カレー1
開け放った窓から、ゴーヤのカーテンと屋根のひさしを通して少し涼しくなった風が入ってくる。
夏の朝 ―― 外はすでに暑いだろうが、家の中はまだ爽やかだ。
母と妹が早くから出かけ、僕はひとり解放感に浸って自室のベッドに寝転がていた。
手にしているのは、翔樹師匠から借りた写真集。
彼ら兄弟は相変わらずナッちゃんのファンで、より大胆になった 『な・つ・視・線! 19歳』 を 「リア充に見せるナッちゃんはない!」 などと惜しみつつ、しぶしぶ貸してくれたのだった。
とはいっても、単にきわどい水着写真を楽しんでいるわけではない。
これでも真面目に、絵の構図を考えているのだ。
―― 高校で美術部に入った僕は、秋の学祭で2点出品する予定だった。
同じ構図を油彩で1点、CGを使ってイラスト風に仕上げて1点。
里絵が 「モデルやってあげよっか?」 と申し出てくれたのだが、なんだか気恥ずかしく、結局は写真集に頼っている次第である。
ナッちゃんが凄いのか、それともカメラマンが天才なのか。
ただ歩いているだけ。そんな構図にさえ詩情が溢れている。
媚びのない自然な表情の中に、大人になりきらない女の子の透明感あるエロスが漂う。
そんな写真を眺めつつ、僕は、頭の中で別の少女を描いている。
―― 風になびくサラサラの髪に、憂いを含んだ表情。その目線に、できれば、心の奥底に潜む何かを抉り出してくるような怖さを持たせたい。
…… とすると、胸像や、半身像にするべきか。
しかし、また同時に、伸びやかな肢体も描きたい。後ろ姿で。夏の星座が映る窓辺で。
―― 振り返らせようか。
それとも、半身と全身、両方描いてみるか。
頭の中で何度も消したり描き直したりしているうちに、その少女はいつの間にか氷芽になっていた。
―― 顔とか姿ではなく、心の奥底に潜む、冷たくて寂しくて、どこか怖い、なにか。
氷芽が持っていたそれは、決して良いものではあり得ない。
できれば、そんなもの知らずに生きていられたほうが、幸せに違いない。
だけど僕は、どうしても、そこから目が離せないんだ。
―― いや、ヒメちゃんをそのまま描くのは、あかん。
考えなおそうと頭を横に振ったとき、ケータイが鳴った。
昔に彼女から教えてもらった曲は、タイトル作者ともに忘れたが、美しいミュージカルナンバーだ。
実際には、着メロとして聞くことはないと思っていたんだが……
僕は少し驚きつつ、電話を取った。
「ヒメちゃん? どないしたん?」
「楓くん? 今、いいかな?」
いつもどおりの、落ち着いた声。
一瞬、不安そうだと思ったのは、たぶん気のせいだろう。
「別にかまへんで」
僕は、片手で写真集を鞄にしまった。
「んで? どないしたん?」
「今から、楓くんの家に行っていい? もちろん里絵ちゃんも誘うから」
「はぁ!?」
「あ、ごめん」
びっくりして上げた声にすぐに反応して、ビクビクと謝るところが氷芽らしい。
「やっぱり、急だよね……」
「いや、ええで。ええけどやな…… 里絵は、おらへんで。今日からおばーちゃん家や」
「ふぅん……」
「それにやな、ウチも今、僕しかおらへんで。家くるか?それか、きてもろても水しか出せへんから、外で会おか?」
「じゃあ楓くんのお家に行くね」
予想外の答えに、口のなかがカラカラに乾いたような気がした。
―― どないしょー! なんで? なんで、あんな普通に 『家来る』 とか言うのん!?
内心で叫んでいるうち、氷芽の高校は女子校だったな、と思い当たった。
たぶん、氷芽にとって僕は、まだ中学生の時の純情少年のままなんだ。
―― とりあえず、何でもなさそうなフリをしよう。
「え、外の方がええんちゃう?」
「実はカレーの材料を買ってしまいまして」
「なんで急にカレーやねん!」
「皆で食べたいな、って思って」
「なんで僕ん家やねん!」
「ごめん、やっぱり、急にとか迷惑だよね…… やっぱりやめるから。ヘンなこと言って、本当にごめんね」
いつも皆に向けられる、落ち着いて笑みさえ含んだ声だった。
―― こういう時の氷芽は、じつは凹んでいることが、しばしばあるんだ。
僕は、できる限り普通に答えようと呼吸を整えた。
―― 昔、彼女の傍にできるだけ長く居るために、ただの友達を気取っていた時のように。
なんでもなさを装う。
「いや、別に来てもええで。皆で食べたいなら、里絵はいーへんけど、ほかの子ら呼んでみるか?」
「うん、ごめんね、よろしくお願いします…… 皆、来てくれると良いね」
「そやな」
僕は電話を切って軽く掃除をし、中学生の時の仲間に連絡を入れた。
氷芽が僕の家に来たのは、それから20分後のことだった。




