行方
兄弟なので、その気配を追って行くのは簡単だった。
だが、紫翠の方は気配を隠して、空中から追うと丸見えなので、森の中を抜けて追っていた。公明が守る中央の空を通って行くルートを取っているので、途中公明の領地内を通らなければならなかったが、公明は基本、紫翠が結界に触れると通してくれた上、自分の結界の中なので念を送って来る。
そういう時は、ちょっと通らせてくれ、とか、顔を見に来た、などと要件を言う。今夜は、こんな夜中だったので、公明は驚いたような念を送って来た。
《なんだどうした紫翠。何かあったか。》
紫翠は、頷きながら森を必死に抜けて言った。
《すまぬ、ちょっと通る。どうも定佳殿の領地の方へ行くように思うんだが。》
公明は、紫翠が何を追っているのか気取ったようで、言った。
《ああ、緑翠か?最近よく夜に我が結界の上空を飛んで行くんだが、定佳殿の宮だろう。》
紫翠は驚いた。最近よく通る?
《ちょっと待て、よく通るのか?》
公明は答えた。
《ここ数年多いがの。なんだ、主知らなかったのか。》
紫翠は、驚愕していた。ここ数年と。
《…もしかして…いや、いい。とにかくは、ちょっと我が追ってたことは緑翠には言わないでおいてほしい。また改めて話に参るから。》
公明の声は、呆れたように言った。
《まあ良い、好きにせよ。ではの。》
公明の中央の領地を抜ける。
紫翠は、そこで公明の結界を出て、定佳の領地へと入った。
定佳の領地には、結界が弱い場所があって、それは中央の領地と接している箇所だった。緑翠はそれを狙って通ったらしく、恐らく定佳は気取れていないだろうと思われた。
領地境がぴったりと接しているので、結界もぴったりと接していて、そうするとどうしても、力の強い方の結界が強くなってしまう。
つまり、公明の力で張った結界と接している定佳の結界は、弱くなっていて常に何かと接している感覚があるので、その辺りからの侵入は結構簡単だった。
そんな理由もあってか、東の方では領地と領地はくっついていないことが多く、くっついていたとしても、その辺りは見張りの軍神が多い。
西の島では見張っていることも稀なのだが、それでもうまく回っていた。
あっちこっちに侵入しようとしなくても、知った者なら勝手に入って来ていいという空気が流れているからだった。
そんな中、緑翠は上空に居たにも関わらず、スッと降りて来て、わざわざ公明との結界境から定佳の結界へと入った。
それを見た紫翠は、定佳に知らせずにここへ来ている事実と、つまりは定佳に会うために来ているわけではないという事実を知った。
紫翠も、本当なら真正面から訪ねても良かったのだが、緑翠の行き先を確かめるために、定佳に気取られずに結界を抜けることを選び、そのままついて行くことにした。
しばらく行くと、緑翠は地上に降りて、宮の軍神に気取られないよう、姿勢を低くしながら宮へと近づいて行くのが見えた。
…やはり、宮へ行くのか。
紫翠がそう思いながらついて行くと、緑翠は慣れた宮なのだろう、脇から紫翠も知らないような場所を通って、奥宮へと近付いて行く。
まさか、誰にも気取られないように、定佳殿と会っておるとか…?
立場があるので、あり得ないことではない。
だが、それならばわざわざ降りて来て結界境を抜けたのは解せなかった。
紫翠は、まだ自分の気が成人にまで満ちていないことに感謝しながら、しっかりと気配を隠しながら、十数メートル先を行く緑翠の背を追った。緑翠は、見ていると奥でも北の方へと進んで行くようだった。
定佳様の部屋は、南の端のはず。
紫翠は、つまりはやはり定佳に会いに来たのではないのだと思った。
緑翠が周りを伺う。紫翠は、身を低くして立ち止り、じっとそれを見ていると、緑翠はサッと、脇の窓から中へと入って行った。
…なぜに、後宮に。
紫翠は、怪訝に思った。もし、定佳の妃に懸想していたとしたら…?だが、定佳はそもそも妃などには興味はないはずなのだ。ならば、次にここの王となる緑翠が娶ると言えば、あっさりと許されるはず。
わけが分からないまま、紫翠は中を伺った。
そこには、それなりに上品な女が居た。
とはいえ、その目を見るとその女の性質が分かった。何やら暗い色を含んでいて、それでいて笑っているので、まるでちぐはぐな様が不気味で、狡猾な雰囲気を醸し出していた。
その女に、緑翠は言った。
「千歳殿。」
千歳という女は、それは嬉しそうに言った。
「緑翠様。お早いお越しですこと。それで、炎月様は?こちらへ来られますの?」
緑翠は、首を振った。
「いいや。明日は兄上と宮で過ごして夕刻には鳥の宮へ帰るようなことを聞いた。宴の席でこちらの話を振ろうと話しかけたが、あちらは我など歯牙にもかけぬ様子でな。」
千歳は、見る見る激高したような醜い顔になった。あまりの醜さと気に、吐き気をもよおしそうになった紫翠だったが、何とか堪えてそのまま見ていると、女は言った。
「頼りにならぬ!我がここから出るためには、鳥の宮へ参るよりないと申したではないの!あなたは、我をここから出してくれると申したのではないの?!それでなくとも、父上は離縁されるゆえおとなしくしておれと申して来たというのに…このまま、こんな場所で安心しておられませぬ!」
すると、奥からあまり良い着物とは言えない着物に身を包んだ、そう、侍従のような着物を着た男が入って来て、言った。
「千歳様、お声が高うございますよ。王に見つかったら、それこそ元の木阿弥でありまする。」と、緑翠を見た。「始めから、緑翠様などあてにしてはおりませなんだ。炎月様は鳥の宮の跡取りの皇子。たかが第二皇子と対等にお話にはなりますまい。しかし、千歳様がおっしゃるように、炎嘉様に縁付くためには、炎月様に取り入るのが一番の近道。こちらへ炎月様をお呼びして、千歳様とご交流されるためには、どうしても地位のあるかたのお力添えが必要です。」
緑翠は、その男を睨んだ。
「うるさいぞ、凪。地位がどうのと申すなら主には何もできぬだろうが。侍従如きが。」
凪と呼ばれた男は、クックと笑って慇懃丁寧に頭を下げた。
「これはこれは、失礼を申しました。さりとて、我はあなた様に文句も言いたくなるのですよ。」と、手をブンと振った。「このような鼠まで連れて来られたとあっては。」
「!!」
紫翠は、何かの力が自分を掴むのを感じた。
速い…!気の流れが見えなかった…!
紫翠は、首を何かに締め上げられるような感覚と共に、身動きが取れなくなった。
そのまま、グイとその力に引っ張られて、どうと部屋の中へと飛び込み、床へと転がった。
「…?兄上?!」
緑翠が、驚いて叫ぶ。凪は、足元でもがく紫翠を、手から出した気の綱のようなもので押さえつけて引き、クックと笑った。
「第一皇子とはいえまだこのように未熟とあっては…父王もご心配であろうに。」
紫翠は、凪という男を睨みつけた。
「主…!侍従、ではない…な…!」
この力。
いくらまだ気が満ちていないとはいえ、紫翠は軍神と立ち合う力ぐらいはあった。それなりの技術もある。だが、この凪はその紫翠より遥かに速かった。
「これは紫翠様…?!凪、何をしておるの、やめなさい!翠明様が出て来られたら、我らただでは済まぬのよ!」
千歳が、慌てて凪を止めようとしたが、凪はサッと手を振ると、千歳は吹き飛んで壁に叩きつけられ、床へと落ちた。何が起こったのか分からず、ブルブルと痙攣するように動く千歳を、凪はフンと鼻で笑った。
「愚かな女。侍従などの甘言に乗り、己の利だけしか考えぬ誠に性質の悪い女。定佳様のお気持ちも分かるわ。こんな女なら我なら一日でも我慢は出来ぬ。さして美しくもない癖に、己の価値がどれほどだと思うておるのかの。」
千歳は、意識がある上、それを聞きながらも恐怖で起き上がることも出来ないようだった。
緑翠は、凪を睨んだ。
「兄上を放せ!無礼であるぞ!」
凪は、楽し気にチラと緑翠を見ると、言った。
「この数年、この女の言葉に乗せられてこの宮からこの女を出そうと励んでおったことをお話になるのか?王の定佳様に知らせずここへ潜んでいらしたことを?そうしてこの女の言葉に騙されて炎月様をこちらへ連れて来ようとしたことを?炎嘉様に縁付けるために努めておったことを?この女の派手で無礼な所業の入れ知恵をしておったことを?のう緑翠様よ。この宮に迷惑をかけて定佳様から離縁を言い渡されて、一斎様が炎嘉様に泣きついて、炎月様からの申し入れで、今度こそこの女を宮へ入れるだろうと謀っておったことを?さあ、どうなのだ緑翠様よ。定佳様はそれを知ってなんと申されるか。あなた様は定佳様に疎まれ蔑まれる未来を選ばれるのか?」
紫翠は、必死に霞んで来る目で緑翠を見た。そんなことを…そんなことをしておったのか。
「緑…翠…!」
凪は、その声に紫翠を見た。緑翠は、凪の言葉にショックを受けたような顔をして、下を向いている。凪は、言った。
「…とはいえ、紫翠様には帰ってもらうわけにはいかぬようになり申したな。我には、愚かな女と第二皇子のためなどにここへ来たのではないゆえ。」と、力を込めた。「だかまあ、まだ利用する価値はある。まさかの時のため、生かしては置いて差し上げましょうぞ、紫翠様。」
紫翠は、背を反らした。
「ぐ…!」
意識が遠くなる。
紫翠は、必死に抵抗しようとしたが、その場にぐったりと気を失って手足を投げ出し、動かなくなった。緑翠が、慌てて紫翠に駆け寄った。
「兄上!兄う…ぐ、」
「黙らぬか。」凪が、さっきまでと同じ男とは思えないほど、鋭い目で緑翠の口を塞いで言った。「言うたはず。我と主は同罪よ。このまま、父王に助けを求めるか?己の数年に渡る悪事を暴露し、神世に告示し、定佳に疎まれるしかないのに?案じぬでも、紫翠は死んでおらぬ。我らが生き残る道は、この皇子の命に懸かって来るかもしれぬからな。気を遮断する膜の中に入れ、しばらく隠しておく。今は殺さずで置いてやろう。主は戻るのだ…何食わぬ顔をしての。炎月を、ここへ来させよ。何をしても良い、ここへ滞在させるように仕向けるのだ。紫翠は、それで帰してやろう。後は、主次第よ。兄と交渉してこのことを黙っておいてもらうなり、殺して口封じするなり、なんとでもするが良い。」
緑翠は、もはや軍神であることを隠すことも無いような凪の態度に、身震いした。このままでは、兄は殺される。自分のせいで…だが、炎月さえここへ連れて来れたら、兄は助かるのだ。
「…炎月がここへ来れば良いのだな。」
凪は、頷いた。
「そう。この女に会えばどうかとか、定佳にも挨拶をとか、なんとでもなろう。兄を取り戻したければ、炎月を連れて来い。」
千歳は、もはやブルブルと部屋の隅でしゃがみ込んで震えている。
これだけ騒いでいるのに誰も来ないのは、ここがいつも、千歳が気が触れたように叫んだり騒ぐので、またそれだと思われているからだろうと思われた。
緑翠は、じっと動かない紫翠の顔を見て、頷いた。
「…わかった。我の言うことなど聞かぬ皇子だが、やってみる。」
緑翠は、そう言ってそこをまた飛び立った。
凪は、それを見送って、ニタリと不敵な笑いを浮かべた。数年掛けた甲斐があったものよ…遂に、あの炎嘉の泣き所を手にすることが出来ようぞ。