意思と意思
螢は、薫が維月と二人で湖の方へと飛んで行くのを見た。
軍宿舎へと帰ろうとしていたところだったのだが、維月は陰の月で、その陰の月と知り合いだなどと聞いたこともなかった。
なので、気になってその後を付けて行った。
脇の林に入ってじっと伺っていると、薫はひたすらに維月に膝をついて、頭を下げているようだ。螢が、いったい何を話しているのだろうと、もっと近くへと行こうと飛ぼうとすると、後ろから、グイと腕を掴まれた。
「!!」
驚いた螢が振り返ると、そこには嘉韻が居た。
「!嘉韻殿…、」
叫ぼうとすると、嘉韻はその口を気で押さえ、螢を黙らせた。そうして、声を押さえて言った。
「主が言いたいことは分かる。なぜに維月と薫が共に居るのだと思うておるのだろう。薫は今、普通の状態ではない。静音の腹の子を助けようと思うたらしく、薫には今、闇が憑いておるのだ。」
「え…!」
螢は、絶句した。確かに、薫は光希が死んだことを自分の責任だと責めていた。もしかして、腹の子を自分で助けようと…?
螢がブルブルと震えて目を潤ませたのを見て、嘉韻はため息をつくと、口を塞いでいた気を放した。
「…維月は、陰の月であるのを知っておるよな。闇は、維月を取り込もうと今必死なのだ。だが、維月が飲まれることはまずないし、地が見張っておるから大事ない。だが、主は危ないゆえ。近寄るでない。」
螢は、すがるように嘉韻を見て言った。
「では薫は…薫はどうなるのですか。闇などに憑かれて…もとに戻るのですか?」
嘉韻は、悲し気な顔で、首を振った。
「分からぬのだ。月が陰陽ともに何とかしようと知恵を出して考えておる。主は、足手まといにならぬよう、今は薫から離れておれ。分かったの。」
螢は、ブルブルと震えて涙を流した。薫だけが、悪いのではないのに。光希が死んだのは、薫のせいではない。それなのに、薫は光希の子を何としても助けたいと思ったのだろう。
「そのような…」そして、涙を拭くと、背筋を伸ばした。「…ならば、せめてあれの母に知らせておかねば。嘉韻殿、我の母が父にさらわれる前、薫を生んでおったことが分かったのです。薫は、母を探してここにたどり着いたのです。」
嘉韻は、驚いて螢をまじまじと見た。
「それは…つまり、主らは兄弟ということか?」
それにしては似ていない。
嘉韻がそう思っていると、螢は首を振った。
「いいえ。母とは血が繋がりませぬ。郁と我は父上の子ですが、薫は別の神の子なのです。ちょうど、父が母に残した来た子のことを聞き、自分の子としてここへ迎え入れて頂けるように、王にお伺いしようと言っておったところで…ですが、薫はもうここに居て、母と対面してもいませんでした。影から見ておるだけだった。母がそれを知り、我ら対面出来るようにしようと思うておった矢先に…このように。」
嘉韻は、ただ驚いてそれを聞いていた。はぐれの神の間では、普通の神の世の中より略奪が多いのだと聞く。ならば非力な女なら、心ならずそのように複数の男の子を産むこともあるのだろう。
「気の毒であるが…今は、ならぬ。王もそのことはお知りになっておらぬし。ただ、主から母にこのことを知らせることは許そうぞ。だが、言うておく。絶対に今の薫に近付いてはならぬ。どう利用されて、それによって闇が復活せぬとも限らぬのだからの。わかったな。」
螢は、しっかりつひとつ、頷いた。そして、嘉韻から離れて、自分の屋敷の方へと飛んで行った。
「我の力になってくれたなら、必ずや全てを主に捧げると誓う。」闇は、維月に膝まづいて見上げ、必死に言った。「陽の月など如何ほどのものぞ。我はもっと多くのものを主に捧げる。人型だとて、力さえ取り戻せば主の思うままの姿を取ることが出来ようぞ。誰よりも美しい陽の型を取る。」
維月は、目を細めて見下すように闇を見て、じっと黙っていたが、言った。
「全てって口では何とでも言えるわね。私はお前を殺すことも出来るのよ。」と、手を上げてヒラヒラと動かした。「手を一振りしたら、陽の月の力だって思いのままなのに。これ以上の何を、お前は私に捧げると言うの?片腹痛いわ…所詮私の好意で生きておるだけの存在の癖に。もっと私を楽しませることを考えなさい。退屈で仕方がないからこうしてお前の話を聞いてやっているだけなのに。同じことばかり繰り返すのなら、もう要らないわ。その辺で野垂れ死になさい。お前もそうでしょ?美しい顔が苦痛に歪んで許しを乞うのが楽しくて仕方がないのでしょ?美しい型の陽を選ぶのはそういうことよ。お前、私の慰み者になりなさい。少しは私の役に立つわよ。少しずつ、陽の気で腐れば良いわ。」
維月は、ホホホと高笑いした。別に無理をしているのではなく、陰の月は本来こんな感じなのだ。その本来の姿をいかんなく発揮してみると、こんな感じになるのだ。
闇は、さすがに困ったように肩を落とした。陰の月に嫌われたくはないし、心をものにしなければ、陰の月から自分に心を合わせてくれなければ、取り込むことなど出来ない。この陰の月は、確かに闇が好む性質で、それに言っていることはいちいち闇の心の琴線に触れ、間違っているとはこれっぽっちも思わなかった。闇である自分は所詮、陰の月に使役される存在で、それは命に刷り込まれているので、抗いようも無かった。
「陰の月よ…ならば我を如何様にも嬲ってくださいませ。お気が済みましたなら、どうか我にほんの少しの慈悲を。」
維月の瞳は、今本来の色である真っ赤に染まっていた。その目で闇を嘲笑うように見ると、いきなりに湖の端へと吹き飛ばした。
「よう言うたこと!でも私に慈悲の心があるなどと思わぬことよ!お前自身を省みるが良いわ。慈悲などあるの?神をあちこちで殺しておるではないの!愚かね、ただ殺すだけなんて!私が本当の殺し方を教えてあげるわ!」
維月が手を上げると、登り始めた月から、陽の月の気が降りて来ては、薫の体の中に居る闇を暴こうと膜をこじ開けようと体を舐めた。それが体の膜をかする度、中の闇はチリチリとした痛みを感じた…それでなくても、月の力はどんな結界も抜ける力がある。膜があっても、闇にはやはり、陽の月の力は身が削られるようだった。
「おおおおお!」
闇は、溜まらず声を上げる。薫の体には傷一つ付いていないが、陽の月に炙られ続ける闇は、膜を通して感じるその気に、のたうち回った。
そうして、維月の高笑いは湖に響き渡っていた。
十六夜が、お通夜のような顔で蒼を見た。
「…あのさあ。」皆が、顔を上げる。十六夜は続けた。「維月がオレの力を使ってるんだが、闇がのたうち回ってる。膜があっても中ではいくらかオレの力の波動は感じるんだな。ちょっとやり方はアレだけど、薫には傷一つ付けずに闇を痛めつけてるのは確かだ。というか、あれはほんとに維月か?全く別人みたいなんだが。」
腕を組んでじっと黙って虚空を見つめていた碧黎が、難しい顔のまま答えた。
「…あれが本来の、陰の月の性質よ。普段は維月が抑えておるから、維月自身の性質しかないが、維月が陰の月を全開にしたらああなるのだ。まあ、陰の月に憑かれておる維月だと思えば良いわ。闇に対するなら、あれでなくてはならぬのだろう。確かにかなりの…闇寄りの性質であるがの。」
維心が、困ったような顔をして、言った。
「その…たまにの。十六夜や他の皆が居るのになんだが、維月は奥の間であのような時がある。今にして思えば、そういう時は新月であったような気がする。陰の月の影響を受けておったからだったのだなと今、思うのだが。」
十六夜は、ため息をついた。
「オレと一緒の時は無ぇ。オレが陽の月だからだな、恐らく。あんな維月とベッドに居たら、オレなら怖くて逃げだすぞ。お前、よく平気だったな。」
維心は、控えめに頷いた。
「維月なので。何であろうと、受け入れるのが我の務めだと思うておる。」
碧黎が、真面目に頷いた。
「良い心がけよ。あれも維月なのだから、それを受け入れられねば共に居るなど無理よ。十六夜も、少しは慣れておけ。」
十六夜は、力なく頷いた。
「仕方がねぇ。月同士なんだし。だが、オレは早くいつもの維月に戻ってほしい。早いとこ闇を何とか出来ねぇか。あのままじゃ、痛めつけてるだけで殺せはしないんだ。」
蒼が、一様に暗い顔をしている皆を見回して、言った。
「その…とにかくは、薫なんだよ。薫から出さなきゃならないんだけど、どうしたら出せる?膜は薫の体に張ってあって、闇はその中に居るわけだから、出て来たら十六夜が消して終わりのはずだよな。」
痛ましい顔をして、別の方向を見ていた紫翠が、それを聞いて、蒼を見た。
「闇の心情が伝わって来て、さすがの我も少し同情してしまい申した。かなりの苦痛を感じておるようですが…しかし、逆に何やら至福の感情もあって。何やら性的な心地のような。よう分からぬが…。」
十六夜が、顔をしかめたまま答えた。
「闇ってのはマゾなんじゃねぇの?痛めつけられるのが好きってことさ。殺されかけてんのに性的に至福ってなんだよ、ったく。維月も闇を喜ばせてるんじゃねぇよ。」
蒼が、咎めるように言った。
「十六夜、ちょっと口を慎め。維月が相手してくれてないと、姿をくらまさられても困るんだからね。で、紫翠。聞きたいんだけど、どうやったら闇はあの体から出ざるを得ないと思う?」
その時、戸の方から声がした。
「王。戻りましてございます。」
嘉韻の声だ。
蒼は、言った。
「入るが良い。」
嘉韻は、入って来て膝をついた。
「静音は医務室へ運んで治癒の者に説明し、任せて参りました。湖には近寄らぬよう、ただ今軍神達を手前に配置して警備しておりまする。」
蒼は、頷いた。
「ご苦労だった。」と、紫翠を見た。「で、紫翠?」
紫翠は、頷いた。
「闇というものは、結局はその使っておる体の意思には勝てぬのです。今、薫は恐らく、気を失っておる状態で、闇に抵抗しようとしておらぬのでしょう。闇は自分が己で型を取るまで貸してくれるのなら、赤子から出る、と薫に申しておりました。薫は、なので意識が戻っても、闇に体を使われることに甘んじておるはず。赤子に、再び戻られてはならぬと思うておるからです。抵抗しておらぬから、ああして体を自由に使うことが出来ている。ですが、抵抗されると、闇の己の中で戦わねばなりませぬ。体を動かすことに意識を使えぬようになるのです。」
蒼は、頷いた。
「ならば、薫が抵抗し始めて、闇がそれに勝てなかったら追い出すことが出来るってことだな?」
紫翠は、それには首を傾げた。
「…今の闇は経験を積んでおるのでかなりの精神力です。それに勝つのは、並大抵の力では無理でしょう。誰か他の…もう少し経験を積んだ者が、共に戦えばまず間違いないかと。ただ、誰でも良いわけではありませぬ。次は、その体に入ろうとするかもしれず、それを避けるためには、肉親であった方が良いのです。それが出来なくとも、せめて側で名を呼んで己を見失わぬようにしてやれば違ったものになるやもしれませぬ。」
それには碧黎が、眉を上げた。
「肉親の体には入れぬということか?」
紫翠は、それには首を振った。
「いえ、そうではなく、薫を想う心です。闇は、暖かい感情には殊の外弱い。愛情、友情、そういったものは陽の月の気に通じるので、毛嫌い致します。薫を思って危ない橋を渡ろうとするのは、肉親でありましょう。そんな陽の気を持っておる者には、とてもじゃないが移ることが出来ぬのです。」
蒼が、期待を持って身を乗り出した。
「ということは、嘉韻、あれの友は居ないのか?それに頼んだらどうよ。」
嘉韻は、それを聞いて蒼を悲し気に見ると、息をついて、首を振った。
「…王、お言葉ではありますが、友では無理でありまする。あれはまだ若く、友も同じ。螢と、仲良くしておったようですが、螢も経験など積んでおりませぬ。恐らくは、もっと悪いことになるかと。」
螢か。
蒼は、確かにそうだ、とがっかりした。しかし、親と言ってもはぐれの神、しかも薫は、自分から必死に訴えて、ここへ単独で入って来た神だ。肉親など、誰も居ない。
「薫ははぐれの神だからな。しかも、十六夜が見つけて来て、必死に訴える神が居るから様子を見てやりたいっていうから、結界内に単独で入って来た神だ。親だって、あれを放置してたぐらいなのに、愛情なんてあるのかどうか…。」
嘉韻は、言いたくなさそうだったが、それでも、言った。
「今…聞いて来たばかりなのですが」蒼が顔を上げると、嘉韻は続けた。「薫は、どうやら結界内に居る母を探して、ここへ来た由。その母は、確かにここに居て、汐の妻として暮らしておりまする。」
それには、やる気が無さそうだった十六夜も息を飲んだ。薫は、梓の子か。
「ってことは…汐?!汐が父親か?!」
蒼は、希望を持って言った。だが、嘉韻は首を振った。
「いえ。詳しいことは分かりませぬが、螢が言うには、郁と螢は汐の子ですが、薫はその前に梓が他の男の子を産んで育てておったのだとか。汐は、己の子ではない薫のことは省みず、梓だけ連れてここへ来ていたようで…つい最近、王にその、残して来た子を引き取りたいと申し出ようとしておったところだと。しかし、薫は自力でここへ既に居ったということらしいですな。」
十六夜は、割り込んで言った。
「じゃあ、梓に聞きゃその父親の名前が分かるんじゃねぇのか。名前が無くたって探しゃ見つかるかもしれねぇ。どんな神だって、己の子だったら情ぐらいは湧くだろうが。維心だって子供はかわいいみたいだしよ。」
維心は、恨めし気に十六夜を見た。
「あのな。我はどの子もしっかり世話しておるわ。一緒にするでない。」
十六夜が、立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと行って梓の話を聞いてくらあ。」
しかし、将維が脇から言った。
「主は維月と闇を見ておかねばならぬだろうが。我が行く。どうせ暇ぞ。」と、炎託を見た。「主はどうする。」
炎託は、少し疲れて来ていたようで、肩で息をついた。
「我もと言いたいところだが、少し疲れて来たわ。見た目はこれでも、もう良い歳だしの。その女の話は、主が聞いて参れ。我は、少し休んで来る。」
将維は、苦笑しながらも、頷いた。
「無理は出来ぬの。では、我は行って来る。」
維心が、立ち上がった。
「では、我も。ここに居っても待っておるだけであるし、碧黎と十六夜があちらは見てくれておる。何か実になる事が聞けるやもしれぬしの。」
将維は、頷いた。
「では、共に。」と、蒼を見た。「行って参る。確か汐と申す軍神の屋敷よな?ここのところ炎託と見回っておって知っておる。」
蒼は、頷いた。
「よろしく頼むよ、将維。」と維心を見た。「維心様も、梓が闇の精神攻撃に耐えられそうか見て来てください。もし駄目そうなら、父親を探さなければならないので。」
維心は、頷き返した。
「分かった。恐らくは女の身では無理であろうし、あまり期待はせぬようにの。」
そうして、将維と維心はそこを出て行ったのだった。