探り
紫翠は、炎月が山のように持って来た政務に関する質問を、一つ一つ処理するのを手伝った。
もっとも、それは炎月に課せられたものではなく、政務をしている父王の後ろで見ていて、疑問を感じた事や、父が選んだ他の方法はどういったものなのかとか、そういった炎月の純粋な興味だった。
炎月が知りたいと思うことは、何もかも実際の政務を執っている中で自分ならどう判断するかと考えるような、その材料を得たいというような、王になった後すぐに役に立つようなことばかりだった。
王座に就いた後、自分が困らないようにと思っているのがその考えに透けて見えて、紫翠は感心していた。
自分も勉強家だと思っていたし、公明もそれはできる幼い王だと思っていたが、炎月はさらに強かで、狡猾な所も併せ持っているように思えた。
紫翠と話し合って得た自分なりの答えを、サラサラと筆で記している炎月をじっとそんなことを考えながら見ていた紫翠だったが、ふと、炎月が顔を上げたのに気が付いた。
「どうした?」
紫翠が言うと、炎月は筆を置いた。
「そろそろ、宴の時刻。残りは終わってからで良いか。それとも、主が眠いと申すなら明日でも良いがの。」
まるで年上のような様だ。紫翠は、頷いた。
「終わってからで良い。だが、主こそ良いのか?その歳では気の補充がままならぬだろう。鷹の宮では立ち合いなどして参ったのでは。」
炎月は、首を振った。
「いや、我は大丈夫だ。父上に方法を教えてもろうたのもだが、母上からもの。我は少し、変わった気を持ち合わせておるので、寝ておらぬでも補充が間に合わぬということは無い。」
紫翠は、首を傾げた。
「ほう?まあ、母のことは聞かぬようにと言われておるし、良いが。では、宴の席へ。着替えはどうする?」
炎月は、立ち上がった。
「嘉張が居るゆえ、持って参った。先に行っておいてくれぬか。支度を済ませて参るゆえ。」
紫翠は、頷いて自分も着物を換えねばと、立ち上がった。
「ならば大広間で。侍女に案内させる。また後程の。」
炎月は頷いて、持って来た筆も書もそのままに、侍女に伴われて客間の方へと出て行った。
そっと炎月が書いていた書に目をやると、そこには自分にはない、華やかで大振りな字があった。
…炎月は、書の腕も上げている。
紫翠は、炎月の秀才ぶりに、思わず舌を巻いた。これは、敵わない。恐らくは、炎月は育った後は自分では太刀打ちできない王になる…。
紫翠は、自分より20も年下の炎月に、恐れを感じた。
宴の席には、まだ父の姿は無かった。
緑翠は来ていてもう、上座に座っている。紫翠は、その緑翠の隣に座った。臣下達も、今か今かと待っているようだ。
そうしていると、翠明が綾と共に入って来た。
その隣には、深紅の衣装に身を包んだ、炎月が綾と談笑しながら歩いていた。
紫翠と緑翠が立ち上がってそれを迎えると、翠明が言った。
「待たせたの、皆よ。では、本日は鳥の宮第一皇子炎月殿を歓迎して、皆大いに飲むが良い。では、炎月殿。」
炎月は、頷いて進み出た。背後には、嘉張が離れて膝をついて、炎月の様子を見ている。炎月は、シンと静まり返ったその中で、口を開いた。
「本日はこのような宴を開いて頂き、誠に感謝する。翠明殿には我が父上もご信頼申し上げており、翠明殿がこちらを治めておる手腕には感服する限りと申しておった。我が宮も神世に復帰したばかり、この西の島筆頭の宮には敵わぬやもしれぬが、皆も気軽に訪ねてもらいたい。此度訪問させてもらった御礼として、我が宮からも酒を持って参った。楽しんでもらえたらと思う。」
思わず知らず、臣下達は炎月に頭を下げていた。炎月は、とてもこの体には見合わないしっかりとした口調で、堂々とした様で挨拶を終えた。
翠明は、そのおおよそ10歳とは思えない様子に内心驚いたものの、言った。
「では、皆で寛ぐが良い。」
そうして、座った。
綾も、その斜め後ろに着席し、炎月も紫翠と翠明の間に座った。臣下達が談笑し始めたのを見て、翠明は言った。
「誠にしっかりとした口上、炎嘉殿はよほど主をしっかりと育てておるようぞ。主の歳でそのように物怖じもせぬのを、我は初めて見たやもしれぬ。いったい、幾人の皇子がそのようなことが出来ることか。」
炎月は、目の前に置かれた茶を口にしながら、にっこりと懐っこく微笑んだ。
「我など父上には及びもしませぬ。あの父の背を追うかと思うと、今から幾日精進せねばならぬことかと。」
なるほどこうして見ると、やはり子供なのだ。
翠明は、そう思った。紫翠と並んだ様子は、やはり幼く愛らしい皇子でしかない。綾が、背後から声をかけた。
「炎月殿。」炎月は、振り返った。綾は続けた。「誠になんと愛らしいこと。我ら鷲の種族の様と似ておって、我は親しみを感じまするわ。燐は我に似申したのであのようですが、焔様と通じるところがあるような。燐が大変に可愛がっておったと聞いておりまするが、それも道理かと。」
炎月は、屈託ない笑顔で綾に応えた。
「鷲と鷹、鳥は元は同じ種族より分化したのだと聞いておりまする。綾殿のように美しいかたにそのようにおっしゃって頂いて、我は鳥で良かったと思いまする。」
その言いようは、子供のそれだった。綾はその、それは愛らしい顔立ちから発しられる言葉に、身悶えするほど愛らしさを感じたらしい。
「まああああ。ほんに良い子に恵まれて炎嘉様には大変にご幸運であられること…。」
綾は、思わず炎月の頭を撫でていた。紫翠が、横から言った。
「しかし炎月は大変に勉強家で、それは賢しい神であるのです、母上。そのように子供扱いなさっては。」
綾は、ハッとして慌てて手を引っ込めた。
「まあ、我はなんと不躾なことを。申し訳ありませぬ。」
しかし、炎月は微笑んで首を振った。
「ついぞ頭など撫でられておりませなんだ。母とは離れておるので…綾殿のように、大変な貴婦人であられるのです。母を思い出して、懐かしく思います。」
綾は、今度は涙ぐんだ。
「まあ、このように愛らしいお子と離れておらねばならぬとは。母君の御心も案じられますこと…。」
綾も、紫翠が政敵の犠牲になってはと、龍の宮へ預けた事もあったのだ。その時のことを思うと、未だに案じられてならなかった。しかし、維月が紫翠を大切に育て、こちらへ毎日文を送ってくれた。だからこそ、綾は幾分安心していられたのだ。
「ここへいらしている時は、我を母と思うてくれて良いのですよ。我も龍王妃様に紫翠をお預けした時があり申した。我だって、誰かの母の代わりはできまするから。」
龍王妃、と聞いて、少し驚いた顔をした炎月だったが、笑って頷いた。
「はい。お気遣い、ありがとうございます。」
綾は、慈愛に満ちた母の目で炎月を見ていた。紫翠は、言った。
「して?緑翠は鳥の宮に興味があるようだったが、炎月に何を聞こうと思うておるのだ。」
緑翠は、紫翠に言われて頷いて、炎月を見た。
「鳥の宮では、御父上の炎嘉様が精力的にご統治なさっておって、復帰したばかりであるのに落ち着いた様であるとか。宮の建物は白い大理石造りであると聞いたことがあり申す。それは美しい建物であろうなと、一度見てみたいものと思うておりまする。」
そんな風に思っていたのか。
翠明の紫翠も知らないことだったが、炎月は口元に笑みを湛えたまま、頷いた。
「確かに我が宮は大理石造りであるが、しかし総大理石であったのは滅ぶ前までのことで。只今は旧龍南の砦を立て直した場所だけが大理石で、元のままの場所もあるのだ。龍が立てる建物は、同じ石を使っておるのでブルーグレーなので、見ればすぐに分かるのだがの。」
緑翠は、興味深げに頷いた。
「鳥特有の止まり木などもあるのだとか。我は鷹の宮も鷲の宮も訪れたことがないので、鳥という種族がどういった生活をしているのかと思うており申した。」
炎月は、それにもすらすらと答えた。
「止まり木は確かにそこかしこにあるが、鷹の宮には無かったように思うの。あの宮は、先代の王がこもるために作ったとかで、天井が鷲や鳥の宮よりも低いのだ。鷲の宮は天井がドーム状に高いのであったがな。」
それには、綾が頷いた。
「我は幼い頃よりあの宮で過ごしましたが、幼い頃はよう、大広間の止まり木で遊んで乳母に叱られ申した。懐かしいこと。」
扇で口を押えて微笑んでいる。炎月は、頷いた。
「鷲の宮は大広間も天井が高くてつい、飛んでみたくなり申す。我も連れて参ってもらった時には、遊び回っておりました。」
また話が綾の方へ行きそうだったからか、緑翠は身を乗り出して言った。
「それで、御父上はどういったかたなのでしょうか。炎嘉様というと、前世龍王と共に世を太平に導いた歴代最強の王なのだと聞いておりまする。お姿は炎月殿に似てお美しいと。しかし、炎嘉様は決して妃を娶られないとか…。前世は、21人もの妃を持っていらしたと聞いておるのに。」
炎月は、軽く片眉を上げた。紫翠が、咎めるように言った。
「不躾であるぞ、緑翠。そういった内向きのことは、聞かぬのが礼儀というもの。前世炎嘉殿がどういった王であられたかは、歴史書に書かれておるからそれを読んでから分からぬところを聞くが良い。主は…」
炎月は、手を上げて紫翠を制した。そして、紫翠が黙ると、微笑みながら言った。
「…父上の事を、最強の王と敬ってくださって嬉しい限りよ。だが、我とて今生の父上のもとに生まれたので、前世の事まではまだお話を聞いておらぬで。申し訳ないの。それで…妃のことであるが。」と、そこもまだ、微笑んだまま続けた。「父上次第だと思うておるゆえ。我だってどうするか分からぬし…確かに、主の母上のような、非の打ちどころの無いかたが現れたら考えぬでもないが、それどころでないであろうなと思う。父上は、宮を立て直さねばならぬ。そのように、浮ついたことを常、考えていらっしゃるほど、愚かな王ではあられないしの。」
緑翠は、それを聞いてぐっ、と黙った。炎月は、あの復活したばかりの宮の王は、婚姻だの妃だのとそんなことを考えている場合ではないと言ったのだ。そんなことばかり考えている王は、愚かだと。
それは、遠回しにこんなことをわざわざ持ち出して来る緑翠に対しての、嫌味のようなものだったかもしれない。
皇子のくせに愚かだの、と、炎月に言われたような気がしたのだ。
紫翠も翠明も、その言外の意味がそうではないかと思ってはいたが、表面上炎月は、機嫌よく返しているので、文言だけを聞いていたら、何の罪もないような感じだった。
現に、綾は全く気付いては居ない。ニコニコと愛想の良い愛らしい炎月、というイメージであるようだ。
その後、紫翠が話題を変えてしばらく宴席で話を続けていたが、酒盛りを続ける臣下達をしり目に、子供であるという理由で、炎月は紫翠を誘い、その場を辞して行ったのだった。




