生い立ち
その神は、まだ若かった。
月の宮へ来て、もう20年ほどになる。
ここへ来るまで、生きるために共に居た神とは、兄弟でも親子でも何でも無く、ただ、そこに居て生きるために必要だったから一緒に居た。相手は面倒そうだったが、それでもその神に食らいついて行かねば、自分は生きて行けない。
それが分かっていたので、どんなに放って置かれても、必死でついて行っていた。
名など、無かった。だが、それが必要だとも思ったことは無かった。
寒さを凌ぐためには、神は火など必要ない。なぜなら、身の回りに空気の層を作って、それで温度調節が出来るからだ。
だが、それが出来るのは気の量が豊富な神だけ。その神には、その体力がなく、仕方なく辺りの獣を狩って、その毛皮をまとって暖を取った。
何しろ、一緒に居た神はそんなことまで面倒は見てくれなかったからだ。
だが、そうやって何年も過ごしている間に、自分の体も大きく育って来た。そうすると、体内の気が増えて来て、気でいろいろなことが出来るようになって来た。
それでも、まだ神世では子供なのには変わりない。
ひっきりなしに襲って来る他の神からの襲撃には、まだ一人立ち向かうには未熟過ぎた。
なので、たまたま出会って一緒に来た神に、まだ必死について行っていた。
そんなある日、その神が女を連れて来た。その女は、どこからかさらって来たのか脅えていた。
女は腹に子を抱えているようだったので、どうするつもりだろうと怪訝に思っていると、なんとその神は、その女神を掘っ立て小屋を何とか住めるようにした場所へと入れて、そこで世話をし始めた。
女も、戸惑っているようだった。もちろん、若い神も戸惑った。そんなことをするような、神には見えなかったからだ。それでも、これまで面倒そうでも追い立てることなく、自分が側に居ることは許して来ていた神なので、そんなこともあるかもしれない、と思っていた。
相手は、言った。
「これから、お前は我の子だ。もし誰かに問われたら、そう答えろ。あっちの女には、夫だと言えと言ってある。分かったの?偉そうな神が来て、お前に問うたら必ずそう答えるのだ。」
若い神は驚いたが、しかし親とも思ってついて来ていた神の言うことだ。黙って従うことにした。
ほどなくして、女は腹に抱えていた子を出産し、その子をその若い神が世話するのを手伝った。その親と言えと言った神は、外で変な輩が来ないか、ずっと立って警戒していた。
なので、女は安心して子を産み、育てることが出来た。若い神は、そこで初めて、子が普通ならこのように親に育てられるのだということを知った。まだ飛ぶことも歩くことも出来ずに居るその赤子は、自分の遠い記憶の昔に見えた。
それなりに、どういうわけか幸福なような心地がしていた頃、びっくりするような立派な姿をした、洗練した軍神が数人、目の前に降り立った。
若い神は、子のために水を汲んで湯を作ろうとしていたところだったので、驚いてその軍神達を見上げた。
どう立ち向かっても、勝てそうにない。腰には、見たこともないようなしっかりとした刀が挿されてあった。
「我は、月の宮の軍神、嘉韻。月が、主らを見つけて保護しようというておる。主は、ここに住んでおるのか。」
聞かれて、若い神は急いで頭を下げた。
「はい。あの…父と、母と弟と一緒に、こちらに住んでおります。父は、今赤子に着せる布を探しに参っております。」
父でも母でも無かったが、それでもその神が布を探しに行って来ると出て行ったのは本当だった。
相手は、頷いた。
「ならば、父が戻ったなら申せ。月の宮の遣いが参って、月の領地で仕えるつもりはあるかと問うておる、とな。もしその気があるのなら、ここから南西へ参った場所にある月の宮結界外まで来いと。迎えに参る。」
若い神には何の事だか分からなかったが、それでもブルブルと震えて頭を下げ続けた。月の宮とは何だろう。何しろ、神という者がどういう風に生きているのか、皆目知らなかったのだ。
世話をしている神が、戻って来た。なので、若い神は起こったことの一部始終を話した。すると、相手はまるで敵の首でも獲ったように、飛び上がって豪快に笑うと、叫んだ。
「そうか、やっとか!でかしたぞ、ならば参る。さあ、もうこのような場所でさすらっておることは無いのだ!ついて参れ!」と、飛んで行きそうになってから、ハッと気づいて慌てて戻った。「おお、忘れるところであったわ。女と子も。早う連れて参れ。」
若い神は、どういうことなのか分からなかったが、置いて行かれることだけは避けなければならない、と慌てて小屋へと入り、子と抱いた女を背に背負った。若い神には大きすぎる荷物だったが、助けてくれと弱音を吐いたら置いて行かれてしまうだろう。
なのでそのまま、月の宮、結界外へと向かったのだった。
そこでは、関の房と言われているらしい場所へと案内された。結界外までは若い神が背負って来たのに、どういう心境の変化なのか、赤子を腕に抱き、女の手を引いて、その神は先に歩いた。若い神は、おずおずとそれについて歩いて行った。
すると、結界の中に設けられているその見たこともないようながっしりとした建物の中で、いろいろな質問を受けた。といっても、質問されていたのは世話をしてくれた神で、若い神には何も聞かれなかった。
どうやら、子だと思われているかららしかった。現に、神も自分を息子だと言っていたし、女の事は妻、その子の事も、息子だと言っていた。
そこで、神は重々といった様子で、注意を受けた。曰く、ここへ入ったなら、王に仕えて王を絶対として生きていかねばならぬ。その代わり、王は全ての面倒を見てくださる。もし、それが出来なければ、厳しい罰を受けて結界には二度と入ることが出来なくなる。命をもって償わねばならない時もある…と。
神は、いちいち一つ一つに頷いていた。それで、本当に間違いないのか、若い神には分からなかった。だが、ここがその、王という神の守っている場所で、この中が大変に安全なのだという事実だけは分かった。
女も、最初は目を丸くしていたが、段々に、そんな中に入ることが出来るという事実が頭に浸透して来たのか、涙ぐんで喜んでいた。そう、この中では、何に怯えることもない。置いて行かれるという、怖さも何も…。
若い神は、なんという幸運なのだろう、この神について来て、本当に良かったとその時思った。
王は、とても若い姿だった。
感じたこともないほどに、懐かしいような癒しの気を持っていて、結界内はそのせいなのか、大変に清々しい気で満ちていた。
用意された自分達の家というのは、とても立派な屋敷だった。何も知らない若い神は、そこが自分達に与えられるものだとは思わず、最初そこに王が住んでいるのだと勘違いしていた。
だが、そこに自分達が住むことが出来るのだと知って、本当に驚いた。
王が住む宮というのが、もっと大きいのだとは、後で知った。
王は、わざわざに屋敷を訪ねて来た。そうして、若い神を見ると、名を訊ねた。
「名…?名とは、何でしょうか。」
王は、驚いた顔をした。そうして、大層同情したような顔をすると、言った。
「ならば、オレが主に名を授けよう。そうよな…螢。主の名、本日から、螢とする。螢と呼ばれたら、主のことぞ。分かったな。」
若い神は、驚いた。螢。それが、自分の名。
王は、字も書いて見せてくれた。母となった女の名は、梓と定め、弟の赤子は、郁と名付けた。そして、自分達をここに連れて来た、父と決められた神の名は、汐と決まった。
全て、王が自らその場で付けてくれた名だった。
そうして、次の日から、螢は学校という、神世を学ぶ場へと通うことを許されたのだった。
信じられないほどに、平和な毎日だった。
母ではないが、すっかり母として見るようになっていた梓は、そこでの毎日で、見違えるようにあか抜けて美しくなった。
風呂は毎日入ることができ、宮からは新しい着物を下賜され、おっとりと汐の帰りだけを待つ日々の中で、梓は郁を育て、幸福そうだった。
螢も、学校で神世というものがあることを知り、自分もその一員だったことを学んだ。そうして、そこで生きるための礼儀や、常識なども学び、字も何もかもを学んだ。それだけで三年掛かったが、それでも、卒業した時には、その辺りの神と変わりないほどにしっかりとした姿になっていた。
しかし、汐は違った。
最初こそ、自分は何と幸運だと汐自身もそれは舞い上がって、軍神として必死に働いていた。下っ端の軍神である汐には、キツイ仕事も多かった。それでも、それをこなしながら、文字や神世の歴史などを学び、それなりに毎日、一生懸命生きているようだった。
郁も育って来て学校へと通い、卒業して螢を実の兄だと慕ってその背を追い、軍へ来たのも螢は歓迎した。母のためにも、郁には立派な軍神に育ってもらわねばと、そう思っていた。
しかし、汐は、真面目に任務をこなす事が出来なくなっていた。
螢は、何度も自分の任務の傍ら、父として見ている汐を探して、さぼっているのを見つけては任務に戻るように説得した。
だが、汐に同調する神も増え始め、どうしようもなくなって来た。郁も、そんな父を、父とも思わぬと言い出した。元々、父ではないのだが、郁はそれを知らないのだから無理はない。
螢は、悩んだ。
そうして、ある日、思い余って自分の部隊を率いている部隊長の更に上の上司、明人という軍神に、打ち明けに行った。
明人は、親身になって聞いてくれた。それは間違いで、そのままでは命も危ういと教えてくれた。何しろ、軍神は王あっての責務。王に見捨てられたら、もう生きてはいけないのだという。
螢は、全てを明人に任せて、屋敷へと戻った。酒など滅多にもらえないのだが、螢と郁が一生懸命仕えた褒美としてもらったものを、汐は全て平らげてしまっていた。自分は、今日も一日、嘉韻の目から隠れてどこかで寝こけていたのは螢にも郁にも分かっていた。
螢が怒鳴りそうになった瞬間、郁の方が汐に、掴みかかって行った。汐は、そんな郁を平気で壁に叩きつける。母の悲鳴が聞こえ、螢も激昂して汐に掴みかかった。
汐は、そんな螢のことも打ち据えた。それでも、螢は汐を離さなかった。郁が起き上がって来て同じように汐の足に取り付き、暴れる汐と共にあちらこちらに三人で転がった。
回りの椅子や机、厨子などは放り出されて転がった。椅子の細い足は折れて、どこかへと飛んでいく。母が心配だったが、逃げてくれているだろうと螢は必死に汐を抑え込むことに集中していた。
すると、急に抵抗が無くなり、螢と郁は、共に床へと転がった。
何事かとすぐに起き上がると、そこには、簡単に汐を気でがんじがらめにして浮かせている、嘉韻が立っていた。
明人も、その後ろに居るのが見える。螢と郁が、慌てて膝を付くと、嘉韻は、ジタバタと暴れる汐を拘束して浮かせたまま、涼しい顔で言った。
「…主らの手を煩わせたの。これは我が預かって参る。他、何人かも同じ罪で裁かれよう。主らは、己の母を養って生きるが良い。」
汐は、暴れながら叫んだ。
「何をする!放せ、我はこんなことのために、こんな奴らを世話してここまで来たのではないわ!」
螢は、悲しくなった。曲りなりにも、赤子から育つまでは、汐と一緒に居たからこそ、助かったのだ。
まさか命までは取られないだろうと、それを祈らずにはいられなかった。