懸念
次の日、嘉韻が訓練場へ出ると、本日任務が振り分けられてはいないが、非番ではない軍神達がいつものように訓練に勤しんでいた。螢はいつものように刀を振っていたが、確かに少し元気がないようで、まとわりつく懸念の空気は隠しようもない。それに眉を寄せていると、嘉翔が寄ってきた。そして、小声で言った。
「…先ほど偶然行き合いまして、雑談の中で郁に話が聞けました。」
嘉韻は、ちらと嘉翔を見た。
「何と申しておった?」
嘉翔は、尚も小声で続けた。
「は。郁もあまりに元気がなさそうな様子に、昨夜戻った時に問い詰めたらしいのです。螢にはこの春頃より通う女が居ったのですが、どうやらその女が身籠ったのだとか。」
嘉韻は、眉を上げた。
「…別にあれは序列も上がって来ておって良い軍神であるし、女や子ぐらい養えようが。」
嘉翔は、頷いた。
「は。我もそのように。郁もそう言ったらしいのですが、螢は真面目であるので…婚姻を軽く考えておった、と。自分にそれが背負いきれるのか、まだ生まれるまでかなり時があるのに、思い悩んでおるのだとか。」
嘉韻は、螢へと視線をやった。確かに、あの生真面目な螢ならそう考えてもおかしくはない。
…やはり、私的なことか。
嘉韻は思ったが、その事で本人に声を掛けて元気付けるほど、螢とは近しい間柄ではない。
なので、嘉翔に言った。
「ならば良い。我らが口出しすることでもないゆえ。放って置けば良い…そのうちに、己でもそこそこやれるのだと気付くであろう。」
嘉翔は、頭を下げた。
「は。では我は戻りまする。」
嘉翔は戻ったが、嘉韻はまだ何か考えていた。
螢は、刀を振りながら、昨日の夜のことを考えていた。
昨夜は、静音が絶対に来てほしいと言うので、仕方なくまた、静音が与えられている屋敷へ向かった。ここは、静音と母親に許されている屋敷で、螢が住んでいる場所よりも小さく、部屋も三つほどしかない。
そこへ入って行くと、静音は誰も居ないのに小声で言った。
「では、こちらへ。」
螢は黙ってそれに従った。
すると、静音は寝室の方へと歩いて行き、そこで立ち止まった。螢は顔をしかめた…とても、そんな気持ちにはなれない。
「来いと申したから来てみれば。我はそんな心地ではない。」
静音は、首を振った。
「我もですわ。」と、寝台の足元の方へと足を進める。「こちらです。」
見ると、寝台の覆い布に隠れてよく見えない場所の床に、四角い1メートル四方ほどの切れ込みがあった。こんなものには、今まで気付かなかった。
「…それはなんだ?」
静音は、頷いた。
「ここから下へ降りるのです。」
静音は、確かに窓に覆い布が掛かっているのを確認し、そっとその板に手を掛けた。板は、静音の力でも簡単に持ち上がった。するとその下に、梯子が掛けられてあった。
「先に参ります。」
静音は、戸惑う螢のことなどお構いなしに下へと降りていく。
螢は、仕方なしに静音に続いて下へと降りて行った。
そこは、そこそこの広さの地下室だった。
荒削りで、崩れないように板が当ててあったが、どう見ても最初からあったものではない。
…王のご許可も得ず、こんなものを。
螢は身震いしたが、もう足を踏み入れてしまっている。
静音は、気で前を照らしながら、更に奥へと通路らしい場所へと向かって歩いて行った。
慣れた様子の静音に、螢はついてきたのを後悔しながらも後を追った。
しばらく歩くと、また広い空間に出た。するとそこには、数人の見知った神が立っていた。
「ああ、静音が言うた通り。主が来たなら、もはや心配はあるまいな。」
そう言ったのは、光希だった。
光希は、静音と同じように20年前の件で父親を亡くしていて、普段螢には口を利くこともない。恐らくは恨んでいるのだろうと、螢からも声をかけずにいたが、今相手は、まるで旧知の友のような様で話し掛けて来ている。
「…主も父上を恨んでおろうな。」
螢が言うと、光希はサッと顔色を変えた。
「そうよ。同じ理由で主のことも恨んでおったわ。だが、こうして同志になったのなら関係ない。己の父親のこと、主ならうまく誘導出来ようし。」
螢は、黙った。光希は、お構い無しにまた表情を明るくすると、後ろを振り返った。
「おおそうよ、主と同じように新顔が居ってな。つい最近に結界内に来たのだが、来てからこのかた、汐のことをやたらと見るので、何かあるのかとずっと思うておった。それで、昨日探りを入れてみると、こやつも腹に一物、持っておったのだ。主の父は、ここへ来るまで相当の悪事を働いておったのだな。」
螢は、それを聞いて眉を寄せた。ここへ来るまでなど、綺麗に真っ当に生きていた神の方が少ないだろう。汐も、生きるためにたくさんの集落を襲っていたし、略奪もした。螢は、そんな汐の仕事が終わるまで、じっと側の茂みに隠れてやり過ごしていたものだった。
その新顔の神は、まだここへ来て間もないのは、螢も知っていた。まだ学校に通っているような状態で、軍にも入ることが出来ていない。しかし、そこそこの気を持っているので、軍でもあれが上手く育ては戦力になると噂になっていたほどだったのだ。
相手は、螢に頭を下げた。
「螢殿といったか。我は、薫。数週間前に王から戴いたばかりなので、名を呼ばれてもすぐに反応せぬかもしれぬが、よろしく頼む。」
言葉遣いは、しっかりしている。外でここまでになるはずは無いので、恐らく学校で必死に学んでいるのだろう。それでもうここまでになっているという事は、この薫は頭も良いという事だ。歳は、恐らく自分より少し上ぐらいだろうか。
「主…父上に襲撃された集落に居ったとかか?」
すると、薫は顔色一つ変えずに、頷いた。
「そう。母は我を連れて逃げて生き残ったが、父は死んだ。つい最近までそこらを点々と母と共に隠れ住みながら生きておったが、月が我らを見つけて。そうして、ここへ来た。」
螢は、頷いた。そんなことがあってもおかしくないからだ。
「では、主も父上を恨んでおるのだな。」
光希が、横から言った。
「当然であろう。こやつははぐれの神の中ではマシな環境で育とうとしておったのに、主の父の襲撃で放浪生活を余儀なくされたのだ。しかも、父を殺された。恨まずでおれるのか。」
螢は、光希を睨んだ。
「主の父だって、同じようであったのではないのか。今生きてここにあったら、同じように恨んでおる神とここで出会っておったやもしれぬぞ。はぐれの神など、皆同じ。どこかを襲撃して生き延びておったからこそここにある。」
光希は、突然に顔を赤くしたかと思うと、激昂して叫んだ。
「うるさい!それでも父上は、仲間を売って己だけ助かろうなどとはしなかったわ!汐も、あの時死ぬべきだったのだ!」
後ろには、光希の他に、朔という男と、到という男も居た。皆、ここへ来てから蒼に名をつけてもらった者達ばかりだ。
静音が、眉を寄せてそれを咎めた。
「光希様。そのように大きな声で。地下は反響するので声を荒げてはならぬと言うておったのはあなた様ではありませぬか。とにかく、螢様は我らの同志となられたのです。これからの計画を、皆で詰めねば。」
光希は、そう言われて歯ぎしりしながら黙り、そうして、息を何度も吐いて、自分を落ち着かせた。そうして、懐から何かの紙を引っ張り出すと、螢に放って寄越した。
「それ。作戦の要となる物よ。」
螢は、それを受けて止めて、開いて見た。
何やら、見たこともないような、丸やら四角やら三角などで書かれた模様の中に、字のような物が変わった形で書かれてある図だった。
「…なんだ?何かの陣形の図面か?」
螢が言うと、光希はフッと笑って得意げに言った。
「苦労したわ。これは、仙術と申すものぞ。本来、宮の蔵に眠っておってどうあっても目に出来ぬものであるが、玲様と親交を深めて…主、玲様を知っておるよな。」
螢は、怪訝な顔で光希を見た。
「学校で我らに指導してくださった師であるからの。ここに居る誰もが知っておるのではないのか。」
光希は、頷いた。
「我と到、朔の三人で、玲様に分からぬことがあると、教科書を持って卒業後もよくあの執務室へと出入りした。玲様は我らに快く指導してくださって、その時に、この、仙術というものを知ったのだ。」
螢は、仙術というものを初めて知った。そんなことは、学校でも教わらなかったのだ。だが、そういえば嘉韻が何かの折に、人の仙人と言う者達の中には、面倒な術を使う者も居る、と言っていたことがある。
もしかして、それなのではないか。
「もしかして…仙人が使うという、術か?」
螢が言うと、光希は少し、顔をしかめた。螢が自分が説明する前にそれを口にしたからだ。
しかし、気を取り直して、続けた。
「そう。これを人でなく神が使うと、それなりの力になるのだそうだ。これのせいで、この月の宮も大混乱に陥ったことがあったのだとか。我は、歴史を教わるふりをして、そこの辺りを執拗に玲様に聞いた。月の宮の歴史に関わるのなら、ここを守る軍神としてしっかり知っておかねばと申して。そうしたら、玲様はとても詳しくお教えくださった。つまりこの仙術と申すもの、月の宮でも神の世でも、究極の禁忌事項なのだ。これを専門に学んでおる者以外が、これを使うことは禁じられておるのだとか。もちろん、軍神が指示されて使うには良いのだそうだ。しかし、どこかの結界を崩すとか、そういった類の術…魔法陣など、持っておるだけで捕らえられる。まして、ここ月の宮ではこれを持っていると、月の結界が検知して排除しようと自動的に動く。その魔法陣が危険なものであればあるほど、その反応は激しく、王の意思とは関係なく、命も無くなるのだと。」
螢は、思わずそれを取り落とした。持っているだけで、月の結界が検知すると?!
螢が慌てているのを見て、光希は愉快そうに笑うと、それを拾い上げた。
「怖いか?案外に肝が小さいの。」と、その魔法陣が描かれた紙をこれ見よがしに振り回した。「これはまだ、ただの紙切れよ。わざと完成させておらぬのだ。これを完成させてすぐ、相手の懐にこれを忍ばせねばならぬ。そうすれば、それは魔法陣として月の結界に検知され、そして持っている相手諸共始末される。」
螢は、見る見る目を見開いた。それはつまり…。
「まさか我に…それを、父上の懐へ忍ばせろと?!」
光希は、それを聞いて勝ち誇ったように笑った。
「そうよ!主を仲間にしたのはそういうことぞ。ここまで我らが御膳立てしてやったのだから、感謝して欲しいものよな。と言うて、まだこれは…」と、光希はその紙を手元に浮かせると、一瞬にして炎が上がり、それは燃え尽きた。「まだ、足りぬのだ。」
螢は、茫然とそれが燻って床へと落ちて行くのを見つめた。足りぬ?
「…何が足りぬのだ。」
螢が言うと、光希は睨むように螢を見た。
「危険度ぞ。今言うたように、その魔法陣の危険度に合わせて結界は反応する。この程度の危険度では、持っている相手を殺すほどの反応はせぬ。何しろ、あの穏やかな王を生んだ父である十六夜が張っておる結界ぞ。月が何よりも敵視するという、力を見つけてその仙術を練らねばならぬ。」
螢は、押し黙った。月と対極の力を持つもの…それは、学校で習ったのだ。だが、ここで光希に教えてやる謂れはない。
だが、静音が静かに言った。
「闇ですわ。」螢が、驚いて振り返る。静音は続けた。「月が何よりも嫌うもの。側にあることを許さず消してしまうもの。唯一命を奪ってでも消そうとするのだと、我は習いました。」
薫も、それを聞いているが、黙っていた。光希は、笑った。
「そう、そうだ、闇だ。闇の術…どこかで聞いた。」
すると、到がおずおずと後ろから言う。
「つい最近、闇の術のせいで皇子の新月様が大変なことになったと玲様がおっしゃっていた。」
光希は、何度も頷いた。
「そうだ、そうだった。」どうやら、光希は賢い方ではないらしい。だが続けた。「ならば、それを探せば良いのでは。」
しかし、こちらから朔が眉根を寄せて言った。
「闇はマズい。碧黎様が何より毛嫌いなさり、闇の術を作った神は、黄泉へ行くのも許さずに消してしまわれたと聞いた。他の手を考えた方が良いのではないのか。その、魔法陣を大量に作って汐に持たせるとか。」
しかし、光希はしばらく考えてから、首を振った。
「…月は甘いのだ。いくつあっても命までは取らぬはず。汐が知らぬで通せば、足がつくかもしれぬ。だが、術を持っておった本人が死んでおったら、我らまで捜査の手は伸びぬだろう。どうあっても確実に、死んでもらわねばならぬのだ!」
螢は、闇など考えてもないものを使うような、そんな術を扱うと言い出した光希に、ただ畏怖の念を感じて見ていた。
反論したかったが、しかしここでこれに逆らって殺されてしまったなら、誰がこの地下で行われている所業を知るというのだろう。
しかし、自分はそれを、密告する勇気もない。静音も共犯の今、捕まれば己の子ごと殺されてしまうだろう。
腹の子には、罪はないのだ。
それから、また今通学している最中である薫がいろいろと探るという方向で話が固まって行き、その日の話し合いは終わったのだった。