大混乱
炎託が崩御した知らせは、龍の宮にも届いた。
炎嘉は、通夜は月の宮、葬儀は鳥の宮で行うと取り決め、今はまだ、炎託は月の宮に安置されているらしい。
通夜はひと夜だけなので、次の日には葬儀のために移動するのだが、神世の葬儀は面倒で、日にちを取り決めてその日まで、治癒の者達が遺体を綺麗に保つという段取りを組む。
炎嘉も知っていたが、遺体がそこにあっても、本人はとっくに黄泉へ逝って楽しくやっていて、葬儀など見ても居なかった。そんなわけなので、法要だって行なっていることすら知らないことがあったのだ。
炎嘉は、息をついた。今頃は、あれほどに愛した瑞姫と仲良くやっているだろう。
そう思い、遺体から離れず暗く落ち込んでいる将維に背を向け、炎嘉は庭へと足を踏み入れた。
ここ月の宮は、将維と共に炎託が長く暮らした場所だ。炎嘉も、放浪していた時はここにやっと落ち着いて、ホッとしたものだった。ここは、行き場のない神達を受け入れて癒す、誠に夢のような宮なのだ。
じっと庭の奥深くまで来て、一人で感慨に浸っていると、側に、あの愛おしい気を感じた。
…維月?
炎嘉は、その気配を探して振り返った。
すると、維月がこちらへ、ほんのりの赤い瞳で歩いて来た。月の光の下だからだろうか、と炎嘉が思って近づいていくと、維月は走って来て炎嘉の胸に飛び込んだ。
「い、維月?どうしたのだ。」
いつもは、外で会ってもこんなことは無いのに。
維心も居ないこの宮なので、開放的な気持ちになっているのだろうか。
とはいえ、炎嘉は維月を抱きしめて、そうして、その顔を上げさせて見つめた。
「ほんに…数日会わぬでも会いとうなるわ。維月…会いたかった。」
維月は、炎嘉を見上げて微笑んだ。
「はい。炎嘉様には、炎託殿が亡くなられてお気持ちを落とされておるかと…。」
それで、慰めに来てくれたのか。
炎嘉は、苦笑した。
「いや…我は、あちらがどういう場所か知っておるから。それにの、炎託はもうこちらのことなど見ておらぬわ。あちらで、瑞姫と共に新しい場所へいざなわれておる所。ようやく現世を見ようとするのは、数年経っていくらか馴染んで来た頃よ。ゆえにの、去っていく瞬間はつらかったが、今はそうでもない。あれも、恐らくは長く悲しまぬで欲しいと思うておるであろうしな。」
維月は、ホッとしたように微笑んだ。
「良かったこと…。幾分沈んでおられるような気配でしたので…。」
炎嘉は、困ったように笑って、頷いた。
「それは、子を亡くしたのであるから。前世とはいえな。」
維月は、少し、悲しげな顔をした。
「やはり…」と、炎嘉を、促した。「…こちらへ。」
炎嘉は、花でも咲いているのだろうかと、維月に手を引かれ、庭の奥へと踏み入った。すると、キラキラと光る、池が見えて来た。
「ほう…これは…。」
蓮が、光っている。
維月は、頷いた。
「美しいでしょう?あの、上にあります房から、これを見下ろせるようになっておって、それは美しいのですわ。さあ、共に。」
炎嘉は、頷いて維月と共に、高台に作られてある房へと向かった。
そこは、小さな房で、広い部屋が一つ、あるだけだったが、その中に、一応寝台や、テーブルなどが配置され、客間としても使えるようになっているようだった。
何より、正面にある壁が全面窓になっていて、そこへと足を進めると、その外には、池が見下ろされてそれはそれは美しかった。
「これは誠に穴場であったわ。我は、ここへ来て長くなるが、知らなんだ。」
維月は、炎嘉に微笑んで頷いた。
「はい。最近に作られたのです。光る蓮を龍の宮から譲られて、それを増やして…殊の外美しかったので、眺められるようにと、これを。」
炎嘉は、維月に微笑み返して頷いた。
「そうか。良い場を教えてもらったものよ。」
そういって取った手から、ふと気を探ると、知っている気がする。
維心の気でも十六夜の気でも、まして碧黎の気でもない。これは…誰の気だ?
そうして、炎嘉は愕然とした。もしかして…義心?!
「どういうことだ。」炎嘉は、維月の両手を掴んだ。「なぜに主から義心の気がするのだ!維心の気ならまだ分かる。だが、なぜに!」
維月は、それを聞いて、赤い瞳を伏せると、袖で口を押さえた。
「それは…私が、あの闇との対峙から、陰の月に飲まれることがあり申して。義心は拒んでおったのに…そういう事に、なったようでございます。」
炎嘉は、愕然とした。ということは、今維月の中には義心が残したものがそのままにあるということか。そんな…なぜに、なぜに維心は消してしまわぬのだ!
「なぜにそのままに!十六夜は?!維心はどうしてこれに甘んじておる!子でも出来たら…」
言ってしまってから、炎嘉はハッとした。ここは月の宮。もしも子が出来た時のために、もしかしてその子を殺してはと、そのままにしているのではないのか。
「許さぬ!」炎嘉は、叫んだ。「維心が心に重いかと思うて、我でも退いた事であるのに!許さぬぞ維月!」
維月は、それを聞いて、炎嘉が怒っているにも関わらず、フッと微笑んだ。炎嘉は、その様子にハッと我に返った。なぜに笑う…?
「ならば炎嘉様、今ここで。」と、維月は袿を肩から落として、寝台へと座った。「私を取られても良いのでございますか…?炎嘉様がお望みになるなら、私が炎嘉様の御為にあなた様の御子を身籠りましょうほどに。御子を亡くして、それは気を落とされておるのではと、案じておったのです。御慰めしたいと思うておるのに、そんなことがお心の負担になるのは本意ではありませぬ。さあ…こちらへ。」
炎嘉は、それを聞いてもしかして、と思った。これは、陰の月に飲まれている維月か。
「維月…もしや主、陰の月に飲まれておるのではないのか?」
維月は、ホホホと笑った。
「どちらも私でありまするわ。さあいらしてくださいませ。私にはこれより、殿方を御慰めする方法を知りませぬゆえ…。」
維月であって維月ではない。
炎嘉は思った。だが、維心の子なら我慢も出来るが、義心の子を産むなど…!絶対に、絶対に阻止せねばならぬ!
「維心がやらぬなら、我がやろうぞ。」
炎嘉は、真っ赤な目の維月と共に、寝台へと沈んだ。
陰の月の気は、包み込むように優しく、いたわるように炎嘉の体を包んで行く。
維月を腕に抱きながら、炎嘉は思った。もしかして、本当に陰の月は、慰めようとしているのかもしれぬ。これしか方法を知らぬというのは、本当なのでは…?
そう思いながら、炎嘉は義心の気を、全て消し去った。
次の日、炎嘉が目を覚ますと、あの蓮を見下ろす房の中に、一人きりだった。
起き上がって身づくろいをしながら維月はと探したが、そこにはもう、維月は居なかった。
着物を着て、そこを出ると、十六夜の声が空からした。
《…そこか!おい、お前が居なくなったって朝から大騒ぎだったんだぞ!何だってそんな房に…》と言ってから、少し黙った。《ちょっと待て。その房の中に居た?陰の月の、結界、か…?》
炎嘉は、顔をしかめた。
「何ぞ?朝からうるさいの。我は昨夜ずっとここに居ったわ。」
十六夜の声が、慌てたように言った。
《まさか維月は中に居ねぇよな?!》
炎嘉は、首を振った。
「もう居らぬ。」
十六夜は、一瞬黙った。
そして、慎重な口調になって、言った。
《…もうって事は、居たのか?》
炎嘉は、頷いた。
「居った。昨夜は一緒であったが、目覚めたら居らなんだのだ。」
それを言うか言わないかと間に、十六夜の光の玉が、月から落ちるように降りて来た。
何事かと目を丸くしていたが、見る見る十六夜が目の前へと降りて来て、まだ半分光で半分人型の状態で、言った。
「お前、やったか?!昨日、やったのか!」
炎嘉は、憮然として頷いた。
「あからさまよな、主は。ああ、あちらから誘われておるのに断っては我も名折れであるし。我を慰めたいと申して…腹が立つ気がしておったから、さっさと消してしもうてやろうと一晩中な。」
十六夜は、顔をしかめた。
「目…赤かっただろうが。」
炎嘉は、それにも頷いた。
「段々に真っ赤になったの。だがな、あちらからは我をいたわる気持ちしか感じなんだわ。何やら我を包むようなそれは穏やかな癒しの気で。陰の月であったとしても、あれは我を慰めようとしておるのだと我には分かった。確かに…目が覚めたら気持ちがスッキリしておる。重苦しい気持ちは消えた。」
十六夜は、首を振った。
「あのなあお前のそのスッキリのために、命がひとつ、死んだかもしれねぇんだぞ!そのために維心だって遠ざけてたってのによ…まさか、維月がお前に会いに自分で行くなんて思いもしなかったから…。」
炎嘉は、フンと鼻を鳴らした。
「ふざけるな。臣下の子などを維月に産ませようなど!昨夜維月は、我の子を産むと申しておったわ。昨夜我が幾らか義心の気を消した時点で、腹を探ると卵が己で排出出来る状態だったゆえ、まだ孕んでおらぬと分かったと申しておった。我は子が居っても殺すつもりであったが、維月はそれは避けたいような感じだった。だが、居らぬなら我の子をと。維月は今宿ったはずと申しておったが、我にはそれは分からぬ。」
十六夜は、仰天した。
「え、お前の子だって?!どういうことだ!」
「知らぬわ。」と、炎嘉は北の方へと歩き出した。「通夜は終わったであろう?炎託を迎えに鳥の軍神達が来る。仔細はまた聞きに参るから。維月に話を聞こうと思うておったのに、ここに居らぬしな。葬儀を終えたらまた、すぐ参る。維心にもそう申しておいてくれ。まあ、こうなってしもうたものは仕方がない。他ならぬ維月が良いと申すからの。」
そう言い置くと、茫然とする十六夜を追いて、炎嘉は北の対へと歩いて行った。
十六夜は、いよいよマズいと思った…さっさと碧黎に封じてもらわないと、このままではしょっちゅう陰の月人格の維月が出て来てあっちこっち大変なことになってしまう…!