成長
再び月日は流れ、月の宮では、里帰りして来た維月を迎えていた。
維月がそこに降りたつと、子犬のように炎月が走り出て来た。
「母上~!」
維月は、微笑んで炎月を迎えると、抱き上げた。
「まあ炎月、大きくなったこと。ごめんなさいね、もう半年もお顔を見れなかったわ。今を逃してはまた来れなくなると、急いで参ったの…また、中秋もやって参ることだし。」
維月を迎えに行っていた、十六夜が後ろから言った。
「お前、龍王妃やってるからなあ。そう度々あっちを留守にするわけにも行かねぇしな。だが、炎月もこの前お前が帰って来た誕生日からこっち、結構大きくなっただろ?もう二歳と六カ月だ。」
維月は、頷いた。
「そうね、本当に。こうして抱いておっても、気を使わないと重くて維持できない程よ。」と、維織と、燐を見た。「お二人とも、本当にありがとう。こうしてこの子を世話してくれておると思うから、私もあちらで務めを果たせておるわ。維織も、元気そうでなによりよ。」
維織は、嬉しそうに頭を下げた。
「はい、お母様。あちらでは、大変に幸福にしておりますの。烙が大きくなって少しさみしいと思うておる時に、このお話でありましたので、我も楽しいのです。燐様と烙の幼い頃を思い出しながらお育てしておりますわ。」
燐も、進み出て言った。
「誠に楽しい思いをさせてもろうておるので。こちらは良い気に溢れておるし、我らもゆっくりさせてもろうておる。お気遣いなと無用であるのだ。」
そうは言っても、王族の二人を乳母のように使ってしまっているのだから、維月は気が退けた。
炎月が、言った。
「母上、父上がほとんど毎日来て下さいまする。我も、最近ではいろいろ師について学んでおるのです。そんなことを、夕刻に父上にお話しております。」
二歳半でこれだけの事が言えるのは、明蓮以来だなあと維月は思って見ていた。
もちろん、維明も維斗もこのようだった。維心の血筋だからだと思っていたが、炎嘉もやはり優秀な血筋であるのは間違いないようだ。
「まあ、父上はどのように?」
炎月は、こっくりと頷いた。
「はい。新しい言葉をよく学んでおると、褒めて下さいます。まずは言葉だと、たくさん教えてもろうておるので…燐殿も、とても博識でいられるので、師が帰った後も学んでおるので。」
そんなことまでしてもらっているのか。
維月は、恐縮して言った。
「燐様、いろいろと申し訳ありませぬわ。王族のかたにそのように御指南までさせてしもうておるなんて。」
燐は、笑って首を振った。
「そのような。指南と言うて話しておるだけよ。分からぬ言葉があれば、我が説明するだけ。なのでそのようにお気になさることはないのだ。」
燐は、焔とは違って何かを育てるという根気の要る事が苦ではない性格なので、そうやって面倒を見てくれているのだろう。現に鷲の宮でも庭で苔を育てていて、維月があちらへ行った時も、見事に育て上げてあって感心したものだった。
維月は、微笑んだ。
「燐様は何かを育てるということがお得意であられるから。私も炎月を任せて安心ですわ。」
維月が言うと、十六夜がせっついた。
「おい、立ち話もなんだから、話すなら部屋へ行ってからにしようや。ほら、炎月の部屋でもいいし。」
維月は、十六夜を見て少し、咎めるように言った。
「もう十六夜ったら。ご挨拶のようなものなのよ。そのように急がさないの。」と、抱いている炎月を見た。「では炎月、母とお話をしましょう。どちらでお話したい?どちらでも良いのよ。」
炎月は、嬉しそうに足をバタバタして目をキラキラさせた。維月は、びっくりした…遠い、人の頃に蒼達兄弟を育てていた頃のことを思い出したのだ。維心の子達は、皆このぐらいの年でも落ち着いていて控えめで、体全体で喜びを表したりしなかった。子供らしい子供を、本当に何百年ぶりかで見たので、とても懐かしい心地になったのだ。
思わず涙ぐむ維月を見て、炎月は驚いた顔をすると、慌てて小さな手で維月の頭を撫でた。
「母上?どうなさいましたか?我が重いですか?我は、己で歩けまする。」
維月は、首を振った。
「いいえ、そうではないのよ。」と、十六夜を見た。「蒼達を育てておった時のことを思い出したの。」
十六夜は、よくわかるという風に、頷いた。
「わかるよ。維心の子はこんな風じゃねぇだろう。維織は娘だしなあ。懐かしいな。」
維月は、頷いて心配そうにこちらを見つめる炎月を見た。
「あなたのせいじゃないのよ。あなたを見ていたら、とても懐かしい気持ちになってうれしくて涙が出てしまっただけ。案じずとも良いの。」
炎月は、ほっとしたように微笑んだ。
「母上は、前世の記憶をお持ちだと十六夜が言うておった。昔を思い出したのですね。」
維月は、頷いた。
「そうなのよ。炎月、ではどちらへ参りますか。あなたが好きな場所を申してみて。」
炎月は、またバタバタと足をばたつかせると、指を差して言った。
「あちら!学校の、図書室が好きなのです。毎日、あちらで師について学んでおるのです。」
まるで明蓮のよう、と思いながらも維月は微笑んで、そちらへと足を向けた。
「では、参りましょうか。何を学んだのか、母に教えてね。」
炎月は、それははしゃいで全身で嬉しさを表現しながら、維月の腕から降りると、それこそゴム毬のようにピョンピョンと跳ねながら歩きだした。
維月は十六夜と共に、維織と燐に会釈をしてから、そんな炎月の後を追って学校の方へと歩いて行った。
炎月は、本当に子供らしい愛らしい子だった。
炎嘉が王だということは理解しているのだが、自分がそのあとを継ぐとか、皇子だから凛としていなければならないとか、そんな気負いがない。
とても素直ではしゃぎ方がどこまでも子供らしく可愛らしい。
そのうえ、明るくて人見知りが無く懐っこく、途中回廊で会う侍女や侍従達にも気さくに話しかけて、相手もそれが初めてではないのか、笑顔で応えていた。
そんなところが、同じ神の子とは言っても、やはり炎嘉の子なのだなと維月は思った。
思えば、自分が神世へ来て産んだ子達は皆、十六夜との子以外は龍だった。
十六夜とは、蒼の命と維織。維心とは、将維、明維、晃維、亮維、紫月、緋月。今生、維明、維斗、瑠維。維心に離縁されていた時に嘉韻との間にできた、嘉翔。
総勢10人産んでいたが、全部龍なのだ。何しろ維心の子がめちゃくちゃ多いので、神の子とはみんなああなのだと思っていた。
だが、今回初めて鳥の子を産んで、この炎月の子供らしい可愛らしさはまた違った愛おしさがあった。
本当に、前世人として5人の子を産んで育てていた時のことを思い出す。この子供らしい動きは、本当に懐かしい…。
「母上!母上、御覧ください、あっち!」
維月がそう思って炎月を見ていると、炎月は見る間に足元へとやってきて、維月の袖を引いた。維月は、微笑みながら言った。
「はいはい、どちら?」
炎月は、図書室の窓から外を指さした。
「ほら、あちらに!鳥が居るのです、ほら!」
維月は、そちらを見た。確かに、神ではない普通の鳥がやって来て、コロシアムのへりの所で羽を休めていた。
「まあ、本当。美しいわね。なんと申す鳥なのかしら。」
炎月は、子供なりに難しい顔をして、うーんと唸った。
「きっと…父上なら、ご存じですね!鳥の王であられるから。」
維月は、頷いた。
「そうね。また今度、父上にお聞きしましょう。」
炎月は、頷いてから、ふと、顔を曇らせた。維月は、コロコロと表情が変わる炎月に、その顔を覗き込んだ。
「どうかしましたか?何か気になることがあるの?」
炎月は、少し困ったような顔をしたが、それでも、思い切ったように、言った。
「…母上は、父上とは一緒に居られぬのですか?」
維月は、それなのね、と答えに詰まった。確かに、炎月からは自分が産まれた理由などわからないのだから、そう見えるだろう。生後半年の時に、維心が気を使って説明はしたが、深く理解はできてはいないのだ。当然だろう…今ですら、こんなに幼いのだ。
「…そうね。炎月にはまだ難しいと思うわ。母は、龍王様の妃なの…父上の、ご親友であられるわ。あのかたが許されたので、どうしてもお子が欲しいとおっしゃる父上のために、母があなたを産み申したのよ。でも…わからないわね。もっと、大きくなったなら父上からもご説明があります。このような事になっておって、ごめんなさいね。」
十六夜が、見かねて言った。
「でも、維月はお前のことを大事に思ってるだろう?炎嘉だって毎日来るし、維織も燐もお前を大切にしてるじゃねぇか。お祖父様だってオレだって居る。蒼もよく様子を見に来るし。さみしいこたないだろう?」
炎月は、それには、渋々という感じて頷いた。
「我はさみしくない。皆が居て、皆が我に親切にしてくれる。でも、父上は…おさみしくないのかと、思うて。」
炎月は、炎嘉そっくりの顔でそう言って悲しそうに下を向いた。維月はそれがただ純粋に炎嘉を思ってのことなのだと身に染みて、どうしたものかと十六夜を見た。十六夜も、困って維月を見返す。維月は、炎月をそのままにしておけなくて、そっとその頭を撫でた。炎月にとって、炎嘉は大切な父なのだ。その父に、自分が大好きな母に傍に居てほしいと思うのだろう。
「…炎月…。父上にも、きっと宮にたくさんの鳥たちが居るのです。それに、あなたも居る。とてもお幸せだと思いますよ。あなたがこうして良い子であるし、だから父上は、毎日あなたのお顔を見に参るのだと思うわ。」
そう言うより、なかった。維月も、炎嘉のことは案じていたのだ。炎嘉は、前世21人もの妃を持っていて、誰も愛していなかったにしろ、孤独ではなかった。だが、今は誰一人として娶ることもなく、心の支えにしているのは維月との逢瀬だったと本人が言っていた。だが、その維月は親友の維心の妃で、維月は維心を心から愛していた。孤独でないはずはなかった。
今回、炎月が生まれてそれは喜んだのも、炎月に毎日会いに来るのも、恐らくはそんな炎嘉の気持ちの拠り所だからではないだろうかと思えるのだ。
炎月は、維月を見上げた。
「誠に?父上は、王であられるから。きっと、たくさんの鳥たちが居るのでしょうね。」
維月は、期待に満ちた目で自分を見上げる炎月を抱きしめながら、頷いた。
「ええ。父上はそれは偉大な王であられるのよ。皆父上を敬って仕えておるの。あなたも、もう少し大きくなったらあちらで皆に会うことができるでしょう。皆楽しみにしておるようよ。」
それには、炎月はにっこりと笑った。
「侍女達もそう言うておりました。伊予も。皆、我を待っておるのだと。我は、早う大きくなって父上と共にあちらへ参らなければ。」と、維月を離れたと思うと、側の本棚へと走って行き、そうして、何かの本を手に取ると、持って戻って来た。「母上、見てください。これで、字を習っておるのです。蒼が、これはワークブックというもので、我にくれるから、直接に書き込んで覚えろと。」
維月がそれを聞いて開いてみると、中にはたどたどしい文字がたくさん書かれてあった。
蒼が言った通り、これは漢字を覚えるためのワークブックで、人世などでよく使われている書き順などが記されてあるものだ。それに、筆ではなく鉛筆で字が書かれてあって、後ろのほうへ行くほどに、それは綺麗にまとまるようになって来ていた。
維月は、それを見て言った。
「まあ炎月、大変に上手になっておること。でも、筆の文字は?手習いしておるのですか。」
炎月は、嬉しそうに維月のひざ元に取り付いて、頷いた。
「はい、母上。父上が、お手本を下さるので、それを見て毎日部屋で手習いしておりまする。我の部屋に参ったら、それもお見せできます。」
維月は、微笑んで頷いた。
「では、後で参りましょうね。今は、お茶でも。さあこちらに座って。母にもっといろいろお話してちょうだい。」
炎月は、素直に示された椅子へと座ると、十六夜と二人で挟む形に座る維月を見て、嬉しそうに話を始める。
維月は、これが炎嘉の子供の頃の姿なのだろうな、と思いながら、微笑ましく炎月の話を聞いていた。