月の宮では
龍の宮の七夕祭りに出ていた蒼が、予定通りに帰って来た。
共は明人で、あちらで子の明輪と孫の明蓮に会って来たらしい。
嘉韻は、ここのところ忙しくて帰って来ない維月が心配だったが、表面上はそれを出さないようにしていた。維月との間の子である嘉翔は、今では立派に成人した姿になって、嘉韻を助けてくれていた。
次を任せるにはまだまだだったが、それでも嘉翔が居ることで、嘉韻の負担は格段に少なくなっていた。何しろ、嘉翔は月の力を少し使えるのだ。陰の月が少し混じっている龍なので、見ようと思えばじっと月を見ていれば、なんとなく広域を見ることも出来る。なので、急いでいる時などは嘉翔に言えば大体の状況は見てくれる。自分の息子ながら、月とはなんと便利なのだろうと嘉韻は思い、嘉翔を育てて、自分の老いが来た時も、王の手助けが滞りなく出来るように、努めて行こうと思っていた。
嘉韻が、非番の時間に王から与えられた宿舎の大きな最上階の部屋で寛いでいると、嘉翔の声がした。
「父上。よろしいでしょうか。」
嘉韻は、見ていた書から顔を上げた。
「良い。入れ。」
扉が開き、嘉翔が入って来た。見れば見るほど、自分でもこの息子が自分そっくりの姿であるのに驚く。嘉翔は、側まで歩いて来ると、テーブル越しに頭を下げた。
「書見の最中であられましたか。」
嘉韻は、首を振った。
「良い。何用よ。」
嘉翔は顔を上げて、何かを懸念しているような顔で、言った。
「はい。かねてより、王から何か変わったことがあれば知らせよと命じられておりましたが、我は、気がついたことがありまして。」
嘉韻は、眉を上げた。自分も同じように命じられているので、常々見ていたのだが、それには気付かなかったのだ。
「…気付かなかった。いつ気付いた?」
嘉翔は、頷いた。
「は、本日でございます。昨日までは確かに変わりませんでしたが、本日父上が居られぬ間に。今朝、王がお帰りになった際にお迎えに参る軍神をつれて結界へと向かったのですが、その時の軍神の一人の顔色が、明らかに悪かったのです。」
嘉韻は、鋭い目を向けた。
「誰ぞ?」
嘉翔は、嘉韻を真っ直ぐに見て、答えた。
「螢。はぐれの神の息子で、真面目に仕えておる神でありまする。」
嘉韻は、考え込むように顎に手を当てた。螢は、弟の郁と共にそれは真面目に仕えているはぐれの神の息子だった。あれらの蒼を敬う気持ちに、嘘はない。それは、嘉韻も毎日見回っていて分かっていた。
「…具合が悪いのではなく?」
嘉韻が言うと、嘉翔は首を振った。
「我もそのように。ですが、本人の体調には問題がないようで…どうも、精神的に何かを案じておるように感じました。問うても何でもないと答えるだけで、詳しい話は聞けませなんだ。それで、20年前の事件のこともありまするし、父親の汐の事も、密かに探って参ったのですが…。」
嘉韻は、頷いた。自分もそうしただろうし、それが知りたかったからだ。
「どうであった。」
嘉翔は、息をついて首を振った。
「何も。あれは真面目に淡々と働いており申した。気に乱れはなく、螢のように何かを案じているという感じでもない。己に課せられた任務が終わると、真っ直ぐに屋敷へと帰っておりました。誠に真面目な働きぶりで、何かを策しておるようにはとても見えませぬ。」
嘉韻は、うむ、と考え込んだ。
「ならば…恐らく別の何かか。軍神の個人的なことまで我らは調べることなどないが、しかし螢の動向は調べておかねばならぬの。あれがどうの無くとも、あれの回りの誰かが、何かを策しておる可能性はある。昨日我が見た時には、あれは通常と変わらぬ様子であったし、今朝からと申すなら、昨日あれが任務を離れてから何かがあったということであろう。」と、まだ考えながら、続けた。「…しかし、主が動いてはならぬ。表面上、気にしておらぬふりをするのだ。何かが起こっておるとして、我ら高位の軍神が動けば目立って相手に気取られる。そうよな…あやつにするか。」
嘉翔は、首を傾げた。
「誰に命じましょうか?」
嘉韻は、立ち上がった。
「非番だ何だと言うてられぬわ。まあ、ただの私的な諍いなどを気に病んでおるだけかもしれぬのだ。我が、先に王にご報告して参る。後は我が指示しておくゆえ、主はあくまでも通常通り、螢の事も気にして居らぬ風で扱うようにの。」
嘉翔は、頭を下げた。
「は!」
そうして、嘉翔は出て行った。
嘉韻は、それを見送ってから、宮へと参上するために着物を着換え、そうして蒼の下へと向かったのだった。
蒼は、居間で十六夜と話していた。
十六夜は、今回七夕祭りに行くのは反対だったが、それでも碧黎が横から、行きたいと言うなら行かせてやれと言ったので、仕方なくといった感じで、見送ってくれていた。
なぜ反対だったかと言うと、せっかく十六夜も宮へと戻って、こちらが蒼と二人で綺麗に回っていたので、それを何か嫌な予感がするということぐらいで、他の神の王達に相談するなど間違いだと思っていたからだ。
一人前にやっているのだと、神世に認めさせたいと思っているのだろう。
それに、あの王達が寄ってたかってはぐれの神など受け入れるな、と言えば、蒼は素直にそれを聞いて、助けられる神も、助けられなくなってしまう。
十六夜は、まだ神世の片隅に忘れ去られてつらい思いをしている神達を、全て助けたいと思っているのだった。
蒼が、その十六夜に、言いにくそうに言った。
「だから…しばらく、新しい神の受け入れを、やめておこうと思ってるんだ。今居る神達が、絶対に悪だくみなんてしなくて、完全にオレの言うことを聞くと分かってから、次に取り掛かろうかって。だってさ、十六夜は何も無いって言うけど、碧黎様に聞いたら、言えることと言えぬことがある、って言ったんだよ?それに、事を大きくしないためには、今しかなかろうな、って。絶対、何かあると思う。オレの勘って嫌になるほど当たるって、炎嘉様も言ってた。オレもそう思うし、それに備えておいて間違いはないと思うんだ。」
十六夜は、顔をしかめた。
「おい、そうしたら今苦しんでる神を、そのままそこへ放って置くって言うのかよ。あいつらにとっちゃ、現実に時間が進んでて、その間ずっとつらいんだぞ?赤ん坊なんか死ぬかもしれねぇ。それなのに、しばらくの間受け入れないってのか?」
蒼は、十六夜の気持ちも分かったが、それでも頷いた。
「今、この結界の中に居る者達のことだって、オレ達は守らなきゃならないんだ。まずは、中からじゃないか。今受け入れた神達の事だって、考えて行かなきゃ。元から居る神達だって、いろいろ我慢してくれたりしてるんだからな。十六夜、焦ったって良いことないんだよ。」
十六夜は、じっと黙って険しい顔をした。どうやら不満なようだったが、それでもそれ以上、反対はしなかった。
気まずい雰囲気の中、居間の扉の向こうで、嘉韻の声がした。
「王。ご報告に参りました。」
蒼は、扉を見た。嘉韻は、今日は非番のはずなのに。
それでも、今の居間の中の雰囲気を変えてほしくて、蒼は答えた。
「入るが良い。」
扉が開き、嘉韻が着物姿で入って来た。常甲冑を着ている様しか見たことがなかった蒼だったが、それでも嘉韻はやはり、凛々しい姿だった。
嘉韻は、十六夜も居るのに片眉を上げたが、蒼に頭を下げた。
「王。嘉翔より気になる事があると報告を受けましたので、ご報告に上がりました。」
蒼は、椅子を示した。
「座るが良い。」
嘉韻は、じっと黙っている十六夜が気になったが、言われるままに蒼の前へと座る。蒼は、言った。
「今日は非番だったんじゃなかったのか?どうしたんだ。」
蒼が言うと、嘉韻は頷いた。
「は。嘉翔から報告がございまして。気になる様子があれば、報告せよとのことでしたので…。」
蒼は、何か見つかったのかと身を乗り出した。
「どうした。何かあったか?」
嘉韻は、苦笑した。
「いえ、普段なら何でもないことでありまする。螢が、何やら何かを懸念しておる風であったと。いつもの元気さがなかったということでありますが…しかし、生きておれば私生活でいろいろとあるもの。我らも普段はそのようなことをまで感知いたしませぬ。ですが、王が何かを気取ればすぐに知らせよとのことでしたので。我がご報告に参った次第です。」
蒼は、眉を寄せた。
「螢と申したら…汐は?」
嘉韻は、それにも答えた。
「は。嘉翔が見て参ったところ、汐の方は気の乱れもなく落ち着いた風で、己の務めが終わると真っ直ぐに屋敷へと戻り、特に変わった様子はないとの事。」
蒼は、うーんと唸った。
「そうか…困ったな。だからって、軍神達がプライベートで何かあったからって、その度に調べたりその回りを探ったりしてたらきりがない。螢だって、明日になったら元気かもしれないし。そもそも、螢は考えられないよ…あいつは、すごく忠実で真面目なんだ。あいつを疑えって言われてもちょっと無理かもしれない。」
嘉韻は、少し首を傾げた。
「でしたら…少し、気を付けてみておるということで。この件は、我が見ておってもよろしいでしょうか。」
蒼は、何度も頷いた。
「頼む。好きにやってくれたらいいから。多分螢は絶対大丈夫なんだが、もしかして回りがあいつに何かちょっかい出してるとか、あるかもしれない。嘉韻に任せるから、いいと思うようにやってくれ。」
嘉韻は、心の中で苦笑した。どこの軍神も、王に指示をされた事項を、出来る限りの速さと正確さで王が期待する以上の内容を想定してこなすのだが、ここ月の宮では違う。新月が居た頃は、ある程度新月が指示を出したりしていたが、蒼は基本、軍は軍神の物で、筆頭軍神が自由に動かすという意識だ。なので嘉韻のやることは多いが、それでもここぞという時には、必ず蒼に判断を仰ぐ。軍神としてはそこまで信頼されてやりやすいのだが、やはりここの軍は王の物で、そしてその行動は王が責任を持つことになるからだ。
「は。それでは密かに螢の回りを調べさせまする。というて、私生活には踏み込まぬのが礼儀でありまするし、そちらで悩んでおるとしたら我らもそれ以上は。」
蒼は、それにも頷いた。
「それはそうだ。オレだっていろいろ詮索されたら面倒だもんな。まあ、他の軍神達だってそんなことがあるかもしれない。その度に面倒かもしれないが、オレの勘が言ってる不穏なことが見つかるまで、よろしく頼む。」
嘉韻は、頷いて立ち上がると、蒼に頭を下げた。
そして、そこを出て行ったのだった。