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拠りどころ

夕刻近くになり、維月は炎月を連れて炎月に使わせている部屋に居た。

十六夜は、ここへ来てしばらくしてから、飽きて来たのか部屋に先に戻っていると言い置いて、ここには居なかった。

炎月と共に指南されているという書を眺めたり、自分でもいろいろ書いて見せたりしながら時を過ごしていたのだ。

炎月は、目を丸くして維月が書く書を見つめて、言った。

「母上の御手はとても美しいです。伊予だってこんな字は書かぬのに。どのようにして学ばれたのですか。」

維月は、苦笑した。こんな小さいのに、字の良し悪しが分かるのか。

「私は、龍王様にご指南を受けましたの。それは美しい文字をお書きになるので、私も毎日それに倣って精進しておるのよ。でも、父上もそれは華やかな素晴らしい文字を書かれるから…。炎月も、すぐに上手くなると思うわ。」

炎月は、真剣な顔で炎嘉の手本を見て、頷いた。

「父上のお手が素晴らしいので、我も毎日真似ております。もっと努めねばと思っております。」

生まれてまだ二年半なのに、そんなに急がなくても。

維月は思ったが、炎月が健気に頑張ろうとしているので、頷いて答えた。

「良い子だこと。炎月なら出来ると母は思いますよ。」

月の宮では、普通維月はこんな風には話さない。

ここでは唯一楽が出来ると思っていたからだ。

だが、今は皇子である未来の鳥の王である炎月が居る。この子のためにも、自分は何事も品のある貴婦人でなければならなかった。

なので、維心の前や子達に対する振る舞いを、わざとしていた。

炎月がまた、筆を持って書を綴ろうとし始めたので、維月は言った。

「…ですがもう、本日はこれで。もう夕刻になるわ。あなたも休む準備をなさらねば。体も心も健やかに育つためには、よく眠っておくのも必要なのですよ。無理はなりませぬ。」

炎月は、少し残念そうな顔をした。久しぶりに会った母と、もっと共に過ごしたいと思うのだろう。

「でも、本日は母上がいらっしゃるから。我は、もっとご一緒にお話したい。」

維心の子達なら、おそらくすぐに頷いて休む準備を始めただろう。素直な炎月に、維月は微笑んだ。

「まあ炎月、明日も母はここに居るのですから。案じることはないのよ。」

「…母の言う通りよ。」後ろから、低い声が笑い声を噛み殺したように言った。「そろそろ休む準備をせねばならぬ。いつもなら寝台へ入って我と話すのではないのか?」

振り返ると、炎嘉がそこに立っていた。相変わらずの華やかな美しい様で、しばらく見なかった維月は一瞬見とれた。だが、慌てて頭を下げた。

「まあ炎嘉様。いらっしゃいませ。」

「父上!」

炎月が、弾丸のような速さで気を使って飛び、炎嘉の胸に飛び付いた。もちろんそんな様は見たことがなかったので、維月は驚いたが、炎嘉は炎月を抱き止めて、言った。

「また主は。毎日顔を見ておるではないか。」と、片手で維月に手を差し出した。「久しいの、維月。炎月は大きゅうなったであろう?」

維月はその手を取りながら、頷いた。

「はい。十六夜や父から聞いてはおりましたが、大変に言葉もしっかりしておって驚いた次第でございます。」

炎嘉は、頷いて維月を引き寄せた。

「やはり月と混じったせいであろうか。我よりも優秀やもしれぬぞ。炎月は誠に良い皇子であって、我も期待しておるのだ。」

炎月は、嬉しそうに炎嘉の首に食らいついていたが、ふと表情をまじめな風に変えると、神妙に言った。

「我は、父上のために一日も早くたくさん学んで大きくなりまする。」

炎嘉は、そんな炎月に微笑むと、言った。

「常申しておるよな?そのように焦らずとも良いと。主はそうして少しずつ毎日成長しておるだけで良いのだ。主はな、存在しておるだけでも我を救うてくれておるのだぞ。」

炎月は、やはり難しかったのか首を傾げた。維月は、そんな炎月の頬を撫でた。

「父上はあなたが居るだけで良いのだと申しておるのよ。誠にそう…あなたを見ておると、とても明るい心地になるわ。大変に愛らしいこと…。」

炎嘉は、同じように微笑んで、頷いた。

「その通りよ。」と、維月を見た。「これはまだ眠くないようぞ。日が落ちようとしておるが、しばし三人で庭へでも出るか。」

維月は、頷いた。

「はい、炎嘉様。」

炎月は、パアアッと明るい顔をしたかと思うと、両手を上げた。

「わあ!父上と母上と一緒に庭へ参れるのですね!」

炎嘉が、足を戸口へと向けながら、言った

「今宵だけであるぞ?毎日良い子にしておるから、特別に連れて出てやるが、普段はきちんと休まねばならぬ。良いか?」

炎月は、真剣な顔で何度も頷いた。

「はい、父上。」そして、すぐにキャッキャとはしゃいだ。「ではあちらへ!父上、光る蓮があるとおっしゃっておったのを、見てみたいと思うておったのです。そちらへ参りたい!」

光る蓮?

維月は、はっとした。そういえば、その光る蓮が見える房で、炎嘉と会った。あの、陰の月に飲まれていたあの時に…。

その夜、炎月は宿ったのだ。

炎嘉は、はしゃぐ炎月を腕に歩きながら、苦笑した。

「おお、あそこか。良い、では参ろうか。」

炎月は、炎嘉に抱かれながらそれはイキイキとした顔をしていた。こんなに薄暗くなってきてから、外へ出たことなどないのだから、楽しみで仕方がないのだろう。

「父上が母上と一緒に見たと申されていたのです。母上は、覚えておられまするか?」

炎嘉も、こちらへと視線を向ける。維月は、頷いた。

「ええ、覚えておってよ。母が父上にあの場所を教えて差し上げたの。こちらは、母の里であるから、ここのことは母のほうがよう知っておるのです。」

炎月は、利口そうな目で何度も頷いて言った。

「父上もそうおっしゃっていたので、知っておりまする!とても楽しみです。」

そのうちに、炎月が歩くと言い出して、炎嘉と維月の前をぴょんぴょんと跳ねるように、こちらを時に振り返り、にっこりと笑いかけながら歩いて行く。

維月は炎嘉に手を取られながら、そんな炎月を見つめてゆったりと歩いた。炎嘉も、もともとそういうことには気が付くタイプなので、維月に合わせてゆっくりと歩いてくれていた。

そうやって月の宮の、北の庭の方へと歩いていると、日が暮れて来て月の光が辺りを照らすのが分かった。

日が暮れた月の宮の月が照らす庭を、親子三人で初めて歩いて、そうして楽しんで過ごしたのだった。


晴れているので光る蓮はそれは美しく光っていた。

それを見て散々はしゃいで維月と炎嘉の間を行ったり来たりしていた炎月は、そのうちに疲れてまるでスイッチを切ったように、ぐっすりと寝入ってしまっていた。

炎月を寝台に寝かせてその寝顔を見ていた維月に、炎嘉が言った。

「…あの夜と、同じ美しさよ。この蓮には、季節は関係ないのだな。」

維月は、顔を上げて炎嘉を見た。

「はい。花が咲く時期は決まっておりますが、葉はいつなりと晴れておればこのように。」

寝台の上に座る維月の傍へと寄って来た炎嘉は、その隣に座ると、炎月の頭を撫でた。

「本当に良い子よ。まさかこのように素直で良い子に育ってくれるとは思わなかった。ここは大きな守りの力もあるし、浄化の気が常に降っておるから、ひねくれようがないのかもしれぬがの。」

維月は、袖で口を押えて微笑んだ。

「そうですわね。こちらには、この子につらく当たるような神も一人も居りませぬし。ですが、あまりにそういうことを知らぬで育つのもまた、案じられることでありますが…。」

炎嘉は、維月の肩を抱いて、頷いた。

「残念なことではあるが、確かにその通りよ。まして王になろうかという神には、世の厳しさも覚えておかねばならぬ。とはいえ、まだそれを知るには幼すぎるのだ。今は、確かに碧黎が言うようにこのままの方が良いのだろうの。」

維月は、すやすやと眠る炎月の顔を見つめて、頷いた。

「はい…。」

この、何も疑うことを知らない炎月が、自分に仇なすような神もこの世には存在するのだと知った時のショックを考えると、本当ならずっとここで守ってやりたかった。だが、それではこの子の未来は狭いこの月の宮の領内だけになってしまう。やはり鳥の王族として強い気を持って生まれたからには、そんな世の中へ漕ぎ出して行くより他ない…。

維月の様子を見て、炎嘉は苦笑した。

「案じるでない。我がついておる。これが一人前になるまでは、我とて王座に居座って生き抜いてみせようぞ。前世、炎託を幼いからと跡継ぎとして告示するのを待った結果、我は死に、その器でなかった炎翔に跡を譲ってしもうた。その結果、鳥を滅ぼすことになった。我は、あのことを忘れてはおらぬ。此度は、必ずやこれを育て上げ、王座に就けてみせようぞ。」

維月は、頷くしかなかった。自分の子達である龍王の皇子たちも、そうやって荒波に揉まれて危険を察知できるようになり、ああして立派に育った。炎月も、それから逃れられないのだ。

「…この子には、これから試練があるのですから。今は、少しでも幸福に過ごせればと思うておりますわ。」

炎嘉は、頷いて維月に唇を寄せた。

「維月…。」

維月は、ためらった。眠ってはいるが、炎月が居る。だが、炎嘉は維月に深く口づけた。そのまま、炎月が眠る隣へと炎嘉に押されて倒れこんだが、炎嘉はそのまま、唇を離して維月を見下ろした。

「我も…今夜はここに。明朝早うに帰ろうぞ。」

維月は、困って炎嘉を見上げた。

「ですが炎嘉様…炎月が。目が覚めてしもうたら…。気が発しられたら、気取って目覚めましょう。」

炎嘉は、ちらと炎月を見て、そして、息をついた。

「…確かにの。良い…本日は、親子でここでこうして休もうぞ。」

維月は、それには頷いた。そうして、炎嘉の着物を脱がせて衣桁へと掛けると、自分も中身の襦袢だけになって、炎月を横から抱いて横になった。炎嘉が、維月の背後から、二人を抱くようにして横になると、維月の髪に口づけた。

「…こうして眠ることができようとは。まあ、我は前世の子と共になど眠ったことはなかった。こうして今生、本当に望んだ妃と子と共に休むことが出来るなど…思うてもみなんだ。」

炎嘉から、それは幸福そうな気を感じた。

維月は、確かに神の王は、普通王は王の部屋、妃は妃の部屋、子達は子たちの部屋と分かれて眠るものだったと思った。維心はなので、維月とは一緒に眠るが、子とは共に寝たことは、前世今生と一度もない。王は自分の気が向かない時に誰かと過ごすのは嫌うものなので、子供と寝るという発想自体が無いのだ。

だが、炎嘉は、こうして、維月と炎月と共に眠ることに、幸福を感じているのだ。

維月は、なぜか込み上げて来るものがあって、背後の炎嘉を振り返った。炎嘉は、間近に迫った維月の顔に、問いかけるような視線を向けて来る。

維月は、そんな炎嘉にそっと口づけた。炎嘉は、少し驚いたような顔をしたが、そのまま維月を抱きしめた。そうして、深く口づけて、維月を抱きしめて離さなかった。

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