誤解
ドカン!と、大きな気の音がした。
「…なんだ?!今のは?!」
十六夜が、驚いて振り返る。自分の部屋に居たのだが、どうやら客間の方で何かがあったらしい。
維月は、まだ月で眠っていた。なので、十六夜は一人で急いで、音の方へと飛んで行った。
音のした部屋へと飛び込むと、そこには炎嘉が居て、床に胡坐をかいて座り込んでいた。
維心が、ゼエゼエと息を上げながら寝台に座っていて、手の甲でやたらと口をこすっている。蒼が駆け込んで来ていたが、寝台の天蓋が吹っ飛んでいるだけで、特に問題はなく、恐らくは維心と炎嘉の軽いケンカだろうと思い、集まって来た軍神達を手を振って追い返した。
十六夜は、ひっくり返った天蓋を起こしながら、呆れて言った。
「あのなあ、ケンカするのはいいが、他人ちの物を壊すなっての!あーあーもう、完全に破壊されてるじゃねぇか!」
維心が、ブンブンと首を振った。
「我が悪いのではない!」と、蒼を必死に見た。「蒼、水を!水をくれ!」
蒼は、慌てて側のテーブルへと走ると、王であるのも忘れてグラスへと入れると、それを維心へと持って行った。維心はそれをひったくるように取ると、口に含んで、これ見よがしにブクブクと口をゆすいだ。
炎嘉が言った。
「ちょっと褥に引っ張り込んで口づけただけで。大袈裟であるわ。」
蒼と十六夜は、さすがに仰天した顔をした。
「ええ?!お、お前らもしかしてとは思ってたが、ほんとにそうなのか?!」
十六夜が言う。維心がそれこそ首がもげるのではないかというほどに首を振った。
「違う!今の今まで我は、維月以外とそんなことをしたこともないわ!口づけたのとて…」と、維心はその事実に己で呆然となりながら、続けた。「維月以外は、無かった…。」
維月になんと言い訳すれば良い。
段々に維心が悲壮な顔になって行くのを見た蒼は、慌てて言った。
「大丈夫です!維月だって今生十六夜も居るし碧黎様も居るし炎嘉様だってそうですから!心配しなくてもそんなぐらいじゃ宮を出て行ったりしませんから!」
十六夜は、維心の様子に確かに炎嘉と維心が以前から何かあったというのでは無いのだと悟り、困ったように炎嘉を見た。
「炎嘉、お前なあ…分かってるくせに、なんだって維心にそんなことしたんだよ。まさかこれまで我慢しててってんじゃねぇだろうな?」
炎嘉は、床に座り込んだまま、フッと意地悪げに笑った。
「だと言ったらどうする?」それを聞いた維心が、ビクッと肩を震わせた。炎嘉は、表情を緩めると、ハアと息をついた。「冗談ぞ。そもそもそれならとっくに襲っておるわ。何千年一緒に来たと思うておる。前世の経験のない維心なら、いつなり奪うことが出来たわ。それをせなんだのは、そういう風に見ておらなんだからぞ。」
維心は、さすがに怯えたようにおののいている。十六夜は、息をついた。
「だったらなんで今になって口づけたりしたんだっての。維心がうがいしまくってるってことは、結構ディープなヤツだろうが。いくら維心が美神だってオレには無理だわ。」
炎嘉は、フンと言った。
「こやつだけ、維月だけを守るだのなんだの己の希望通りに生きておるからよ。我だって今生、あちこちフラフラしたりせぬし、維月だけで良かった。なのにこやつが頼むゆえ、レイティアとかと褥を共にせねばならなんだり、陽蘭に気があるふりをさせられたり、いろいろあったのだ。我だって生きておって考えがある。それなのに、我が侍女に手を付けただのなんだの言いおって。実際炎託の子であったし。しかしこやつを襲えるヤツなど誰も居らぬ。少し脅すだけにしようと思うたのに、シレっとしておるゆえ、腹が立った。だから意に染まぬことをさせられるのがどんなものか教えてやったのだ!」
十六夜は、唖然としてそれを聞いていた。確かに維心は自分は絶対に出来ないと、炎嘉に色恋のことに関しては押し付けて来たのは確かだ。炎嘉も、嫌がったが結局は仕方がないと受けた。維心もそれで、維月を年に一度は炎嘉の下へ行かせるという苦渋の決断をせねばならなかったが、結局自分はそれで汚れずに済んだ。
炎嘉は、維月への想いを利用されて、維月と過ごす時間が欲しいために自分の手を汚すことになったのだ。
そう聞いてみたら、確かに怒るのも分かるような気がした。
これまでのことが、溜まりに溜まって維心に脅しではなく本当に口づけたのだろう。
「やり過ぎよ!」維心は、懐紙で口を拭きながら、言った。「我が気を発しなければあのままどうなっていたか…。」
蒼は、口をわななかせた。男に襲われる恐ろしさは経験したことが無いが、力の無い蒼にとっては無いことでは無いので、身につまされるのだ。
炎嘉は、立ち上がって言った。
「主がジタバタしておるだけで気を使うことも忘れておったからいっそやってやろうと思うただけよ。今生はないが、前世は経験無いわけでもないからの。主とて一瞬、諦めかけたではないか。仕方ないと思うたのではないのか?」
十六夜が維心を見ると、維心は恨めし気に炎嘉を見た。
「…主が誠にそれを望んでおるのかと思うたからよ。だが、そう思うても無理だった。だから吹き飛ばしたのだ。」
ということは、維心は一瞬、相手をするべきか迷ったということだ。
炎嘉は、片眉を上げた。
「…主、甘い。我が誠に本気で襲っておったら、今頃は嫌でもそうなっておるところよ。あれぐらいの気であれば、我は難なく弾き返せる。主が必死であったから、我も離れてやったのだ。あんな時は、相手を傷つけずに退けるのなど無理なのだぞ?これからは殺す気でやるが良い。我であったから良かったが、他なら危ないところよ。」
維心は、不貞腐れたように横を向いた。
「主でなくば殺しておるわ。だが…我は、話があると言うたであろう。」
蒼は、まだ話して無かったのか、と驚いた顔をした。
「え、それでこじれて諍いがあってそうなったんじゃなかったんですか。」
維心は、首を振った。
「違う。話をする前にいきなり我を褥に引っ張り込んで、こんなことに。」と、寝台に座り込んだまま、維心は炎嘉を見た。「あの、約定のことよ。ここは月の宮。維月も此度のことでは疲れておるであろうから、ここへ長期里帰りさせて、我はここへ会いに来ることにするかと蒼に話したのだ。そうしたら…主も、ここへ来ることが出来よう。その間に、約定を済ませてくれたらと思うたのだ。」
炎嘉は、驚いたような顔をした。維心は、本気で維月と子を成すことを許そうとしておるというのか。
「主…本気か?」
維心は、頷いた。
「我だって、己が主に対してそれは無理を言うて来たのは分かっておるわ。それに、主は仕方がないと応じてくれた。意に染まぬことも多かっただろうに…だから、せめて約したことは守らねばと思うて。」
維心は、分かっていたのだろう。炎嘉が今言ったことも、全てを分かっていて、そうして炎託も死んで逝く今、仕方がないと、今度は自分の番なのだと思ったのだ。
炎嘉は、じっと黙ってそれを聞いていた。そうして、十六夜も蒼も遠慮して黙っている中、とっくりと考えてから、口を開いた。
「…主の気持ちは分かった。」炎嘉は、言った。「我とて己の子が鳥族のために欲しいと思うておった。だがの、ああして主に何度も言うておったのは、我が主を妬んでおったからよ。己だけ安全で平穏な場に居て、愛する維月を手元に起き、子も多く、何と恵まれているのだと思うておった。だから、ああして主が困るのを分かっておって言った。それが叶うなど、思うてもおらなんだ。炎託に死斑が出た時、主が我に維月と子を成すのを許すと言うたのだとて、もう、それで我は良かったのだ。主は、何のかんの言うて、我のことを維月の次ぐらいには尊重してくれておる。だから、そう無理をすることは無いのだ。」
維心は、それに少し明るい顔をした。では、維月と子を成さずで良いと?
「…良いのか?炎耀が王の器でなかったらとか、言うておったのでは?」
炎嘉は、息をついた。
「そも、維月が生むのが皇女であったらどうするのだ。主、何度も我に維月を許さねばならぬようになるぞ?我だって、それぐらいのことは考えておる。我としては、今は己の身が潔白だと澄ましておる主にイラっとしたのであって、それ以外のことはもう良いわ。」
維心は、寝台から身を乗り出した。
「誠に?もう維月と子は良いのだな?ならば我は、ひと月ほど維月をここに里帰りさせてから、龍の宮へ連れ帰るが良いな?」
炎嘉は、維心がそれは嬉しそうにキラキラとした目で自分を見上げているので、少しムッとした顔をした。
「…あからさまに嬉しそうな顔をしおって。」と、ぐいと維心を引っ張った。「それが気に食わぬのだ。」
「!!」
十六夜と蒼が、息を飲んだ。
蒼は思わず両手で顔を覆ったがその指の隙間からそれを見て、十六夜はあんぐりと口を開けて棒立ちで見ていた。
「ん!ん!ん!」維心は、手をジタバタさせてドンと炎嘉を押した。「だからやめよと申すに!」
十六夜は、維心と炎嘉を指さして蒼を振り返った。
「見たか?なあ蒼、見たか?ブチューッとしてたぞ、チュッじゃないぞ!めっちゃ本格的だぞ!だけどなんだろ、全然不自然じゃねぇ…こいつらが綺麗だからか。」
蒼は、赤い顔をして十六夜の肩を叩いた。
「もう、やめなよ十六夜!わざわざそんな事解説しなくても!」
維心は、十六夜に向かって叫んだ。
「十六夜、維月に申すな!分かったな、今見たことは忘れよ!」
炎嘉が、ハッハと笑って言った。
「おお言うて良いぞ、それでこやつと維月が口づけておる時、我の事も思い浮かべてくれような。いつなり維月の脳裏に我が浮かぶと思うともっとこやつとまぐわっておいて良いかと思うわ。」
維心は、慌てて寝台から飛び降りて部屋の壁の方へと退いた。
「何を言うておる!」と、十六夜と、蒼を睨むように見た。「言うでないぞ!絶対に!」
だが十六夜は、肩をすくめた。
「でもさ、お前も段々慣れて来たんじゃねぇのか。もう諦めろよ、いいじゃねぇか炎嘉も居て。いっそそんな仲になったら、維月にそれほど固執しないかもしれんからオレも助かるんだけど。」
維心は、十六夜を睨みつけて言った。
「だったら主もやってみよ!炎嘉は友として一番に思うておるが、そんな対象ではないわ!」
炎嘉は、チラと十六夜を見た。
「ふーん主も、よう見たら美しい容姿であるし、黙っておったら確かにの。目を閉じておったら、主も今見て知っておろうが我は巧みであるし、良いかもしれぬぞ?」
十六夜は、慌てて窓の方へと飛び退った。
「待て!オレは無理だ、絶対男は無理だっての!他を当たって…いや、維心にしろ維心に!そいつは本気になったらそういう事はお前より上手いって!絶対!」
十六夜は、そう言いながらもさっさと窓枠へと手を掛ける。蒼がどうしたらいいんだとオロオロとしていると、維心が叫んだ。
「何を言うておるのだ主は!人身御供に我を差し出そうとてそうは行かぬぞ!」
十六夜は、窓枠から飛び立った。
「とにかくオレには無理だっての!お前はそういうこと好きなんだからいいじゃねぇか!オレはそういう命じゃねぇんだからな!」
「好きとは何ぞ、待て!こら、絶対に申すでないぞ!」
維心が、それを追って飛んで行く。
蒼は、茫然とそれを見送っていたが、炎嘉が後ろに黙って立っているのを感じて、ハッとした。慌てて振り返ると、炎嘉がため息をついて維心と十六夜が飛んで行くのを見送りながら、言った。
「…我は別に男は好きではないというに。ちょっとからかっただけであるのにあやつらは真面目であるのう。」と、蒼を見た。「もし我が男好きであったら、今頃ここで我の手がついておらぬ男など一人も居らぬと思うぞ?美しくて性質の良い男が多すぎるのだ、ここは。蒼だってとっくに我の餌食になっておるところよ。だが、我は前世、やってはみたが男は良いとは思わなんだ。悪いとは言わぬが、しかしやはり我は女の方が良いようよ。だから安心すると良い。」
蒼がそれを聞いて心底ホッとしていると、炎嘉はまた、二人が居なくなった空へと視線を移して、付け足した。
「…とはいえ、維心は良いかもしれぬなあ…。龍王は誰であろうと相手を篭絡するほどの体を持っておると聞いたことがあるが、伝説程度の事であると思うておった。だが、あれは癖になるぞ?維月があれから離れられぬのも道理と納得したわ。」
蒼は、またギョッとして体を固くした。
ちょっとこれは維心に後でそっと言っておこうと、蒼は心の中で思っていた。