それから
炎嘉は、様々な懸念を維心に残して、そうして月の宮を飛び立って行った。
元々、鳥の宮を長く放って置くわけには行かなかったのだ。もちろん、それは維心も同じことで、もう帰らなければ宮をいきなりに出て来て、あちらから催促の書状が何度も来ていた。
十六夜と蒼は、あれから素知らぬふりをして、維月にあの事が知れる様子は無かったが、それでも維心は、自分がここを去った後、十六夜が口を滑らせるのではないかと気が気ではなかった。
しかも蒼が、炎嘉が、男は駄目だが維心は良いようなことを言っていたから気を付けろと言って来ていた。
維心は、息をついた。確かに炎嘉がそれほど言うならと思う事もあったが、しかしそういう事は自分には無理そうだった。あの瞬間、維月だと思えばもしかして、維月に固執されるぐらいなら自分が相手をして我慢させれば、と思ったが、やっぱり駄目だった。そもそも自分は、維月以外とそういう気になれないのだ。
だいたい、いくら長年の友とは言って、維月がそれを知った時のことを思うと、とてもじゃないがそんな仲になろうとは思えなかった。
今日も龍の宮から帰還の催促の書状がやって来て、維心がため息をついていると、維月が言った。
「維心様…あの、もう二週間にもなりまするし、宮が回らぬと兆加が申して来ておるのではありませぬか。」
維心は、維月を見て首を振った。
「いや、維明も居る。長く我があちらを離れるのなら将維を行かせたら良いのだが、それでも炎託があれでは…あれも、看取りたいであろうし。維明で何とか出来ぬことを、我がこちらから指示したらなんとか…。」
維月は、ため息をついた。
「それでは、あちらも困りまするでしょう。維心様はご心配くださっておるようですが、私はもう大丈夫ですわ。陰の月は綺麗に元通りに押さえられておりまするし、父にも方法を聞いて、むしろ以前より良い感じで。なので、もう大丈夫ですが、それでも維心様がこちらから帰られないとおっしゃるのなら、私が里帰りを切り上げて帰っても良いのです。」
維心は、それを聞いてそうしてくれたら助かる、と思ったのだが、十六夜だった。
里帰りはひと月と決めているのに、それを途中で切り上げると言ったら、あれはまた我がままだ何だと言い出して、そうして最終、炎嘉とのアレを維月に勢い、ぶちまけるのではないかと気になって仕方が無かった。
なので、覚悟を決めて、言った。
「…いや、良い。我が戻ることにする。主は取り決め通り、ここにあと二週間残るが良いぞ。何かあれば、我もこちらへ来るゆえ。すぐに知らせを送るのだ。」
維月は、ホッとしたように維心を見上げると、頷いた。
「はい。では、私は残りの里帰り期間を過ごしてから、あちらへ帰りまする。」
維心は、頷きながらも自分が居ない間のことが心配でならなかったので、続けて言った。
「では、我が帰った後、義心を残すゆえ。」
維月が、驚いた顔をした。え、義心を?!
義心は、維月をずっと前世から想っているそれは優秀な軍神だ。それを知っている維心は、決して義心と維月を二人きりにはしなかった。つまり、月の宮で維心が帰るのに、義心を置いて行くなど考えられない事態だったのだ。
しかし、それは維心の苦渋の決断だった。義心は、自分の右腕として長年使って来たそれは優秀な軍神だ。義心に任せておけば、大抵のことは期待以上に成して来た。それを今回は、維月の側に置く。なぜなら、十六夜が例の件を、維月に漏らしたりしないか見張らせるためなのだ。
義心が維月と共に過ごすということが起こるより、今の維心にはあのことを維月に知られる方が断然嫌だったのだ。
「はい…分かりました。ですが、それほどにご案じくださらなくとも大丈夫ですのに。」
維月は、義心を残すほど維心が自分を気遣っているのだと思ったらしい。
維心は、首を振って維月の手を握りしめた。
「良い。あれが居れば、大事ないゆえ。何かあればあれが我に知らせて来よう。我も案じておらぬで良いし。」
義心と常に維月を一緒に居させるのは確かに心が騒いだ。だが、十六夜の口の軽さは大変なものだ。維月に対してはまず、隠し事などない仲なので、全く信用していなかった。
なので、維心は義心に事の次第を細かく話し、そうして、維月にぴったりついて離れるな、と命じて、後ろ髪を引かれる思いで龍の宮へと帰って行ったのだった。
そんなわけで、義心は維心から命じられた通り、庭に居ても部屋に居ても、果ては風呂に行っても外で待って、側に控えてジーッと様子を見ていた。
ある意味監視に近い感じで、確かに十六夜が二人で居る時に何を話しているのか逐一聞いておかねばならないので、義心は務めをしっかりと果たしていたのだが、十六夜にしたらそれが面倒でならない。
つまり、維月と完全に二人きりという瞬間が全く無かったのだ。
それこそ夜、部屋で二人で寝て居ても、義心の気配は戸の外にあって、とても何かをしようという気持ちになれない。
そんわけで遂に、十六夜は切れた。
「なんだってどこにでもついて来るんだよ!お前な、オレにもプライバシーってのがあるんだぞ!維月が心配って、やり過ぎなんでぇ!」
しかし、義心は真顔で答えた。
「王から、どんな時にも離れず側に居よとの命を受けておるのだ。そのためには我は寝ずの番もせよとの事であったし、ゆえにこうしてお側に居る。我は維月様の草履ぐらいに思うてくれていて良いが。」
「維月は今草履じゃなくて靴履いてる。」と十六夜は言ってから、首を振った。「じゃなくて、ちょっとは離れろ!夜だけでもお前は宿舎に帰って寝てろ!維心には言わねぇからよ!」
しかし義心は、律儀に首を振った。
「出来ぬ。王の命を違えることは筆頭軍神としての我自身が許さぬゆえな。我をここへ残された王のお気持ちを汲めば、そのような事は絶対に出来ぬ。」
そう、維心は何のかんの言って義心を信頼しているのだ。維月の事以外でだが。
だからそれを自分に託した維心の気持ちを裏切れないのだろう。
「…維月と二人きりで過ごさせてやるって言っても?」
義心は、首を振った。
「出来ぬ。」
即答だ。
維月が見かねて割り込んだ。
「十六夜、落ち着いて。維心様はとても私を心配してくださっていたの。義心だって維心様の命令には逆らえないんだもの。いいじゃないの、元々私達、夜いろいろしなくても平気で仲良かったでしょ?しないことだって多いんだから。義心が居ても、平気でキスはするくせに。」
十六夜は、うーっと唸った。
「確かにそうだけど、やらねぇのとやれねぇのとは訳が違うっての。それにキスったって軽いヤツだろうが。炎嘉が維…」
言いかけた時、義心が被せて言った。
「月の陰陽と神とは違うゆえの。」義心は、断固とした風で割り込んだ。「炎嘉様は神、維月様を前にしたら主らとは違うのは当然よ。」
十六夜は首を振った。
「じゃなくて…、」
「もう、いいわ!」今度は維月が言った。腰に手を当てて、若干怒っている。「もう!そんな話を臣下の前でするものじゃないでしょう!夜夜って、十六夜じゃないみたい!十六夜はそんなの興味は無くてどうでもいいっていつも言うくせに!知らない!」
維月がズンズンと宮の方へと歩いて行くので、十六夜は慌ててそれを追った。
「おい?維月、怒るな!」
義心もそれを追いながら、険しい顔をしていた。やはり十六夜は、あっさりと維月の前であの話を口にする。危ないところだった。
義心は、油断がならないと急いで二人の後を追った。
維月は機嫌は直したものの、やはり常に義心が側に居ることに根を上げて、十六夜はその日は月に帰って降りて来なかった。
自分に都合が悪くなるといつもそうだったし、それに普段維月が普通に里帰りしていてもそんな感じなので、維月は特に気にしている様子もなく、碧黎と共に過ごしていた。
碧黎は無駄なことは己から言わず、ただ維月が楽し気に話すことに返す程度なので、義心も安心して見ていることが出来た。
維心はいつも、碧黎が龍の宮へ来ると渋い顔をしていたが、なるほど道理だなと義心は二人が過ごす様子を見て思っていた。
碧黎は、あの地場逆転の折から若い姿になっていて、維月と二人で過ごしていても、とても親子には見えなかったからだ。碧黎自身が人や神が言うような親子関係ではない、と常に言っていたが、確かにそうだろう。しかも、維月は碧黎に完全に気を許しているので、それは仲睦まじい。
もしかして、維心と過ごしている時よりも、心を許して居るようにも見えた。
しかし、碧黎は十六夜のように、維月と夜がどうのなど、一切言わなかった。一度、維月が碧黎の対で休むというので、義心がその部屋の前でじっと夜番をしていた時があったのだが、それに気付いても、主も大変だの、と言っただけで、特に鬱陶しく思ってはいないようだった。そもそも、碧黎は義心がなぜこんなことをしているのか知っているようだった。
碧黎は、維月と体の関係になろうとは思ってはいないというのは本当のようだった。
そして、もう里帰りも終わろうかという頃、維月が珍しく一人で、今日は誰とも過ごそうという感じでもなく、ぶらぶらと庭へ散策に出ているのに、義心は離れて付き従っていた。
今日は珍しいな、と義心が思ってついて行くと、維月は奥の滝の前へと到着して、そこで足を止めた。じっと滝を見つめる維月の背中を見つめていると、維月は、言った。
「…義心。もしかして維心様、十六夜を警戒なさっているんじゃない?」
義心は、ビクッとした。もしかして、気取られたか。
義心は、首を振った。
「十六夜は、何を言い出すのか分からないので。王は十六夜が、王のことに関して何かを吹き込むのではといつもご案じなさっておいでです。」
十六夜は、別にあのことでなくても良く、維心が維月に飽きるだの、あいつは我がままだの、結構維心を貶めることを言う。それに対して警戒しているのはいつもの事だったので、維月は頷いた。
「わかってるわ。その事では無くて、もっと別のことよ。あなた…結構維心様に無理なこと頼まれたんじゃない?」
義心は、グッと黙った。維月はそれでなくても勘が鋭い。だが、ここで自分が暴露するわけには行かなかった。
「…維月様をお守りしてお側に居るとの命でございます。」
嘘ではない。
だが、伏せていることがある。これは、神が普通よく使う方法だった。
維月は、なんと思ったのか分からないが、滝の脇にある、滝を望む房の方へと歩き出す。義心は、慌ててそれを追って、維月についてその、小さな家のような、房へと足を踏み入れた。
維月は、そこでやっと恨めし気に義心を見た。
「義心…私が言えと命じても、維心様からの命だからその上から来ててあなたは言わないでしょうね。」
と、ずんずんと側へと寄って来た。義心が膝を付いたまま思わず仰け反ると、維月は義心の真ん前で、その顔の正に数センチの所へ顔を近づけて、じーーッとその明るい青色の瞳を見た。
「な、その、維月様、」
義心が仰け反ったまま何とか顔を離そうと微妙なバランスの上に膝を付いていると、維月は義心の目を見たまま、言った。
「知ってるわよ。私、月なのよ。大概のものは見えるの。だからね、あの日維心様の気が余裕が無いような感じで小さく爆発したのを気取って、目が覚めたの。」
義心は、びっくりして目を見開いた。気が爆発…まさか…?十六夜がまだ月で寝ているとか言っていたのではなかったのか。目が覚めた?
維月は、義心の思考を読んだように、頷いた。
「見ておったの…最初のは見てないわ。寝ていたから。でも、炎嘉様が維心様がホッとして見上げてらっしゃるのに、イラッとなさって思い切り、」と、義心にずいと寄った。義心はバランスを崩して床の上へと転がる。維月はその上に馬乗りになった。「こうしたでしょ?」
「ん…!」
義心は、仰天して何とかしようとジタバタした。しかし維月に傷をつけてはいけないし、そもそも維月とは何度もこんなことがあって、それは自分からやったし、嫌ではないがそれでも維月からこんなことをして来たことは、無かったのではなかったか。
維月には、抗えない。
義心が諦めてそのまま維月に口づけられるままになっていると、結構な時間が経ってから、維月はやっと義心から唇を放した。義心が茫然と維月を見上げていると、維月はまるであの時の陰の月のように、薄っすらと赤い瞳で、フッと笑った。
「隠そうとした罰よ。あなたにも、維心様にも。別にやましいことが無いのなら、隠す必要などないじゃない。私もそんなことぐらいでごちゃごちゃ言わないわ。維心様から進んでしたなら別だけど、事故のようなものなのに。確かに十六夜が口が軽いのは分かるけど、十六夜は私に隠し事なんかしないから。出来ないのよ、そういう命なの。それなのに隠し通せると思っていた、あなた達への罰。」
義心は、甘かった、と思った。維心の緊急事態に、維月が気付かぬはずがないのだ。まして月に居たなら、気の変動を気取ってそれを探って見ていてもおかしくはない。
「それで…義心は、これで終わりで良いの?」
義心は、ハッとした。維月の目は、更に赤くなっている。以前より、陰の月とのリンクが早いと確か碧黎が言っていたような気がする。だが、維月自身がコントロールしている時と、陰の月の性質がコントロールしている時があるから、気を付けた方がいいと。
これは、どっちの維月なのだろう。
「維月様…これ以上は。我とて…ですが王の命で我はここに居るのです。そのご信頼を違えることは出来ませぬ。」
維月は、義心の上でホホホと笑った。
「あら何を言うておるのかしら。あのかたも私から隠そうとなさったのに。だったらこれも、隠せば良いのよ。」と、再び義心に唇を落とした。「あなたと私…これが初めてではないのだから。良いではない…?」
「待…っ、ん…!な、なりませぬ、我は…!」
抗えないのに!
義心は心の中で必死に叫んだ。
維月の目は、その時真っ赤だった。




