仕合い
定佳は、思ったより上達している紫翠に驚いた。紫翠は、まるで成人した神のような落ち着いた立ち合いをする。それは、最初に指南するようになった幼い頃からで、なんと器の大きな子供なのだと思ったものだった。
だが、緑翠は違った。子供らしい立ち合いで、しかし、確かに子供にしてはよく精進している方だった。
今もむきになって必死に定佳に掛かって来る様は、自分の青年時代を思い出した。甘い所を教えるために、幾度かわざと全く同じ型をしてみたら、すんなりとそれを正した。物分かりもよく、素直な性格が立ち合いの動きを見ていると伝わって来た。
…これならば、恐らくは王として今から育てればそれなりにやりおるの。
定佳は、そう思っていた。
日が暮れて来たのを感じて、いくらか受け流してから、定佳は立ち合いを終わらせようとサッと刀を振った。
緑翠の手から刀が飛んで、それを慌てて追ったが地に突き刺さった。定佳は、刀を鞘に納めた。
「…よし。では、そろそろ我は帰らねばならぬの。」と、紫翠を見た。「よう精進しておるわ。緑翠も素直な良い立ち合いをする。このまま良い師について精進しておれば、恐らくはいくらでも伸びような。これからが良い時よ…羨ましい限りよな。」
緑翠は、すがるように定佳を見上げた。
「定佳殿、もう一度、もう一度でよろしいのです。相手頂けませぬか?」
緑翠は、美しい山吹色の瞳でじっと定佳を見上げて、必死に訴える。定佳は、困ったように微笑んだ。
「我も王であるからの。もう戻らねば臣下がうるそうてならぬのよ。またこちらへ来ることがあれば相手してやるゆえ。それまで精進しておけば良い。」
しかし、緑翠は必死だった。
「今一度で良いのです。我は…兄上にも父上にもまだまだ遊戯程度にしか相手にして頂けぬのです。定佳殿は我に悪い所を己で悟るように立ち合ってくださる。我にとり学ぶところが多く…上達するように思うのです。」
定佳は、必死な緑翠に、これを振り切って帰るのは気が咎めると困っていると、後ろから、翠明の声が言った。
「こら。定佳が困っておるではないか。それが指南上手なのは知っておるが、無理を申すでないぞ。」
定佳は、振り返った。
「翠明。」
翠明は、苦笑して寄って来た。
「すまぬな。我も加わろうと思うたがもう夕刻になってしもうたわ。会合に手間取ってしもうての。」
定佳は、もしかして自分が持って来た案件かと問うような視線を翠明に向けた。翠明は、それを気取って頷いた。
「臣下にも我にも異論はない。だが、後は本人に聞いてみぬとの。」
定佳は、頷いた。では、後日になるな。
「ならば本日はこれまで。我は戻る。」
翠明は、しかし首を振った。
「待て、定佳。」と、緑翠を見た。「緑翠、主はこの宮の、跡取りは誰か知っておるな。」
緑翠は、背筋を伸ばして翠明に少し、頭を下げて答えた。
「は。紫翠兄上でありまする。」
紫翠も、急に何を言い出すのかと、翠明を怪訝な表情で見ている。翠明は、頷いた。
「そう。我はこの宮を、紫翠に譲る。主のことを気にかけておった…我には別宮がないゆえ、主は臣下になるゆえ。そうしたら、本日、定佳から主を跡取りに欲しいという話が参った。」
緑翠は、驚いた顔をした。紫翠も、目を丸くしている。定佳がもっと老いた王ならそんなことも考えられないことはなかったが、定佳は翠明よりも年下で、300歳ぐらいで若いのだ。まだまだ、妃を娶って跡取りを作ることも難しくはない年齢だった。
しかも、定佳の領地はこちらと繋がり、かなりの広さがあった。そこをその、南西の王の血筋に譲るというのだ。
紫翠が、割り込んだ。
「お待ちを。父上、そのお話は性急ではありませぬか。定佳殿はまだお若い。父上よりお歳が下でありまする。これからのことを考えると、やはりお血筋が継がれることになるではないかと。」
翠明は、苦笑した。紫翠なりに緑翠を案じているのだ。廃嫡になり出戻ることになれば、緑翠はこちらでの立場も悪くなる。またこの宮を一から学ばねばならなくなるからだ。
それには、定佳が答えた。
「我は元々軍神家系の王であるのだ。三代前の曽祖父が筆頭軍神の時に、王が亡くなられて王の血筋が途絶えてしまった。その時に臣下に推されて即位したのが曽祖父、定宝。我はその筋であって生まれながらの王の血筋ではない。こうしてここまで来たが、我は子を残すことは無い。恐らくは、生涯の。なので、翠明のような王族として生まれて育った本当の王の血筋の子に、あの地を守って欲しいと思うのだ。」
紫翠は、怪訝な顔をしたまま言った。
「ですが、定佳殿は大変に立派な王だと皆言うておりまする。軍神であったのは定宝様であって、定佳様は生まれながらの王であられる。誰もそれに異論をはさむ者など居らぬのに。御子が出来たら、跡取りにすることに誰も反対しませぬでしょう。」
それには翠明が、言った。
「いろいろあるのだ。我は幼い頃より定佳と共に育ったゆえ、これの考えはよう分かる。緑翠を跡取りにと申すなら、我は良いと思うておる。ただ、緑翠がどう思うかよ。緑翠のことは、我も案じておった。紫翠も優秀であるが、緑翠も勤勉で良い皇子ぞ。双子であったらどちらを跡目に据えるか迷うところ。それが、定佳の所で育ててもらい、そこで王として立つと申すなら、これよりのことは無いと思っておる。」
紫翠は、訳が分からぬようだった。理由を知らぬのだから仕方が無かった。何も知らない者ならば、紫翠と同じ反応をしただろう。確かでない所に、はいそうですかと、大事な弟をやるわけには行かぬと思っているのだ。
緑翠は戸惑いながらも黙っているが、紫翠が納得しない様子に、翠明が困った顔をしていると、定佳が言った。
「…そうよな、主はどうよ?」と、紫翠に、定佳は言った。「将来、妃を娶って父王のように子を残すのか?」
紫翠は、急に何をと思ったが、答えた。
「は。恐らくはそのように。それが宮のためであるかと思いまするので。」
定佳は、頷いた。
「それが自然よ。神世の王は、皆そうしている。男であろうと女であろうと己が好むものは側に置くが、しかし妃は娶るし子は成す。その上で好きな事をしておる。だが、我には出来ぬ。我はの、己が本当に望むもの一人しか側には置かぬつもりでおるのだ。だが、我が望むものは、妃ではない。」
紫翠が、ためらうような顔をした。意味が分からなかったのだ。
「…それは、妃として置きたくないということでしょうか?」
翠明が、咎めるように強い声で割り込んだ。
「紫翠!それ以上うるさく詮索するでないわ。礼を失するぞ!」
「良い。」と、定佳は手を上げて翠明を制した。そして、紫翠を見た。「主らには理解出来ぬやもしれぬの。神世の半数ぐらいの王は両刀使いで、男でも相手にするが、女が無理だという男は少ない。だが、我はその後者。いくら臣下に勧められても、女を相手に出来ぬのだ。」
紫翠は、息を飲んだ。翠明は、紫翠を睨んだ。
「弟が案じられるのは分かるが、踏み込み過ぎぞ。我が、そんなことも考えずに緑翠のことを決めると思うておるのか。賢しいからと我が決めたことにあれこれ口を出すでないわ。そのような礼を失したことをして、母の逆鱗に触れると思うておくが良い。そのようでは王座はまだまだ遠いわ。」
本気で怒っているようだ。確かに、こんなことを皇子達の前で言わねばならなかった定佳のことを思うと、紫翠は自分がどれだけ出過ぎたことを言ったのかと後悔した。なので、頭を下げて、謝罪した。
「申し訳ありませぬ。何も存じませず、出過ぎた真似を。」
「誠にそうよ。」翠明は、まだ怒りが収まらぬようで、吐き捨てるようにそう言うと、定佳を見た。「定佳、では緑翠には考えさせてこちらから連絡をする。ゆっくり酒でもと思うたが、我もこれの態度に腹が立ってしもうてそれどころでないわ。」
紫翠は、落ち込んで頭を垂れている。定佳は、その様子に困ったように微笑して、言った。
「良いと申すに。気にするでない。紫翠は当然の懸念をぶつけておっただけよ。主は知っておったから納得しておったが、普通は紫翠のように考えるものよ。どうせいつかは知れること。だから良いのだ。」と、足を出口へと向けた。「では、返事を待っておる。もう日が落ちた。宮では臣下がヤキモキしておるであろうから。」
翠明は、頷いて申し訳なさげにその後に続いた。
「ああ、引き留めてすまぬな。出発口まで送ろうぞ。」
二人が歩き出すと、後悔に打ちひしがれている紫翠の横から、緑翠が足を踏み出して叫んだ。
「定佳殿!」驚いた定佳と、翠明が振り返る。緑翠は、続けた。「父上がお許しくださるのなら、我は定佳殿の跡目を継ぐために北西の宮へ参ります。我は今より強い軍神に、王として皆を守れる神になりたいのです!」
紫翠は、驚いて顔を上げた。そんなにあっさりと決められる事ではないからだ。
「緑翠、母上に話さずとも良いのか?」
紫翠が小声で言うのに、緑翠は軽く睨んで答えた。
「我は子供ではありませぬ。」と、定佳を見た。「行けば、我にご指南頂けるのでしょう?」
定佳は、もっと悩むものだと思っていた緑翠が、あまりにも前向きなので、戸惑いながら言った。
「それは…我の跡を継がせるのだから、我並みには育てねばと思うておるが…。」
翠明は、緑翠に言った。
「主、安易に決めて良いのか。母とも離れねばならぬし、そんなに簡単な事ではないぞ?最初は知らぬ臣下ばかりで、まずそこから覚えて行かねばならぬ。確かに折に触れて帰って来ても構わぬが、主は基本、あちらの皇太子となる。あちらが主の宮になるのだ。」
緑翠は、頷いた。
「我は子供ではありませぬ。己のことぐらい己で決められまする。それに、覚え始めるなら、若い方が良いでしょう。我だって、臣下に慣れて己が誰を守るのか早う覚えたいと思いまする。」
緑翠は紫翠と違い、目が覚めるようにこれ見よがしに美しいのではないが、それでも山吹色の瞳に、暗い茶色の髪は翠明に似て整った顔立ちで、定佳は翠明の、これぐらいの歳の頃のことを思い出した。
翠明は、困ったように緑翠を見た。
「ほんに分かっておるのかの。まあ、あちらへ行けばどうなるのか、しっかりと臣下に説明させてから、また正式に返事をする。主らは、部屋へ戻っておるが良い。」と、定佳の背を押した。「さ、参ろう。まあ本人があれだけ乗り気であるから。良い返事が来るだろうと臣下には申しておいてくれ。」
定佳は、頷きながらも、チラと緑翠を見た。緑翠は、しっかりとこちらを見ていて、本当にこんな一瞬であちらへ来るを決めたように見える。
定佳は、子を持つということに経験が無かったが、緑翠を引き受けたとしたら、絶対に期待に沿えるように育てなければと、重い責任を感じていた。




