生い立ち3
王の蒼には、返し切れないほどの大きな恩があった。
螢は、尚一層王の御ためにと一生懸命働いた。
そうしているうちに、ここへ来た時100歳に満たなかった螢は、やっと100歳近くにまで成長した。宮でも、その働きを認められ、序列が上がり始めていた。
郁はまだ20と幼いので、序列はついてはいなかったが、真面目な働きぶりで、龍の軍神達にも大層かわいがられた。
汐は、淡々と責務をこなしていた。もちろん、仲間を売って助かった男だと後ろ指は挿されたが、序列が上がって来た螢の手前、他の元はぐれの神も、今は何も言えずに居た。
そうして、月の宮で飛び鳥を落とす勢いの螢に、ある日、通う女が出来た。
その女は、大変に美しいのだが、同じように元、はぐれの神で、宮仕えも苦労しているようだった。
同じように宮仕えに出ている女から、大切にしているらしい小さな石がついたペンダントを取り上げられて困っていたところを、螢が通りかかって取り返してやったのが出逢いだった。
それから、ことあるごとに話し掛けて来ては、いろいろと頼って来るので、礼儀などを教えてやっているうちに、そういう仲になって世話をするようになったのだった。
その女の名は、静音といった。
それなりに幸福に過ごしていたその日、静音が胸元に揺れる、ペンダントの石を指で触れながら、ぽつりと、言った。
「我が母が、あなた様と婚姻などならぬと言うのです。」
螢は、驚いた。自分は、ここで真面目に仕えて、序列も他のはぐれの神に比べたら遥かに高い。それなのに、反対すると?
「もっと高位でしっかりとした軍神が良いと?」
螢が言うと、静音は首を振った。
「いいえ。あなた様の父君が、我が父を裏切ったからと…父は、20年前に岳に処刑されましたの。」
螢は、息を飲んだ。
確かに、静音には父が居ないと聞いていた。父は死んだのだとも…あの時、逃げようと謀っていた神達のうちの、一人だったのか。
「しかし…父上は逃げようとはしておらなんだ。王に忠実に生きることを今さらに思うておって、これ以上王に逆らうような真似は出来ぬとお考えで。だからこそ、それを嘉韻殿にお話したのだと。その心根を王が汲んでくださって、釈放されたのだと聞いておる。」
実際は、自分が嘆願したからだったが、螢はそう言わなかった。
しかし、静音は言った。
「我が父も、きっと岳が来ると知らなければ螢様の御父上のように、王に従うおつもりだったのですわ。それなのに、岳が来ると聞いて。恐れない方がおかしいのではありませぬか。御父上は、本当に己の命を落としても良いと考えておったのですか。」
螢は、黙った。あの時、父の考えは聞いた。だが、ここでそれを静音に言っても、きっと理解出来ないだろう。
「…そういう風に考えるのならば、主にはもう通わぬことにする。我も、主の母君の心の負担にはなりたくないゆえ。」
螢が、そう言って踵を返そうとすると、静音は叫んだ。
「ならば、お子は?!」螢は、驚いて静音を振り返った。静音は続けた。「我の腹に居る、あなた様の御子はどうなさるおつもりか。母が反対したからと、この子を見捨てるのですか。」
螢は、愕然とした。知らなかったのだ。
「子…?」
静音は、ホッとしたように、そして勝ち誇ったように頷いた。
「はい。お子が居るのですわ。この子のためにも、我らは婚姻関係を続けねばなりませぬ。ですが、母がどうしても許してくれませぬ。螢様、父君は、本当はあの時、岳に殺される運命であられたと思うのです。」
螢は、魂が抜けたようになって、静音を見つめた。まるで、別の女と話しているように思ったからだ。
「それは…我に、父を殺せと?」
静音は、さすがに袖で口元を隠した。だが、憂い顔には到底見えなかった。
「…螢様がどうお考えになるかですわ。我と腹の御子か、それとも父上か。」
螢は、判断がつかなかった。そのような…選べるはずはない。
だが、黙り込む螢に、静音は寄って来て微笑むと、耳元で囁くように言った。
「幸い、あのお方を恨んでおるのは、何も我と母だけではありませぬ。どうやって嘉韻様や他の軍神達に気取られずに始末するのか、考えに考えておるのですわ。それで…汐殿に、罪をかぶせてしもうたらどうかと。」
螢は、静音を振り返った。静音は、にっこりと微笑んだ。
「策は練ってありまする。王はお優しいので、ちょっとやそっとの罪では、命まではお取りにならぬ。ゆえ、大層な罪状を、被って頂こうと思うておるのです。」
螢は、息を飲んだ。
いったい、何をしようとしているのだ。
しかし、静音はただ、不気味に微笑んでいるだけだった。
出逢いの記念だと思っていたそのペンダントの石も、今は怪しい光を放っているようにしか見えなかった。
夜の宴は、来ると聞いていた焔は結局来なかった。何やらあちらも忙しいらしく、出てこれないと連絡が来たらしい。
そして維月はも、出ていなかった。
というのも、着物の重さにつらくて、もう着物を脱ぎたいというからだった。
龍王妃ともなると、公の場に王と共に座る時、誰よりも晴れやかに美しく豪華に装っていなければならないらしい。
維月には、それに長時間は本当につらかった。
そんな訳で、宴には王ばかりが出ていた。悠子も、子が居るので夜は世話をせねばならず、多香子もそれについているようだった。
相変わらず龍の宮の旨い酒に皆が楽しんでいるのを壇上から眺めながら、維心は杯を傾けていた。
「それにしても…いったい、何事が起ころうとしているというのだろうのう。」炎嘉が、隣りの蒼に言った。「はぐれの神関連なのだろうな。しかし、皆大人しく努めているようだし。十六夜も何も無いと言っておるのに、碧黎は何を気取っておるのかの。」
蒼は、深刻な顔で頷いた。
「はい…。皆、本当に一生懸命仕えてくれておるようにオレには見えるのに。十六夜も考え過ぎだと言うんですが、碧黎様がああ言うから…。」
志心が、脇から言った。
「それは、あれは地であるから。己の上で起こっておることが、手に取るように見えておるのだろうの。まして今は、月の宮を注視しておるのに。しかし、言えぬとは歯がゆいであろうの。」
蒼は、ため息をついた。
「碧黎様が何とかしてくださればいいんですけど、極力手を出さないことにした、とおっしゃって。享を消したり公青と翠明の気を入れ替えたりで、少し目立ったのを分かっていらっしゃるから。でも、責任は取ると言って、ああして月の宮に居てくださるんですけどね。」
炎嘉が、言った。
「ならば宮の存続に関わるようなことにはならぬという事では無いのか。ただ、少し面倒なだけで。」
蒼は、炎嘉の方を見て顔をしかめた。
「確かにそうかもしれませんけど、それでも誰かの命の関わるようなことは避けたいじゃありませんか。オレは、やっぱりはぐれの神達を殺したくはないんです。その…人と似たところがあるので。弱いところがあるのが理解出来てしまうのです。人は、過ちと更生を繰り返して悟って行くところがあるので…一度や二度の失敗で、殺すほどの罰を与える事が無いんです。オレの価値観は、生まれてから育った人の世のものから変わっていませんから。神世へ来て、こちらの考えも理解しても、それでも根本がそれなので、どうしても何度か許して見てやりたいような気持になってしまいます。」
そこまでじっと聞いていた、維心が口を開いた。
「…主がそのような考えであるのは維月を見ておって分かっておるが、神世の価値観そうだということは、つまり神世には相手を殺すということに、ためらいの無い神が多いということぞ。そして簡単に殺されてしまうので、己を守るために先に相手を殺すのだ。そうすると、そんな輩を治めておる神は、それ以上に強く押さえ付けなければならぬ。そうでなければ舐められて言うことなど聞かぬから。途端に無法地帯になろうぞ。主がそれでもやれておるのは、軍神達がしっかり皆を見張っておるからに他ならぬ。だが、主の気性は知られておろうの。それを利用しようとしておる輩が居るのやもしれぬぞ。気を抜くでない。」
蒼は、維心にそう、諫められて、下を向いた。それには、樹籐が庇うように言った。
「そのように。蒼殿がそのようなのは、神世の王で知らぬものはおらぬのだから。皆、だからこそ助けようとするのだ。そういう時は一人で抱え込まずに、こうして我らに話してくれたら良いのだ。月だけなら、何も生きて行くのに支障がないのだからの。はぐれの神を世話してくれようとしておるから、こうなっておるだけで。」
観が、ふうと肩で息をつく。
「我がついておる。それは、はぐれの神達にも伝わっておろう。あれらの中では、我は恐怖の対象らしいゆえ。また、岳にもそちらへ見回りに行かせるゆえ。主は、そう気に病むでない。」
蒼は、神世の王達に庇われる自分の不甲斐無さに、ほとほと参っていた。何とか自分だけで回そうとするのに、結局は誰かの手を借りることになってしまう。
明日は早くに月の宮へ帰って、またしっかりと軍神達を見ておこうと、蒼は決意を新たにしていた。