帰還
一か月もの間、十六夜の命に包まれたまま眠っていた維月は、月の宮へと戻ってから、龍の宮へと帰還した。
臣下達には、維心から事情を話し、陰の月としての維月は今、十六夜に封じられている状態なのだということを皆が知ることになった。
他からの干渉で、陰の月は暴走する可能性があるので、今、碧黎と十六夜が対策を練るために考えていることも、合わせて説明した。
月というものを妃に持つことが、どれほどのリスクなのかと臣下達には思い知らされた出来事ではあったが、それでも維月自身が積み重ねてきた宮での関係があったので、そうこじれる事無く宮では平穏に受け入れられていた。
維心は前以上に、維月をがっつり抱え込んで離さなかった。というのも、十六夜が維月を送って来た時に、こう言ったからだ。
『炎月がいつ誰を好きになるのか分からねぇが、そんなことがあったら陰の月の力を使いやがるかもしれねぇ。やばいんだけど、その時維月が引きずられるかもって親父が言ってたんでぇ。どうなるかはまだ分からねぇんだけどよぉ、その時目の前に男が居たら、そいつを襲うかもしれねぇって。だからお前、ずっと維月と一緒に居ろ。お前だったら襲っても大丈夫だからさ。頼んだぞ。じゃあな。』
…何が大丈夫なのだ。
維心は、内心思っていた。確かに維月と離れずに一緒に居ようと思うが、それでも目を離す時だってあるかもしれない。そんな時に、もし義心とか、帝羽とか、そうでなくても他の誰かが居たりしたら、またあんなことになるのではないのか。
陰の月に襲われることに対して維心は覚悟を決めていたが、他の誰かとなど考えただけでも心が痛む。
そんなわけで、維月を手放すことが出来ず、政務にも連れて行き、持って来れるものは全部居間に持って来させて風呂も絶対に一緒だった。もちろん、寝る時もべったり一緒だ。
さすがにあまりにも維心がガッツリと自分を離さないので、確かに安心ではあるのだが、言った。
「維心様…あの、炎月はまだ10歳でありまするし、誰かを恋い慕うということはまだ先ではないかと思うのです。今からこのようにご心配あそばさなくても、大丈夫だと思うのですわ。政務が多くていらっしゃるのに、大変であられましょうし。」
維心は、ぐっと維月の肩に回した手に力を入れた。
「良い。今から備えておかねば、いざという時に対応が遅れずで良いのだ。乱暴な言い方ではあるが、十六夜は間違っておらぬ。その時主の目の前に居るのが我なら、問題が無いのだから。」
維月は、維心の不安も分かるし、自分も確かに不安だったので、維心が良いなら良いのだが、それでもこれほど四六時中一緒にいたら、さすがの維心も段々と面倒になって来るのではないかと案じていた。
何しろ、維心には山のような政務があるのだ。その他にも、軍神達が調べて来たことの報告や、細かい指示などを与えて世の中が平穏に回っているのかどうかということを見張っている。
だいたい、奥の間に居たなら侍女しか居らず、侍従も居ないのだから誰も入って来れないのに、常にどこかを掴まれているような状態では、維月も窮屈だった。
しかし、維心は自分が居ない間に陰の月の力に飲まれたら、勝手にどこかへ出て行って誰かを選んで襲うことになるのではと、気が気でなかったのだ。
維月は、そもそもは自分が陰の月の扱いを忘れたせいなのだから、と、ため息をついていた。
陰の月の暴走があった時からは数か月が過ぎていたが、碧黎はまだ、陰の月の扱いの方法を模索していた。
炎月の陰の月の力を封じる方法は、うまくは行かなかった。陰の月全体を封じるなら簡単だったが、炎月の力だけを封じるということが、うまく行かないのだ。
炎月は、もう回復して元気にしていたが、陰の月の力を扱い切れなかった精神的なショックは大きく、しばらくは月さえも見上げることも出来ずに居たらしい。
炎嘉が案じて月の宮に問い合わせて来たが、あいにくこちらもその対応には困っていて、効果的なことは何も言えなかった。
しびれを切らせた炎嘉が、独自にあれはあの命を持つものしか扱い切れないものだから、二度と使わねばいいのだと毎日言い聞かせ、それでやっと落ち着いて来たようだ。
とはいえ、使うなと言って、使わずにおれる力なら何もこんなに案じたりはしなかった。
碧黎は、珍しく困っていた。
そんな碧黎に、じっと座っている碧黎の部屋の居間へと訪ねて来た十六夜が、言った。
「親父、まだ何か思いつかねぇか?ちょっと言っただけなんだが維心が思った以上に維月にべったりしてて、維月も参って来てるんでぇ。何しろ、どこかに触ってない時がないぐらいくっついてるんだぞ?風呂でも体洗うから離れようとしてるのに、自分が洗うからって王の癖に維月の体まで洗ってやってるらしい。もちろん維心のことは維月が洗うって感じで、とにかく離れねぇらしくってさ。」
碧黎は、うんざりしたように十六夜を見た。
「主が維心を脅すからではないのか。あんなことを維心に言うたら、それは維心はそうなるわ。あやつは何よりも維月が他の男とそんなことをするのに耐えられぬのだからの。一度…いや二度しくじっておるのだし、構えもするわ。」
十六夜は、ため息をついた。
「まあそうなんだけどよ。維月が不安がってたから、ああ言っとけば維心のことだから維月から目を離さないだろうと思ったんでぇ。だが、やり過ぎなんだよ。目どころか手を放さねぇんだからさあ。」
碧黎は、立ち上がった。
「我だって何とかしてやりたいが、やりようが無くて今、我も行き詰っておるのだ。ちょっと待たぬか。」
十六夜は、腕を組んで言った。
「オレは待つけど維月と維心が疲れるから、早めに考えてやってくれよ。」
分かっておるわ。
碧黎は、心の中でそう思ったが、黙って部屋の窓から外へ出た。
行く場所に宛てはなかったが、何か維月をなんとかする方法を見つけられないかと、空へと飛び立って行った。
十六夜は、碧黎を見送ってから、ため息をついて、足を宮の中へと向けた。
緑翠が、長く療養していて今は客間にいるのだ。
あれから鷲の治癒の者達の尽力で、緑翠はみるみる回復し、意識を取り戻した。
それからしばらく時間は掛かったが、燐の力もあってやっと起き上がれるまでになったのだ。
そうして、治癒の対から客間へと移り、完全に回復するまではと、月の宮に滞在していた。
燐と鷲の治癒の者達は、名残惜しげに帰って行って、今は月の宮の治癒の者達が緑翠の様子を見ている状態だった。
綾も、それを見届けてからさすがに王妃であるので宮を放って置く訳にも行かず、緑翠を蒼に任せて南西へと帰っていた。
十六夜は、その緑翠を、見舞ってやろうと思ったのだ。
部屋へ入って行くと、緑翠は窓際の大きな寝椅子に座って、庭を眺めているところだった。
「十六夜様。」
ついていた侍女が、頭を下げる。
緑翠が、こちらを向いた。
「十六夜殿。」
緑翠が頭を下げると、十六夜は手を振った。
「ああ、そういうのはオレにはいい。調子がいいようだな、緑翠。紫翠が様子を見に来てたが、何か話したのか?」
緑翠は、頷いた。そして、侍女に頷きかけると、侍女は頭を下げて出て行く。人払いをしたことで、十六夜は緑翠が紫翠と突っ込んだ話をしたのだと悟った。
緑翠は、侍女を見送ってから、口を開いた。
「我がやったことは許されることではない。それなのに父上も兄上も、我の事は告示せぬのだと言う。我は沙汰を受けて、何ならこのまま処刑されてもと思うておるほどなのに、父上は…定佳様の宮との関係もあるゆえ、知っている皆が黙っているのだから己から乱すでないと申されておるようよ。」
十六夜は、頷いた。
「炎月だってお前らが巻き込まれただけだと言ってるみたいだ。だってお前、実際には炎月に定佳の宮に行けとは言わなかっただろう?炎月は自分で決めてたんだって聞いたぞ。」
緑翠は、頷いた。
「確かにそうだが、知っておるのに行くなとは言わなかった。兄上をお助けする事しか考えておらず、己のしたことの発覚を恐れて父上に助けを求める事もしなかった。その罪は重い…結局、それで何人の神が死んだのだ。千歳を含めた侍女達が殺され、生き残っていた侍女も千歳のためにと口を割らずに激昂した定佳様に殺されたのだと聞いた。これだけの事をしておいて、我だけ元の生活に戻るなど…考えられぬ。」
十六夜は、緑翠は真面目なのだと思った。あの時は、定佳を想うあまりに後先考えられなかったのだろう。とはいえ確かに、緑翠が言う通りだった。渦中に居た神は軒並み死んだのに、緑翠だけがこうして生き残った。真実を知る者達は口をつぐみ、当の定佳には、真実は何も知らされて居ないのだ。
それでも、十六夜は言った。
「…あれは、渚のせいだった。それに乗せられた千歳のせいだった。お前の罪は、後宮に勝手に入ってた事と、事態を知っていたのに翠明と定佳に言わなかった事。それだけだ。実質誰にも手を出してねぇんだからな。今西が割れるのは良くねぇ。分かってるだろう、こっちの神は自分の領地を広げるためには、汚い事も仕掛けて来るぞ。お前が正直に話す事で、翠明と定佳の信頼関係が崩れるんでぇ。隙が出来たらまた面倒が起きる。お前はお前の事ばっか考えるぞ。お前が言うのは、自分の罪の意識を他人に何とかして欲しいって事だ。それは違う。お前は皇子で、お前が裁かれるってことは、宮も裁かれるんでぇ。何のためにみんな黙ってると思ってる。お前はお前の中でその罪を抱えて苦しむってことが、自分への罰なんだって分かってるか?それともそれでも、自分だけは楽になりたいのか。」
緑翠は、ハッとした顔をした。そんな事は、考えてもいなかったのだ。
十六夜の言う事は間違ってはいない。緑翠がそんなことをしたと知れば、緑翠だけでなく翠明も定佳から疎まれるだろう。
そうなると、せっかくにうまく回っている西の島が割れてしまう。公明は翠明の兵力を知っているからこちらにつくだろうし、甲斐は必然的にこちらになるだろうが、安芸は違う。恐らく、定佳につく。西の島が真っ二つに割れる…。
緑翠は、力なく言った。
「…我の、わがままか。」と、十六夜を見上げた。「我は、これを背負って生きていくよりないのか。」
十六夜は、同情したようにその目を見返して、頷いた。
「それが皆のためだ。苦しいだろうが、だったら皆のために、定佳のためにあの宮を継いで守る事を考えろ。自分の心を捨てるのは難しいが…やっちまったんだから、仕方ねぇ。罰だと思って、翠明と紫翠が言うようにしな。」
緑翠は、涙を流した。そうなのだ。そうするより他、自分の罪を償う方法など、ない。
緑翠はその時、定佳を思い切ろうと心に決めた。あのかたが守る宮を、あのかたの死後引き継ぐ事を考えて、それまでは南西で見守り、努めよう。
十六夜はただ黙って、緑翠の側でそれを見守った。




