宮へ帰る時
それからも、そこに住む神達の思惑を孕みながらも、表面上は穏やかに神世は流れていた。
赤子でしかなかった炎月も、結局は10年の間月の宮で育ったのだが、体が大きくなって、頭の中身もそれはそれはしっかりと育った。
5歳の時、一度鳥の宮へと行ってそちらで披露目の式をしたが、まだ小さいのと乳母が居ないのとで、結局は式の後また、月の宮へと帰って来て、そこで維織と燐に引き続き育てられた。
燐と維織も、時に鷲の宮へ帰ることがあったので、その時にはあちらへも連れて行ってもらい、焔に可愛がられて宮の中を駆け回って過ごし、鳥の動きもそれなりに学んだ。
燐と維織の息子の烙も、まるで自分の弟のように炎月を可愛がり、そうやって皆に愛情を与えられた育った炎月は、明るく華やかな炎嘉そっくりの皇子に育っていた。
今は、人で言うと小学校高学年から中学生ぐらいの大きさだ。普通の神より育つのが早いのは、やはり維月の影響であろうと思われていた。
時に訪ねて来る明蓮と紫翠から、がっつりと学問も学び、賢いのは折り紙付きだった。
そんな炎月が、鳥の宮へと帰る日付も決まり、今日は月の宮で会う、最後の里帰りとなるはずと、維月は十六夜に連れられて月の宮へと降り立った。
「母上。」
炎月は、幾分落ち着いた風で、月の宮の甲冑を身に着けて待っていた。維月は、微笑んで十六夜の腕から降りた。
「炎月。まあ、立ち合いをしておったの?最近では真剣を使っておるのだと、十六夜が言うておって。」
炎月は、微笑んで頷いた。
「はい。時にかすり傷は受けまするが、それでも大きな傷もなく。嘉韻と嘉翔がよう見てくれまする。」
維月は、頷いた。炎月は知らないが、嘉翔は炎月の父が違う兄弟だ。嘉韻は知っているが言わないので、嘉翔も己の弟だとは知らないだろう。
いや、知っているかもしれないが、口にはしないだろう。
「良かったこと。ですが、ケガには重々気を付けてね。あなたは大切な皇子なのですから。」
炎月は、小さく頭を下げた。
「はい、母上。」
それにしても、快活で凛々しく育った。
維月は、炎月を見てそう思った。さすがに炎嘉の子だけあって、炎嘉によく似た華やかな美しい顔立ちだ。炎嘉の若い頃と同じように、宮の皆に愛されて育ち、一点の曇りもない明るい華やかさを放つ自信に満ちた様の皇子だった。
その炎月の友としての付き合いがあったのは、なんと箔翔と悠子の間にできた、箔炎の弟に当たる、箔真だった。
どうやって知り合ったのかというと、まず、箔翔が蒼に会うために宮へやって来ることになり、その時ちょうど維月が里帰りして来ているというので、悠子も行きたいと言い出し、それに伴ってまだ幼い箔真も連れて来ることになり、奇しくも同い年であった炎月と出会ったのだ。
それから、炎嘉が炎月にせがまれて鷹の宮へと通う形で何度も炎月と箔真は交流して来た。
時には十六夜に連れられて鷹の宮に泊まって来たり、逆に十六夜が連れに行って月の宮で箔真が泊まったりとしながら、二人はよく遊び、共に学んで来たのだ。
今では、体は炎月の方が大きかったが、お互い皇子同士、遠慮なくいろいろと話し合って相談のできる、それは良い友であるようだった。
「箔真が、鳥の宮ならばここよりいくらか近いゆえ、通い易うなると喜んでくれました。最近では、共に立ち合いの練習などをしておって。我の方がいくらか身が大きいので、今はまだ我の方が手加減せねばならぬのですが、いずれはもっとお互い楽しむことも出来ようと。」
維月は、笑って頷いた。
「そうね。良かったこと、良い友が出来て。ならば炎月は、ここを出て鳥の宮へ参るのも、嫌ではないのね?」
それには、炎月は少し、寂し気な顔をした。
「それは…長く世話をしてくれた維織殿とも燐殿とも別れねばならぬし、母上ともあまり会えぬようになるのは寂しい限りであります。ですが、父上がいらっしゃる。甥も居るのだと、父上が教えてくださった。まだ会ったことはありませぬが、炎耀と申されるとか。何より月に話せばいつなり十六夜が答えてくれる。我は、あちらで王となるべく精進せねばならぬのです。」
まだ10歳にしかならない炎月が、そんなことを言うのに、維月は涙が浮かんで来た。皇子として生まれ、そうして後を継ぐというのは、こういうことなのだろう。
「月には、私にも通じます。炎月、母を月に呼べば、いつなり話が出来まする。十六夜と私は、同じ体を共有しておるのですから。なので、会えぬからと寂しがることなど無いのですよ。十六夜と私は、いつでも空に居りまする。」
炎月は、それを聞いて明るい顔をした。
「はい、母上。では、母上にもお話しいたします。我は、一人ではありませぬゆえ。」
維月は、そうやって自分の立場を理解して努めようとしている、炎月を誇らしく思った。なので、炎月を抱き締めた。
「良い子だこと。母はあなたが息子で誇らしいわ。あなたも生まれた時のご事情は、もう分かっておるのでしょうけれど…母は、離れても母なのですから。何でも話してくれて良いのよ。」
炎月は、頷いた。宮に帰るに当たり、炎嘉からこれまでの経緯を聞いたのだ。もう理解できる歳だからと、炎嘉は淡々と、神世に維月が母なのだとは言えないのだと、炎月に話したのだ。
炎月は、維月の胸に素直に抱かれながら、言った。
「はい。分かっております。今となっては、何故に龍王殿があれほどに複雑な気を我に向けるのか、我が誕生するのを許した事がどれほどに大きな事なのか、我には分かっているつもりです。恐れておるばかりでしたが、あの方が我を殺すはずなど無いものを。それならば、いくらでも生まれる前に出来たのですから。我は、今は感謝しておりまする。」
立派になった…。
維月は、涙が溢れて来るのを止められなかった。
そんな二人を、十六夜が穏やかに見ている。
そうして炎月は、数日後に迎えに来た鳥の臣下達と共に、鳥の宮へと帰って行った。
西の島北西の宮では、表面上は穏やかに時が流れていた。
政務も滞りなく、定佳は若いので体調にも問題なく、毎日訓練場にも顔を出し、緑翠が居ても居なくても、特に問題はなく回っていた。
周辺の宮でも、たった一人でも妃が来たことで、定佳に皇子が出来る可能性もあるからこそ、緑翠は一旦翠明の宮へと帰ったのだと誰もが思っていた。
実はそうではないことを知っているのは、定佳と翠明、そして綾だけだった。
そう、定佳の宮の臣下でさえも、緑翠が定佳を想っていたなどと、誰も思ってはいなかったのだ。
定佳は、今日も訓練場で軍神達の稽古をつけてから、自分の居間へと戻って来ていた。
筆頭重心の佐門が、そこへやって来て膝をついた。定佳は侍女達に手伝われて着替えを終えて、佐門に向き合って定位置の椅子へと座った。
「どうした、佐門。何かあったか。」
政務は終わっているはずなのだ。
時は、もうそろそろ夕刻へと差し掛かる時間帯だった。
「いえ…王、無理を承知で参ったのですが。」佐門は、すがるような目で定佳を見上げて言った。「王のご興味の対象のことは、我ら臣下理解しておるつもりでございます。ですが、年に一度でも良いのです、妃の千歳様にお通い頂けませんでしょうか。」
定佳は、考えることもなくすぐに首を振った。
「それは無い。お互いに政略と知っておっての婚姻ぞ。我はあれの実家へも責任を果たしておる。他に何をと申すのだ。」
佐門は、それでも悲壮な顔をして言った。
「重々分かっておりまする。ですが、千歳様は、おとなしいご気性ではありませぬ。傍の侍女も毎日それは謂れのないことで罰を受けたりと、毎日びくびくと過ごしておる次第。それも、王が千歳様が何を言われてもそれを許してしまわれるからで…特に、数年前から度々ございます、侍従を夜お傍に置くということに関しても、王は問題なくすぐに許可されて。そういったことで、イライラなさっておいでなのではないかと。」
定佳は、眉を寄せて答えた。
「我が通うことも無いのだから、あれとて一生何も無いのもと思うたからぞ。気に入った侍従が居るなら、相手もそれを望むのならそれでも良いと思うておるまで。我はあれに何の感情もないし、あれもそうであろう。我が良いと申すのだから、良いではないか。理解を示しておるのに、なぜにあれが憤ることがあると申すのだ。」
佐門は、困って言った。
「恐らくあれは、畏れ多くも王を試しておられて申されておるのではと。侍従と過ごすというて、ただ部屋に居るだけで何もないのは侍女から聞いて知っておりまする。いわば、自分に興味も示さない王に対しての、当てつけのようなものではないかと。」
定佳は、ぐっと眉を寄せた。
「そのような気性、女でなく男でも、我は傍に置こうなどと思わぬ。そも、我は初日に通った時に、こちらの事情は話してある。もうあのようなこと、我には無理ぞ。主とて男に興味が無かろうが。もし、何度も男を通わせろ言われたら、主はどういった心持になる。」
佐門はそれこそ身を震わせた。佐門自身は、男とはそういったことをすることは絶対に出来ない性質だ。なので、確かに身の毛もよだつので、定佳が言うことは理解できた。
しかし、このままでは奥が乱れて大変なことになってしまう。
佐門は、頭を下げた。
「王のお気持ちは、重々分かっておるのでございます。ですがこのままでは、奥が乱れて侍女達も疲弊してしまいまする。侍従も王の妃になど興味もなく、いつ誠にそういう仲にと命じられたらとびくびくと過ごしておるのです。どうか、あれらを助けると思うて、何某か策を。」
定佳は、そういわれてしまうと、確かに周りが迷惑を被っているのだろうと、臣下が案じられた。
「…では、考えてみる。だが、我はもうあれには通わぬから。宮に置いておくだけで良いと申すからこその婚姻ぞ。それがならぬと申すなら、里へ帰すことを考える。とにかくは、こちらは別にあれが居らずとも良いのだからの。あくまで、支援の口実ぞ。あれの父王に、書状を遣わせて様子を見ることにする。」
佐門は、また深々と頭を下げなおした。
「は!」
定佳は、大きなため息をついた。なぜにこんなことに、煩わせられねばならぬのだ。




