陰の月の
維月は、その日部屋へ帰って寝ていた。
なので、寝台へと入ったのは確かに朝方だったが、それでも戻って来てそこに寝ていたので、月に居た十六夜も気にしていなかった。
それが、昨夜は炎嘉とあの、光る蓮の房で過ごしていたのだ。
例によって陰の月の結界が敷かれ、十六夜にはそんなことは気取れなかった。
炎嘉に話を聞いてから、十六夜は維月が目を覚ますのを待って、そこに居た。眠る維月を見てみると、確かに今は、義心ではなく炎嘉の気がする。
つまり、炎嘉は嘘を言ってはいなかった。
十六夜は、待ちきれずに、維月を揺すった。
「維月…起きろ。聞きたいことがあるんでぇ。」
維月は、うーんと唸ってから、目を覚ました。すると、その目はまだ、薄っすらと赤かった。
「維月…?」
維月は、目の前の十六夜を見ると、スッと目の色を鳶色に戻した。そうして、言った。
「十六夜、おはよう。あ…れ?」
維月は、ふと、自分の腹を押さえた。そうして、じーっと考え込み、ハッとしたように、十六夜を見た。
「十六夜!私…私、昨日炎嘉様に会いに行ったわ!」
十六夜は、頷いた。そうして、維月が身を起こす寝台に、腰掛けた。
「さっき炎嘉から聞いてびっくりしたよ。それで…覚えてるのか。」
維月は、渋々ながら頷いた。
「覚えてる。十六夜から、炎託殿が亡くなったと聞いて、将維も悲しいだろうけど、頼りにしていた炎嘉様はもっとだろうなって思って、御慰めしようと思ったの。そこまでは、私だと思う…この、私の人格ね。」
十六夜は、頷いた。
「ああ。それで?」
維月は、首を傾げた。
「途中で、自分は今義心の気がするから、余計に怒らせたりするんじゃないかって思ったの。それでためらって…その時、カラッとした考え方が入って来たわ。そんなもの、炎嘉様なら消してしまえるし、御慰めするには、肌を合わせるのが一番よ、って。そうしてその時調度、炎嘉様が目の前にいらした。月から見て探して行ったんだとは思うんだけど、その辺りはあんまり覚えてない。それで…光る蓮の房に、陰の月の結界を張って、そちらへ促したわ。そして、そこで炎嘉様と寝台に入ったの。」
維月は、何かを頭に思い出しているのか、虚空を見つめていた。十六夜は、頷いた。
「それで?!子供は出来てなかったんだろ?!」
維月は、頷いた。
「ええ。炎嘉様が愛してくださると、義心の気が少し消えたわ。それで見通しが良くなって、自分の状態がよく見えた。まだ子供は居らず命も無く、卵を自分で排出する準備だけは整ってるのが分かった…だから、炎嘉様に御子をと。炎託様が亡くなられて悲しんでおられる炎嘉様に、新しい御子を。そうしたら、炎嘉様がどれほどにその子に癒され、気持ちをお楽にさせるかって…その時の私は、本当にそれが間違いないのだと、信じていたわ。」
陰の月の人格の時だから…。
十六夜は、思った。本当なら、維心や他の何某かを考えて、そんなことを簡単に自分で決めてしまえないのだ。維月は、一応良識は持っていたし、大変なことはしでかさなかった。
だが、人格が変わってしまうから、中身は維月でも、その時はそう感じてそうすることが正しいと思ってしまうのだろう。本当に、何の疑問も無く…。
「じゃあ、お前はその時どうしたんだ?」
維月は、ハッとした。そうして、十六夜を潤んだ目で見た。
「…そうだわ、あの時、卵を…!」と、腹を押さえた。「ああそうだわ!間違いない。私、御子を…!」
やっぱりそうか。
十六夜は、天井を仰いだ。義心じゃなく炎嘉の子が出来たのだ。
こうして聞いてみると、陰の月の人格も、確かに困ったことをしでかすが、それでも一生懸命なのだと十六夜は思った。自分が出来ることを全て与え、優しく包んで相手を癒そうとする。それこそ、自分の持てる力を全て使って…。
それが、面倒な方向なだけで。何しろ、陰の月だから。
「困ったな…まあここに居たんだから面倒だけど頑張って早いとこ産んで、龍の宮へ帰るしかないな。維心は闇と対峙して維月が消耗しているから月の宮に置いていると説明してるらしいし、あっちは一年ぐらい空けても問題ないと思うんだが。最初はそうするつもりだったんだしさ。」
維月は、しかし涙ぐんで下を向いた。
「それでも…私、こんなにポンポン陰の月と人格が入れ替わってしまったら、もう自信が無いわ!炎嘉様の御子が居るのに誰か他の神とって、あの人格の時ならあり得るもの!しかも、前に陰の月に飲まれた時とは違って、あれも間違いなく私なんだもの…!維心様になんてお伝えしたらいいのよ…!」
維月は、布団に突っ伏してしまった。
十六夜は、その頭を撫でながら、困った事になったと思っていた。月は慈愛の象徴と言われているのだ。陰の月も、深い慈愛を持っているのは、今回のことで分かった。相手が落ち込んでいたら、慰めようと自分が一番に得意な方法で全力で努めるのだ。そして、得意なのは色恋や催淫系のことで、相手が男だったら、いやもしかしたら女でもその方法で慰めるのだろう。
「どうしたもんか…それも確かにお前だしよ。やり方はアレなんだが根本は同じなんだよ。相手を救ってやりたい、慰めてやりたい、自分の出来ることは何でもやる、って感じ。お前にもそんな気持ちはあるだろう?」
維月は、涙を流しながら、頷いた。
「ええ…確かに私に出来ることならって思うわ。でも、私は社会倫理にのっとって行動しているつもり。こんな、いくら出来るからってあっちもこっちもなんて、夫の居る身でおかしいじゃないの。十六夜もお父様も気にしないって言うけど、維心様はとても傷つかれるんだもの…。」
十六夜は、懐紙…月の宮ではティッシュだが、それで維月の涙と鼻水を拭きながら、言った。
「ほら、拭けって。分かってるよ、だからさあ、オレ達みたいな命ってのは、本来こんな感じだからな。同じ命のオレ達の間では問題ないんだが、そうじゃない維心にはキツい事になるんだよ。仕方ねぇ、とりあえずこうなったって維心に報告するしかねぇな。龍の宮じゃ、義心が結構きつい目に合ってるようだし、これで少しは緩むんじゃね?」
義心の子供が出来るかもと思うと、維心もイライラして当たり散らしているのかもしれない。だが、炎嘉となるとどうなるのだろう。
「…ああ、本当に何とかして欲しいわ。私ではどうにもならないの。お父様の記憶を使っても、お父様も陰の月の人格なんて使ったことがおありにならないから、うまく抑えられていないし。やっぱり、封じてしまってもらわないと…。」
維月が、ベソベソと鼻を鳴らして泣いていると、碧黎が、パッと現れた。
「維月の泣き声が聞こえると思うたら、また困ったことよ。」
十六夜も維月も、もはや日常茶飯事なので月の宮の中では、パッと出て来てもそう驚かない。
それどころか維月は、出て来た碧黎にいきなり飛びついた。
「お父様!私は…私はもう嫌ですわ!いっそどこかに籠めてしまってくださいませ!」
碧黎は、慌てて維月を受け止めると、フッと肩で息をついて、言った。
「まあのう…確かにそれが一番かも知れぬ。十六夜からは陰の月の結界で隠れてしまうし、見えないのだしの。」
十六夜が、碧黎と維月が座れるように場所を空けて、準備しながら言った。
「でもさ、封印は?親父、出来るんだろ。だったら、とにかく炎嘉の子を産んだらすぐ親父と命を繋いで、さっさと封じてしまったらいいじゃねぇの?」
碧黎は、十六夜が空けた場所に維月を抱いて座らせ、自分もその横に座った。
「それがの…陰の月の人格を封印してしもうたら、維月ではなくなるのだ。」
維月は、え?と碧黎の胸から顔を上げた。
「そのような。私は私ですわ。」
碧黎は、首を振った。
「言うたではないか、あれも主。主は気付いておらぬやもしれぬが、無意識に陰の月を使っておる時もある。それをうまい具合にしておったから、これまでは上手く回っておったのだが、今は極端に出てしまう状態よ。それを、何とか我が調節できるようにと力を貸しておったが、主がどういう塩梅でそれをやっておったのか我もよう分からぬで。今は、陰の月の部分を使おうとすると、全部出てしまうのだな。困ったものよ。」
十六夜は、息をついた。
「じゃあ、どうしたらいい?めっちゃ真面目で色気のない維月でも、別にオレは構わねぇけどさあ、維心とか炎嘉が困るんじゃねぇ?維月だって自分のアイデンティティおかしくなると思うし。」
維月は、顔をしかめた。
「確かに…十六夜と居たら、全く出て来ないの、陰の月の人格が。お父様もそう。他の神と接しておったら出て来るみたいだから…やはり、十六夜が言うように色気で勝負している時があるのかもしれないわ。そんな時、困るのね。抑えがきかなくて全部出て来ちゃうから。その部分を、陰の月頼みで生きてたのかも。」
維月が納得していると、碧黎が維月の涙の残りを自分の袖で拭きながら、頷いた。
「ゆえにの、これからのことを考えたら、やはり己で何とか抑える方法を考えねばならぬわ。最初は、十六夜に見張ってもらって出そうになったらガツンと陽の気を下ろしてもらうとか。慣れて参ったら、己でそうなりそうだと思うたら十六夜の気の玉を飲むとか。もっと慣れて来たら、十六夜の気の玉で頚連でも作って首から下げておけば、何とかなるやも。」
十六夜は、身を乗り出した。
「やっぱりオレの力がいいのか?」
碧黎は、当然だろうと呆れたように頷く。
「この世で陰の月の力を押さえる唯一の力であるからな。十六夜をうまく使えるように考えて行くよりない。何より、維月らしさが無くなるのは維心だって否であろうしな。まあ封印するのはいつでもやれるゆえ、よう考えて話し合うが良いわ。」
碧黎は、維月の頭を撫でると、立ち上がった。十六夜が代わりに碧黎が座っていたところへと座ると、維月が顔を上げて言った。
「お父様、もう一つお聞きしたいのですの。」碧黎が、振り返る。維月は続けた。「もし、封印してもらってから、やっぱりそれで支障が出て参った時には、解放してもらえるのですか?」
碧黎は、それを聞いて少し、困ったような顔をした。
「出来る。だが、その反動は大きいゆえ、覚悟しておくが良い。酷い時には、陰の月の人格のみの維月になるかもしれぬ。ゆえ、ようよう考えての。」
維月は、それを聞いて身震いした。十六夜も、維月の肩を抱いて顔を驚いたように歪め、維月を見て言った。
「おい、やっぱり封印はよっぽどだって思おう。な?オレの力でどうにかなるならそれで行こう。維心にも、そこは話をしたらいいし。とにかく、炎嘉の子の事もあるし、炎託の葬式が終わったら二人揃ってここに来てもらうようにしよう。」
維月は、仕方なく頷いた。
碧黎は、それを見てから呆れたように微笑して、そうして、そこを今度は戸から出て行ったのだった。