思惑
「なんと申した?離縁?」
義心は、頷いた。
「は。どうやら定佳様がというより、臣下が根を上げてということらしいのですが、そのような話になっておるようでございます。」
維心は、息をついて額に手をやった。
「まあのう…前に主に聞いておったことからしたら、よう我慢した方であろうな。しかしそれなら一斎はどうしておる。あれは立ちどころに宮が回らぬようになって困るのではないのか。」
義心は、顔を上げた。
「は。炎嘉様に書状を遣わせて定佳様を説得して頂けるようにとお頼みになったようですが、炎嘉様は千歳様の方を何とかせよと一斎様を突き放されたのだとか。」
維心は、頷いた。
「さもあろう。炎嘉にしたら己が勧めた婚姻で定佳に迷惑をかけておるのだから、そんなことを言える筋ではない。しかし、父王が諫めておとなしくなるような女なら、このような面倒は起こすまいし、離縁も時間の問題であろうな。仕方がないと我は思うが。」
義心は、維心をじっと見上げて、言った。
「王…しかし我は、気になることを気取りましてございます。」
維心は、ふうと息をつくと、手を額から下した。
「申せ。」
義心は、続けた。
「は。定佳様の結界は、そう強いものではなく、我でも気取られずに出入りできるほどでございます。恐らくは東の神や少し気が強い神ならば、あっさりと入り込むことが出来ようかと。ただ、他の神がそれをしないのは定佳様の宮を襲えば、翠明様が出て参ってあっさりと始末されてしまうから。つまりはあちらの宮へ侵入しようと思う輩は、領地がどうのという考えではないと思われまする。」
維心は、面倒そうに手を振った。
「わかっておるわ。して?」
義心は、頷いた。
「つまりは、それでも入って来るということは、それ以外の用があるということ。…定佳様は気取られておりませぬが、外の神が後宮へ侵入しておりまする。」
維心は、鋭い目を向けた。
「…誰ぞ。」
義心は、じっと維心を見つめながら、言った。
「緑翠様でございまする。」
維心は、ぐっと眉を寄せた。
これは面倒なことになっているのでは。
維心はうんざりした。
そうして、義心を再び偵察に行かせた後、維心は居間でじっと考え込んでいた。本来他神の宮の中のことなど知らないが、しかしそれがもしこちらへ飛び火して来たらと思うと、警戒しておくに越したことはない。
しかし、緑翠がいったい何を考えて後宮などに。
維心は、解せなかった。緑翠は、義心が調べて来たところによると、定佳を想っていたはずだ。この7年、千歳が輿入れしてこのかた翠明のもとへと戻り、そこでおとなしくしているはずだった。
まさか緑翠が今さら千歳を想ってのことだとは思えない。それなら定佳の性癖を知っている緑翠なのだから、正面から堂々とそれを告げて訪ねれば、恐らく難なく関係を許してくれただろう。
ならばなぜ、定佳に隠れて後宮などへ入るのだ。いったい何を考えている。
もしや誰かに利用されたりしては居ないかと考えると、維心はますます眉根を寄せて険しい顔をした。全くなぜに、あちこち面倒ばかりを起こしてくれるのだ。
義心が何か掴んでくることを願うより他ないのだが、義心にはいろいろ複雑な思いがあった。しかし、義心以上に維心の思うように動く軍神は居ないし、義心は自分が期待した以上のことを調べて来ては、自分の判断を助ける男だった。維月が産んだのは炎嘉の子であるし、もうそろそろ義心のことをどうのとわだかまっているのもやめなければならないのだが、未だにどうしても維月と義心のことが頭を過ぎり、イライラするのを止められなかった。
とはいえ、直後の頃よりは、少しは収まって来たのもまた確かだった。
「義心が二人居れば…しかしそうなると、案じることも二倍になるか…。」
維心は一人でそんなことをつぶやきながらも、懸念の材料が尽きないことに頭を痛めていた。
炎月は、嘉張に共をされて、鷹の宮を訪れていた。
鷹の宮は、月の宮に居た時から度々出かけていた場所なので、勝手は知っている。箔真が、炎月と共に訓練場から引き揚げて来ながら、ため息をついた。
「主、誠に我と同い年か?なぜにそのように修練出来ておるのよ。体も我より格段に大きいし、我は自身が無くなった。兄上にだって結構な良い試合であったわ。」
炎月は、ハッハと笑った。
「だが、結局は負けたではないか。主の兄上の箔炎殿はなかなかの使い手であるわ。」
箔真は、おもしろくない顔をした。
「兄上は我らよりお年上であるゆえ。主が思いもかけず強いゆえ、兄上のお顔が強張っておったわ。もしかするやもと我は固唾をのんでおった。」
炎月は、それは楽しそうに言った。
「主の兄上は、まだ真っ直ぐに戦うことしか知らぬから。我だって少し前まではそうであったが、父上がそれでは自分より力が上の者と戦う時には最初から負けておると申して…いろいろとの。教えてもろうた。」
箔真は、歩きながら炎月の前へと回り込んで言った。
「何を教えてもろうたのだ?!そういえば炎嘉殿といえば、あの龍王と渡り合うことの出来る唯一の闘神だったと聞いている。何か必殺技でも?!」
炎月は、呆れたように箔真を押しのけると、また歩き出した。
「あのなあ、我が本日いつそんなものを出したのよ。ではなくて、心持よな。少しは曲がってみよということぞ。ま、また立ち合おうぞ。主もそのうちにわかるようになろう。」
箔真は、ふーんと不貞腐れた顔をした。
「まあ、これからも共に精進して参るのだから。そのうちに主の技も知れようしな。」と、パッと表情を変えた。「ところで、本日はどうする?泊まって参れるのだろう?炎嘉様は滞在を許してくださったのではないのか。父上は良いと申しておった。」
それには、炎月は困ったように笑って、首を振った。
「それがそうも行かぬのだ。ここから翠明殿の宮が近いので、そちらへ行って紫翠殿と目通りを。月の宮に居た頃から明蓮と共によう我に学問を教えてくれたのよ。挨拶をすると約したゆえな。夕刻こちらから行くと伝えてあるので、あちらでは宴の準備をしてお待ちくださっておるのだ。参らねば。」
箔真は、おもしろく無さそうな顔をした。
「主も忙しいよの。鳥の宮へ帰ったら近いゆえ良いと思うておったのに、主は跡取りであるからやることが多すぎる。」
炎月は、箔真の肩を叩いた。
「また主の方から鳥の宮へ参れ。暇だと申しておったではないか。あちらで数日滞在したら、我だって政務の合間に会えるし話が出来よう。」
箔真は、仕方なく頷いた。自分は第二皇子でそれほど忙しくはないが、第一皇子の兄の箔炎が常にあっちこっち父王について回っていて、跡取りがどれほどに忙しいのか見て知っていた。
なので、それ以上無理は言わなかった。
「…わかった。では次は我の方がそちらへ行こう。父上に申し上げて、お許しを頂くゆえ。待っておれ。」
炎月は、微笑んで頷いた。
「おお、待っておる。ではの、箔真。」
そうして、炎月は嘉張と共に、翠明の宮へと向けて飛び立って行った。
翠明は、紫翠と緑翠と共に炎月の到着を待っていた。
紫翠の交友関係は広く、明蓮と公明とは一番に仲が良いみたいだったが、月の宮へも出かけるようになってからは、そこを訪れる神達ともいつの間にか懇意になって、そこで育てられていた炎月とも、炎月の世話をしていた維織や燐とも親しく話すようになったらしい。
その繋がりで、焔も紫翠とは話すのだそうだ。燐とは元々異父兄弟になるので、面識はあったのだが、まだ小さい頃のことだったで、実際に親しくなったのは月の宮でのことのようだった。
そんなこんなで、今では翠明よりも紫翠の方が、顔は広いかもしれなかった。確かに面識がある神の多さからいえば翠明の方が圧倒的に多かったが、親しくというとそう居ない。会合で顔を合わせるだけで、親しく話す機会などあまりないからだった。
炎月が結界を通ったのを感じたので、もうそろそろのはずだ。
紫翠がじっと待っているのは分かるが、緑翠は別に親しくはないはずだった。
しかし、炎月が来るというと、自分も会っておきたい、と緑翠が言うので、一緒に待っていることを許した。
緑翠は、7年前に定佳からの知らせでここへ帰されてから、特に何も話すこともなく、ただ黙々と兄の手助けだけをして、毎日を過ごしていた。
体の大きさは、あの時点では紫翠の方が細身で小さいイメージだったが、今では紫翠も育って体格は同じぐらいだ。
心の中で何を思っているのか皆目分からないので、綾にもどうしているのかと聞いてみたいが、綾にも何も言わないらしく、ただ黙って、前よりも暗いイメージになったと案じていた。
確かに、最近では何を考えているのか全く分からなかった。定佳が千歳という妃があまりに宮で好き勝手しているので、離縁も考えているという知らせが来た時も、緑翠は特に何も言わなかった。定佳から聞いたところによると、かなりこっぴどく緑翠を突き放したようだったので、もう定佳のことを想っていないのかもしれない。それでも、少しは反応があっても良いものを。
前までの緑翠なら、素直でなんでも相談をしてくれた。それに、自分や兄を敬っていて、こちらが問うことに黙り込んだりしなかった。
なのに、今は寡黙だし何を聞いても答えは淡々としたものだった。紫翠とも、あれほどに仲の良い兄弟だったのに、今では立ち合いをしたとしても、さっさと部屋へ帰ってしまうのだと紫翠は言っていた。
翠明は、そんな緑翠に不安を感じていた。
そんなことを考えている間に、炎月が嘉張と共に降り立った。翠明は、炎月を見るのは初めてだったが、まさに炎嘉を小さくしたような感じで、そっくりな様に驚いた。本当に、炎嘉そのもののように見えたのだ。
「翠明殿。初めてお目にかかる。我が鳥の宮皇子、炎月。紫翠殿とは幼い頃よりの友で。」
にこやかに華やかに、物怖じする様子もなく翠明の前に出た炎月に、翠明は思わず頭を下げそうになって、慌てて言った。
「炎月殿。話には聞いておったが、炎嘉殿にそっくりで驚いた。紫翠と仲良くしてもらっておるようで、こちらもうれしい限りよ。」と、黙って立っている、緑翠の方を見た。「そちらは、第二皇子の緑翠。主には初めてであるな。」
炎月は、緑翠を見た。緑翠は、軽く会釈した。
「炎月殿。初めてお目にかかりまする。」
炎月は、微笑んで会釈を返した。
「おお、紫翠殿から話は聞いておった。我もお会いできて嬉しい。緑翠殿、これからもよろしく頼む。」
炎月は、明らかにまだ小さな体だったが、自分の立場というものをよく理解していた。鳥の宮は最高位の宮で、そこの第一皇子の炎月は、跡を取るのでこの、翠明の宮の第二皇子よりずっと高い地位なのだ。
「炎月殿、兄上とはよくご交流をなさっておいでのようですが、我も鳥の宮のお話など聞いてみたいものと思うておりました。本日は同席させて頂いてもよろしいか。」
緑翠が、そう言う。思いもかけない社交的な言葉が緑翠から出て来たので、紫翠も翠明も驚いていると、炎月は、笑って答えた。
「我が宮に興味を持って頂いて嬉しいの。宴の席では同席なさるのではないか?何でも聞いてもらえれば良い。」と、紫翠を見た。「紫翠、聞きたいことがあって参ったのだ。龍の宮には諸事情があって参れないので、明蓮に直接聞きに参ることが出来ぬでな。主でも知っておったらと思うて。宴の前に少し良いか。」
紫翠は、自分より幼い炎月だったが、かなり頭がいいのは知っていたので、頷いた。
「我で良ければ。」と、翠明を見た。「父上、宴は日が沈んでからでありましたな?少し失礼致します。」
翠明は、相変わらず勉学に貪欲だなと思いながらも、頷いた。
「ああ、まだ時間はある。しかし、遅れぬようにな。」
炎月は、翠明に会釈した。
「もちろん、楽しみにしており申す。」と、緑翠を見た。「緑翠殿も、宴の席での。」
そうして、炎月は紫翠と共に、宮の中を歩いて行った。
その背を見送りながら、翠明は、さすがに最高位の宮の第一皇子、あの歳でもう肝も据わっているし、抜け目ない。他の宮でどう自分が振る舞うべきかを知っている、と思っていた。
炎嘉にそっくりのあの茶色いが紅い瞳は、着いた途端、値踏みするように翠明と緑翠のことを一瞬だけ見た。
そのすぐ後には、あのなつっこく美しい顔で笑っていたが、しかしその炎嘉そっくりの顔は、翠明に油断するな、と警告した。あの炎嘉も、側近くに行くようになって話を聞いていると、確かに龍王よりはとっつきやすくこちらの話もよく聞いてくれるが、腹の底では何を考えているのか分からない。それを知ったのも、警戒心が皆無な愚かな王が、炎嘉の前で失言をして、それまで穏やかに笑っていた炎嘉の顔が、一瞬で変化して、始末されてしまったのを見たからだ。
後で聞いたが、龍王と話し合い、その神に当たりをつけて、叛意の或る無しを炎嘉が探っていたらしい。
なので、あのなつっこい様を見ると、翠明は本能的に気を付けなければ、と思うのだ。
とにかくは、炎月と紫翠が仲が良いのはいいことだ。
翠明はそう思いながら、宴に出る支度をするために部屋へと引き上げた。
緑翠が紫翠と炎月の去った先を、僅かに睨むように見ていたような気がした。




