諦め
維心は、十六夜からの知らせを受けて、約束通りひと月後のその日に月の宮へとやって来た。
十六夜から、だいたいのことは聞いている。維月は、あれだけじっとしているのを嫌うにも関わらず、十六夜と維月の部屋とその前の庭にしか出ることもなく、じっと籠っているそうだ。そこには十六夜の結界が張られてあって、事実上、維月は閉じ込められている状態に、自らなっていた。
とはいえ、陰の月の力を使えば簡単に出て行けるのだが、維月はそれをしないし、するとしたら陰の月人格しかないので、十六夜がガッツリ見張っていてそれはありえなかった。
一歩でも結界を出たら十六夜が飛んで来るので、この一カ月は面倒は起こっていなかった。
維心は、維月に会いたくてジリジリしていたが、それでも会ったところでどうにもならない。維心の気は強過ぎるので、腹の子が自分の子ではない限り、どんなに大きく育っていようとも一瞬にして消し去ってしまう。まして今のように初期の段階では、本当に何事もなかったかのように綺麗さっぱり消し飛んでしまうはずだった。
維心は、一度は約束した炎嘉の子を、そんな風に消し去りたくはなかった。
到着口へと着くと、蒼が待っていた。
「蒼。」
維心が、連れて来た帝羽と共にそこへと降り立つと、蒼は頭を下げた。
「維心様。」と、頭を上げて、「この度は、その…いろいろと。」
蒼が言いにくそうにすると、維心はもう、諦めたように頷いた。
「もう良いわ。義心のことがあってから、我は気が気でなかったのだが、炎嘉の子ならばあきらめもつく。元々、今回炎嘉の子をと思うておったのだからな。維月はどうよ?」
蒼は、奥へと足を向けながら、困ったように言った。
「ずっと部屋に籠ったままなんですよ。自分から言って、十六夜に一歩でも結界を出たら止めろって。陰の月はすんなり陽の月の結界を抜けますから、そうでもしないと何をするか自分でも分からないって。」
維心は、心配そうに顔をしかめた。
「じっとしておるのが苦痛な維月であるのに。なんと不自由なことを…それしか、方法は無いのか?」
蒼は、息をついた。
「はい。碧黎様が陰の月を封印すると維月ではなくなると言って。というのも、やはり普段から維月は、陰の月を使っている時もあったようで。その…維心様と褥でとか…ほら、褥でなくとも居間で甘えたりあったでしょう?あれも、陰の月を使ってたって。適度に使っていたわけなんですよ。だから、それがなくなると、めっちゃ淡泊な維月が残るんじゃないかって。そうなると、元へ戻そうにも陰の月を封じた反動から、陰の月だけの維月になってしまうこともあると…そうしたら、かなり面倒でしょう?」
維心は、何度も首を振った。
「維月に無理はさせられぬし!しかし、今までの維月に戻すにはどうしたら良いのだ。そうやって十六夜が見張っておるより他ないということか。」
蒼は、それには首を傾げた。
「何やら陽の月の気を身に着けていたらいいんじゃないかとか聞きましたが、まだ深くは聞いていません。十六夜の気を玉にして頚連を作るとか、そんなことを言っていましたが、今はまだやっていませんでした。詳しくは、十六夜に聞いてみたら良いかと思います。」と、ハッと後ろを振り返った。「あ、炎嘉様が結界を通った。オレ、お迎えに行って来ます。維心様、先に十六夜の部屋へいらしてください。」
維心は、頷いて足を速めた。
「行って参る。あれが来るまでに維月と話しておきたいと思うておったのに。ではの。」
そう言って、維心はサッと去って行った。
蒼は、炎嘉が到着口に来てしまうので、自分も急いでまた、来た道を戻って行った。
維心が十六夜の結界が張られてある扉へと手を掛けると、扉はスッと開いた。
すると、中には、維月が居てこちらを振り返った。そうして、維心を見とめると、見る見る涙ぐんで頭を下げた。
「維心様…この度は誠に、維心様に顔向けできぬようなことを…。申し訳なくて、もう龍の宮へも帰ることが出来ませぬ。」
維心は、いつになく打ちのめされた様子でこんな所に籠められたままになっている、維月が哀れに想えて来て、その手を取って引き寄せた。
「もう良い。義心の子であることを思うたら、炎嘉の子の方がいくらかマシよ。それに、元々炎嘉とは取り決めがあって、此度こうするつもりであったしの。だがしかし…面倒なことになってしもうて。陰の月の人格は、やはり押さえられぬか。」
維月は、頷いた。
「はい…。ただ、やはりこうして十六夜の気の近くに居ると、出て来ぬようでございます。父が申すに、段々に段階を踏んで、十六夜の気を感じることで陰の月を押さえられるようにして行くのが良いのではと。今は籠められておりますが、本当に陰の月の人格は出る様子もありませぬ。これに慣れて参りましたら、十六夜の気の玉を定期的に飲み込んでそれで押さえるように。それにも慣れて参ったら、十六夜の気の玉の頚連を作って、それを首にかけておるだけで何とかなるのではとのことです。そうやって、段々に元の状態に戻して行けるのではないかとのことでございます。」
維心は、維月を抱きしめた。確かに炎嘉の気が腹からするが、炎嘉ならそう腹が立つこともない。そもそも、仕方がないかと諦めていた炎嘉との子なのだ。義心の時に感じた憤りはなく、むしろ炎嘉で良かったとホッとしていた。
すると、扉が開いた。
「…維心。」
維心が振り返ると、そこには炎嘉が立っていた。蒼が、付き従って来ていたが、言った。
「では…オレはここで。また、何かありましたらお呼びください。」
炎嘉は、蒼を見て頷いた。
「ご苦労だったの。ではまた後程の。」
蒼は、頭を下げて出て行った。維心は、維月を座らせてから自分も横へと座り、炎嘉に言った。
「…座るが良い。炎託の葬儀は無事に終わったようだの。」
炎嘉は、頷いた。
「将維が来ておったが、あれもやっと諦めたようだったの。墓所に収める時には、もう吹っ切れた様子であったわ。」
維心は、頷いた。
「あれが行きたいと申すので我の名代で行かせた。あれも前世我が主を失った時のように、喪失感がぬぐえなんだのだろう。」と、維月を見た。「…それで、であるが。主、義心の気を消したのだの。そのことに関しては礼を申すわ。我は我慢がならなんだが、どうあっても十六夜と碧黎が阻んでそれをさせてはもらえぬでの。口惜しい心地でおった。」
炎嘉は、頷いた。
「主がせぬなら我がやると思うた。我とてあのようなもの、残っておるのは我慢がならなんだ。がしかし…あの折の人格、陰の月の方だったようよ。あれから十六夜が訪ねて参って、我に説明した。ゆえ、維月が今どれほどに面倒な状態なのか理解しておる。こんな時に維心にはすまぬと思うておるが、我は我が子を殺しとうないのよ。なので、このまま産んでもらえればと思うておる…どうか、許してはくれぬか。」
維心は、じっと炎嘉を観察した。炎嘉からは、本当に維心に対して気を遣っているらしく、こちらを気遣う気が真っ直ぐに向かって来ていた。あれだけ望んでいた、維月と自分の子が今、そこに居るのだ。それを、何としても腕に抱きたいと思うのだろう。炎嘉が思っている通り、腹の子の命は、維心の気持ち次第だ。維心が否と言ったら、維心の妃であるのだからその強い気で一気に消し去ることが出来るからだ。
しかし、維心はため息をついた。
「もう、諦めておる。そもそも、主に許そうと思うておったこと。仮に皇女であったとしても、すまぬがこれ一人とさせて欲しい。我とて、本当なら我慢がならぬのだぞ。だが、主が生きて我と共に今生を生きてくれると言うたから、それに対しての我の礼よ。なので、此度だけ。まあ陰の月問題が解決しておらぬので、そちらの対策を取る間こちらに居った方が良いし、良い折ではある。どうも十六夜の側に居た方が良いようであるからの。我は、生まれるまでの間こちらへ通って維月に会うわ。もちろん、主の子を殺すようなことはせぬゆえ案じるでない。それで良いな?」
炎嘉は、頷いて維心に頭を下げた。維月は、そんな炎嘉に驚いたが、炎嘉は言った。
「感謝する。皇子でも皇女でも良い。今生、我の子が居るというだけで、我も生きる張りが出るというもの。これで主にはもう、無理は言えぬようになった。」
維心は、答えた。
「良い。どうせ共に世を治めて参るのだ。前世と同じ。これからいくらでも助けてもらう時が来ようぞ。産むのは維月であるからな。我はこれの体を案じておるが、碧黎が居って大事はなかろうし。とにかくは、時を待とうぞ。」
炎嘉は、頷いた。確かにここで、しっかりと陰の月を抑えられるようになってもらわないと、この後もややこしいことになる。今までは、維心がガッツリと守っていたので炎嘉も案じることは無かったが、他ならぬ維月自身があっちこっちへ出掛けて行って子を成すなどということになれば、炎嘉だって心中、穏やかではなかった。なので、ここで出産を待つ間に、本当に何とかしてほしかった。
「此度は陰の月のお陰ではあるが、それでも案じられる。今までは維月の良識もしっかりしておったし、維心が守っておったゆえ安心しておったが、あれではまた他の間違いも起ころうし。ここでしっかり対策を練ってから戻って欲しいものよ。」
それには、維心もすぐに頷いた。
「誠にそうよ。維月自身もつらいであろうし、己の判断が時によって変わるなどたまらぬと思う。我だって別の人格があって、あちこち出掛けて行っては子を作るようなことをする人格であったなら、病んでしまうわ。」と、隣りでじっと黙って聞いている、維月の頬を撫でた。「すまぬな。主の心の負担になるのに、我が騒いでは主ももっとつらかろう。案じずとも宮には闇と対峙して具合が良うないと言うてあるゆえ。出産を終えたら戻って参れば良い。」
維月は、涙ぐんだまま維心を見上げた。
「はい…誠に申し訳ありませぬ。」
すると、維月の目が薄っすらと赤くなった。そうして、維心に向けてフワッと陰の月の気が流れるのが見え、維心が思わず息を飲むと、維月は維心の胸に身を摺り寄せた。
「維心様…。」
維心は、その気に身を震わせたが、維月を抱き寄せるに留めた。そして、思った。なるほど、こんな時に維月は陰の月を使っておったのか。
維心が納得していると、炎嘉が面白くなさげに言った。
「我の子を腹に抱えておっても、変わらぬの。で、今何を思うたのだ、維月。陰の月が出ておるのだぞ?今。」
維月は、驚いたような顔をした。目が、スッと鳶色に戻る。
「も、申し訳ありませぬ。あの…維心様を愛しておると、そのように。心の底から思うた次第でございます。」
維心は、維月を抱いている手に力を入れて、頷いた。
「分かっておる。主は我を愛しておる。だからこそのその気であるのだから。主の心を疑ったことなどないゆえ、案ずるでないぞ。」と言ってから、じっとまた赤くなろうとしている、瞳を見つめて続けた。
「だが、これが最後ぞ。分かったの?陰の月の人格の主に申している。これ以上我の愛した人格の維月を苦しめるでない。我の愛情も誰彼構わぬ女などには向かぬぞ。いくら気を慕わしくしようとも、離縁する。聞いておるな?我を失いたくなくば、そのようなことはするでない。」
維月は驚いた顔をしたが、赤くなりかけていた目が、またスッと鳶色に戻った。
そして、ハッとした。
「…今、出て来ようとしておったのですわ。炎嘉様の御子が居る上十六夜の結界の中なのに、そんなことなど忘れておるかのように、維心様を誘おうとしているようでした。ですが、維心様のおっしゃりように驚いたように、スッと退きました。あのような性質でも、維心様を失うのは嫌なのですわ…。」
維月は、納得したように遠い目をした。何やら悟ったように、考えている。
愛しているからか。
炎嘉は、そう思うと面白くなかったが、それでも今は、維月の腹には自分の子が居る。少なくとも陰の月は、子を産んででも自分を慰めようというほどには自分を想っているのだ。
なので、炎嘉は言った。
「…気に食わぬが、しかし我とて同じ。維月が維月であるからこそ愛しておったが、しかし誰彼構わずなのは維月ではない。今まで通り大人しゅうして時に出す方が良いのだ…離れて参るのは、維心だけではないわ。」
それには、維月はもはや落ち着いた様子で、頷いた。
「はい。あれも私自身でありますので、心の底で聞いておりますわ。同じ記憶を有して、ただ性質だけが変わる様子なので…今お二人がおっしゃったこと、何か起こる瞬間に思い出すのではないでしょうか。そうしたら、失うものの大きさと、目の前の何かと、比べてきっと踏み込まぬと思いまする。そのようにハッキリとおっしゃって頂いて、大変に有難いことでございます。」
維月は、少しホッとしたように穏やかな顔をした。十六夜の力だけでなく、他にも抑える要因があることは、歓迎すべきことなのだろう。
維心がホッとしていると、庭に十六夜が降り立ったのが見えた。こちらへずんずんとやって来るのに待っていると、掃き出し窓から入って来て、言った。
「よう。見てたし聞いてたぞ。そうか、オレが抑えるんだったら、維心だって抑えるよな。聞いてて道理だと思ったよ。だって維月は、オレと維心を愛してて失いたくないって強い気持ちがあるからさ。それこそ、潜在意識レベルで。」
炎嘉が、睨むように十六夜を見た。
「こら。我も居るのだ、少しは遠慮せぬか。維月が主らを愛しているのは知っておるわ。だが我にだって子を産んでもいいぐらいの愛情はあるんだと思うておる。」
十六夜は、チラと炎嘉を見た。
「って言ったって結局陰の月が出てる時のことじゃねぇか。まだこんなことになる前には、お前の子を産むとかの話をした時、これ以上維心に心労を掛けたくないから、出来たら産みたくないって言ってたんだからな。」
維心は驚いた。そんなことを十六夜と話していたのか。
だが、炎嘉はますます不機嫌な顔をした。
「ふん。恐らくはそれが維月の本音であろうな。維月は主には隠し事などせぬのは分かっておることであるから。だが、それでも腹に居る子には罪はないわ。産んでもらう。ゆえ、今更であるわ。」と、立ち上がった。「もう良い、我は維心に話を通しに参っただけよ。気が進まぬのであろうが、生まれたら我の子であるし、我が世話をするゆえ余計な心配などせぬで良い。ではな。」
踵を返す炎嘉に、維心が言った。
「炎嘉!」
しかし、炎嘉は振り返りもせずに出て行った。維月は、困ったような顔をして十六夜と維心を代わる代わる見ている。維心は、十六夜を軽く睨んだ。
「…主。誠のことでも今言うことではなかろうが。炎嘉は維月が己を愛しておらぬことは知っておる。だが、それでもあれは維月を愛しておるのだ。此度のこと、恐らく嬉しかったのだと思うぞ。それなのに、ここで水を差すようなことを。」
しかし、十六夜は維心を睨み返した。
「あのな。これ以上維月があっちこっちならねぇためにも、あんまり調子に乗る男は増やさねぇ方がいいってオレは思ったんでぇ。確かにオレは、誰と寝るだの子どもがどうだのそんなの興味はねぇが、それでも維月自身がここ最近どんなに悩んで苦しんでたか知ってるか。お前を苦しめてるし長い事離れてなきゃならなくなるってそりゃあ悩んでたんだぞ。じっとしていられねぇこいつが、じっと自分からここに籠って…こいつがどんなにお前を好きか、お前ほんとに知ってるのか。」
維心は、戸惑った。維月自身は、案外平気なのだと思っていたのだ。なので、自分の気持ちばかりを気にしていたが、維月も維心のために、それは苦しんでいたのだ。
「…すまぬ。案外に平気だと思うておったのだ。主らはそういう命であるし…だが、維月は己の事ではなく、我の気持ちを思うて苦しんでおったという事よな。もちろん、我は維月がどれほどに我を愛しておるのか知っておる。主を差し置いて我を選んだぐらいぞ。分かっておる。」
維月は、十六夜がずけずけ言うので困って下を向いていた。十六夜は、それには顔をしかめた。
「お前を差し置いてじゃねぇだろうが、オレが居るけどお前もだろうが。維月はオレの事だって同じぐらい愛してるんだよ。勝手に上の立場になるな。」
維心は、いつもならむきになるところなのだが、今はそれどころでない気持ちだったので頷いた。
「そうよな。すまぬ。」と維月の手を握った。「己の事しか考えずにすまぬの。我は主を愛しておるから。そうやって悩む良識のある主をの。だが、我を愛する気持ちがあるのならきっとこれよりは大丈夫よ。我のことは案じず、主は主のことだけを考えておれば良いから。」
維月の目がまた、薄っすらと赤くなったが、スッと引っ込んだ。と思うと、維心に抱き着いて胸に頬を摺り寄せた。
「はい。きっと抑えられるように、十六夜と父に助けてもらって、この一年努めますわ。」
お…?今少し違う反応であったな。
維心はそう思いつつ、そんな維月を抱きしめて、これからのことを考えていた。