その王
宴の席では、千歳も侍女達も、穏やかに過ごすことが出来た。臣下達も親切で、この宮で選別されたという侍女達も大変に素直で良い性質の者たちばかりで、ここが争いとは無縁で来た宮なのだと千歳は知った。
後宮にも、自分以外の妃は居ない。一番最初に入るということは、それだけ発言力も強く、正妃になる確率も高かった。そんないい条件の宮へと入ることが出来、千歳は夢のようだった。
その上、王の定佳は動きも洗練されていて、東の王達と比べて遜色のない様子だった。
顔立ちも美しく、なぜ今まで妃を迎えずにいたのかも分からないほどだ。宮の様子を見ても、定佳の穏やかな落ち着いた様は分かった。臣下達にも殺伐とした様子は全く無いので、この王の優しさが、偽りではないことが透けて見えるのだ。
宴も終わり、一斎はその日は泊まるようにと言われていたが、それでも宮が案じられるのでと帰って行った。
千歳には、父が滞在が長引くとそれだけ支出も増えるので当日に帰ることにしたのだとわかっていた。
それだけ倹約しなければ、宮は回らないところまで来ているのだ。
千歳に用意された部屋は、申し分ない広さの美しい部屋だった。そこで、王の侍女が呼びに来るのをドキドキしながら待っていると、侍女が入って来て、頭を下げた。
「王がお越しでございます。」
千歳は、息を飲んだ。王が来られた…自分を呼ぶのでなく、王が通って来られる形になるのか。
千歳が深々と頭を下げて待っていると、定佳が寝巻の着物姿で入って来た。そうして、頭を下げる千歳に向き合った。
「表を上げよ。」
千歳は、緊張でフラフラになりそうになりながら、顔を上げた。
すると、定佳がかぶっていた大きなベールを引いて外し、それを侍女達が慣れたように回収して行くのを見送った。残った侍女が、入り口付近で頭を下げた。
「では、御寝なさいませ。」
そして、そこを出て行った。
千歳にも初めてのことにどうしたらいいのか分からず立ちすくんでいると、定佳が進み出て、千歳の手を取った。そうして、寝台へと促す。
千歳がそれに従って共に寝台へと腰かけると、定佳は言った。
「主にしても心ならず、宮の存続のために父王から命じられてこちらへ参ったのだろうが、ここでは何不自由ないようにと考えて準備させておるゆえ。足りぬものがあれば申せ。」
千歳は、頭を下げた。
「何事も仰せの通りに。王にお仕えして参りますので、どうぞよろしくお願い申し上げまする。」
定佳は、頷いたが、続けた。
「我も、これは上位の宮から命じられたことであった。本来、我は妃を娶らぬと決めておったのよ。なぜなら、我は妃を不幸にすると思うておったから。それに、我自身も不幸になろうかと思うておったゆえ。だが、命じられたからには受けねばならぬ。主とて心ならずここへ参るのだと聞いた。ゆえ、お互いのためにも、我は主の生活と、父王の宮の支援を滞りなくすると約そう。」と、息をついた。「とはいえ、今夜はお互いの義務。お互いに気が進まぬのはしようがないことよ。今夜だけお互い堪えようぞ。」
と、灯りを消した。千歳は、何のことかよくわからなかったが、しかしこれから起きることを思うと、とても定佳が言った内容を深く考える余裕などなかった。
そうして、その夜は更けて行ったのだった。
次の日の朝、千歳が目覚めると、定佳が目の前で着物の帯を締めて出て行く準備をしていた。慌てて自分も起き上がると襦袢を引き寄せ、腰ひもを結ぼうとしていると、定佳は、言った。
「ああ、そのままで良い。これで、お互いに義務は果たしたのだ。主も心置きなく我の妃として宮で過ごしておれば良い。これから、お互いに煩わせる事無く別々の部屋で過ごすのだから、主も好きなようにしておれば良いぞ。」
千歳は、驚いた。そういえば、昨夜もそんなことを言っていたような。
「あの、我は王に嫁ぎましたからには、王を煩わしく思うことなどありませぬ。そのようなお気遣いなさらずとも…。」
定佳は、苦笑した。
「我は無理なのだ。」千歳は、それを聞いて驚いた顔をした。定佳は続けた。「主が悪いのではない。我は男であるが、男しか相手にしたいと思わぬのよ。昨夜灯りを消したのも、そうでなければ身がそのようにはならぬから。女相手だと、何も感じぬから妃を娶らず来た。だが、主は父王のために仕方なく来るというし、ならば宮に置いて妃として遇しておけば、主の役目は果たされようと考えた。礼儀であるからお互いに昨夜はどうしても越えねばならぬ試練であった。それが終わった今、我らはもう、義務を果たす必要は無いのよ。そのように我に気を遣わずとも良いのだ。」
千歳は、それを聞いてショックを受けた。
確かに、自分も泣く泣くこちらへ嫁いで来た。嫌で仕方がなかったが、それでも父王には逆らえずに無理やり連れてこられたと思っていた。
だが、この美しい宮と、穏やかな臣下達、気立ての良い侍女達、落ち着いた優しい美しい王と、思ってもみないほど良い環境で、ここで妃として生きてもいいか、と思っていた。
それが、望まれていなかったと。
昨夜、命じられたと定佳は言っていた。その後、特に色よい言葉もなく、ただ黙々と真っ暗な中夜が過ぎ、確かにそれが義務だと言われたら、そうだったのだろう。
千歳が言葉に詰まっている間に、定佳は支度を終えて、そこを出て行ったのだった。
定佳が王の居間へと戻って無事に済んだことにホッとして庭を眺めていると、緑翠がやって来た。定佳は、今日は婚姻により政務が無かったはず、と思いながらも、緑翠を見た。
「どうした?本日は何も無いであろう?」
緑翠は、首を振った。
「政務のことではありませぬ。我が…定佳様に、お話があって参りました。」
定佳は、先に来られたか、と内心思った。本当なら、婚姻からもうしばらく経って、本当に子ができることなどないのだと緑翠が分かってから、その事実と共に話をしようと思っていたのだ。
だが、緑翠にはそれが待てなかったのだろう。
「婚姻の話か?…というて、向こうも嫌々嫁いで来たし、我がもう無理なので好きに過ごしたら良いと申して来たので、あちらも安堵しているはずだと思うぞ。子などできようはずはないのだ。主の地位は安泰であるし、気にすることは無い。」
緑翠は、首を振った。
「そんなことではないのです。あの会合の折にも申しました。我はもう…南西へ、帰りたいと思うておりまする。」
定佳は、眉を寄せた。そんなことを言いだすのではないかと思っていた。
だが、緑翠はまだ20年ほどしか生きていない。ならば今一度戻して、成人してからこちらへとまた打診しても良いのだ。思いもかけず、緑翠は優秀だった。これならば、成人してからでも十分に王座に就くべく学んでいけるだろう。
「…そうか。主が無理だと申すなら、我はこれ以上ここへ留め置くことはできぬの。だが、主が成人する頃には、こちらに皇子が居らぬのを知って、それが懸念ではなかったと知ることであろうぞ。またその頃にでも決めればよいわ。まあ、我が死んだらどうせ、ここへ翠明が誰かをやらねばならなくなるゆえ、主はどちらにしろここへ参るであろうがの。今はこれまで。しようがないことよ。」
引き留められると思っていたのか、緑翠はそれを聞いて目を見開いた。定佳は、いつもこんな風だった。自分を押し付けるということが無く、相手の意思をそのままに流れて行く。
それは、やはり男しか愛することが出来ないという自分を、何とか社会に適応させて行くのに、それしか方法が無かったからなのかもしれない。定佳が見出した自分を守る方法が、恐らくそれだったのだろう。
緑翠は、ブルブルと震えた。
「そんな…あなたにとって、我はその程度でありますのか。我がここを去っても、またどうせ数百年後には戻って宮を継ぐだろうと。」
定佳は、困ったように微笑しながら言った。
「主が否と申すのに、我がどうできると申す。去りたいと申しておるのは主ではないか。我は、常言うておるように、無理強いはせぬ。」
緑翠は、叫んだ。
「我は…我はあなた様を想うておるのです!」
定佳は、さすがに驚いたのか言葉に詰まった。緑翠は、続けた。
「ずっと、そうでした!母は幼い頃より我がこのようだと知っておった。我が養子になりたくなかったのも、婚姻に反対したのも、だからでありまする!我は…お傍に居られるのなら、王座など要らなんだのに!」
定佳は、ぐっと黙ったままそれを聞いていたが、フッと険しい顔をすると、背筋を伸ばして、言った。
「…ならぬ。主はまだ幼い。傍に居る頼れる者が我であるからそう思い込んでおるに過ぎぬ。それに、我も主のことは、友の子としか見ておらぬ。ここへ来たからには我が子であると思うておった。そのような対象には、我には見ることはできぬ。」
緑翠は、訴えた。
「ですが、我はもう子供ではありませぬ!」
定佳はひとつ、首を振った。
「子供よ。婚姻に反対する?それで男同士でどう婚姻すると申すのだ。神世の婚姻の意味は知っておるだろうが。庶民ではないのだぞ?庶民ならば、男同士でも婚姻だというて共に暮らして問題はないが、我は王であるし、その義務を果たしておるまで。仮に我が主を望んだとしても、我の立場も理解できずにそのようなことを言う者を、我は己の相手に選ぶことはできぬ。確かに男同士でも愛し合って傍に居ることはできるが、王である我はあからさまには出来ぬ。主は己の立場と我の立場を分かっておらぬのだ。全てから退くまで、そういったことは表に出すべきではないのだ。」と、手を振った。「戻るが良い。ならば主をここへ留め置くことは出来ぬ。我が死して後、ここを引き継ぐが良い。翠明には、我から書状を。できるだけ早く南西へ戻れ。」
定佳は、そう言い置くと、サッと緑翠に背を向けてそこを出て行った。
「定佳様!」
緑翠はその背に叫んだが、定佳は振り返ることはなかった。