別れ
将維は、今日も目が覚めてすぐに炎託を見舞った。
炎託の姿は、もう老いていて小さな老人になっていて、起き上がる事も出来なかった。
それでも、将維は微笑んでそこへ入って行った。
「炎託!生きておるか?」
炎託は、シワにまみれた顔の、瞼を重そうに開いて、口元を歪めてフッと笑った。
「相変わらずであるの。ああ、まだ死んでおらぬわ。案外にしぶとい己に驚いておる。」
将維は一瞬暗い顔をしかけたが、すぐに持ち直して言った。
「本日は天気も良いぞ。職人に作らせた車椅子があろうが。庭へ参ろう。朝のうちならそう日差しも強うないゆえ。」
炎託は、顔をしかめた。
「外?…しばらく出ておらぬが、何やら億劫なものよ。」
炎託は後ろ向きだったが、将維は構わず侍女に車椅子を準備させて、寝台の脇へとつけた。
「そう申すな。籠っておってはようないゆえ。」
炎託は、侍女にさせずに自分の手で布団をめくり、気を使って車椅子へと自分を運ぶ将維に、苦笑した。
「そんなに気を遣わぬで良いのに…こんな爺になってまで。」
将維は、フンと鼻を鳴らした。
「我でなくば主は重いゆえな。さあ、では参ろうぞ。」
将維は、炎託を乗せた車椅子を押した。
そうして、掃き出し窓から外へと足を踏み出した。
朝夕は少し、涼やかになって来たものの、やはりまだ夏の日差しは強い。それでも、まだ朝も早いので影が大きく伸びていて、二人は直射日光に晒されずに済んだ。
あまり遠くまで行っては炎託も疲れるだろうと、将維が宮から少し出た所で車椅子を止めると、炎託は外の空気を吸い込んで、深呼吸した。
「…おお、清々しい。やはり月の結界の中の空気はまた格別よな。鳥の宮では、こうはならならんだ。父上も、よう普通の環境の中で、前世ひと月も頑張られたものよ。」
将維は、苦笑した。
「炎嘉殿であるから。精神力は並みではなかろう。父上は最期に立ち会われたが、迎えに来ておった炎真殿がそう頑張らずにもう参れと夢に出て申したとか聞いた。炎真殿は、痣が出て僅か一週間だったらしい。」
炎託は、クックと笑った。
「父上らしい。」と、フッと息をついた。「…夢と申せば、昨夜、瑞姫が参った。」
将維は、驚いた顔をした。瑞姫…蒼の娘で将維の従妹。幼い頃は共に遊んだ。しかし、もう数百年前に他界している。
「…何か申しておったか?」
炎託は、笑って答えた。
「将維が相変わらず若い姿なので驚いたと言うておった。それから、もうあちらは準備が出来ておるから、いつなり気が済んだら参れと。まあ、我はもう気が済んだのだがの。」
将維は、寂し気な顔で、言った。
「しかし、炎耀が居るではないか。あれも毎日一度、ここへ主の顔を見に参る。主の子であるのに…父を知らずに育って。生きて会えたのは幸運よ。」
炎託は、目を閉じて息をついた。
「…あれには悪いことをした。そんなつもりも無かったし、軽い気持ちであったのは確か。あれから、その母の女のことは思い出しもせなんだ。まさか、そんなことが起こっておるなど思いもせずに。瑞姫にも、あれのことは謝ったが…瑞姫は、知らなんだのは仕方がないが、子を放って置くのは感心せぬと怒っておったわ。本来、そんなことをしたのならきちんと妃としてここへ連れて来るべきだったと。我は頭が上がらなんだわ。」
将維は、苦笑した。瑞姫らしい。
「良いではないか。どうせあちらへ行ったらまた、主はあれと仲良うやるのだろうて。あれが来てくれるのなら、我も安心ぞ。我だったら…父上も母上も転生してしもうたから、特別な妃も居らぬしお祖父様の張維が来るのかの。」
「黄泉の番人であるから迷うこともないし特別待遇よな。」炎託は、それを聞いて笑った。「しかし我が参るわ。主を迎えに参るなら、我が一番よ。あちらのことを何も知らぬ主に、いろいろ上から教えてやるのよ…こちらでは主に敵わぬから、あちらで仕返ししようと思うておるからの。」
将維は、少し目に涙を浮かべたが、笑ってそれを隠した。
「それは面倒よな。では先に、父上にあちらの様子をよく聞いてから参らねば。主に偉そうにされるなど死ぬのをためらうではないか。」
炎託は、クックと笑って、そうして、ふと、黙った。
将維は、炎託が静かになったので、顔を覗き込んだ。
「炎託?」
炎託は、深く長い息を繰り返し、空気を求めてあえいでいるように見えた。
「炎託?!」と、将維は慌てて車椅子を押して宮へと向かった。「治癒の者!治癒の者参れ!」
炎託は、その後意識を失って、危篤状態と診断された。
炎耀は、急いで将維の対へと向かっていた。蒼から連絡を受け、父が危篤状態なのだという。
鳥の宮へも報せは飛び、祖父の炎嘉もすぐに参ると蒼から聞いていた。
まだ午前の明るい陽射しが部屋の中へと差し込んでいる中、寝台の側には将維と蒼と、治癒の者達が詰めて炎託を覗き込んでいた。
炎託の意識は、全く無い様で、じっと目を閉じたまま、身じろぎ一つしない。将維が、炎耀が息を切らせて入って来たのを見て、言った。
「…意識はない。治癒の者が言うには、気がもう極限まで下がっておるから、恐らくこのまま…かと。」
そういう将維自身、まるで何百年も老け込んだような顔をしていた。炎耀は覚悟はしていたものの、ショックを受けて、側へと寄った。
父は、じっと横たわっていた。自分が側に居る事実にも、気付いていないようだった。それでも、ここ数週間の間に、炎耀は炎託からいろいろなことを教わった。自分がどういう生き方をして来て今ここに居るのか、鳥の王族の、今の立場がどういったもので、そうして炎耀という命が、どれほどに鳥達にとって大切なのか、父は語った。
炎耀は、自分が鳥の王族の血を引くと分かってから、必死に歴史を学び直していた。特に、鳥がどういった道を歩んでここへ至ったのか、父の話と照らし合わせて、理解を深めて行こうと努力していた。
しかし、父は母のことは一切口にしなかった。
いわば、母は契約違反をした。もし母が自分を生んでくれていなければ、今は無いのは分かっているが、本当なら許されないことだった。
それは、炎耀も理解していた。
母は、ここに父が居ると知った時、影からひと目でもお見上げしたいと言ったが、父は一切取り合わなかった。本当なら罰しられていたかもしれないのだから、確かに会うのも見るのも許されないのかもしれない。だが、炎耀は神世の薄情な一面を見たような気がして、母が気の毒な気もしていた。
ただじっと目を閉じたままの父を炎耀がいろいろな思いと共に見つめていると、驚くほどに大きな気が、いきなりに窓の外に感じられた。
「え…!!」
炎耀が、あまりの気の圧力に驚いて空を見上げると、金色で羽の末端が赤い、眩しいほどに美しい大きな鳥が、そこへ舞い降りて来るのが見えた。
「…また急いで来られたの、炎嘉殿。」
将維が、それを見て苦笑する。
炎嘉…あれは、祖父なのか。
炎耀がただ驚いて茫然とそれを見上げていると、その鳥はスーッと形を崩して、そうして見覚えのある、祖父の人型へと変化した。
「…そんなに急がずとも…。」
しわがれた声がした。
声の方を見ると、薄っすらと目を開いた、炎託が居た。
「炎託?!」
「父上!」
将維と炎耀が言うと、炎託は言った。
「父上が来られたであろうが…待っておった。」
炎嘉が、掃き出し窓から入って来て、炎託へと歩み寄る。炎耀が場を空けると、炎嘉は炎託の側へと寄って、言った。
「…ふん。老いた姿まで我にそっくりよ。前世、我もそうなって旅立った。案じずともあちらへ逝ったらすぐに若い姿に戻るわ。解放されてせいせいするぞ。」
炎託は、フッと笑った。
「…は。父上には敵いませぬな。結局、最期まで父上を追いかけて…追いつきませなんだ。」
炎嘉は、炎託に不敵に笑って見せた。
「何ぞ?我に追いつこうと思うておったのか。無理よ、我であるぞ?歴代最強よ。」と、炎託の腕に触れた。「だが…ようやった方であるわ。主が居って、心強かった。ようここまで生きてくれた…礼を申す。」
炎託は、それを聞いて驚いたように目を見開くと、見る見る涙を浮かべた。そうして、頷いた。
「父上…我こそ、感謝致しまする。」と、将維へと視線を動かした。「将維。すまぬ、先に逝く。だが、必ず迎えに参る。それまで、主は生きよ。命ある限り。」
将維は、必死に涙を堪えていたが、ついに涙を流した。
「世が世なら…我らは龍と鳥の王として、父達のように生きたはずなのに。こうして、友として遊び暮らして楽しめたこと、我は忘れぬぞ。」
炎託は、頷いた。そうして、炎耀を見た。
「我が死ぬ時に見つかるとは。主、ようよう祖父を助けて精進せよ。その血を忘れずにの。」と、咳込んだ。慌てて寝台に寄る炎耀に、炎託は続けた。「ではな。父上、それでは…瑞姫が参っておりまするゆえ。今はこれまで。」
炎嘉は、幾分赤い目をしていたが、無表情に頷いた。
「またの。どうせあちらで会う。しばしの別れぞ。」
そうして、炎託は目を閉じた。
「炎託!」
将維が叫ぶ。
しかし、炎託の気は、そのまま抜け去って消えて行ったのだった。