能が無い訳では無いのよ。これでも補欠合格とは言え、〈帝国〉官吏なんだから。…そりゃ水属性術式は錬金術や霊魂術より地味で応用が利かなくて、試験でもあんまり加点はされない。でも日常的には一番便利で使いやすい術で… 大体私を馬鹿にして1人で洞窟に行かせたあの連中は、砂漠で隊が使う水の半分以上を供給してたのが誰の術式なのかを……」
「す、すいません。水属性術式を軽視するとか、そういうつもりは無かったんです」
アリンがそのまま、返答というか水属性術式への偏見に対する怒りを延々と零し始め、セナは慌てて謝罪した。何やら心の傷跡に触れてしまった気配を感じたのだ。
それが何属性であれ、アリン程の術式を使えるなら素直に誇っていい。少なくともセナとしてはそう思うのだが。
「…ああ、こっちこそごめん。つまらない話をしちゃったわ」
アリンが恥じるように俯くと、携行飛翼をサラカの傍に降下させた。
折れた左腕を庇う形で倒れているサラカは、その青い目を一杯に見開き、大量の返り血を浴びていなければ可愛らしいであろう顔に驚愕と混乱の表情を浮かべている。
「そちらは神殿騎士団の者だろうか? 失礼ながら、私は七星軍に際して入団した者全員を知っている訳では無いのだ」
次にサラカは、苦痛に顔を歪めながらも起き上がると、こちらの所属を尋ねてきた。
エリスにとてもよく似た、年齢にそぐわないほど軍人としての気負いを感じる態度と口調だ。
エリスはサラカについて、「双子の姉のような存在」と言っていたが、セナはその意味を一瞬で理解した。
2人の少女に血筋の類似を伺わせるような共通点は無い。にも関わらず2人は普通の姉妹と同じかそれ以上に似てもいたのだ。
「私たちは神殿騎士団所属では無く、本部のエリス・ソランという人に頼まれて来ただけですが」
「そうか。エリスがな」
サラカの傷を治療しながらアリンが説明し、サラカは複雑な苦笑を浮かべた。
彼女はそのまま立ち上がろうとしたが、すぐに蒼白な顔で座り込む。出血によるダメージは、見た目以上に深刻らしい。
「あ、駄目ですよ。安静にしていないと」
「私は指揮官だ。戦っている兵たちを放置して寝ている訳にはいかない」
アリンがサラカを止めようとしたが、サラカは弱々しいながらも芯の通った声で反駁した。
兵を率いる者としての責任感と言えば聞こえはいいが、明らかに無理をしているとセナは感じた。
セタ家という新興軍事貴族の一員としての重圧や、若くして高い地位に就いた者特有の過剰な矜持が、目の前の赤い髪をした少女を押し潰しつつある。
「戦いなら、もうすぐ終わりますよ」
セナはサラカを止めるべく声を掛けた。別に彼女を休ませる為の方便では無い。本当にもう少しで、この戦いは終わるのだ。
「どういうことだ?」
サラカが不審気に首を傾げる。
セナは言葉で答える代わりに前方左奥、ゴグの集団がいる森を指した。その上空に黒い染みのようなものが浮かんで轟音がしたかと思うと、樹木が複数個所で裂かれ、砕けていく。
飛散した木片の一部はゴグたちを襲ったらしく、木材が破壊される音とともに濁った悲鳴が幾つも響いた。
戦いを続けていたゴグたちには明らかな動揺が走り、逆に神殿騎士団の兵たちは活気づいた。
後方の森林で発生した破壊は、どう見ても砲撃によるものだ。それはつまり、人類側の応援部隊が近くまで来ていることを意味する。
「我が名はアリン。神殿騎士団本部より派遣された者だ。皆、敵は崩れている。もう一息だ」
更に彼らを鼓舞するように、サラカをセナに預けたアリンがいかにも堂々とした身振りで前に出た。
いつもの彼女を知るセナはそれがただのハッタリだと知っているが、事情を知らない兵たちは歓声を上げた。
アリンは少女としては長身ですらりとした体躯と豪奢な金色の髪を有し、更に〈王国〉軍士官の軍装を極度に洗練させたような服を着ている。正体を知らなければ、神殿騎士団本部の士官で通るのだ。
しかも兵たちは先程、アリンの術式がゴグたちを瞬時に薙ぎ払う様子を見ている。
見た目がそれらしいし肩書以上の実力があるのも確かな人物を疑うのは、特に戦場という混乱した状況ではほぼ不可能であった。
なお「神殿騎士団本部から派遣された」という言葉であるが、限りなく出鱈目に近いが嘘と言う訳では無い。
アリンは組織という意味での神殿騎士団本部とは無関係だが、本拠地がある場所という意味での本部からやって来たのは事実であるからだ。
「騎士団万歳!」
「増援が来てくれた! カドス様やコズ様が、俺たちを助けに来てくれるぞ」
そして案の定、兵たちはアリンの言葉をいいように解釈した。アリンが神殿騎士団本隊所属の高位士官で、彼女の後ろには本隊からの増援が続いていると勘違いしたのだ。
嘘も方便という言葉はあるが、それにしても酷い話だと、作戦の大元を提案したセナは他人事のように思う。
「よし、皆、奴らを押し崩せ」
アリンがけしかけるように言い、再び「氷刃」の術式をゴグの群れめがけて叩き込む。
銃弾すら霞むほどの速さで飛翔する極低温の矢に貫かれたゴグたちは、物も言わず、痙攣さえすることなく倒れていった。
更に止めのように2度目の砲撃がゴグたちの背後の森に降り注ぎ、また何本かの樹木を薙ぎ倒す。ゴグの群れ一面に動揺が走り、攻撃の動きが止まった。
「突撃!」
騎兵を指揮する将軍、そして各隊の隊長のうち熟練の者は、その瞬間を見逃さなかった。
彼らは真っ先に部下を引き連れてゴグのただ中に斬り込んでいき、他の隊もその動きに追従する。
前方で方陣を組んでいた隊だけで無く後方の隊、更に一足早くゴグを撃退していた左方の部隊までが攻撃に加わった。
剣の煌めきと飛散する血飛沫を陽光が鮮やかに照らし、赤と銀が入り混じった極彩色の光となって戦場を彩る。
砲撃とアリンによる術式はややゴグ寄りの均衡を為していた戦況を一気に人類側に傾かせ、後者による一方的殺戮に変えつつあった。
戦場には背中や後頭部に傷を受けた緑色の小さな死骸が折り重なり、その上を神殿騎士団の軍靴や蹄鉄が踏みつけていく。
骨と肉が圧砕される硬く湿った音が一面に響き、致命傷を受けながらも未だ死にきれないでいるゴグの濁った悲鳴が幾重にも木霊する。
ゴグが生来持つ野生動物特有の頑強さも、こうなってはただ彼らの苦痛を長引かせる役にしか立たない。全ての場所でゴグたちは虐殺され、アザラン街道上から排除されつつあった。
「それにしても、あの砲撃はどこから来たのだ? 本部から増援が来たとしても、砲兵はまだずっと遠くにいると思うのだが」
セナに支えられながら本陣に帰還したサラカが疑問の声を上げた。
聞きたい事は無数にある筈だが、ひとまず最も重要かつ不可解な事象について質問することにしたらしい。いかにも軍関係者らしい実用主義ではあった。
「山の向こうから砲弾を飛ばしたんです。純粋な直線距離なら射程内なので」
セナは自分に理解できる限りの説明を行った。
神殿騎士団本部と戦場は、道なりに行けば10里離れている。
重い火砲や弾薬とともに移動する砲兵は1日に6里進めればいい方なので、神殿騎士団本部から出撃した砲兵が戦場に到着するには、単純計算で2日かかるということだ。
そんな悠長な真似をしていては、砲兵が街道を歩いている間に戦闘が終わってしまう。
しかしアリンとエリスはもう1つの距離の測り方、直線距離に目をつけた。
道なりに行けば10里というのは、あくまで山河を迂回して進むからそうなるのであって、地図上における2点間の距離は3里に満たない。
これでも火砲の有効射程外だが、火砲の射程という言葉には暗黙の了解がある。すなわち有効射程とは、あくまで目標を直接狙って撃つ場合に適用される数字なのだ。
ただ単に弾を飛ばせる距離という意味での射程は、カタログ値の数倍に達する。神殿騎士団本部からアザラン街道の方向に火砲を曲射すれば、砲弾は街道周辺のどこかには落ちるのである。
無論正確にどこに落下するかは運任せで、敵軍への殺傷効果は全く期待出来ない。しかし、砲弾が届くのは確かだ。
そしてエリスの指揮下で射撃は実行され、一応の成果を上げた。
100門以上の火砲から大仰角を取って放たれた砲弾の大半は、誰にも知られないまま山河や荒野に落下した。しかし全体の1割弱は、ゴグの群れの内部や後方に落ちたのだ。
純粋な攻撃としては恐ろしく効率が悪いが、敵を動揺させるとともに味方の士気を鼓舞する効果は巨大であり、十分元は取れたと言える。
「追撃中止」
ゴグたちが街道と周辺の平野から排除され、残余が森に逃げ込んだのを確認したサラカが、口頭及び上空に打ち上げた火花で停止命令を出した。
一応勝ったとはいえ、神殿騎士団も大きな被害を出している。この状況で、ゴグが得意とする森林戦に移行するのは危険が大き過ぎるという判断だろう。
「救援、感謝する。この場での神殿騎士団代表として礼を言わせて貰う。ところで……」
次にサラカは、何かを言おうとして困った表情を浮かべた。そう言えばまだ自己紹介も済んでいないと、セナは唐突に気付いた。
「あ、私はセナと申します。向こうにいらっしゃるのがアリン様です」
「サラカ・セタ。神殿騎士団総団長代理だ。それでセナ、アリンは何をしているのだ?」
サラカの視線の先には、いつの間にやら携行飛翼に再搭乗して森の上を低空飛行しているアリンの姿があった。
ゴグの動きを監視しているのかと思ったが、それにしては飛行高度が低すぎる。
セナが答えに窮する中、アリンは唐突に急上昇すると森の一角に「氷刃」を叩き込んだ。
凍てついた無数の刃が樹木の枝を切り刻んでいく、と思いきや、実際に起きたのは思いも寄らぬ現象だった。「氷刃」が展開された瞬間、その場所から白い炎が湧き出したのだ。
炎は氷の刃と衝突し、急に加熱されて膨張した水が盛大な破裂音を立てる。
そして炙られた生木が立てる濛々たる白煙の中から、奇怪な姿の影が黒々とした巨大な姿を表した。
蜥蜴と鳥類の特徴を併せ持つ身体と、その肩から伸びる長大な翼。小型種のドラゴンである。
小型種と言っても流石はドラゴンであり、森林象並みの巨体を持つ。しかも飛べる分、森林象よりずっと素早くて危険である。
高山地帯を主な生息地とするので人と棲み分けが出来ているという一点が無ければ、最強最悪の害獣となっていただろう。
その小型ドラゴンが何故か、本来の生息地とは程遠い森の中から飛び立っていた。
よく観察すると背中には鞍が取り付けられ、2人の人間が乗り込んでいる。先頭の1人は長い黒髪を靡かせているので女性のようだ。
「そういうことか! 汚い真似をしてくれる」
「あの、どういうことでしょう?」
「ドラゴンはやたら金がかかるし訓練が面倒な動物だが、酔狂にも軍用としての飼育や繁殖を行っている国が1つだけあってな。餌用の肉として、使い物にならなくなったガレー船奴隷や売春婦を潤沢に用意できる国だ」
サラカが吐き捨てるように言った。
彼女が言う「ドラゴンを軍用に飼っている酔狂な国」がどこであるかは、セナにも容易に想像がついた。〈王国〉第1の仮想敵にして奴隷の大量輸入国、レマ公国である。
つまりあのドラゴンとそれに乗っている人間は、レマ公国から来たことになる。
レマ公国の人間が〈王国〉の森林内に潜伏し、その付近でゴグが大量発生。更に何故か本人たちはゴグに襲われていない。
サラカの言う通り、偶然の出来事と言うには無理があり過ぎた。
ドラゴンの先頭に乗った女性がアリンに向かって白炎球を射出し、アリンは携行飛翼を急上昇させて回避した。
回避と同時に「氷刃」の術式が複数展開され、相手の前方と斜め後方から凍てつく刃の雨が殺到する。
挟み撃つような攻撃を、敵はドラゴンを急激に下降させて躱した。単純に飛行を止めて自由落下させたのでは無く、重力そのものを歪めたような降り方だ。
アリンの勝利を確信しかけていたセナは、驚愕の声を上げずにはいられなかった。
しかし攻撃自体は回避されたものの、アリンは相手に対して高度上の優位を占めた。すぐさま「氷刃」の雨が上方から振り下ろされる。
敵は炎の幕で大部分を無力化したが、溶け残った刃の破片がドラゴンの鱗を傷つけたらしく、耳障りな叫びが響く。
「皆、何をしている? 火砲と擲弾筒を準備しろ。奴はここで仕留める」
「半神」級魔導士同士の激突に茫然としている兵たちに、サラカが叫ぶように指示を出した。
セナも我に返ると、アリンから借りた銃で先頭の人物に狙いをつけた。照準器の向こうに長い黒髪と、対称的な白い顔が映る。
(え?)
セナは一瞬戸惑った。硬質に整ったどこか怜悧な印象の美貌には見覚えがある気がしたのだ。具体的には、つい先ほど会った少女に。
ただエリス・ソランの髪と瞳が黒にも灰褐色にも見える色だったのに対し、ドラゴンに乗っている人物は完全に真っ黒な髪をしている。
そして何より、年齢が違っていた。エリスにどこか感じられた幼さが抜けきった顔を見るに、多分20歳前後だろう。
だがセナはすぐに標的を変更した。黒髪の女性の後ろに座っている人物、こちらはフードを被った男性が、アリンに向かって銃を構えているのが見えたのだ。
暴れるドラゴンの制御に掛かりきりとなっている女性より、今はこちらの方が脅威だ。
セナは大きく深呼吸して引き金を引いた。意外な程軽い音がして、銃口から僅かな炎が飛び出す。
だが目標には何の変化も見られない。男はそのままアリンに向かって発砲し、アリンは慌てたように回避した。
それを見たセナは半ばパニックになりながら、何度も引き金を引いた。
発射音が連続し、銃を構える男が一瞬だけ狼狽した様子を見せる。どうやら命中はしなかったが、至近距離を弾が通りはしたらしい。
これに力を得たセナは今度こそ命中させようとしたが、銃はそれっきり沈黙した。弾が無くなったのだ。
その代わりのように、サラカが火球をドラゴンの上方に向かって放った。命中させるというより、相手を低空に止めて火砲が狙いやすくするのが目的のようだ。
各火砲がそれに応えるように散弾を装填し、ドラゴンを撃ち落とそうとする。
だがそんなことをしているうちに、先頭の女性はドラゴンの制御を回復していた。ドラゴンは高速での水平飛行に移り、あっという間に火砲の射界から消えていく。
アリンが追撃を試みたが、飛行速度ではドラゴンの方が圧倒的に速い。ドラゴンはすぐに地平線の向こうに消え、アリンはやむなく着地した。
森林に残されたゴグたちは、指導者がいなくなったせいかいつの間にか散り散りになっていた。
死んだ森林象や龍鳥から、神殿騎士団がこれ見よがしに象牙や羽毛などの高く売れる部分を切り取り始めても、ゴグたちは戻ってこない。戦いは終わったのだ。
「全軍に告ぐ。諸君らの奮闘により、神殿騎士団は卑劣な攻撃を撃退することが出来た。諸君らとともに初陣を戦ったことを、私は生涯の誇りとしたい。これより全軍、本部に凱旋する。各隊は行列隊形を取り、隊長は損害を報告せよ」
ドラゴンや残存ゴグが戻ってこないのを確認したサラカが全軍に通達し、神殿騎士団の残余1600は本部への帰還を開始した。
実際の戦闘結果は精々が戦術的勝利であり、未だ森林に数千のゴグが残っていることを考えれば、戦略目標の達成と言う点では敗北かもしれない。
だがとにかく敵を街道から一時追い払い、勝ったという体裁を整えることは出来た。
討伐依頼を出してきた商人組合に説明できるだけの結果は得たのだから、後はこれ以上傷口を広げないうちに戻るだけだった。
神殿騎士団本部では、凱旋した兵士たちに普段より上物の酒と各種料理が振舞われ、兵たちが浮かれ騒いでいる。
純軍事的に見た結果がどうであれ、彼らにとってアザラン街道での戦いは勝利だった。
数倍の敵による攻撃に耐え抜いて撃退し、レマ公国による卑劣な陰謀を打ち砕いた。参加した神殿騎士団兵にとって、街道での死闘はそのような意味を持ったのだ。
より詳細に言うと、サラカやガトラス将軍が隊内の空気をその方向に誘導した。
軍隊において指揮官の慢心に次いで怖いのが、兵士の敗北主義である。軍における永久損失で最も多くを占めるのは戦死や捕虜では無く、敗北したり曖昧な結果に終わった戦場からの帰路における脱走なのだ。
無益な損失を出さない為には、実際はどうであれ勝利しての凱旋という形を取る必要があった。
しかし兵や下級指揮官たちは騙されるか騙されたふりをして騒いでいればいいが、騙す側はそうもいかない。
本部の執務室で喪失した装備や射耗した弾薬類、そして何より戦死者についての集計を済ませたサラカは、大きく溜息をついていた。
合計377名、村1つ分の人間が死んだ。損失程度としては「すぐに補充可能な軽度損害」に分類される数だが、無論死んだ377人にとっては軽度でも補充可能でも無い。
もう一度溜息をつくと、サラカは風呂に入る事にした。
行軍中や戦闘中は水で身体を洗うのが精いっぱいだ。久しぶりに湯舟で暖まりたかった。
水を浴びただけでは取れなかった血の臭いを石鹸で念入りに拭い去ると、サラカは湯舟に身体を沈めた。
高い位置に設けられた窓の向こうでは、出撃前からいた小鳥たちが巣を増築している。
人間が大量にいる場所には猛禽や大型動物がいないという法則を知っているのか、神殿騎士団本部周辺にはやたら多くの小鳥や小動物がいる。
特に浴室や炊事場周辺は年中暖かい為、彼らにとってお気に入りの空間になっていた。
2羽の小鳥が仲良く枝を編んだり羽毛を敷いたりする様子を眺めていたサラカは、不意に湯気では無く涙で視界が霞むのを感じた。
冷たい刃物を差し込まれたような痛みが胸郭に走り、呼吸が出来なくなる。
思わず全身を抱え込むように動かした腕から伝わるのは更なる激痛。街道の戦いにおいて、ゴグの爪で左腕を貫かれたときに感じたのと同じ痛みだった。
ちらつく視界の向こうに、右肩を砕かれたゴグの醜悪な顔が笑っている。サラカは反射的に護身用ナイフで斬りつけたが、ゴグは笑い続けていた。
周囲にはこれまで立ち込めていた湯と石鹸の匂いではなく、血と生肉と露出した内臓に硝煙が混ざって生成される、吐き気を催すような酸臭が漂っていた。
アザラン街道で嗅いだ臭気、戦いと死の匂いだ。
サラカは吐き気に耐えながら、痙攣する肺を叱咤して無理やり息を吸い込んだ。
自分が見ているものが、ただの幻影に過ぎないことは分かっている。初陣を終えて日常に戻った軍人がしばしば経験し、昔は呪いの類と誤認されていた代物だ。
(私は、もっと強い軍人だと思っていたのだがな)
心身の激痛とちらついて五感を貫く真紅の絵図に耐えながら、サラカは辛うじて機能を維持している思考回路の片隅で自嘲した。
新興ながら〈王国〉を代表する武門の家であるセタ家。サラカはその一員として生まれ、幼い頃から戦術と各種武芸を学んできた。
泊を付けようと社交界から戦場にしゃしゃり出てきた挙句、敵前逃亡や精神崩壊などで味方の足を引っ張る貴族の子弟とは違う。今まではそう思っていた。
しかしその自負は、単なる未経験者特有の自信過剰に過ぎなかったのかもしれない。
現実のサラカはゴグという最普通種に分類される魔物と戦って死にかけ、部外者による救出で何とか一命を取り留めるという醜態を晒している。更に帰って来てからは幻影に怯えている有様だ。
到底、他の貴族の子弟を笑える立場では無かった。
「あ、サラカ様。ご入浴中でしたか。すいません。私は後で入るのでお上がりになったら…」
「いや、入っていい。それと、2人でいる時まで大袈裟な敬語はやめろ」
不意に浴室の戸が開いた。サラカは身構えて攻撃態勢を取った後、相手の黒みがかった灰色の髪を見て緊張を解いた。
エリス・ソラン、サラカの半姉妹である。セタ家以上の武勲を誇る古くからの名門貴族であるソラン家が、〈王国〉側に遺した最後の1人でもあった。
「サラカ様、大丈夫ですか? ……その、顔色が」
「気にするな。少しのぼせただけだ」
未だに視界の端から赤く浸みだしてくる戦場の光景を必死で打ち消しながら、サラカは辛うじて言った。叫ぶような口調になっているのが自分でも分かる。ほぼ間違いなく、エリスにも。
察したのか、エリスはそれ以上の詮索はしてこなかった。
身体を洗った彼女は、そのままサラカの傍に身体を沈めて来る。霞の向こうに、白い身体の線が仄見えた。
自分と違って彼女の方は随分と大人びたなと、きめ細かい肌が描く緩やかな曲線を見たサラカは妙な感慨を抱いた。
7年前に再会した当時のエリスはサラカと同い年とは思えない程に小さく、ずっと何かに怯えている寂しがり屋だった。今ではエリスの方が背が高く、年上に見える。
「久しぶりですね。2人で話すのは」
エリスがどこか寂し気な微笑とともに呟いた。一瞬、7年前の気弱な少女が姿を見せた気がする。
当時のサラカが「私が強い軍人になってずっと守ってあげる」と、今思えば実に気恥ずかしい宣言をしたエリスが。
そして唐突に、エリスはサラカに抱きついて来た。
湯に浸かっているにも関わらず冷え切っていた肌に、彼女の熱が染み込んでくる。サラカに比べて発達した白い膨らみが密着し、エリスの鼓動を柔らかく伝えて来た。
明らかに普通より高い脈拍がサラカの腕の中で震え、嗚咽が溢れる。
「良かった。生きて帰ってきてくれて良かった。私は、私はずっと心配で」
エリスはそのまま、サラカを抱きしめながら泣きじゃくっている。
普段の怜悧な仮面は跡形も無く崩れ去り、目の前にいるエリスは7年前と全く同じ、気が弱くて泣き虫な女の子に過ぎなかった。
(自分も同じか)、エリスを貪るように抱きしめ返しながらサラカはそんなことを思いもした。結局自分は7年経っても、祖父のような偉大な軍人にはなれていない。
「エリス、私は多分、思っていたよりずっと弱い。格好よく勝つことも、恐怖を感じずに戦う事も出来なかった」
サラカは呟くように言った。エリスの嗚咽が伝染したように、胸の奥で痛みが走る。だがさっきと違って、その痛みは不快では無かった。
「でもサラカ様は戻って来てくれた。私の前に戻って来てくれた。私は、それだけで良かったんです」
エリスが泣きじゃくりながら呟く。サラカはしばらく、彼女を抱きしめていた。




