理由
翠明も忙しい身で、やっと綾を連れて定佳の宮へと行けたのは、正月も節分も過ぎたある日のことだった。
あちこちで子が生まれただの、跡継ぎがどうのという話を聞くが、生憎翠明はそのどれにも困っていなかった。
綾に定佳の宮へ連れて行けと言われてからもう半年、綾も最初は早く早くとせっついていたが、翠明がどれほどに忙しいのか側で見ていた事もあって、もうため息をついて、何も言わなくなっていた。
だが、いくら何でも放って置くことは出来ない。
定佳からは、あれからも緑翠は一生懸命に努めて良い跡継ぎぶりだと知らせては来ていたが、あれから突っ込んだ話をしたのかと聞くと、そこには怖くて触れていない、とのことだった。
何しろ定佳も子育てなどしたことがないので、どうやって緑翠の気持ちを汲めばいいのか分からなかったのだ。
綾にはその文を見せていたが、何も解決しておらぬ、と言う。確かにそうなのかもしれないが、あいにく緑翠の心の中まで翠明には分からなかった。
そんなわけで、やっとの思いで綾を伴い、翠明は定佳の宮へと降り立ったのだ。
定佳が、緑翠と並んで到着口で待っていてくれた。
「定佳。」
翠明が、綾の手を取って輿から降り立つと、定佳は微笑んだ。
「よう来たの、翠明。」と、綾を見た。「久しいの、綾殿。」
綾は、深々と頭を下げる。翠明は、答えた。
「すまぬな、長く顔も出せずで。何やら鳥の宮の方も跡目が決まり、告示されて二年ほど、皇子が月の宮に居るとかで、その挨拶やら祝いやらでてんやわんやであったのだ。」と、緑翠を見た。「緑翠も、よう務めておるようよ。背も伸びたし体つきもしっかりとして参ったな。立派に成長しておるわ。」
綾も、扇を上げてはいたが、その上から綺麗な紫の瞳でじっと緑翠を見て、微笑んでいる。定佳は、奥へと促した。
「では、主らは久しぶりに親子で歓談でも。緑翠の対へ向かうが良いぞ。夕刻には宴を準備させておるゆえ、出て参れば良い。その時に話そうぞ。」
しかし、歩き出しながら、翠明は言った。
「それでも良いが、我は先に主に話しがあっての。」と、綾を見た。「綾、主緑翠と先にそちらへ参っておってくれぬか。すぐに参る。」
綾は、美しく頭を下げた。
「はい、王よ。」
そうして、侍女達を引き連れて、緑翠に案内されるままに、皇太子の対へと向かって歩いて行く。
その背を気遣わし気に見送ってから、翠明は、定佳を見た。
「…少し、あれに話をさせようと思うて。やはり幼い頃より共であるから、綾には心当たりがあるとか申しておったのだ。早う連れて参れと言われておったのだが、あれから半年も放ったらかしにしてしもうて。すまぬの。」
定佳は、歩きながら苦笑した。
「ま、しようがないものよ。我らとは違い、主は東と西の代表のように付き合っておるからな。我もあの折は案じたが、あれから緑翠はあれのことについて何も言わぬし、弱音を吐く事も無く尚一層精進しておってな。もう問題ないやもしれぬと思うておったところ。我こそ大層な事のように申して、主に心労を掛けてしもうてすまぬな。」
翠明は、息をついた。
「子の細かいことなど、父親には分からぬ。綾に聞くよりないのだが、あれもそのうちに緑翠の口から語らせるとか申して…何も教えてはくれぬのだ。どうせ分からぬとでも思うておるのだろうの。ま、子育てはあれに任せきりであるから、しようがないのだがな。」
定佳も、それには顔をしかめて頷いた。
「子の気持ちなど分かるものか。我も皆目でどうしたものかとあの折は途方に暮れたわ。お互い様よ。」
そうして、定佳と翠明は揃って定佳の居間の方へと歩いて行ったのだった。
緑翠は、回廊を歩いて、そこから見える庭に見惚れて立ち止まる綾に付き合って説明しながら、相変わらず完璧な貴婦人である母に感心していた。
立ち姿さえもそれは美しい。自分の母で、側近くに過ごしていたので、王の妃というのはそんなものだと思っていたし、それに神の女とは皆そうかなぐらいに思っていた。
だが、皇子としていろいろな宮の皇女などを見て、そうではないことを知った。
自分の母は、それは高貴な美しい女だった。
幼い頃は、そんな母が眩しくて、どうしたらそんなに美しくなれるのかと、聞いた事もあった。
母は困ったように微笑んで、こう答えた…『まあ緑翠、母は妃であるからよ。父上のために美しくと、日々精進しておるの。それしか、父上のためにして差し上げられることが無いから。でも、あなたには力があるわ。それに、大変に利口であるし。そちらで助けて差し上げられるのだから、あなたはそちらを磨けば良いのよ。そうすれば、内側からそれは美しく輝くのよ。』
緑翠は、それを信じて一生懸命精進した。父と母のどちらに似ているかといえば、父だろうと言われていた緑翠だったので、臣下も緑翠にはとても親切だった。
だが、兄はそれよりずっと優秀だった。
兄は大変に勤勉で、母そっくりの顔で美しく、誰もがその姿に見とれて立ち尽くす。立ち合いですら緑翠は一度も勝てたためしがないぐらいだった。
そんな兄を見ていると、母を思い出した。なんと美しく全てに秀でたかたなのだろう。我もあのようになりたい。
そうして、兄の紫翠の背を追って、毎日精進していたのだ。
そして、そんなある日に、定佳に出会った。今まで、宮の中で軍神達や兄、父としか立ち合ったことの無かった緑翠には、定佳との立ち合いは、とても衝撃的だった…。
そんなことを思い出しながら、母が庭を眺めている後ろで立ち尽していると、ふと、綾は言った。
「…美しいこと。この宮の主の気質を思わせるわ。すっきりと落ち着いておって洗練されておるのに、脇に小花などが散りばめられてあって暖かい。このようなかたなら、あなたも安心してついて参っておることでしょう。」
緑翠は、それを聞いて微笑んだ。
「はい…あのように立派な王であられるのに、己が優れていると判断したものには素直にそのようにお口にされます。ご自分も素晴らしい御手であるのに、我の書を見てそれは感心なさって…母上に教わったからかと、我に指南をとおっしゃるぐらいで。気取りのないかたで…。」
段々に、声がしりすぼみになった。綾は、じっとそれを聞いていたが、それは美しく微笑み返した。
「…良かったこと。では、あなたが今どのような場で過ごしておるのか、母に見せてくださる?」
緑翠は、頷いて、綾を伴って自分の対へと綾を連れて入って行った。
そこは、翠明の宮と並ぶ大きさがある定佳の宮の皇太子の対らしく、広く王の居間と同じぐらいの大きさのある美しい場所だった。
綾は、その居間へと足を踏み入れると、庭に向かって開いている大きな掃き出し窓の方へと足を進めて、うっとりとそこから見える北の庭へと視線をやった。白い壁に金色の窓枠がまるで額のようだ。綾は、ほうと息をついた。
「まあ美しいこと…。こちらはまた、父上の宮とは違った趣があるわね。我はこちらも好きよ。」
窓際に綾が立つだけで、その場はそれは美しく華やかな様になる。こちらの侍女達も、そんな綾に見とれていた。緑翠は、綾に歩み寄って、その窓を開いた。
「母上、庭へ参りまするか。」
綾は、にっこりと笑って扇を閉じると、それを胸元に挿して、手を差し出した。
「では、参りましょう。」
緑翠は、母の手を取ると、母が小さくなったように思って驚いた。緑翠自身が、大きくなっていたのだが、今の今まで気付かなかったのだ。
「母上、お小さくなったと今、驚き申しました。ですが、我が育っておるのですね。」
綾は、歩き出して袖で口元を抑えながら、微笑んだ。
「本当に。紫翠よりよう育っておるやもしれませぬ。こちらでどれほどに精進しておるのかと思いまするわ。」
緑翠は、綾の手を取る自分の手の大きさを見た。いつの間にか、こんなに育っていたのだ。たった1年半しか経っていないのに。
「我は…一人前になっておるでしょうか。」
綾は、そんな緑翠を横目に見ながら足を進めて言った。
「そうね。我から見たらいつまでも子供であるけれど、こうして離れてから久しぶりに見ると、これほどに立派になってと驚いたわ。あなたは、本当に父上と体の形まで似ておるのだと思うた次第よ。紫翠は、今少し細身であるの。」
緑翠は、少し驚いた顔をした。
「え、兄上が?」
あの頃は、我より体が大きかった。
緑翠はそう思ったが、綾は頷いた。
「背は高くなったけれど、あなたの方がしっかりとした体つき。紫翠は我に似たのか今少し胸板が薄いの。もちろん、これからの鍛え方次第でどうなるか分からぬのですけれどね。」
緑翠は、この1年半母同様顔を見ていない兄のことを考えた。確かに紫翠には、やることがたくさんあって、時に月の宮や龍の宮へ出掛けて行くこともある。そんな時は、大概が明蓮という軍神に会いに行っていて、その賢い龍にいろいろ教えを乞うているはずだった。
緑翠のように、政務の学びの間に立ち合い三昧というほど、時間が無いのだと思われた。
「兄上には、時が我ほど無いのかと思われまする。こちらとは違って、父上は東との交流も活発でありますし、兄上はそれも学ばねばならぬ。我は今は、傘下の宮ぐらいしか出掛けることもありませぬし、後は宮で立ち合いばかりをこなしておって…それゆえかと。」
それでも、緑翠の成長には目を見張った。恐らく今の緑翠と紫翠が並べば、緑翠の方が年上に見えるかもしれない。
「あなたがよう努めておるようで、我も安心したわ。もう、子供扱いは出来ぬわね。」
緑翠は、綾のこちらをねぎらうような視線に、癒しを感じた。幼い頃から、この母は自分をよく見ていて褒めて欲しいところを褒めてくれた。そうして、それに癒されて、母が見ていてくれるからと頑張ることも出来たのだ。
「…母上は、お変わりになりませぬな。」
綾は、少し驚いたような顔をしたが、フフと笑った。
「あら。少しは老いておるかと思うのよ?これでも父上より年上であるし。」
緑翠は、慌てて言った。
「いえ、そういったことでは。確かに見目が麗しいのはそのままであられるが、我が申すのは、そのお心で。」
綾は、まだ笑ったまま、目の前に見えて来た、池に足を止めて、目を向けた。
「わかっておってよ。あなたは、いつまで経っても我の愛する皇子であるもの。」と、何でもないように、続けた。「それで…あなたは、幼い頃から変わったのですか?我には、そうではないと思うのですけれど。」
緑翠は、体を震わせて固まった。手が震えているのを感じ取った綾は、スッと緑翠に視線を向けた。
「良いのよ。元より我は、だからこちらへあなたをやると王が言い出した時、良いと思うたのだもの。きっと、あなたの気持ちを分かってくださるかただから。あのまま父上の側に居ったら、あなたは己を偽り続けねばならなかったでしょう。もちろん、後に考えが変わる事も有ろうけれど、その時はそれでも良いのだし。でも、あなたはまだあのかたにご相談しておらぬのね?」
緑翠は、下を向いた。そうして、頷いた。
「はい。言い出すことが出来ませなんだ。それに…他にも、言えぬわけがございます。」
綾は、頷いた。
「ええ。知っておってよ。」緑翠が驚いた顔をすると、綾は続けた。「定佳様を、想うておるのでしょう?」
緑翠は、思わず絶句して綾をまじまじと見つめた。なぜ…なぜに知っておるのだ。誰にも、言ってはおらぬのに。




