帰り道2
「男の子って仲良くなるとイヤらしいこと言ってきたり、しようとしたり、してくるものだと思ったけど、楓くんは違ったから…… 優しくしてくれるけど、そんなことしないから」
氷芽は前を向いたまま、言いにくいことを一生懸命言うときのような話し方をする。
「楓くんと、仲良くなれて、良かった」
「そやな。僕も、ヒメちゃんと仲良くなれて良かったで」
なるべく、さりげなく応じながら、僕の心はぺしゃんこになっていた。
さっき軽口を言われたときは、羽が生えて飛んでいきそうだったのに。
イヤらしい…… いやまあ、そう言われれば、そうだけど。
僕はもう、氷芽のことがけっこう好きになってて…… 手を繋いでみたいなとか、普通に考えてしまうのに。
そういうのも、氷芽にとっては汚いことなんだろうか。
もっと好きになって、告白るとかしたら……
氷芽は 『裏切られた』 みたいな気持ちに、なるのかな。
―― 考えんとこ。
いつのまにか、別れ道だ。
気を取り直して、僕はなるべく明るく氷芽に手を振る。
「ほな、また一緒に遊ぼうな!」
「うん、またね。ありがとう」
氷芽の声は、いままでで一番、華やいで聞こえた。
それに沸き立つようなヒグラシの声が重なって、僕の中学1年の夏は、終わった。
家に帰ると、カレーの匂いが漂ってきた。
この匂いを美味そうとは思えなくなって、もう10日経つ。
「ごめんねー。最近、苦手やのに」
鍋の前に立っていた母親が、申し訳なさそうな顔で振り返った。
「歌和がどうしても食べたいって言ったから」
「ちゃう! 食べたいのは兄ちゃんのカレーや! また作ってー」
「母ちゃんのカレーやて美味いやろ!」
頬を膨らませる妹を 「また気が向いたらな」 とあしらいつつ、僕は食卓にスプーンを並べる。
母親は妹の皿によそいながら、話し掛けてきた。
「カレーいややったら、素麺にでもしよか。卵とキュウリしかないけど」
「いやカレーでええで」
「 『カレーで』 じゃなくて 『カレーが』 やろ!」
「へいへい」
僕はジュースを配ろうと、冷蔵庫を開けた。
我が家の夏の定番は、シソジュース。バランスの良い酸味と甘み、爽やかな赤シソとレモンの香りがする、自家製だ。
だけど今日は、冷蔵庫に赤紫色のペットボトルはなかった。
「あれ? シソジュースは」
「今日はスイカジュースや。シソジュースはまた明日作るよって」
「はーい、兄ちゃんの分やで」
「珍しい。気ぃ効くやん」
妹が、僕の前にコップを置いてくれた。
1口飲むと、スイカのほの甘い味と香りが口の中に広がる。
「スイカも、うまいなー、ありがと」
「感謝するんなら今度カレー作ってな!」
「やから、また気が向いたらな」
―― またカレーを作りたくなったりすることが、これから先あるんだろうか。
僕はそんなことを考えながら、母が大盛りによそってくれたカレーを口に運んだ。
カレーに混じって、あの日のチカンの精液の匂いが漂うような錯覚。
僕はなにくわぬ顔で、それも一緒に飲み込んだ。
※※※※※
二学期が来てからも、僕と氷芽の関係はあまり変わらなかった。
たまに待ち合わせて、遊びに行く。それ以上でもそれ以下でもない関係は、氷芽を安心させてるみたいだった。
僕も、そんな関係にいつのまにか慣れて、無駄に悩んだりしなくなってきた。壊れるくらいなら 『いい友達』 でいいじゃないか。
氷芽の私服は、毎回違うが、大体いつも甘めのデザインだ。
僕がほめると、氷芽はいつも、全然嬉しくなさそうに、お母さんチョイスだと言う。
きっと、氷芽のお母さんは、大切な娘をいつも人形のように飾り立てたいんだろう ――
そう想像するように、僕はなっていた。
ふんわりした服は氷芽に、たしかに似合っている。けど、そのなかにある心を、お母さんは見ていないのかもしれない。
「ヒメちゃんって、いつもスカートばっかりやな」
こう言ってみたのは、中2になる前の春休みだ。
僕たちはアニメ映画を見に行く約束をして、駅で待ちあわせしていた。
この日の氷芽の服装は、7分袖の紺のワンピースに、レース編みの入った白のカーディガン。
似合っているし、かわいい。
でも、僕はあえて言ってみる。
「ヒメちゃん本当はスカート好きやないのにな」
氷芽はビックリしたように僕を見た。
静かなスマイル以外の彼女の顔を、僕はもう、いくつか知っている。
「なんで知ってるの」
「ジャージの時の方が楽しそうやし…… ジーパンとか、持ってへんの」
「あるよ。去年の夏、楓くんと買ったもの」
「ああ、あれか」
「うん、でも。母が買ってきたの着ないと」
「お母さん怒るん?」
「ううん。とっても傷ついて、可哀想だから」
「なんやそれ」
氷芽の言い方がおかしくて吹き出すと、曖昧なスマイルが返ってきた。
「ヘンだよね」
「そうや、思いっ切りヘンやで!ヒメちゃんの方が保護者みたいやな! ウケるわー」
ビシビシとシバく真似をしてみる。
本当は、お母さんなんか気にせず、好きなものを着たらいいと僕は思う。
でも、それが言っていいことなのかも、どうやって伝えたらいいかも、僕にはわかっていない。
氷芽の複雑そうな表情に気づかずに笑うフリを、僕はしばらく続けた。
電車が来て乗り込むと、僕は扉際に氷芽を立たせてガードする。
目線を少し落とすと、紺地に白糸で細かな花の刺繍が入ったスカートからほっそりした脚が出ていた。
制服とはまた違う感じがして、やっぱりドキドキしてしまう。
こんな可愛い女の子を僕が守っているんだと思うと、誇らしいような、くすぐったいような気にもなる。
でも、僕は、氷芽が好きなものを着て僕と会ってくれたほうがいい。
「たまにはヒメちゃんも、好きなん着ていいと思うで」
電車から降りる直前、僕はやっと、そう言った。




