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とある夏の思い出と知人

作者: 町下夏木

 アブラゼミの鳴き声が微かに聞こえる。

 ワタルは眠っていた。

 それは深い沼の奥底で眠っている様でもあったし、南国の砂浜での浅い眠りの様にも感じた。

 夢の中では瞬時に場所や時間が移動するがそこに不自然さを感じない。

 それはその時においては現実の出来事に他ならないからだ。

 夢と現実の記憶との間に違いはそう多くはないのかもしれない。

 忘れる夢もあれば心に残っている夢もある。

 深さや浅さとは違ったところで刻まれる何かが。

  

 ワタルは目を覚ました。

 7月はまだ始まったばかりだというのにシャツはじんと湿っていた。

 台所へいってミネラルウォーターをコップに一杯飲み干した。

 昨日のことが思いだせない。

 こめかみがうずく。

 最後のブランデーのせいか。

 白い靄のかかった記憶をたどろうとするが思い出せない。

 

 ふいに幼い頃の思い出が浮かぶ。

 夏休みに友人と公園へ出かけた時のことだ。

 とてもわくわくしていた、夏休みの初日だったから。

 何事も最初は心躍るものだ、その可能性に。

 その日は深い青色の空が広がっていた。

 そして巨大な入道雲がもくもくと力強く漂っていた。

 海と山と川の間の町に住んでいた。

 山の斜面は段々畑が連なっており柑橘が植えられていた。

 町には高校が一校しかなかった。

 そんな町でも一人の友人を作るのは大変なことだ、終生思い出となる友人は。

 数が少ないからといって親密になるわけでもなく、数が多いからといって比例的なものでもない。

 それはワタルと友達との何となくと何となくを繋ぎ合わせることが出来ていたかにかかっている。

 特段仲が良かったわけではなかったが、たまに会った時にはその思い出を語り合った、

 心地の良い素敵な日だったねと。

 

 その公園は川と海が交わる場所にたたずんでいた。

 もともと海だった場所を埋め立てて造り上げられた。

 もちろん近くには港もあった。

 造船所もあった。

 虫取り網と虫取り箱をしっかり握りしめて公園に行った。

 公園に入るとアブラゼミの鳴き声が飛び込んできた。

 まだ朝と昼の中間の時間で暑さが強まる前だった。

 心地よいと感じる暑さでさっぱりとした汗をかいていた。

 その公園は25mプールほどの大きさだったが当時のワタルには十分楽しめる広さだった。

 その公園の入り口付近にはブランコが2台仲良く並んでいた。

 いつも二人で一緒にいるあの子とあの子のように。

 公園の中央に陣取っているのは滑り台だ。

 まるであのクラス委員長が何かにつけて注目を集めるように。

 端っこには寂しそうな鉄棒もあった。

 運動場をいつも眺めている病弱なあの子のように。

 しかし、ワタルの何となくに繋がる遊具は一つもなかった。

 そんな公園には一つの木があった。

 素朴な木であったが、ワタルにとってはどこか特別な木に思えた。

 友人はその木に一生懸命に掴まっているカブトムシを見つけた。

 本当はセミをとりに行ったのに。

 ワタルは最初それはカブトムシとは思わなかった。

 メスだからだ。

 オスのカブトムシは立派な兜をつけているがメスにはそれがなかった。

 

 そんな公園でのカブトムシのことをふと考えているうちに、昨晩の情景がぼんやりと蘇る。

 散歩に出かけた、知人(今はまだそう言っておこう)と一緒に。

 そよ風の気持よい出歩くには素敵な日だった。

 大きく立派で古風な庭園を見に行くことにした。

 そこには丁寧に手入れされた松の木が何本も立ち並んでいたし、涼し気な池の水が揺れていた。

 昼下がりの心地よい風も吹き抜けていた。

 

 川と川がちょうど交差する場所にある神社へも行った。

 その日は流鏑馬ヤブサメという行事が行われていたようだった。

 林の間を真っすぐに伸びる道の真ん中に柔らかな土が敷かれていた。

 その土の上には馬が駆け抜けた足跡が刻まれていた。

 その脇にはパイプ椅子が何台も林の道にそって置かれていた。

 数多くの人がそれを見ていたのだろう。

 馬の上から放たれる矢を見たかったとも思ったが、見れなかったことはそれはそれで良いとも思った。

 この道をその知人と散歩したことに変わりはないのだから。


 夕暮れ前の時間には川辺を歩いた。

 子供ずれの親子が川で何かを探していた。

 サイクリングをしている人、寝転がっている人、友人同士で語り合っている人。

 色々な人々の休日を垣間見ることができた。


 川辺の近くのお店でビールも飲んだ。

 たしかシチューが美味しいお店だった。

 知人と色々な話をしたが内容は覚えていない。

 そのお店を出てからのことはほとんど思い浮かべられなかった。


 遠く幼い頃の出来事の方が鮮明なことを不思議に感じた。

 なぜか10年以上も前の思い出の方がくっきりしている。

 その思い出は、色が濃く温度も音までもがハッキリしている。

 深い青色の空とそこに浮かんでいた入道雲。

 心地よい暑さとさっぱりとした汗。

 そしてアブラゼミの鳴き声。


 覚えている夢もあれば忘れる夢もある。

 深まる記憶もあれば薄まる記憶もある。

 人の夢は儚い。

 記憶はほとんどが消え去るものだ、しかし思い出となったものは別なのかもしれない。


 ワタルは、昨日の記憶は直ぐにほとんどが消え去るのではないかと思えた。

 その記憶は消えてしまって良いとも思ったし、かけがえのないものになるべきだとも思った。

 カブトムシのオスの様に兜があれば分かりやすいのにと思ったが、どちらか判断は難しかった。

 ただ、それは心地のよい素敵な日の出来事だった。

 記憶が思い出に変わるのにはずっと時間がかかるのかもしれない。

 それにはもしかすると二人での必要な作業があるのかもしれない。

 その記憶を二人で思い出し時間を重ねていくという作業が。 

  

 何十年か後でもあの鳴き声を耳にするとふと思い出すのだろう、あのカブトムシと友人のことを。

 きっと死に際でも。

 それらの記憶は恐らく脳だけでなく骨にもしっかりと刻まれたものなのだろう。


 今は知人の君が記憶と思い出の狭間で揺らいでいるのが見える。

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