性癖
炎嘉が、維心と共に屋敷へと再び到着し、若干疲れ気味の紫翠を連れて、蒼もすぐにやって来た。屋敷の中へと入って行くと、入口の部屋、居間で、十六夜と将維、炎託が、何やら別の意味で疲れ切った様子で立っていた。
「…どうした。維月は?」
そう言った維心の声にかぶさるように、維月の声がした。
「うるさい、触るな!誰が許したの、着物の裾すら触れてはならぬと言うたはずよ!」
ガンという音が聞こえ、何やら転がったような鈍い音も伝わって来た。炎嘉も驚いたように両方の眉を跳ね上げていると、最後尾に居た、紫翠がため息をついた。
「…闇は夢中で…蹴られておる。」
ではあれは維月が蹴り飛ばした音か。
炎嘉が仰天したように皆を代わる代わる見ると、十六夜が言った。
「もう説明し過ぎて面倒だから、闇が蹴られて喜んでるってだけ言っとく。」
炎嘉が、横の維心を見た。
「…維月は主の前ではあのようなのか。」
維心は、首を振った。
「常は違うが、陰の月の影響が強い時はの。我は蹴られたことは無いが、かなり…その、支配的な時があるというか。その時の維月の強いものが、今戸の向こうに居る。」
炎嘉は、驚いた顔のまま、奥へと繋がる戸を見た。
「我は見たことがない姿であろうから、ある程度覚悟が必要であろうの。」
紫翠は、もう疲れ切った様子だったが、炎嘉に言った。
「闇の性癖がそうなのです。陰の月は大変に闇の心の琴線に触れる性質で、闇は惹かれずには居られないのですよ。それこそ、今の闇なら殺されても構わぬほどではないでしょうか。闇にとって、あれほどぴったりと己の心に合う存在は今まで居なかったという風に読めております。」
十六夜は、戸の方へと足を向けた。
「陰の月と闇はそういう間柄だってことさ。もちろん維月は別の意識があって全く闇のことなんか好きでも何でもないんだが、本来陰の月はフラフラと、あっちへ気まぐれに行っちまってもおかしくはない性質だってことだな。」
紫翠は、頷いた。
「恐らくは。だからこそ、闇は陰の月を取り込もうとするように、生まれながら意識に刷り込まれておるのだろうな。」
炎嘉が、意を決したように足を進めた。
「では、早いところ闇を消してしまわねば。維月がいつまでも陰の月に憑かれたような状態では、本来の性質までも歪んでしまうのではないかと案じられる。我とて褥で時にあんな風でも別に構わぬが、常にあれではさすがに無いわ。」
十六夜は、顔をしかめた。
「なんだお前もいいのかよ。ま、これ見ておんなじ事が言えるか見てみてぇよ。」
そして、戸を開いた。
すると、維月に吹っ飛ばされたのか何なのか、床に転がって体をビクビクと動かしている、闇の意識に支配されている炎耀が見えた。維月は、真っ赤な瞳でそれを蔑むように見下ろしていた。
誰かが入って来た気配に、その維月がこちらを向いた。思わず仰け反る一同に、維月は真っ赤な目のまま、言った。
「ああ、こやつは死んでも良いそうですわ。私に蹴られて踏まれて嬲られたまま、死するほどの苦痛を受けたらどれほど快いのかと愚かにも考えておるのです。そんなにあっさり私に殺してもらえるなどと思うておるのが愚かなのですけれど。」
維月は、ホッホと尊大に笑った。想像はしていたが、まさかここまでとはと炎嘉もかなり退いている。維心が、なだめるように言った。
「維月、だがそやつは早う殺してしまわねばの。炎嘉も来たし、ここで炎耀を引っ張り出して闇を追い出すのだ。良いな?」
維月は、不満そうな顔をした。
「これが私達に何をして来たのかと思うたら、簡単に殺してはと思いまするが…」と、炎耀を見下ろした。「確かにさっさと始末してしまうのも良いかも。」
まだ目が真っ赤なので、まさに陰の月が9割ぐらいの維月なのだろう。10割なら、納得しないだろうからだ。
「お前がまだ着物をきっちり着てるのを見たら、陰の月100%じゃねぇのは分かるが、ちょっと抑えろ、維月。段々陰の月ばっかりになりつつあるぞ。そうなって来ると、体を使い始めるから、元に戻った時ダメージが強いだろう。前世を思い出せ。陰の月は、自分の望みを叶えるためなら誰とだって寝るんだからな。さあ、こっちへ。」
維月は、何かに抗うような顔をして、無理に足をこちらへと踏み出した。そもそも月である維月が、前世のそうでなかった時の意識を使っているのが無理があったのであって、陰の月を受け入れてしまったら、元へ戻すのが難しくなるようだ。
だが、維月は十六夜の手を掴んだ。
「…少し、離れるわ。これまで押さえていた陰の月を解放してしまったから、また引っ込めるのが難しいの。確かに十六夜が言う通りよ…このままじゃ私、何をするか。」
将維が、ホッとしたように維月に近寄った。
「ならば、ここに居ても役に立たぬ我が共に外へ。」
維心は、頷いた。
「頼むぞ、将維。」
てっきり維心も来ると思っていた将維は、片眉を上げた。
「父上は残られまするか。」
維心は、頷いた。
「炎嘉が闇と対峙する。何かあった時のため、我はここへ残る。」
維心には、炎嘉を助けようとする、長い間の友としての情があった。なので、闇に憑かれず炎嘉を補佐出来る自信があったのだ。
将維が頷いて、維月を連れて出て行くのを横目に見ながら、炎嘉はふんと小さく鼻を鳴らした。
「…独りでも大丈夫よ。案じるでないわ。」
維心は、首を振った。
「念のためよ。」と、紫翠を見た。「それで、闇は今どうなっておるのだ。今、炎耀の精神の中へ入っても大丈夫か。」
紫翠は、じっと炎耀を見ていたが、頷いた。
「はい。闇は今、呆けておってこちらへ意識を向けられる様子ではありませぬ。その、何というか…人や神が、褥で励んで終わった後と申しますか。」
炎嘉は、顔をしかめた。十六夜が、はあ?と言ったように表情をゆがめた。
「なんだって?ほんとこいつは変態だな!ったくよぉ、早く炎耀と引き離さないと、変な性癖が移っちまうぞ。」
炎嘉が、大きく息をついて、頷いた。
「では、参ろうぞ。我とてそんな性癖、理解は出来ぬし理解しようとも思わぬが、我が孫にそのようなものが移っては難儀なことになるゆえの。」と、側の椅子へと深々と座った。「参る。後は頼んだぞ。」
そうして、炎嘉は目を閉じた。炎嘉の気が、側で倒れて虚ろに目を開いているだけの、炎耀の方へと流れて行く。
そうして、炎嘉も身動きしなくなった。
将維が維月を気遣って外へと出て行くと、上に浮いていた碧黎が降りて来た。そうして、維月の顔を覗き込んだ。
「…ふむ、ほとんどが陰の月。よう踏みとどまったの、維月よ。丸ごと陰の月になっておってもおかしくはないのに。闇の影響は、思うたより面倒よな。こちらが取り込まれるはずがないと思うておっても、あちらがひたすらに下僕に徹することで、陰の月がそれを快楽と感じ、痛めつけることであれを遊具として認識したなら、それが面白いほど手放しとうなくなる。そうやって、あれは陰の月をじりじりと取り込もうとするのだ。我が上から主を留めておこうと気を放っておったゆえ、陰の月もそれを退けることは出来なんだ。」
維月は、碧黎を見上げて驚いた顔をした。
「では、時にお父様のお顔が目の前にちらついたのは、そのせいでしょうか。私は、その度にハッと維月という意識にリンクして、切れずに済みました。」
碧黎は、維月の頭を撫でて、頷いた。
「そうよ。我が維月、と呼び掛けておった。主はそれを聞いて、己を取り戻しておったのだ。良かったことよ…ま、闇などに我と維月の絆を消し去るほどの力はないと思うておったからの。」
将維が、面白くないような顔をした。
「その力があったらどうしたのだ。闇と陰の月の繋がりは、結構な強さであったであろうが。」
碧黎は、ふんと鼻を鳴らした。
「十六夜も居った。生まれた時から一緒な上、前世今生と時を共にして来た命が側に居って、維月の意識がパッと出た陰の月と闇などに負けるはずはないと確信しておった。維月は我と命を繋いでおるのだ…その絆は、主らには想像も出来ぬものだろうよ。」
将維はますます不機嫌に顔をしかめたが、碧黎は気にしておらぬように維月を見た。
「では…まだ、主には役目があるやもしれぬ。最後に、あれに引導を渡すのは、十六夜ではなく主ぞ。」
維月は、驚いた顔をした。
「え…ですが、私が消すとしてもどうせ十六夜の力を使うよりないのですが。」
碧黎は、じっと維月の、まだ少し赤い目を見つめた。
「陰の月が、闇を切り離すのだ。主の意識が、あれをきっぱりと断ち切っておかねば、陰の月は楽しんだ分、再び闇を探して今度はそれを前向きに受け入れようとするようになる。だが、己で断ち切っておけば、それは無い。主の手であれを葬って、もう闇など要らぬと思わせねならぬのだ。陰の月である以上、それと付き合って行かねばならぬ。陰の月の願望を、断ち切るのだ。」
陰の月に闇など消すのだと思わせるために、自分の手で消し去らねばならないということか。
将維がそう思って聞いていると、維月も納得したのか、頷いた。
「はい、お父様。私がこの手で、十六夜の力を使って闇を葬ってしまいまする。」
碧黎は頷き、どうなるのかと案じる将維を後目に、維月は碧黎に伴われ、また屋敷へと入って行った。